國分功一郎「天皇への敗北」を読んで
1.日本人は誰に負けたのか?
國分功一郎は『新潮』9月号に「天皇への敗北」という論考を寄せ、2012年以来、日本は憲法九条の改正を目指す第二次安倍政権によって「立憲主義の原則が踏みにじられていた」と振りかえりつつ、この間に「前天皇の明仁」が「にわかに存在感を高めていった」と指摘している。他ならぬ天皇こそが、この時期最も日本国憲法を守っていた一人だと言うのだ。
國分は前天皇が立憲主義に親和的だった一例として、傘寿の誕生日を前にした会見での以下のような発言を挙げている。
國分はこうした態度が、天皇一個人の思想やイデオロギーによるものではなく、「日本国憲法の中に立憲主義が危機に瀕するとそれを守るために天皇が前にせり出してくる構造が内蔵されてい」るからこそだとしている。
こう述べたうえで、國分はこうした「構造」に頼らなければ憲法を守れないどころか、あまつさえ「天皇制支持を表明する」「リベラル勢力」に対し、以下のような批判を繰りだしつつ、自身の実感を述べている。
彼は「天皇に対する好意を表明していった日本のリベラル勢力」の具体例も提示していないが(注1)、これについても対象となる人物を見つけるのは難しくない。たとえば、2015年に『昭和天皇の戦後日本』を上梓した豊下楢彦は、先ほども取りあげた傘寿を前にした天皇の発言を引用しながら、以下のように述べている。
ここでは明確に、「戦後レジーム」からの脱却を目標に憲法改正へと邁進していく安倍の比較対象として、前天皇のリベラルな姿勢が高く評価されている(注2)。
念のために言えば、豊下の著書は昭和天皇がアメリカの占領下にあって「象徴」としての立場を無視し、いかに越権行為を犯してまで「『皇統』を維持するという至上の目的」を果たそうとしていたかを明らかにしたものだ。そんな昭和天皇に対して批判的な彼でさえ、前天皇の魅力には抗えなかった事実を踏まえれば、國分の批判は十分にうなづけるものだろう。
2.日本人はなぜ天皇に憲法を守ってもらっているのか?
それにしても、こうした「立憲主義が危うくなると天皇がぐっと前にせり出してくる構造」はなぜ日本国憲法に内蔵されているのだろうか? 國分はその所以を考察した論者の一人として、柄谷行人の名前を挙げる。
柄谷は2016年に『憲法の無意識』を上梓しているが、彼は先程も言及した豊下楢彦の『昭和天皇の戦後日本』を参照しつつ、「マッカーサーの意図は天皇制の維持にあったこと」と「戦争放棄は、このこと〔天皇制の維持〕に関して国際世論を説得するために必要な手段であったこと」を確認している。言うなれば、この段階では天皇(第1条)が第9条によって守られていた。では、なぜ今となってはその関係が逆転し、「1条によってその位置づけが規定されている天皇が9条を守ろうとしている」のか? そしてなぜ、国民は(リベラルですら)天皇がそのような態度を取ることを許容しているのか?
柄谷はまず、そもそも日本は象徴的な立場に天皇を置くことで構築される平和な政治体制を、敗戦より前に経験済みであったと指摘する。
そして彼は、日本史上最も平和な統治体制を作り上げた人として、徳川家康を挙げる。
周知のとおり家康は、豊臣秀吉の後に天下統一を成し遂げた人だ。だが家康は秀吉と違って、それ以上の勢力拡大を行わなかった。秀吉は天下統一を成し遂げた後、さらなる領土を求めて朝鮮半島へと兵を進出させ失敗した。家臣の一人として朝鮮出兵の顛末を見届けた家康は、その反省を活かしつつ「一切の膨張、発展を拒む縮小主義に向か」った。自分が治められる範囲の領土だけで満足しようとしたのだ。
とはいえ、まだまだ戦乱の世の記憶が冷めやらない中でそうした「縮小主義」を採用するには、高度な政治センスが要求される。簡単に言えば、謀反を起こされる危険と常に隣り合わせにならざるを得ないのだ(ちなみに、秀吉はこうしたリスクを権力を拡大しつづけることによって避けようとした結果自滅した)。そこで家康が採ったのが尊皇の姿勢だった、と柄谷は述べる。
これに加えて、徳川幕府においては「全般的な非軍事化」が行われていたとも柄谷は指摘する。戦乱の世において多くの武勲を挙げた武士は高い身分を与えられて優遇されていたが、一方で彼らは平和な世界が訪れて以降手持無沙汰になってしまった。力の見せ所である戦がそもそもなくなってしまったのである。そこで、多くの武士は学問にいそしむことで農民や商人などとの違いを示そうと苦心するようになった。その結果武士にだけ所有が許された刀は使いどころのない単なる「象徴」になりさがり、彼らは「非戦士化」された官僚めいた存在になっていった。
こうした点を踏まえて柄谷は、「戦後憲法一条と九条の先行形態として見出すべきものは」「徳川の国制」だと主張する。言いかえれば彼は、日本国民が第1条と第9条を受け容れる素地は江戸時代の時点で作り上げられていたのだ、と言うのだ。そして彼は、こうした徳川時代の記憶が戦後の人々の脳裏にこびりついていたからこそ、憲法第1条と第9条を受け容れるに至ったとする。それどころか、徳川時代への「無意識の罪悪感」があったからこそ、戦後の日本は平和国家を標榜するようになったというのだ。
家康は秀吉が犯した失敗をカバーするため、あえて縮小主義的な体制を作りあげることに専念した。そうすることで内乱を封じ、明や朝鮮などといった周辺諸国との関係を改善しようとしたのだ。結果的にそれは成功し、江戸幕府は日本史上類を見ない長期にわたる平和な時代をもたらした。
だが、それから約260年後、家康がなぜそのような体制を作ったのかを人々が忘れたころ、日本は欧米列強からの圧力によって開国を迫られた。そして、欧米列強らによる植民地化を避けるために自らが帝国になることを志向し、アジアの征服に乗り出した。言わば明治以降日本は、秀吉と同じ轍を踏んだのだ。
やがて、日本は第二次大戦に敗れた。日本人は明治以降の歩みが間違っていたと思い知らされた。では、どうすればよかったのか――そこで彼らが(無意識裡に)見出したのが江戸時代だった。秀吉のように周辺諸国を侵略することなく、島国の中に籠りつづけた「徳川の平和」はたしかに退屈だった。しかしながら、皆が平穏な暮らしを営める時代でもあった、と人々は知らず知らずのうちに回顧した。同時に彼らは強い罪悪感を覚えた。そもそも明治維新は、自分たちが「徳川の平和」を否定することで成し遂げた政変だったからだ。だからこそ戦後の日本人は「徳川の平和」に対する罪滅ぼし、ないし追悼とばかりに戦争と武力の行使を放棄する憲法第9条を受け容れた――柄谷はそのように分析する。
もっとも(ここからは柄谷が述べていることではなく、筆者の推測にもとづく補足になるが)、江戸幕府が異例の長期政権を維持し、周辺諸国と矛を交えることなく平和であり続けられたのは、家康をはじめとした将軍たちの高度な政治センスがあったればこそだった。そこにおいて民衆は、お上の庇護によって平和を享受できる立場にすぎない。ならば徳川の国制へと回帰した戦後日本の民衆もまた、同じような立場に置かれざるを得ないだろう。つまり、政府に高度な政治センスをもって統治してもらわなければ、日本人は戦争に巻きこまれないでいるのは難しくなるのだ。
事実、2012年以降安倍晋三が長期にわたって政権を握ってからというもの、国民はほとんど無力だった。様々な反対運動があったとはいえ、國分も述べるとおり安保法制や防衛装備移転三原則などの安倍が打ち出した諸々の政策を食い止めることは、自民党の数の暴力に押しこめられたせいもあってほとんどできなかった。政権を握っている人間に平和な体制を擁護する気がなければ、日本人は安倍政権がやりたい放題で改革を行う様子をただただ指をくわえて見守っているしかなかったのだ。
だが、日本には天皇という最後の切り札がいる。そもそも安倍のような保守を標榜する勢力は、日本代々の権威である天皇に従わなければ権力基盤を保てない。ならば、天皇に改憲を食い止めてもらえばよい。それが一番手っ取り早く、それでいて唯一の手段なのだ。本当ならば国民自らの手で権力の横暴を止めたいところだが、それはできない。民衆は結局のところお上の采配に従うしかないのだから……ゆえにリベラル勢力をはじめとした国民は、立憲主義が危機に瀕した際に、天皇が「ぐっと前にせり出して」第9条を守ることを容認しているのである。すなわち、日本国憲法に天皇(第1条)が第9条を守る構造が内蔵されているのは、無力な国民がそれを望んだからこそなのだ。いや、正確に言えば、日本国憲法の本質を(意識の有無にかかわらず)悟った国民が、それでも構わないと肯定しているからこそこの構造は未だに安置されたままなのである。
柄谷の分析をまとめつつ、その観点から平成末期から現在に至るまでの政治状況を見渡し、そして國分が主張する「天皇への敗北」を敷衍するのならば、こういう話になるだろう。
3.「抑圧された記憶」は正確な記憶か?
國分はこういった『憲法の無意識』の分析が正しいのか「判断できない」と態度を留保している。なので、筆者は彼に代わって柄谷の分析の正否を明らかにすることを目指す。
その前に、下準備として筆者はジークムント・フロイトの理論を見ていきたい。というのも、「無意識の罪悪感」などといった言葉を使っていることからもわかるように、柄谷はフロイトに依拠しながら自らの議論を組みたてているからだ(注4)。特に、柄谷が重視しているのは「抑圧されたものの回帰」という現象である。彼は事あるごとにこのフレーズを使いながら、あらゆる事象の説明を行っている。
では、フロイトはこの「抑圧されたものの回帰」という現象をどう説明しているのか?
