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年相応、とは。

オシャレとかお化粧の話題、になると、どうも日本にいる80歳の母と話が噛み合わない。

母は「洋服はアラフォー世代を参考にしてアクセサリーもつける」と言っている。化粧もするし髪も月に一度は染めている。一応いずれ白髪に移行することを想定して、染める色は真っ黒ではなく茶色を徐々に明るくしている、らしい。太っていないし、言動も若々しい。

60代の友達は彼女のことをほんのちょっと年上だろう、程度に思っているから、飛行機で旅行するのに誕生日を記入しなきゃいけないとか、なにかの折に年齢がバレると驚愕する。挙げ句の果てに、一気に年寄り扱いが始まり、キレた母が付き合いをやめるとか、先方の方から誘ってこなくなる、こともあるという。

それまで普通に同世代のつもりで付き合っていたのに、年齢が分かって付き合いの質が変わるなど、私には考えられない。だから、年齢を言うのは嫌だ、と母は言うが、年齢次第で付き合いを変えるような連中と友達でいる必要などない、と私なら思う。

私には30代半ばの友達も、40代の友達も、50代も60代の友達もいる。すっぴんで会う時もおしゃれして会う時もあり、お互いのすっぴん状態を知っているから、お化粧してオシャレした姿を見ると、お互いに"You look very nice!"と褒め合う。

まるでオシャレに興味のない友達と会う時は、控えめモードでオシャレする。そういう気遣いも必要だと思う。

年相応。それは40代なら40代の、60代なら60代の、80代なら80代という年齢に相応しいすっぴんとオシャレした姿があるということだ。が、TPOはどんな年齢でもわきまえなければならないだろう。スーパーにパーティドレスやスーツを着ていけば、何事かと見られても文句は言えないし、ホテルの会食に穴の空いたジーンズを履いていけば呆れられても当然である。が、究極は本人が気にしないのなら、それでいいというのがアメリカだ。

母の友達65歳が、Gymのクラスに遅れないようにと走っていたら、「ばあちゃん、そんなに走ると転ぶよ」と声をかけられて怒っていたという話だが、当然だ。90歳相手にでも「ばあちゃん」などと他人が呼びかけるなど、決して許されるべきでない。

母の言い分は、オシャレも化粧もしないで年相応に(=老けて)見られても仕方がない、というもの。そこには「年相応」である(=老いる)ことへの否定と抵抗がある。

そこが、私と違う。

今のトレンドに乗っかっているわけではないが、私はもともと年相応主義で生きている。多少モガキはしたけれど、髪が白くなればそういう年齢なのだからと思うし、シミは当然あるわけで、薄くするためのサプリメントやクリームは使ってみるけれど、皮膚科美容科の治療に通う意義は見出せないし、しわ取りBotoxなどもってのほかである。

子供が小さいうちは、あまりに忙しくて化粧する気にならなかったし、オシャレする気力も湧かなかった。日本に帰るたびに母に嫌味を言われてケンカになったことが何度もあり、今ようやく余裕が出てきてオシャレを楽しめるようになった私がたまに写真を送ると、母は狂喜乱舞する。

アメリカと日本の文化・環境の違いはあるかもしれない。ゴミ出しのために化粧するなどこっちでは考えられないし、スーパーはGymやウォーキング帰りの「トレーニングウェア」で買い物している人だらけ。化粧して運動するする一般人などこの国にはいないから、当然皆すっぴんである。

モールやレストランのランチ時なら、話は違う。ディナーやパーティならお化粧も濃いめになる。

コロナ禍で、家に閉じこもるしかなかった私たちは、外出せず美容院にいけず化粧せず体に楽な格好で毎日を過ごした。あまりに快適で元に戻れなくなり、ファッショントレンドもそんな私達の変化を汲み取ったデザインになっている。

そして。

Embrace aging - 老いを擁する、というコンセプトがどんどん広まってきている。老いに逆らわず抵抗せず慌てず落ち込まず、年相応の変化を受け入れるということ。もうべったりとはファンデーションを塗らない。地肌か薄くBBクリームを塗った上に、スティックタイプの頬紅やブロンザーやハイライターで色を加えて、濃淡と深みを出す。全然時間がかからないし、仕上がりも自然で美しい。それだけでも十分だが、夜の外出でもう少し手を入れる必要がある時には、アイライナーやマスカラを追加し、口紅の色を濃くする。

自然に、年相応に、美しく。

55歳の私は、そもそも「少しでも若く見えるように」と思っていないところが、母とは根本的に違う。40代の時に20代に見られたら、そんなに軽薄に見えるのかと喜ぶどころか落ち込むし、80代の時に60代に見られたらそりゃ嬉しいだろうというのはわかるが、昔から私はあまり「若いこと」や「若く見えること」への執着がない。

が、若く見えるようにオシャレして、実際の年齢がバレて年寄り扱いされて怒る、ってどうよ。母は、ババア扱いされたくないから見た目に気を遣う、というが、そういうのを社会への迎合というのである。

日本に住む日本人だから、と開き直る母。そういう考えなしなことを言う輩は必ずいるから、自分を守るには見た目に気を遣う、ということらしい。

一般人の多くが、年相応を求めるようになってきている女性たちの気持ちに追いついていない。年齢だけじゃなくて、今やもう性別だって見た目だけではわからない時代だ。挙句の果てに、自分は「樹木」だと言い出す13歳がいて、親が学校に「樹木」である娘への対応を求めるのだ。水は飲むけど、食事は摂らないのか。光合成をするために、授業中に外に出て日光浴しなきゃいけないということか。と、私は真剣に考えてしまう。それとも、プラスチックや紙のリサイクルについて樹木の立場になって熱心に取り組もうよ、ということだろうか。一体、学校にどう対応しろというのだろう。

人間が自分は樹木だというのと、それぞれの年代が年相当に見える姿で生きたいという話を同次元では語れないが、既成観念で勝手に自分で判断していい分野とそうじゃない分野があるということを、それぞれがもっと認識し自覚する必要がある時代になってきている。

ババアと言われたくないから見た目に気をつけるなど、「正しくない」現象への屈服ではないか。レイプされて泣き寝入りしていた女性たちが#MeToo運動で立ち上がったように、「正しくない」現象には立ち向かわなければ何も変わらない。

Are you her grandma?
No, I am her Dad. 

ムスメと一緒にいる時に、心ない無神経な輩に祖母かと聞かれたら、真顔で「父親です」と答えようと私は決めている。その時の気分次第では、喧嘩をふっかけても説教してもいいと思っている。





ただただ好きで書いています。書いてお金をもらうようになったら、純粋に好きで書くのとは違ってくるのでしょうか。