現代中国絵画を「喜劇」として観る

大学時代、すごく思い出深い講義があった。

なんの前情報も無しに、暗室のプロジェクターに映し出された一枚の絵を、じっくりじっくり見続ける。一時間以上見続ける。ただ見るだけ。(大学ってなんて贅沢な場所なんだろうか)

「坊主頭の男が複数人描かれている」
「ゴム人形のような質感で描かれている」
「全員労働者のような格好で、ズボンに手を入れ前屈みで立っている」

・・・・

モノを視覚的情報だけを頼りに読み取るという行為は、意外と普段の生活にないものである。特に絵画を見るときは、どうしても先入観や知識が邪魔して、美術史的文脈や作者の個性に頭が支配されてしまい、画家が絵に託したメッセージを見落としてしまいがちだ。

この絵がプロジェクターで映し出されたとき、その特徴的な画風から、すぐに中国の現代アートだとわかった。

方力釣 ファン・リジュン《シリーズ2⦆1992
引用元: https://faam.city.fukuoka.lg.jp/collections/2640/

方力釣(ファン・リジュン)は80年代以降の中国アートシーンを牽引する超人気画家で、坊主頭の不思議な群像を描くことで知られている。

(中国の現代美術は、こと1980年代半ば以降、わずか数十年で劇的な変遷を遂げたと言われているが、美術史家に例えさせると、それはもう近代百年における西洋近代美術の流れがイナヅマを光らせるように中国で再現されているくらい、「劇的」らしい。)

なんだろう。ゴム頭の群像は何度見てもゾッとする、嫌な絵だ。キッチュな画風なのに、どこか深い精神性を感じさせる。

引用元: https://stezor.com/post-9464?image=b04b22da-33a4-4754-bae5-2e823d2dcd7f

引用元: http://www.artnet.com/artists/fang-lijun/swimming-no-1-DP9hALoJUVTOkYEGjCHNgQ2

まるで、プールでじわじわ体力を奪われていくときのような感覚を覚える。

最近ネットで見かけた記事の中で、

美術批評家:黒瀬陽平氏が日本の近年のアートシーンに対し批判的に論じていた内容をふと思い出した。

「現代の日本のペインターは既存の美術史的文脈との小さなズレや小さなリアリティばかり強調して、作家自身の大きなビジョンが見えてこない。」

「戦後のアメリカ抽象表現主義という特殊な時代の絵画を参照して、小さなズレを狙う変化球のようなことをしてなんの意味があるのか」

わたし自身、最近の国内のアート作品に対して、一体どう見ればいいのかわからず当惑している節があったので、この記事には変に腑に落ちるところがあった。

【参考】村上隆すらも敵に回した希代の批評家・黒瀬陽平が語る日本アート https://www.cinra.net/column/kaiganoarika-report

そう考えると、たしかに方力釣の絵には、黒瀬氏のいうところの曖昧さがない。(現に黒瀬氏が方力釣をどう批評しているかは知るところではないが。笑)

ある特定の時代にピックアップされた個人の感情ではなく、
時代性を象徴するような深い精神性が内在しているように思える。
徹底して暗いところから、自嘲気味に微笑んでいるのである。 

他の誰しもがそうするように、わたしもまた、絵画の思想的背景に
中国の最近まで政治的混沌を想起する。

日本軍の侵略が拡大した1940年代以降も、国民党と共産党の内戦が激化し、収束したのちも毛沢東による激しい改革に継ぐ改革、文化大革命(※)と、行き着く暇もなかった中で、幼少期を過ごした世代が1980年代以降の中国アートシーンを負っていることは決して無視できない大事な要素の一つであろう。

※この辺の時代背景については張芸謀監督の映画『活きる』1994 に詳しい。

パラダイムの崩壊を身をもって経験した彼らが描く世界は、シニカルで喜劇的だ。

大義など、もはや信じてはいないのである。


止められないのだ、人生は続いていく

もうこんな社会は嫌だ!と一抜けすることはできない。

共に生きていくしかないという哀しいピエロのような、世界観なのだろうか、と勝手に筆者はエモっている。

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