まず彼は、人間の欲動は基本的に快感原則に従っていると仮定した。とはいえ、社会で生きていくにあたって常に快感原則ありきで渡り歩いていくのは困難である。たとえば赤ん坊のころは、誰もが母親の胸に抱かれて守られていたいものだ。その方が心地が良い。とはいえ、幼稚園や保育園に入るころになると人は母親のもとから離れなければいけない。そうしなければ独り立ちできず、いつまで経っても大人にはなれない。ここで人間は快感原則に従うのをいったんやめ、現実原則に従うようになる。
このようにして人間は社会で生きていくための現実原則に従う時間を増やしていくのだが、だからといって快感原則がなくなるわけではない。そもそも人が現実原則に従うのは、目先の快感をいったん保留しつつ将来の大きな快感を手にするためだ。ゲームをせずに机に座って勉強をするのは苦痛で一見すると快感原則に反するようだが、テストでいい点をとったり、受験に合格していい学校に入れば大きな自尊心を得られる。厳密に言えば、人は現実原則に従いつつもその裏で快感原則にも従えるような戦略を採っているのである。
しかしながら、時にこの快感原則の目指す先と現実原則の目指す先が大きく食い違う事態が起こる。片方の原則に従って快感を得ようとすると、もう一方の原則に反する羽目に陥るために強い不快が生じかねないアンビバレントな状態に人は見舞われることがありうるのだ。その時にフロイトは「抑圧」が起こると述べる。
「不快の動機が、満足の快感よりも強い力を獲得する」と「抑圧」が起こる――その具体例として参考になるのは、「喪とメランコリー」だ。
この論考では、身近な人を死別などで失ったあとに自分自身を「無能で、道徳的に非難されて当然のものと見なし」ている患者たちが考察の対象となっている。彼らはなぜそのような自罰的な姿勢を取ってしまうのだろうか?
フロイトは患者たちをよくよく診察してみると、実は彼らが責めているのは自分自身ではなく、「患者が愛しているか、かつて愛したか、あるいは愛さねばならぬ他の人」なのだと気づいた。要するに、彼らは死別した人の代わりに自分自身を責めているのだ。
では、なぜ患者はそのような迂回路を通るようになってしまったのか? 実は、彼らは生前から故人を浅からず恨んでいた。快感原則に従えば、そういった嫌悪感情を素直に表に出した方が快楽が得られる。とはいえ、現実原則から見ればそういった感情を表明するのはまずい。生前に身近な人を批判すれば反発されるのは必至だし、すでにこの世から去ってしまった人を悪し様に罵れば、なおさら周囲の人々から総スカンを食らうだろう。よって、彼らはそうした嫌悪感情を「抑圧」しなければいけなかった。「不快の動機が、満足の快感よりも強い力を獲得」したからこそ、彼らは故人への恨みをひっこめなければならなかったのだ。
とはいえ、軽いものならまだしも、強い嫌悪感情はなくそうと思ってもなかなかなくなるものではない。そこで「抑圧されたものの回帰」という現象が起こる。責めようと思っても責めきれない故人の代わりに、自分自身を責めることで嫌悪感情のはけ口を求めるという症状が現れるのだ。論考「抑圧」の訳者である中山元は、「抑圧されたものの回帰」についてより平易に解説している。
「迂回路を通って派生物を媒介として意識に再現される」方法は様々あるが、フロイトは「抑圧されたものの回帰」は「置き換え」によって現れることがあると解説している。先ほどの例で見れば、故人の代わりに自分自身を問責対象として「置き換え」る形で「抑圧されたものの回帰」が起こったと言えるだろう。
こう見ていくと、柄谷の「抑圧されたものの回帰」理解は大筋間違っていない。ざっくりと言えば、明治以後の日本人は「徳川の平和」を抑圧した。そうしなければ開国を迫る欧米とは渡りあえないからだ。しかしながら第二次大戦で日本は負けた。そこで、彼らはこれまで抑圧していた「徳川の平和」と向き合わざるを得なくなった。とはいえ、いまさら失った平和を悔やんでも遅い。近代化が進んでしまったからにはもはや江戸時代のような生活には戻れない。なにより、自分たちで否定したはずの時代に向かって悔悟するなんてなかなかできる話ではない……そこで彼らは、「徳川の平和」の置き換えとしての憲法第1条と第9条を受けいれ、別の形での平和な世界を生きていくことにした――そのように考えてみれば、柄谷が戦後日本の状況を「抑圧されたものの回帰」で説明しようとするのは、フロイト理解としてはそこまで的を外していないだろう。
しかしながら、彼は部分的にしかフロイトを理解していない。先に結論を言えば柄谷は、分析の末に見出された抑圧された記憶が事実とは異なるケースを考慮していないのだ。
良く知られているようにフロイトは、精神分析家としてのキャリアをヒステリー研究からスタートした。ヨーゼフ・ブロイアーと共同でヒステリー患者を治療しつつ、臨床の過程でフロイトは自由連想法や抑圧理論など、徐々に精神分析の骨格を成すアイディアを手に入れていく。
分析を重ねるうちにフロイトはヒステリー患者の多くが、幼児期に周囲の大人から性的外傷を受けていると気づいた。患者はあまりのショックで事実を受けいれられなかったり、大人から「このことは内緒にしておくように」などと言われたりした結果、その記憶の抑圧を余儀なくされた。しかしながら、性的外傷のショックが大きければ記憶は抑圧しきれるものではないから、何らかの形で思いだされる時がやってくる。もしくは、その記憶をそのまま思いだしてしまうと再びショックを受ける羽目になるから、(無意識裡に)別の形で置き換えて対応するようになる。フロイトはここで、ヒステリーの症状は「抑圧されたものの回帰」として現れると発見したのだ。
こういった研究の成果は『ヒステリー研究』の公刊とともに発表されたが、まもなくフロイトは一つの疑問に行き当たった。幼児期に何らかの性的外傷を受けることでヒステリーを発症するとしたはいいものの、こんなにも幼児に性的欲望を感じる大人が多いのはおかしくないだろうか? と疑いはじめたのだ。やがて、いくつかの患者が思いだした記憶は虚偽であったと判明する。
1914年に暫定的に精神分析の歴史を振りかえった際に、フロイトは虚偽記憶に行き当たった時のことをこう回想している。
4.江戸時代は「平和」だったのか?
さて、こういった虚偽の記憶の回想はなぜ起こるのか? フロイトは、患者が自らの欲動にもとづいてそういった虚偽記憶を「空想」すると考えた(くわしい経緯は脚注にゆずる)(注6)。
……が、精神分析に懐疑的でない人でも、ある一つの可能性を疑わざるを得ないはずだ。つまり、こうした虚偽記憶を作り上げる責任は患者だけが担うべきものでなく、分析家もまた担うべきなのではないか? 言いかえれば、分析家こそ「空想」にもとづいて患者に虚偽記憶を押しつけているのではないだろうか? と。
一応、ヒステリー研究を公表したころのフロイトはその可能性を否定していた。
しかしながら、別の論文でフロイトはこう述べている。
人がしきりに何かを否定する時ほど、抑圧されている何かが意識の上にのぼろうとしている時はない――ならば、「ヒステリーの病因論のために」におけるフロイトもまた、自分が「期待通りの場面を患者に押し付け」ていることを必死に否定しようとしているが実は薄々、そうした錯誤を犯しているのではないか、と勘づいている可能性はないだろうか?
このような可能性がある以上は、同じ疑問はフロイトを援用しながら戦後日本の精神分析を行った柄谷にも向けられてしかるべきだろう。つまり、柄谷の分析は「期待通りの場面」を戦後日本に向けて「押し付け」ているだけではないか? 言いかえれば、彼が言うところの「抑圧されたもの」である「徳川の平和」は虚偽記憶である可能性はないのか? と。
では、柄谷が想起をうながす「徳川の平和」のどこが間違えているのか? 一例として彼は以下のように述べている。
たしかに従来の歴史教育においては、江戸時代には鎖国政策が敷かれていた、と言われてきたが、近年はこうした歴史像が見直されている。江戸時代にはいわゆる「四つの口」という交易ルートがあり、長崎、対馬、薩摩、そして松前がオランダ、朝鮮、明(清)、(柄谷はなぜか無視しているが)琉球やアイヌなどと交易を行っていた。当時植民地主義真っ盛りだった西欧の大半の国々とは交易をおこなわなかったために「鎖国」と見なされやすいが、実態は交易対象をしぼることで外敵となる勢力の接近を避けつつ、一方で信用のおける相手とはしっかりと交流を行っていた時代だと言えるだろう。
だが、ここで問題とすべきなのはそういった交易ルートをどのように作りあげたのか、ということだ。幕府が開いて以降、家康が最終的な目標としていたのは明との交易の回復だったが、彼はどういった方法で秀吉のせいで日本に不信感を抱くようになった国との交渉を行なおうと試みたのか?
