三年くらい見続けたドラマがついにファイナルシーズン ※以下ネタバレ注意 自分の人生にいろんな示唆を与えてくれたドラマなので記録に残します シーズン4くらいまでは、主人公たちの人間らしさが愛しくて、ドラマを見ると自分の人生のいい記憶だけを振り返ったような気持ちにさせてくれて、そこが好きだった。 ただシーズン5からは、顔を背けられない、生々しい感情と対面するシーンがちょこちょこ出てくる。 克服したはずのコンプレックスが、心の奥底から這い上がってきて大事な人を傷つけたり、
夜10時に集合。 蛍光オレンジのセリーヌのバッグに、 やまやの500円のワインを入れてくる彼女と、私の筑豊の赤いスイフト。 何度となく繰り返したこのセットが、 随分遠くのものになってしまう。 カルマス・ダヒが、福岡を出ることになった。 カルマスダヒとは、今はなき、箱崎のキャンパスで出会った。 お互いに美術史研究室の研究生で、何がやりたいかは明確になかったけれど、とにかく寝ても覚めても美術やアニメ、音楽のことを考えて、二人の話しは尽きることがなかった。 普通ならそこ
翻訳家の柴田元幸さんが編集長をつとめる、文芸誌『monkey』、翻訳特集の挨拶文は、ラフカディオ・ハーンの「むじな」の一文から始まっていた。 「むじな」は読んだことがなかったし、「kinokunizaka is a long slope in Tokyo.」の良さにも理解が及ばず置いてきぼり感があったが、次の一文で、この挨拶文に親しみを感じた。 この一文については、何人かの人がウェブ上でも回想しているので、僕の記憶の捏造ではないと思います(isをwasと覚えている人も
「未来」という言葉が古く感じ始めたのはいつ頃からだろう。 「未来」って、時間が前にむかって矢のようにすすんでるイメージから、常に自分の前にあるものと思っていたけれど、実際そういうものでもない気がしてきたのは、世界的な食糧不足のニュースや、リーマンをやめて田舎で家族と自給自足を始めました的なブログを目にすることが増えるようになってからかもしれない。 駅前のスクランブル交差点をヨーイドンで何百人、駅にまっすぐ向かう光景の中から、途中ではたと止まって、Uターンをする人が出てきた
大学時代、すごく思い出深い講義があった。 なんの前情報も無しに、暗室のプロジェクターに映し出された一枚の絵を、じっくりじっくり見続ける。一時間以上見続ける。ただ見るだけ。(大学ってなんて贅沢な場所なんだろうか) 「坊主頭の男が複数人描かれている」 「ゴム人形のような質感で描かれている」 「全員労働者のような格好で、ズボンに手を入れ前屈みで立っている」 ・・・・ モノを視覚的情報だけを頼りに読み取るという行為は、意外と普段の生活にないものである。特に絵画を見るときは、ど
昼下がり銀行にお金を下ろしにいった帰り、面白いものを発見。 植え込みに、ゴミが三つ。 ひとつ目のゴミはわかる。でも三つ目は一体、何を思って差し込まれたのか。高校生の男女が、植木にゴミを差し込むのも楽しい年頃でそうしたのかもしれないし、もしかすると、三つとも一人のおっさんのイタズラかもしれない。 信号が変わるまで見つめる。 暑い日差しの中、三つの連続性がつくりだすリズムが心地よい。自然のなかに人工物が、連続性を伴って表出するというのは日本人にとってはどこか懐かしさを感じさ