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私が親にされて嫌だったこと

ツイッターで子供のノートに「死ね」と書かれていたため、学校に連絡し相手方と話し合ったという趣旨のツイートを見た。私はこれを読んで、ただの自己満なんじゃないかと思った。子供がそれを望んでいたという文章が見当たらなかったからだ。

実際のところはわからない、子供がSOSを出したのかもしれないし、そうじゃないにしろ助けてほしかったのかもしれない。

私が子供の立場だったらそんなことをされるのは絶対に嫌だと思った。だから自己満だと解釈してしまっているのだと思う。

私は小さいころ、どちらかといえばいじめられる側だった。思いだしてみると、そういう小さなことがいくつかあった。例えば、物陰で私が何も言えないのをいいことに殴ってくる子がいた。いじめというより行き過ぎたいたずらだった。そのときはこいつをどう殺そうかと考えていたけど、気づけばなくなっていた。その後のその子との仲は良好だったと思う。私は特に恨んでない。

ただこれが親にバレていたら当たり前だけど問題になっていただろうと思う。

私は両親に過保護に育てられたと思う。だからそのことがバレたら間違いなく学校に連絡していただろうし、そういうことが実際に何度かあった。

そのたびに私はやめてくれと言ってきたと思う。結局大ごとになったことはない。私はいじめられていたわけではないし、親もドカドカ学校に踏み込んでいってぎゃあぎゃあ騒ぐようなタイプじゃなかったから。

それでもすごく嫌だったし、未だにこうして覚えてる。親としてはそれはとても正しい選択だったといまなら思える。子供が学校でどんな風に過ごしているかわからないし、いじめに発展する前に火の粉を払うのは当然だと思う。

でも子供は大人が思うよりずっと色々考えているし、子供には子供の世界がある。その困難を自分でどうにかしていくから子供は成長していくのであって、大人が何でも介入すればいいというものではない。

だから結果論になってしまうけど、私の親としては間違っていたと思う。そういうことの積み重ねが私からの信用を失う理由になったし、私はいまもこうして心のどこかで恨んでいる。

私が「嫌だ」と言っているのに、それを無視することが私の心にどれだけの傷を与えただろう。この人とは話しても無駄なのだと私はずいぶん幼いころに悟ったし、何か助けを求めてもきっと的外れなことをするだけだと思っていた。

私の家には暗くなる前に帰りなさいという門限があった。だから私はみんなより早く帰ることが多々あったのだけど、そういうことが私の人格形成にどういう影響を与えるのかたぶん想像できないんだろうな。

ほんとに何でもないようなことなんだけど、そういうことの積み重ねで人格というものは形成されていくのだと思う。未だに外に出ることは怖いし、人と話したくない。誰かを信用することはできないし、頼ることだってできない。

人格形成の大部分は家庭環境によるものだと思う。だって私の人格形成において自分のせいでこうなったというものがあるはずがないから。

私の両親は世間で言われているような毒親ではないし、仲が悪いわけじゃない。最近だって一緒にご飯を食べた。でもそれを私は義務的なものだと考えている気がする。親のことを上司のようなものだと考えていて、報告連絡相談の義務があり、食事に誘われたらそこまで嫌じゃないし、行ってやるかという感覚。

別に嫌っているわけじゃない。恨んでいるだけ。それは過去の私のために恨んでいる。今の私は特になんとも思っていない。正直初めの方に書いた、私を殴ってきた子に関しては恨んでいないのに、親のことを恨んでいるのは不憫というか報われないなと思う。でもそれが私の生き方であり価値観なのだから仕方ない。

過去の私のために呪いを解いてあげるべきなのかもしれない。ただそれによって何かが変わるとは思えないし、親が私の言っていることを理解できるとは思えない。私だってきちんと説明できる気がしない。だからこのまま生きていくしかないのだろう。

マシュマロ


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