もちろん、対馬―朝鮮のルートを再構築しつつ、その延長線上で明と交渉する方法も採られた(注7)。だがそれ以上に手っ取り早いのは、琉球王国を利用する方法だった。琉球は明から冊封される関係にあり、室町時代には明の方から琉球に向けて日本との交易を仲介するよう要請がおこなわれたこともある。そうした歴史を踏まえて、家康は琉球を通じて交渉ができないかと考えていた。
もっとも、琉球としては幕府の言いなりになるつもりはなかった。そもそも、琉球には秀吉の大陸出兵に兵糧を供給するよう強要されたことで国内に混乱が生じた苦い経験があった。伝統的に琉球は明に帰属意識を抱いていたが、そうした歴史に背く形で秀吉の味方をしてしまったことで、王国内部の明にシンパシーを持っている勢力が蜂起する出来事も起こっていた。
加えて、1589年に即位した第7代国王尚寧は、上記の混乱をはじめとした様々な事情が絡みあったせいで明から冊封を受けていなかった。王国を治める上では明からの権威づけが必須である中で、幕府に服属するような素振りを見せてしまえば明からの不信感は高まるだろうし、何よりどうにか治めた国内の混乱が再燃する可能性も否めなかった。
そんな中、1602年に琉球の船が東北に漂着する出来事が起きた。漂着民は家康の命によって、翌年には琉球に戻っている。
しかし、琉球は先に述べたような理由で聘礼の使者を送らなかった。これを咎めたのが薩摩の島津氏だった。彼らは琉球に再三聘礼を送るよう忠告したが、琉球はこれを無視した。
島津氏は秀吉の大陸出兵の際にも琉球へ兵糧を供給するよう要求する役回りを務めていたが、琉球からは要求の半分程度の兵糧しか送られなかったため、少なからぬ遺恨を持っていた。島津氏には、琉球は薩摩の従属国であるという意識があった。にもかかわらず要求を無視し続け、明になびく態度を見せている琉球に対し、彼らは鬱憤をためていた。
さらに島津氏は当時財政難の状況にあった。そのため彼らは諸々の問題を解決するために、琉球への出兵を計画する。もちろん、こうした侵略は幕府の許可を得なければ為しえない。それに対して家康は、あくまで平和裡に解決ができなくなった際の最終手段として、という条件で許可した。その証拠として、隠居後の彼の居城となる駿府城の普請役を島津氏は免除されていた。
ちなみに、薩摩による侵攻計画が建てられるのと同時期に、ようやく明から冊封使がやってきて正式に尚寧は琉球国中山王と認められていた。それを見て島津家久は、明の使節に向けて商船を薩摩に毎年来航させるよう要請する書を送りつつ、一方で琉球に向けて、家康に聘礼を送るようあらためて求め、もしできなければそちらの安全は保障できない、と恫喝する書もあわせて送った。またその書には、家康が琉球に向けて明と日本の仲介を務めるよう求めている、との文言も記されている。島津氏は多分に私情を交えているとはいえ、明確に家康の意向をくみとりつつ琉球を明との交易を回復させるための道具と見なしていたのだ。
そして1609年、島津氏は奄美大島を皮切りに続々と琉球王国の領地へと侵攻していった。一か月ほどであっけなく薩摩の勝利に終わった。
島津氏は、秀吉がやってくるまで九州一帯を制圧するほどの軍事力を持っていた。一方で琉球軍の兵力はたかが知れていた。ところによっては島津氏の船が接岸したのを見てまもなく降伏を決断する島もあるくらいだった(ただ、この時期の琉球は非武装化していた、との俗説があるがこれは正しくない。先程引用した上里隆史は、「琉球には相応の(強大であった、と言うつもりはない)軍事組織・武装がきちんと存在したのであって、決して無防備ではなかった」と否定している)。
王国の降伏を受けいれた薩摩は、当初の要求どおり江戸に向けて聘礼を送ることを約束させた。しかも、彼らはここでなんと国王である尚寧自ら日本に渡るよう重ねて要求した。国王みずから直々に他所の国に渡って、漂着した船員たちを琉球に返してくれた御礼をするなどというのは、「前代未聞」の話である。薩摩はここで琉球との上下関係を確定しようと図っていた。
幕府は侵略成功を歓迎した。
ここで注目すべきなのは、鹿児島に囚われていた鄭迥という琉球の親方が、長崎にいる福建人に向けて明の救援を訴える密書を作っていたことだ。彼は最後のチャンスとして明に助けを求めていた。
しかし、島津氏は情報をつかみ、すぐさま密書の回収を琉球に命じた。やがて、琉球の朝貢使節は密書を託された福建人と接触し「公銀一〇〇両でこれを買収した」。この結果、密書は明に送られずじまいで、鄭迥はその後処刑された。
のみならず、島津氏は具志頭朝盛という尚寧の弟をあらためて琉球に戻したうえで、薩摩の侵攻を明に伝えつつも「彼らの内実は慈悲深く弱者を憐み、いかに信頼に足りる国か」と強調する報告を作るよう差し向けた。島津氏の明との交易再開に向けた並々ならぬ執念がうかがえる話ではあるが、彼らがそこまでの工作を行った裏には家康への忖度もあっただろう。なお、朝盛はその後ふたたび海を渡るが、強行軍が祟ったせいか駿府で家康に謁見してまもなく、病が原因で客死している。
ただ、幕府や島津氏が平和裡に明との交渉を行うつもりだったかというと、必ずしもそうではないようだ。『琉日戦争一六〇九』では尚寧の江戸行きの過程を叙述するのと並行して、琉球王国一行に島津家久が同行していたことを書き留めつつ、興味深い話を教えてくれている。
この段階ではそこまで明派兵に真剣ではなかったようだが、その後の動向を踏まえると、幕府や島津氏はいざとなったら明と矛を交えることも検討していた節がうかがえなくもない。
当然ながら、こんな要求を明が受けいれるわけはない。そのうえ、島津氏は外交のノウハウにも通じていなかった。1612年に島津氏は琉球の親方を使節として渡明させているが、「貢期(二年一貢)を違えた派遣だったうえに」「朝貢品に多数の『倭物』(刀や鎗、甲冑)などが多く混じり」「使節のなかに『蓄髪の倭人』がいた」などの不審な点が目立ったため、明はあきらかに琉球が「日本に操られている」と確信した。その結果明は、「琉球の貢期を一〇年一貢に変更し」「事実上の朝貢停止」に処した。
ここにおいてはっきりと「徳川政権が求めていた琉球を介した日明講和の試みは失敗に終わった」。この後、琉球から明への貢期は「五年一貢」にまで回復したが、言うまでもなくこれは琉球の努力のおかげである(注8)。まちがっても柄谷が言うように、「徳川の政策」のおかげで「東アジアの国際的秩序」が「回復」したわけではない。むしろ徳川幕府は、「東アジアの国際秩序」をふたたび乱そうとしていたのである。
また、ここでぜひとも注意しなければいけないのは、この琉球侵攻の末に奄美が薩摩に蔵入地(直轄地)として割譲されたことだ。それによって18世紀以降、奄美一帯がサトウキビで覆いつくされるようになったのは良く知られている。『奄美史談』によると、
と言った具合に島民たちは、サトウキビや黒糖を「指頭」を使って舐めるだけでも「鞭ヲ受ク」ほどに苛烈な黒糖製造に従事するよう強制されていた。
また、都成が「藩ヨリ受クル米麦、其他ノ品物ハ高価ヲ以テ買取セザルヲ得ザリキ」と書いているとおり、奄美はモノカルチャー化する以前まで米を自給していたものの、以降は米をはじめとした食物や日用品を黒糖と法外な比率で交換するよう薩摩に迫られた(注9)。よって、奄美の島民は米の代わりにソテツを食べて糊口をしのぐようになった。
ここまで筆者は奄美を割譲地だとか、蔵入地だと紹介してきた。しかしながら、上記のような実態に鑑みればより直截に「植民地」と形容すべきだろう。これは筆者の思いつきではなく、多くの論者が植民地として当時の奄美の状況を説明しようとしているし、あまつさえ観光庁までもが外国人向けに作成したサイトにて以下のような文章を載せている。
それだけでなく、現実に植民地として扱われた土地で起こっていた出来事の記録などを読んでみれば、我々は奄美で繰り広げられていた風景と似たものを見出さざるをえない。
ところで、トリニダード・トバゴ初代首相のエリック・ウィリアムズが、オックスフォード大学時代に博士論文として提出した『資本主義と奴隷制』において、イギリスの産業革命が「西インド」の植民地経営や奴隷貿易で蓄積された利潤にもとづいて成り立ったものだと説いたことは良く知られている。
これと同様に、奄美を収奪することによって薩摩の財政が相当潤ったことは言うまでもない。場合によっては、奄美から送られてくる砂糖を使った商売で莫大な利潤を得たことによって、その後薩摩が倒幕活動を円滑に進められるようになった、とする人も少なくない。
ここであらためて確認すれば、そもそも薩摩による琉球侵攻は幕府の許可がなければ為しえなかった。その薩摩が奄美という植民地を手に入れ、そこからの搾取によって経済的に潤い、十分な軍事力を手にした末に倒幕に乗りだした結果成し遂げられたのが明治維新だった――途中の約250年間をひとまず捨象したうえで大まかにまとめればこうなるだろう。
では、こうした流れをどう形容すべきだろうか? 別に、「抑圧されたものの回帰」などといった大仰な言葉を使うまでもないだろう。何ならあけすけに、薩摩の横暴を野放しにしていた徳川幕府は自業自得によって滅んだにすぎない、と言い切ってもいいのではないだろうか。
もちろん、一連の流れを今日の価値観で一面的に裁断するのは危険だ。外交ルールを知らずに明と交渉しようとしていた家康や島津氏に対し、もっと他の方法があっただろう、と説いてもあまり意味はない。なぜなら彼らはつい最近まで戦に明け暮れていた武士なのだから、外国との付き合い方が分からなくても仕方ない。また、形式上の手続きだったとはいえ、琉球へと攻め入ろうとする島津氏を幕府は何度となく諫めていた。
あるいは、(奄美はともかくとして)琉球を全面的な被害者とみなすのもおそらく間違いだろう。琉球王国が本当に非武装の国だったのならそういう見方も成り立つかもしれない。が、彼らにもまた薩摩と同様に武力をもって周辺の島々を征圧していた歴史がある。特に、奄美では琉球の支配に反旗を翻す人々による抵抗が幾度となく繰り広げられては、そのたびに鎮圧されていた。琉球王国もまた武威で成り立っていた国なのだから、薩摩による侵攻についてもその延長線で見なければならないだろう。
だが、それ以上に間違いなのは、江戸時代を「平和」だったとする見方だ。ふたたび『憲法の無意識』を引用しよう。
「国内の平和しか考え」ないのは「おかし」く、「平和はやはり国家間で考えられるべきもの」だとする見方自体は正しい。だが、ならばなおさら、琉球という国家を相手にした戦争を無視して「徳川の平和」を語るのは「おかしい」としか言いようがないだろう。
フロイトは記憶の想起についてこのように述べている。
我々が「幼年期」を「想起」する際に「呼び覚まされる」映像は、「歴史に忠実」に「心に浮か」ぶのではなく、むしろ「形成された」ものである可能性が高い……これはきっと、ある国の過去を振りかえる際にも当てはまる話だろうし、柄谷の歴史の見方を評価するにはうってつけの表現となるだろう。
柄谷は単に、戦後の在り様を投影しながら江戸時代を見ているだけなのである。彼はその時「歴史に忠実であろうとする意図からは程遠い一連の動機」でもって歴史を見ているに過ぎないから、易々と琉球のような盲点が生まれてしまうのだ。
5.昭和天皇は平和主義者だったのか?
