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昭和の北海道で コミックエッセイ【悪ガキ】& 【いじめについて】

昭和の北海道、50年以上前のこと。
私が小学1,2年の頃だったと思います。

私が泣き出すと男の子たちすぐにやめたので、たった数分のことでしょう。

私はその時、いじめられていた女の子を見てかわいそうだとは思いましたが、泣くほどのことではないと内心思っていました。けれども、いざ自分がされてみるとものすごい恐怖でした。二人の男の子に抵抗できませんでしたから。

自分が同じような目にあってみないとその感覚は理解できないものですね。いじめる人はもちろんいじめられる人のことなど考えないでしょう。小学校低学年のこの男の子たちは、ただ面白がっていたのかもしれないし、自覚できないムシャクシャした気持ちのはけ口としてこんなことをしたのかもしれません。

また、いじめの現場を目にする人も、いじめられている子の気持を感じることは難しいですね、私の経験から言っても。

昔も今も、多かれ少なかれ、大事件だったり些細なことだったりでいじめが起こっています。それは、学校での子どもたちの間だけではなく、家庭内はもちろん職場や友達との関係で。

こうした ”いじめる” という行為の原因は、社会、心理、教育的にたくさんの要因があるでしょう。

難しい学問上のことはわかりませんが、私としては、それは想像力の欠如ではないかと思っています。

自分の行為や言葉によって、相手がどんな思いをするか、心や体にどんな痛みを感じるか。それを自分の気持や体の痛みとして感じる想像力。

その想像力をどう育てるのか。残念ながら、私にはその解答を見つけられるとは思いません。

ただ50年前も今でも、苦痛で無意味な暗記式の勉強に取りつかれている日本の学歴社会は、そういった虐めに拍車をかけている一つでしょう。

ニュージーランドの一般的な学校では、すべてが暗記の勉強ではないかもしれません。でも、社会でうまく生きていくためのスキルを多少プラスした、やっぱり表面的な教育に感じます。決して、理想的ではありません。

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さて、その男の子はその後転校して、私と高校で会うことになりました。彼は品行方正な高校性になっていましたし、中学時代の話を聞いても全く暴力的な子ではなかったようです。

この出来事は、幼い子ども同士のいたずらの範囲だったのでしょう。







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