以上見てきたように、柄谷の歴史認識は明らかにおかしいため、憲法第9条が危機に陥ると天皇(第1条)が「ぐっと前にせり出してくる」構造の説明としては不適切と言うほかない。柄谷は「徳川の平和」が戦後「抑圧されたものの回帰」として日本国憲法という形で現れたとしているが、そもそも「徳川の平和」がきわめて怪しいものなのだから、彼の議論は破綻している。
だとすれば、ここからは柄谷の代わりにこの構造が生みだされた所以を探るべきだろう……しかし、これは筆者には手に余る問題だ。もっとも、この構造が戦後80年を経ってもいまだに保存されつづけているどころか、年々持っている力を発揮する機会が増えていることの理由については思いあたる節がないではない。
まず、柄谷の分析をあえて戯画的に要約すれば、「日本はもともと平和な国だったものの、ある時点から針路を間違えた末に戦争に負けた。その結果日本国民は自国の過去を無意識裡に思いだし、平和な国としてやり直そうとした」という具合になるだろう。散々批判しておいて言うのもなんだが、この分析は考えようによってはそれなりの利用価値がある。つまり、戦後の日本人はこうした「空想」のもとで生きてきたのではないか、と仮定するのであれば、あながち間違った分析とも言えなくなると思うのだ。
なぜ筆者がこのように考えるのかといえば、似たような「空想」のもとに戦後日本を生きようとした人が実際にいたからだ。ほかならぬ昭和天皇こそその人だ。
周知のとおり、日本は1945年9月2日にアメリカの戦艦ミズーリにて降伏文書に調印した。その2日後、第88回帝国議会が開催され、開院式で昭和天皇は以下のような勅語を発している。
彼はここで「國體の精華を發揮して信義を世界に布き平和國家を確立」すると宣言している。ついこの間まで「國體の精華」は、「平和國家を確立」するためでなく、米英や中国などを相手に「發揮」するためのものだったことを思い合せてみれば、突然の転向というほかない(実際、この三か月ほど前の第87回帝国議会貴族院本会議では、議長の徳川圀順が「敵國ノ非望ヲ粉碎シテ征戰ノ目的ヲ達成シ以テ國體ノ精華ヲ發揮スヘキノ秋ナリ」と天皇に上奏していた)。
大東亜戦争の開戦詔勅の添削を行ったことで知られる徳富蘇峰は、平民主義から国家主義への転向者らしく、こうした転向をめざとく見咎めている。
しかしながら、この突然の転向は、昭和天皇からしてみれば転向でもなんでもないつもりなのではないだろうか。つまり、以下のように考えてみたら、こうした「豹変」に見える事態はいくらか納得できる話になるのではないか――昭和天皇はもともと平和主義者を自負する人だったが、軍部の暴走を止めきれずに戦争へ突っ切ることを余儀なくされた。その結果戦争に負けたのは残念なことだったが、ある意味では彼の本領を発揮できる時代が来たともいえる。つまり、平和国家という彼の性格に沿った日本へと作り直す道が切り開かれたのだ……。
実際、上記の勅語を発した5日後、昭和天皇は日光に疎開していた皇太子に以下のような手紙を送っている。
ここから見てもわかるように、「軍人がバツコして大局を考へ」なかったことが「敗因」であると昭和天皇は考えていた。
また、その16日後には『ニューヨーク・タイムズ』の記者フランク・クルックホーンが謁見し、開戦の詔勅は天皇の意思に基づいて出されたのか、という質問に対して、「東条大将が用いた如くに使用する意図はなかった」と回答している。『ニューヨーク・タイムズ』はそれを、「ヒロヒト、インタビューで奇襲の責任を東条に押し付ける」との見出しのもと伝えた。同様の回答は、その2日後の(軍服を着てリラックスしているアメリカ人と、モーニングを着てちょこなんとしている日本人という、その後の両国の関係までも象徴するような例の写真が撮影されたことで有名な)ダグラス・マッカーサーとの会見においても行われている。
以上を踏まえれば彼が、自分は平和主義者だったにもかかわらず軍人の暴走によって敗戦を見届けざるを得なかった、との認識を持っていたのは明らかだろう(もちろん、こうした態度は東久邇宮稔彦(注10)や近衞文麿のような天皇の戦争責任を回避しようと目論む側近のバックアップによっても成り立っていた。また、東條英機に責任を負わせるプランも戦中からのものだった)。
もっとも、戦時中の様子を振りかえってみると、必ずしも昭和天皇が平和を愛する人だったとは言いきれない。
たとえば1940年初頭、当時の日本第11軍は中国軍の冬季攻勢に押され苦戦を強いられていた。そこで日本軍は支那派遣軍と連携し、宜昌の攻略を計画する。宜昌は交通の要衝であるうえに、当時国民政府が置かれていた武漢にも近いため占領すれば相手にプレッシャーをかけられ、和平工作を促進させられるのではないかと考えたのだ。また、海軍もこの作戦に賛成していた。宜昌を確保すれば飛行場が設置でき、漢口から重慶へ向けて行われる戦略爆撃の際に中継基地として利用できるようになる、との目論見があった。
しかし、大本営はこの計画に難色を示した。もともと中国戦線の兵力は削減される予定だった。そんな中で、仮に宜昌を占領するとなれば確保するのにそれなりの兵力増員が必要になり、当初の目論見と矛盾する事態になってしまう。なにより、昭和天皇自身が占領に反対していた。
この事実を一見すれば、天皇は軍にブレーキをかけたかのように思える。
結局、作戦は一度占領したらすぐに放棄するとの方針のもと5月に開始され、苦戦しつつも1カ月ほどかけて占領に成功する。そして、第11軍は6月17日に撤退するよう指示した……が、翌日反転帰還中の部隊のもとにすぐさま宜昌を再占領するよう命令がくだった。
撤退が指示された3日前、ヨーロッパではドイツがパリを占領していた。そのため、日本もこの勢いに乗じて国民政府にむけてより圧力をかけたほうが良いのではないか、との意見がにわかに持ち上がるようになったのだ。
先程海軍が宜昌の占領に賛成していた、という話をしたが、作戦が行われたのと同時期に重慶への戦略爆撃は敢行されていた。ただ、遠距離攻撃のため爆撃機に護衛がつけられず、中国軍に迎え撃たれやすくなったため思うように爆撃の成果は上がらなかった。そんな中で宜昌を中継基地とすれば護衛の戦闘機を出撃させられ、より効果的な爆撃が行えるようになる――そんな流れであらためて宜昌の価値が再確認されたからこそ、再占領が決定されたのである。
そして、言うまでもない話だが、そこには昭和天皇の意向も絡んでいた。
昭和天皇が終戦の詔書において、「他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス」と述べたことは良く知られている。が、実際には彼は「領土ヲ侵ス」ことを積極的に奨励していた(注11)。
この結果、海軍は心置きなく重慶への爆撃が行えるようになり、8月19日には零式戦闘機も初めて投入されている。その日行われた爆撃の様子は、当時中国で抗日戦争を取材していたレイ・スコットによって撮影され、「Kukan」というタイトルで上映された末に第14回アカデミー賞特別賞を受賞するほど観衆に衝撃を与えた。この記録映像はフランクリン・ルーズベルトも鑑賞しており、アメリカ国民の第二次大戦参戦への意識を変えたともされている。
このように、戦後の昭和天皇の自己認識は必ずしも正しくなく、彼は平和主義者でもなかったし、むしろ積極的に軍の作戦立案に介入していた。しかし、連合国軍総司令部最高司令官総司令部(GHQ)はこういった自己認識(何なら、「空想」と呼んでもいいかもしれない)を受けいれ、占領統治に利用しようとした。
もともとアメリカ(特にマッカーサー司令部)は戦時中から「現在の天皇を排除すべきかは疑問である。天皇個人は穏健な傾向の持ち主で、将来は有用な影響を及ぼす可能性もある」との見方のもと、戦後統治のヴィジョンを練っていた。特に大きな貢献をもたらしたのがボナー・フェラーズだ。ラフカディオ・ハーンの愛読者だった彼は、戦争責任の所在を認識しつつも、一方で日本を穏便に統治するためには神通力にも似た昭和天皇の人望を活かすのが得策なため、追放するべきではないと説いていた(あとでくわしく確認することになるが、こうしたフェラーズの見解をそっくりそのまま受けいれたマッカーサーは、極東国際軍事裁判を前にアメリカ政府に向けて天皇は訴追するべきではないと論陣を張った)。
また、フェラーズの部下だったシドニー・マシュバー(マッシュビル)もこうした天皇像の案出に一役買った。戦前まで三度しか訪日経験がなかったフェラーズと違って、マシュバーは東京での勤務経験もあり、渋沢栄一とも面識があった。フェラーズとマシュバーはともにマッカーサー司令部の心理作戦部隊に属し、天皇と軍部の関係性を絶つための「くさび戦術」を実行した。
ところで、昭和天皇は戦前から短波放送を聞きながら世界の情勢を追いかけていた。そのため、彼はこういったアメリカの工作放送を聞いていた可能性も十分にある。だとすれば、一見すると戦後に起こったように思える平和主義者への転向は、すでに戦時中に準備されていたのかもしれない。
いずれにせよ、戦争が終わる前から昭和天皇の処遇の方針は決まっていた。彼は戦争の指揮者としては見なされず、むしろ軍国主義者の犠牲者としてみなされ、裁判の訴追対象からは外されていた。のみならず、生まれつきの平和主義者として戦後日本のシンボルになることが期待されていた――そして、こうした計画を知ってか知らずか、昭和天皇は同じく自らを生まれつきの平和主義者と見なしながら占領軍の前に立った。
このように(意図の有無は別として)昭和天皇とGHQは共犯しながら戦後統治を進めていくつもりだったが、必ずしも計画はスムーズには進まなかった。この点にかんしては柄谷は正しく問題を捉えている。
マッカーサーやその側近、そして昭和天皇がなんと言おうが、1941年の開戦詔勅はまぎれもなく昭和天皇の名前で出されたものである。イタリアではベニート・ムッソリーニが処刑され、ドイツではアドルフ・ヒトラーが自殺していた以上、昭和天皇もまた同じように処遇されるべきだと期待していた者は多かった。
GHQは日本を占領統治するのと並行して、アメリカや極東委員会に向けて、天皇を訴追するべきでない理由を説明する課題とも直面していた。まずマッカーサーは統合参謀本部からの天皇の戦争犯罪行為の有無に関する情報収集の指示に対して、「過去一〇年間に日本帝国の政治決定と天皇を多少なりとも結びつける明確な活動に関する具体的かつ重要な証拠は何ら発見されていない」と回答し、さらにこういった文言も付けくわえた。
とはいえ、こういった論理だけでアメリカ政府や極東委員会を説得できるわけはないとマッカーサーは重々承知していた。特に、極東委員会は難敵というほかなかった。なにせ、1945年末に行われたモスクワ外相会議で、委員会の決定がなければ日本の憲政機構や管理制度に関する改革は実行できない、との合意がなされてしまっていたからだ。昭和天皇に対してアメリカ以上に悪感情を抱く委員会の面々は、天皇制の廃止を前提とした憲法作成を要求してくる可能性が高い。マッカーサーは委員会が開催される前に、既成事実を作って天皇を守らなければならなかった。
ところが、日本側はまったく憲法の骨子を変える気がなかった。GHQは当初近衞文麿に憲法作成を任せていたが、戦争犯罪で訴追されるおそれがある人間に新体制を託すことへの批判が高まったため断念。次に任された松本烝治は商法が専門な上に、国際政治のなかで日本が置かれた状況をまるで理解していなかった。その証拠に、彼の提出した試案は依然として「天皇が統治権を総攬せられるという大原則にはなんら変更を加えない」ものだった。この試案は毎日新聞によってすっぱ抜かれた末に、その保守性をあられもなく曝けだされたために自然消滅した。
業を煮やしたマッカーサーは自ら天皇制維持、戦争廃止、封建制廃止の三原則を打ち出し、GHQの民政局に憲法草案を早急に作るよう指示する。その結果急ピッチの作業の末に生まれたのが、「国民ノ一主権トシテノ戦争ハ之ヲ廃止ス」と書きだされた戦争廃止条項だった。マッカーサーは明確にこの戦争廃止条項を、極東委員会をはじめとした国際社会を説得させるためのものとみなしていた。
1946年2月21日に彼は当時の首相幣原喜重郎と会談し以下のように述べた、と芦田均は記している。
無論、こうした「外国の思惑を考へる」理由は、天皇制の維持を目的としていたからにほかならない。この意味では、間違いなく憲法第9条が天皇(第1条)を守っていた(ただし、当の昭和天皇はと言えばさすがに軍備を丸ごと放棄するほどの覚悟はなかったようで、マッカーサーに対して代わりにアメリカが日本を守ってくれるよう保障を求めている)。
平和主義者である昭和天皇を担ぎながら日本を平和国家にしていく、というGHQのプランは、様々な事情がからみあった末に当初の思惑通りにはいかなかった、と言えるだろう。だが、どうあれ彼らは第1条という形で天皇を守ることができた。あとは、昭和天皇に自ら平和主義者であることをアピールして、危険性のない人物だということを証明してもらえば御の字、といったところだろう。
……しかし、昭和天皇が戦後平和主義者としてふるまえたかと言うと、これもまた怪しい。彼は沖縄をアメリカに「二〇年から五〇年、あるいはそれ以上」貸しだすと直々に述べていた。あるいは、広島を訪問した際に原爆投下について「やむを得ない」と述べもした。戦争責任についても、「そういう言葉のアヤについては、文学方面はあまり研究していないので」などと言って煙に巻いた。また、再軍備にも憲法第9条改正にも肯定的で、「軍備といつても国として独立する以上必要である軍閥がわるいのだ。それをアメリカは何でも軍人ハ全部軍閥だといふ様な考へでアヽいふ憲法を作らせるやうにするし」と述べたという。
とはいえ一方で、昭和天皇はA級戦犯が合祀されていると知るやすぐさま靖国神社への参拝を絶っている。また、日中戦争についても「わが国はお国に対して、数々の不都合なことをして長い間ご迷惑をおかけし、心から遺憾に思います」と反省の意を示し、鄧小平を驚かせもした。朝鮮併合についても全斗煥が来日した際に「両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならない」と述べたし、入江相政によると、「朝鮮に対しても本当に悪いことをしたのだから」とも述べたという。
ともあれ彼はところどころ危なっかしい面を見せつつも、おおむねGHQの期待に沿った存在としてふるまえたと言っていいだろう。事実、彼が43年という余生を送っている間、日本は対外戦争を行わなかったし、憲法第9条も変えずに済んだ。
なにより、昭和天皇はこれ以上ない後継者を生んだという点で、諸々の難点を払拭するほどの成果を残したともいえる。明仁天皇こそその人である。
6.明仁天皇は象徴天皇制をいかに定着させたか?
柄谷は明仁天皇の即位についてこう述べている。
こうした見解も正しい。5節でみてきたように、昭和天皇は戦中から戦後を通し一貫して、お世辞にも平和主義者と呼べる人ではなかった。彼は戦中も積極的に軍の作戦立案に関与していたし、戦後もまた憲法の定めるところに反して積極的に政治的決定に容喙しようとしていた。なにより彼は諸外国から依然として戦争責任を負っている者とみなされていたのだから、たとえGHQがなんと言おうと日本国憲法が言うところの「象徴」には不向きな人物だった。
その点、明仁天皇にはそうした後ろ暗いところはまったくなかった。戦争が終わった時、彼はまだ満11歳だった。占領中はクエーカー教徒のアメリカ人が家庭教師となり、明仁天皇は彼女に平和主義者としての薫陶を受けていた。旧皇族や旧華族の強い反発を跳ねのけ、庶民の正田美智子を皇太子妃として迎えた。
なにより、彼が皇太子として過ごした期間はあまりに長かった。昭和天皇が87年もの人生を送ったおかげで彼はその間に、「象徴天皇」に求められるものは何か、と考える時間をたっぷりと与えられた。
その意味では、日本国憲法が言うところの「象徴」にふさわしく、そして憲法の本質を熟知している者が即位したことで「憲法一条が真に定着した」とみなすのは、正鵠を射ていると言って良い。
とはいえ、柄谷は一方で明仁天皇の言葉を中途半端にしか引用していない。彼は1990年11月12日の即位礼正殿の儀で、以下のように述べていた。
「昭和天皇の」「御心を心として」彼は「つとめを果たすことを誓」った。これは一見すれば、昭和天皇の精神を受け継ぎながら万世一系の皇統をつないでいく、との紋切り型的な宣言であるように思える(注12)。しかし、明仁天皇のほかの発言を見ていくに、もしかしたら彼はそれ以上の思いを父に抱いていたのではないか、と考えざるをえない。
明仁天皇の昭和天皇観は、即位から20年経った際の会見で、高齢化、人口減少、前年のリーマンショックのダメージから立ち直りきれないでいる経済などを見てどう思うか、と訊ねられたときの回答に最もよく現れているだろう。
「先の大戦」に代表されるような「歴史」は、「昭和天皇にとって誠に不本意」なものだったのではないか、と明仁天皇は述べている。つまり、明仁天皇の昭和天皇像と、昭和天皇の(戦後の)自己認識は一致している。もともと平和主義者だったが、軍部の暴走によってやむなく戦争に巻き込まれてしまった悲劇の元首、と昭和天皇は自負していたわけだが、明仁天皇はそうした父親の自己評価を追認しているのである。
となれば、先ほどの「昭和天皇の」「御心を心として」「つとめを果たすことを誓」う、という宣言は、単なる紋切り型にとどまらない意味を持っていたことが明らかになる。明仁天皇はここで実は、平和主義者である昭和天皇の「御心」を自らの「心として」受け継ぐ、と表明していたのだ。
一般的に、父の精神を子が受け継ぐ、というとき、我々は子供が一方的に親の恩恵を受け取る、といったイメージで事態を捉える。しかしながら、明仁天皇が平和主義者である父の「御心を」自らの「心として」受け継ぐ、というときに限っては、これを受動的なイメージで捉えようとすると事態を見誤ってしまうだろう。
なぜかといえば、再三見てきたとおり昭和天皇は必ずしも平和主義者とは呼べない人だったからだ。それに対して明仁天皇は、あけすけに言えば親を易々と凌駕するほどの平和主義者である。少なくとも平和主義者としては、いまさら受け継ぐものなどほとんどない。
では、なぜ彼は昭和天皇の「御心を」自らの「心として」受け継ぐ、などといったのか。そうすることで父親の自己認識を肯定しつつ同時に、実は昭和天皇は平和主義者だったのだ、と人々にアピールすることが狙いの一つである。
のみならず、これは単なるアピールにとどまらない。明仁天皇は父の「御心を心として」いるのだから、彼の言動はそっくりそのまま昭和天皇の精神を表している。となれば、明仁天皇が平和主義者として周囲に認められるような言動を行うたびに、そんな彼の父親である昭和天皇も同様に平和主義者だったのだ、と再評価される――そういった具合に自らの評価を昭和天皇への評価へと一体化させることこそが、明仁天皇の狙いなのである。
そうした彼の狙いは達成されている。一例として、わが国では8月15日を終戦記念日として定め全国戦没者追悼式を行っている。これは言わずがな8月15日が「玉音放送」がおこなわれた日であることに由来しているが、よりくわしく言えば昭和天皇が「聖断」によって戦争を終わらせた日と一般に考えられているからである。
佐藤卓己の『八月一五日の神話』をはじめとした研究のおかげで、8月15日を終戦の日とするのは「神話」であり、正しくはポツダム宣言を受諾した8月14日、もしくはミズーリ艦上で降伏文書に調印した9月2日を終戦の日とすべきだ、と主張されるようになって久しい。が、それでもなお8月15日が終戦記念日でありつづけているのは、(単に日本国民が既存のしきたりを変えるのを面倒くさがっているせいもあろうが)平和主義者である昭和天皇によって戦争を終わらせてもらった、との意識が人々に根づいているからだ。
なにより、そうした状況をほかならぬ明仁天皇こそが肯定していた。宮内庁のサイトでは「忘れてはならない4つの日」と題して、沖縄慰霊の日である6月23日、広島と長崎に原爆が落とされた8月6日と9日、そして玉音放送がおこなわれた8月15日を挙げている。
これは明仁天皇が皇太子時代の1981年に、この4つの日付を挙げたたことに由来している。本土日本人の意識の外にあった沖縄戦に皇太子が言及したことは大きな衝撃を与えた。もちろんこれ自体は称賛に値するべき話なのだが、一方で彼は8月15日を疑ってはいない。それは平和主義者としての昭和天皇を肯定しているからこそなのである。
それだけではない。明仁天皇はもっと遠大な構想を持っていた。彼は皇太子時代にこんな発言をしたことがある。
彼は昭和天皇のみならず、歴代の天皇もひっくるめて肯定しようとしていたのだ。これは一時の思いつきにとどまらない。彼は何度となく、日本国憲法が言うところの「象徴」を、歴代天皇の在り様に重ね合わせようとしている。
もちろん、歴代天皇のなかで「権力がある独裁者」は「非常に少ない」というのはあながち間違いではない。柄谷も以下のように述べている。
もっとも、明仁天皇と柄谷は(おそらく前者は意識的に、そして後者は意識することなく)重要なポイントを見逃している。彼らは明治より前の「象徴的存在」である天皇と、日本国憲法第1条が言うところの「象徴」天皇をそのまま連続させようとしている。
いたってシンプルな話だが、法律によって定められていない中で「象徴的存在」と人々に見なされている天皇と、法律によって定められた「象徴」天皇はイコールではない。
日本国憲法下の象徴天皇制は、GHQや占領期日本の政治家たちが昭和天皇の戦争責任を回避しつつ、それでもなお天皇制を維持できないかとの思惑によって設置されたものである。にもかかわらず、象徴天皇制が日本古来の天皇の在り様に親和性がある、などと言ってしまうと、あたかも日本国憲法第1条は日本の「国体」から自然と生まれたものであるかのような様相を呈してしまいかねない(注13)。言いかえれば、象徴天皇制の人工性は脱色され、いかにも日本の伝統に沿った自然な制度かのように思いなされてしまう(それどころか、古くからつづいてきた天皇制もまたもしかしたら人工のものなのではないか、と問うこともそこでは併せて忘れ去られてしまうおそれがある)。
しかも、象徴天皇制を過去の天皇の歴史と接続すれば、天皇制そのものの維持はたやすくなる。仮に日本国憲法第1条を、日本の天皇の歴史がそっくりそのまま反映されたものとみなすとしよう。そこでは日本国憲法の肯定は、天皇制の歴史の丸ごとの肯定になる。明仁天皇が日本国憲法を遵守しようとすれば、そっくりそのまま天皇制もまた守られるのだ。
もちろん、日本憲法を遵守するのは明仁天皇だけではない。リベラルもまた日本国憲法を遵守する。その意味で、明仁天皇は保守だけでなくリベラルにも天皇制を支持させる可能性を切り拓いたと言えるだろう。
7.ふたたび敗北を抱きしめて
さて、明仁天皇のこうした象徴天皇制を過去の天皇制と連結させる構想は果たして成功したのだろうか?
結論から言えば、大成功というほかないだろう。昭和天皇が崩御した際には強いられた自粛の反発からか、彼の戦争責任を問いつつ、同時に天皇制そのものにも疑問を持つ声が少なからず聞こえてきた。また新左翼は様々なゲリラ活動を行い、陵南会館や、武蔵野陵につづく中央高速道路脇の土手を爆破したりした。
それに対して、明仁天皇が生前退位を表明したときは、リベラル勢力はこぞってその決断を支持した。保守派がよくわからない論理で反発したことも記憶に新しいが、いずれにせよそこでは、明仁天皇が徳仁皇太子に譲位し、天皇制を継続させることの是非自体はほぼ問われなかった。言いかえれば、これを機に天皇制ごと廃止してはどうか、との議論はほとんど聞かれなかったのだ。元号が変わる際に声を上げる人はいたにはいたが、極めて少数派だった。
こういった意見は、もはや時代錯誤な認識としか言えないだろう。単に天皇制そのものを廃止すること自体が現在の日本で問題になっていないだけでない。右派だけでなく左派もまた、「天皇を通じて自分たちの権威付けをしようとしている」のだ(極左であるノムラらにしてみれば穏健リベラルもまた右派なのかもしれないが)。天皇制は今や左派にとっても、仮に廃止されてしまったら日本国憲法そのものが危機に陥りかねないから是が非でも維持すべき制度となっているのである。
日本の左派の大多数はすでに天皇制に疑問を覚えていない。昨今議論が続いている女系継承や女性宮家の導入にしてもそうだろう。保守派の意固地な抵抗に紛れてしまっているが、そもそもそんな議論にリベラルが介入しようとすること自体がおかしい。皇統なんて途絶えて結構ではないか、と言う者がいたってよさそうなものだが、そんな声はよほどの共和主義者か、もしくは極左からしか聞こえてこない。
ひょっとしたら、多くのリベラルは無意識裡にこう考えているのではないだろうか――日本国憲法は80年近く維持されつづけ、もはや日本人にとって親和性の高い自然な憲法となっている。もちろん、それは第9条だけにとどまらない。第1条もまた同様だ。それにしても、なぜこんなにも象徴天皇制は維持しつづけていたのだろうか? 単なるGHQによる作り物だったら、こんなにも存続しなかったはずだ。もしかしたら、日本史上の天皇の在り方そのものが象徴天皇制に近かったからこそなのではないだろうか?――仮にそうだとしたら、どこまで行っても明仁上皇の構想は成功したとみなさざるをえない。
あまつさえ、日本左翼の重鎮である柄谷行人に、「天皇はいうならば『象徴天皇』であることが常態だったのです」などと言ってもらうとは、さすがの明仁上皇も予想できなかっただろう。それくらい、彼は日本の左派・リベラルに完勝した。
彼は、日本はもともと象徴天皇をいただく国家であって、その天皇を模範としながら平和な世の中を築いてきた、との「空想」を定着させることに成功したのだ。そんな中にあっては、象徴天皇が改憲勢力の前に立ちはだかって憲法を守ろうとしている姿に、多くの人が違和感を抱かない。
いや、正確を期せば、フロイトが言うところの「空想」は基本的に無意識裡に行われるものだ。たとえば患者が、自分には親に性的虐待を受けた記憶がある、と「空想」しているとして、それは必ずしも意識的に行われているわけではない。患者は精神分析家にその記憶は「空想」ですよ、と言われても気づかないケースがあるのだ。それくらい、「空想」は患者本人にとってさえ知らず知らずのうちに行われうるものなのである。
そこからすれば、昭和天皇と明仁天皇の共同プロジェクトである「天皇は代々平和主義者である」というアピールにしろ、明仁天皇による「象徴天皇制は古来の天皇の在り方から連続したものである」というアピールにしろ、それらは明らかに意識的なものなので「空想」とは呼びがたい。
とはいえ、一方で二人の天皇に感化されながら過ごしてきた国民は、知らず知らずのうちに「天皇は代々平和主義者である」と思いこむようになっているし、「象徴天皇制は日本にとって自然なものだ」とも思いこむようになっている。これについては間違いなく「空想」とみなしていいだろう。そして、彼らはそれが「空想」ではないかと疑おうともしない。そして、自分たちの代わりに天皇に日本国憲法を守ってもらっている現状に疑問を持たない。
筆者は4節のはじめの方で、憲法が危機に陥ると天皇が「ぐっと前にせり出してくる」構造の起源についてはわからないが、この構造が戦後80年を経ってもいまだに保存されつづけているどころか、年々持っている力を発揮する機会が増えていることの理由については思いあたる、と述べた。以上がその答えである。
今や遠い昔のことのように感じられるが、本稿はそもそも國分功一郎の問題提起に触発されながらスタートしたのだった。読者の大半は忘れているだろうから、もう一度彼の文章を引用しなおそう。
「日本国民は天皇に頼らずに立憲主義を守るべきだったのではないか」――國分のこうした問題提起は、あまりにも常識的ではあるが、大半のリベラルが天皇との相克を放棄している現在にあっては重要なものである。
しかしながら、一方で彼は、明仁上皇の大勝の内容の詳細な分析を怠っている。明仁上皇は単に、憲法擁護に代表されるリベラルな発言を行ったことによって多くのリベラルの支持を得たことで勝利した、というだけに止まらない。彼はそうした勝利をもって、自律的な立憲主義遵守を困難にしただけでなく、天皇制そのものに疑義を呈することさえ困難にしたのだ。
國分は、天皇に頼らなければ憲法を満足に守れない現在の状況に「強い敗北感を感じている」。もっとも、ここで何よりも問題にしなければいけないのは、本当は負けているのに負けている状況に気づいていない人々なのではないだろうか?
ジョン・ダワーは第二次大戦に負けた際に日本は様々な課題を背負ったが、そのうちの一つに戦死者をどう弔うべきか、というものがあったと述べている。
こういった重かったはずの課題は、諸々の戦争犯罪――連合軍捕虜の虐待や強制労働、中国やフィリピンの住民の虐殺、731部隊による人体実験、売春の強要……――が明らかになったことによって、戦場での死者が実は高潔な死者などではなく、むしろ忌避すべき悪人であると見なされたために時間が経つにつれてプライオリティを失っていった。
やがて、右派がこういった戦死者を一面的に「英霊」と呼んで崇め奉る一方で、左派は日本の死者を無視しアジアの死者に目を向けるようになっていった。そこではどのみち、戦後間もない頃に重くのしかかっていたはずの課題は放棄されている……つもりではあるが、あくまでも見ないことにしているだけであって、事あるごとに課題は回帰しつづけている(この両極端な事態を解消するために加藤典洋が戦後50年の記念として「敗戦後論」を発表し、汚れた日本の死者を弔ってこそアジアの死者の弔いも成り立つと主張したのだが、本人が汚れた日本の死者の弔い方の見本を示さなかったこともあって、結局は生産的な議論を呼び起こすことなく終わった)。
かように、負けたときにどのように振舞うのが正しいのか、という困難な課題は敗者側にしつこく付きまとうのではあるが、天皇を相手にした敗北に関してはまた別の課題があるように思える。
第二次大戦において日本人は一応負けたことを認識していた。しかし、憲法を守るにあたって天皇を頼らざるを得ず、それどころか、天皇制を疑うことさえ放棄せざるを得なかった、という敗北をリベラルはそもそも認識していない可能性がある。したがって、まず我々が直面すべき課題は、「負けたにもかかわらず、負けたと分かっていない者に何と言えばいいのか?」なのかもしれないのだ。
脚注
(注1)國分は論考のなかで憲法学者の樋口陽一の名を挙げているが、彼もまた「天皇に対する好意を表明していった日本のリベラル勢力」の一人だろう。東京新聞は2017年に「象徴天皇と平成」というタイトルで連載をスタートさせているが、その一回目にインタビューをうけた樋口は以下のように述べている。
(注2)のみならず、豊下は『昭和天皇の戦後日本』の第二部第三章を「明仁天皇の立ち位置」と題したうえで、およそ20ページにわたって前天皇の言動をまとめつつ最後に「こうした明仁天皇の立ち位置を立脚点としつつ、今後の日本が進むべき道を具体的に展望していくことは、我々がなすべき主体的な課題に他ならない」とまで述べている。単に前天皇の言葉を一つか二つ引用し、それを安倍の言動と比較するのならばまだ当てつけや皮肉の範囲に収まるだろう。だが、「明仁天皇の立ち位置を立脚点と」するとまで言ってしまうと、もはや彼の態度は礼賛と見なすべきだ。
(注3)柄谷はここで「八月革命」という言葉を用いているが、彼は明確に「revolution」の古来の意味を意識しながら叙述を行っている。ハンナ・アーレントはOEDを参照しながら以下のように述べている。
彼女曰く、当初「revolution」は「予定された秩序に回転しながら立ち戻る運動」の意味で用いられており、むしろ「復古」に近い言葉だったという。それは十八世紀――アメリカとフランスで時代を画する出来事が起きた時代――においても同様で、大西洋の両岸で繰り広げられた政治運動をそろって支持したトマス・ペインは『人間の権利』の中で、それらを「反革命counter-revolution」と呼ぶべきだと提案していた。
このような用法しか持っていなかった「revolution」がいつ今日用いられているような意味になったのかはさておき、柄谷が言うところの「革命」は「revolution」の古来の意味、つまり「復古」として捉えるとわかりやすい。一般的に我々は「八月革命」と言われると、明治以来の政体をリセットして日本国憲法のもと、新たな政体がスタートしたと思い浮かべる。だが、柄谷からすればそれは誤解であって、実は日本は徳川の国制を復古させる形で「革命」を行った、と言うのだ。
(注4)正確を期して言えば、『憲法の無意識』では同時に中谷礼仁が提唱した「先行形態」なる概念も用いながら、日本国憲法の祖形を探ろうと試みられている。とはいえ、次の引用からもわかるように柄谷は、フロイトの延長線で中谷の概念を理解しようとしているから、別に無視してもかまわない。
(注5)一連の流れは精神分析界隈において、フロイトによる「誘惑理論の放棄」と見なされている。そして、彼は死後さまざまな誹謗中傷に見舞われてきた。たとえば、ジェフリー・マッソンやジュディス・ハーマンは「誘惑理論の放棄」によって、本当に性的虐待を受けた患者が誣告しているのではないかとの嫌疑を受けるようになってしまった、だとか、男性優位な社会の風潮に屈して理論を放棄した、とかフロイトを告発している。
しかしながら下司晶によると、フロイトは「誘惑理論の放棄」を公言したこともなければ、そもそも「誘惑理論」という言葉すら用いたことがない、という。
そもそもなぜ「誘惑理論の放棄」なる言葉が生まれたかと言えば、フロイトがヴィルヘルム・フリースに宛てた書簡群が1950年に公刊されたところまでさかのぼる。
1897年9月21日の手紙で、フロイトは「僕は自分の神経症理論(Neutorica)を信用していません」と友人に打ち明けた。その中でたしかに彼は、神経症の一因と見なしていた「誘惑」(性的虐待)が患者の虚偽記憶であるケースも混じっている、と認めている。それを踏まえて出版された本の序論を書いたエルンスト・クリスは、精神分析の父がここで「誘惑理論の放棄」を「決心」した、と見なした。だが、フロイトはあくまでも「神経症理論を信用していません」と言っただけであって、「誘惑理論」を放棄する、とは一言も述べていない。それどころか、
要するに、一人の精神分析家がフロイトの言ってもいないことを「空想」にもとづいてでっちあげた結果、いつしか定説と見なされてしまい多くの精神分析家たちが空騒ぎする羽目になった、というだけの話なのだ。
実際にフロイトは1897年に発表した論文に1924年、このような傍注をつけている。
(注6)ヒステリー研究を行っていたころのフロイトは、幼児期にはまだ性欲が芽生えていないと考えていた。そして思春期になってから性欲が芽生え、かつての性的外傷体験を思いだした際にその意味するところがわかり、かといって事実を受けいれるのはあまりに大きなショックを受けてしまうのでその記憶を抑圧した結果ヒステリーは発症するのだと考えた。
しかし、フロイトは子供の分析を行ううちに、幼児期にも性欲はあるとみなさざるを得なくなった。そして幼児はその性欲にもとづき、たとえば自慰のようなやってはいけない性的行為を犯してしまった後、その記憶を抑圧するために空想を作りあげるのではないか、と考えるようになった。
もっとも、フロイトは虚偽記憶は「空想」だと患者に示すだけでは不十分だとしている。患者たちはその「空想」を虚偽とは考えず、まぎれもなく現実に起こった出来事だと考えている。だとすれば、治療にあたってはこういった「心的現実」にいかに取り組むかが重要だとフロイトは見なした。
(注7)この朝鮮との交易を回復させる交渉過程も難航を極めた。言うまでもないが、朝鮮は秀吉に一方的に侵攻された側であるだけに、一度や二度の交渉程度で和睦がなされるはずもない。特に以前から日本と朝鮮の仲介を務めていた対馬藩は、秀吉のせいで失われた朝鮮との信頼関係を取り戻すために、さまざまな方策を採らなければならなかった。
たとえば、朝鮮は侵攻の過程で王陵を荒らした犯人を差しだすよう要求してきた。対馬に犯人を特定する能力などあるはずもないので、代わりに藩内の罪人を差しだして対応することにした(罪人は朝鮮に渡ったのちその旨を話したが、朝鮮はこれを不問としている)。
また朝鮮は、家康に和睦の正式文書である国書を寄越すよう対馬を通じて求めた。当時の外交の常識から言えば、下の立場にいる国の方が先に国書を渡すべきであるため、家康が素直に応じるとは考えづらい。そんな中で対馬としては何としてでも朝鮮との交易を回復したかったので、国書を偽造してまでその場を取り繕おうと試みた。対馬の賭けは成功し、朝鮮からは回答使がやってきて将軍となっていた秀忠や、隠居していた家康との謁見を行った(ちなみに対馬は幕府に対して、回答使のことを正式な通信使であると偽っていた)。
その後も対馬は度重なる国書偽造を通じて、どうにか朝鮮との交易を回復させるに至った。柄谷はあたかも幕府が朝鮮との友好関係を取り戻そうと努力してきたかのように述べており、それはあながち間違いではないのだが、一方でそうした歴史の見方はそれ以上に苦心を重ねていた対馬藩の存在を閑却している。
(注8)なお、こうした信頼回復の裏には、(直接の原因ではないにせよ)1615年の長崎代官・村山等安による台湾出兵の際に琉球が明に情報を渡したことが一因にある。村山の台湾行きについては動機が不明瞭なところが多いうえに、彼の率いた船団が暴風のために四散し台湾には1隻しかたどりつけなかったので、そもそも何を狙いにしていたのかがわかりづらい。
しかしながら、有力な説としては台湾を侵略して対明交易の拠点にするつもりだったのではないか、というものがある。出兵の少し前に琉球を介した対明交易の復活が失敗していたことを踏まえれば十分にあり得る話だとは思うが、いずれにせよ、村山が率いた船のうち3隻は浙江省に流れ着いて1200名あまりの住民を殺害した。
村山はその後明に直接赴き交易復活の交渉を行なおうとするが、浙江省の件だけでなく薩摩による琉球侵攻についても咎められ、門前払いを食らった。
(注9)西郷隆盛は1859年に奄美大島へ蟄居を命じられ、こうした搾取の実態を知ることとなる。やがて、西郷は大久保利通に手紙を送り、「何方におひても苛政の行れ候儀、苦心の至に御座候。當島の體誠不忍次第に御座候。松前の蝦夷人捌よりはまた甚敷御座候次第、苦中の苦、實に是程丈けは有之間敷と相考居候處驚入次第に御座候」と記している。「松前」による「蝦夷〔アイヌ〕人」の扱いより薩摩による奄美の扱いは酷い、と衝撃を受けているのだ。では、一方でアイヌは松前藩によってどのような圧政を被っていたのだろうか。
18世紀初頭ごろから松前藩はいわゆる「場所請負制」を敷いて商人たちに知行地を貸しだしつつ、運上金を収めさせながら、交易権を与えていた。そして、商人との不平等な交易によってアイヌは一方的に搾取されていたことは良く知られている。では、そこでの交易割合はどうだったのだろうか。『北海随筆』によると、米八升(12kg)を一俵と定めたうえで、それを基準としながら交易がおこなわれていたという。江戸時代まで米一俵の基準は決まっていなかったが、一般的には3斗5升(52.5kg)程度とみなしていたようだ。それに比べれば、アイヌとの交易で基準となっていた一俵の重さは異常に軽い。他の交易品との交換比率をみれば、不当な交換を行っていたことがよくわかる。
にわかには信じられないような話だが、アイヌは米12kgを買うにも、鰊を1200本とらなければいけなかった。これだけでも相当な搾取と言えるが、
一日中サトウキビ作りや精糖作業に従事させられていた奄美と一体どちらがマシか……とついつい考えたくなるところではあるが、そうした比較を行ってもあまり意味はないだろう。
(注10)東久邇宮稔彦は、戦後処理内閣の首相となって間もない1945年8月28日に行われた記者会見で、悪名高い「一億総懺悔」を打ち出した。彼はその8日後に開かれた帝国議会でも同じような言葉を述べている。
それにしても、この「總懺悔」を行う対象は誰なのだろうか? それは前段のくだりを読むとわかる。
「天皇陛下」は「我が國が和戰を決すべき重大なる御前會議が開かれ」た際、「如何にしても我が國と米英兩國との間に蟠まる誤解を一掃し、戰爭の危機を克服して、世界人類の平和を維持せられることを冀はれ、政府に對し、百方手段を盡して交渉を圓滿に纒めるやうにとの御鞭撻を」下賜していた。そういった昭和天皇の平和を願う気持ちは「開戰後と雖も終始變らせらるることなく、世界平和の確立に對し、常に海の如く廣く深き聖慮を傾け」ていた。結局日本は敗れてしまったのだが、なかなか踏ん切りがつかなかった降伏の決断を下せられたのも「是れ亦全く世界の平和の上に深く大御心を留めさせ給ふ御仁慈の思召に出でたるものに外な」らない。こういった具合に昭和天皇の「宸襟を惱まし」てしまったことは、「臣子として洵に申譯のないこと」であって、「我々國民は御仁慈の程を深く肝に銘じて自肅自省しなければならない」……こう述べた後に例の、「前線も銃後も、軍も官も民も總て、國民悉く靜かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ總懺悔」しなければいけない、という言葉がやってくるのである。
つまり東久邇宮が懺悔すべきだと考えているのは、開戦前から平和主義者として暴走する臣下をどうにか止められないかと頭を悩ましていた、昭和天皇なのだ。
(注11)2014年に宮内庁によって完成された「昭和天皇実録」では、昭和天皇が宜昌の占領に難色を示した4月10日のことを以下のように記載している。
「実録」は他の日には天皇の肉声をそのまま記載しているにもかかわらず、この日に関しては味も素っ気もない記述にとどまっている。支那派遣軍総司令部参謀だった井本熊男は「宜昌ノゴトキハデキルナラバ手ヲツケルナ」という天皇の発言を受け、「天皇は一言でも絶対に軽々しいことは言われないことをよく承知していたので考えさせられた」と日記に記載しているが、「実録」は(参照文献に名前を挙げている割に)そのことをまったく反映していない。
また、「陸軍ハ宜昌ヲナントカナラナイカ」と下問した6月15日については、
といった具合に4月同様簡素な叙述しかない。例の下問があったと記されているのは『戦史叢書』だが、(4月10日には参照されているのに)ここではそもそも参照すらされていない。山田は一連の経緯を整理しながら、このように評している。
(注12)本居宣長は「直毘霊」の書き出しで、「皇大御国」が「天照大御神」によって生み出された国であると同時に、「大御神」が「天つ璽」(三種の神器)を掲げながら、「萬千秋の長秋に、吾御子のしろしめさむ國」、つまり永久にわが子孫が統治すべき国であると宣言しさえしたことを確認しつつ、以下のように述べている。
「千萬御世の御末の御代まで、天皇命はしも、大御神の御子とまし/\て」、つまり千年経とうが万年経とうが天皇はいつまでも「大御神の御子」であるのだが、一方でただ単に「大御神」と天皇は親族関係にあるだけではない。天皇は「天つ神の御心を大御心として」いる。すなわち、「天照大御神」の「御心」は、そっくりそのまま天皇の「大御心」となっているのだ。これについて宣長は以下のような傍注を付している。
天皇は何事をするにしても自らの考えだけでもって賢しげに振舞うのではなく、「神代の古事」を参照しながら国を治めてきたのであったし、何か疑いが兆した場合にしても、自らの「大御心」と一体になっている「天神の御心」に質問したうえで行動してきた。そうした「大御神」と天皇が一体になった体制のもとで、日本は「平けく所知看しける大御國」(平和に統治されてきた国)として歴史を刻んできた、と宣長は主張している。
明仁天皇がどこまで宣長を読んでいたのかは定かでないが、いずれにせよ、彼が昭和天皇の「御心を心とし」というときは、こういった文脈を頭に置けば理解しやすくなるだろう。
ただ一方で、こういった「御心を心とし」に似た言葉が戦時中に常套句として使われていた歴史についても注意しなければならない。岩田重則によると、1945年8月12日、すなわち二度の原爆を落とされながらもいまだ降伏するかどうかがはっきりしなかった時期の『朝日新聞』には以下のような「観念的な文章」が載っていたという。
(注13)古来の天皇の在り方と、戦後の天皇制を連続させようとする試みは、実は日本国憲法が出来上がる直前から行われている。津田左右吉は『世界』1946年4月号に寄せた「建国の事情と万世一系の思想」で、(執筆時期は46年1月とされているから)まだ憲法の草案が発表されていないころから皇室は「国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であられる」と主張し、おまけに国民が「民主主義を徹底」すれば「皇室はおのずから国民の内にあって国民と一体」になる、つまり天皇制と民主主義はなんら矛盾しないと述べた。津田は天皇から大権を剥奪しても何ら問題なく、ただ明治より前の天皇の在り様に戻るだけだ、と主張したわけだが、彼の議論は一方ならぬ騒動を巻き起こした。
言わずもがな『世界』はいわゆる進歩的文化人たちによって発足した雑誌であるが、多分編集者たちは「津田事件」で国家主義者たちから言われもない誹謗中傷を浴び、大学辞職や著書の発禁処分にまで至った津田ならば天皇制批判の論文を書いてくれるだろうと期待していたのかもしれない。そうした目論見があっさりと裏切られたため、慌てて『世界』は津田に向けて書簡を送り、「御論説の発表の齎す政治的・社会的影響が思はぬ方向に向ひはしないか」、つまり津田の主張が保守派に利用されないかと「憂慮」した。結局、『世界』には津田の論文の後に、「編輯者」名義(おそらく吉野源三郎によるものと思われる)で津田宛の書簡を併録したが、天皇制に反対する読者の憤懣を和らげるには至らず論争が起こってしまった。