W・G・ゼーバルト『空襲と文学』~破壊の自然史はどのように語り出すべきか~
以前筆者はジュディス・バトラーによるイスラエルのジェノサイドに関するコメントを取りあげたが、その中ではキャスターのエイミー・グッドマンがこんな発言もしている。
実際にモーシェ・フェイグリンがイスラエルのテレビに出演した際の映像は、多くの人々の間で話題になっている。
筆者はこの話を聞いたとき、(あからさまに民族主義的な立場をとる者の扇動的な発言とはいえ)イスラエル人にとってはドレスデンは気安く引き合いに出せる出来事なのだと思った。かたや被害者側であるドイツではドレスデン空爆はぎこちない態度でしか話題に出せず、時には記憶に蓋をしたがるような人さえ出る有様にもかかわらず。
1.ドレスデンで何が起こったのか
1945年2月、東部戦線を圧倒的優位で進めていたソ連軍はベルリンまで70kmのところにまで迫っていた。連合軍はこうした進攻を空から援護するために、ドイツ東部の都市の爆撃を計画していた。当初はベルリンへの直接攻撃やライプツィヒなどが候補として挙がっていたようだが、最終的には交通の要衝かつ工業都市であるドレスデンへの爆撃が決定された。また、ヤルタ会談の際にスターリンがチャーチルに対してドレスデンへの攻撃をせっついたことも大きかったようだ。
作戦は2月13日の午後10時にスタートし、イギリス空軍は二手に分かれてドレスデンへの空襲を行っている。第一波では15分の間に881.1トンの爆弾が、翌14日の第二波では1800トン以上の爆弾がそれぞれ投下された。それに続いてアメリカ陸空軍も二度の爆撃を行っており、14日昼には771トンの爆弾を、翌15日には466トンの爆弾をそれぞれ投下している。結果、多くの人々が亡くなり、建造物は瓦礫になり、さらに聖母教会やゼンバー・オーバーのような文化財までも破壊された。
この爆撃で亡くなった人数は当初20万人以上にのぼるだろうとも言われていた。そのためある時期までは、およそ14万人が亡くなったとされる広島の原爆投下を超える非道な攻撃だったと語られたこともあるくらいだ。が、その後研究が進み、正確な死者は2万5千人、どれだけ多く見積もっても3万5千人が最大だろうとの意見で落ち着いているらしい。
そうした誇大的な評価が行われた一因には、(戦中のナチスによるプロバガンダとか、戦後のソ連による西側への批判を目的とした歪曲だとか、そういった要素はもちろんあるにせよ)ドレスデンが歴史のある文化都市であった事実もあげられるだろう。そんな都市が瓦礫の山になってしまうなんて……そういった衝撃が被害を実際よりも大きく見積もる要因になっていたのかもしれない。
また、ドレスデンの人々の中には――それ以前にもアメリカによる二回の空襲があったにもかかわらず――自分たちの都市が丸ごと爆撃されるなんてことはないだろうと捉えていた者も少なくなかったらしい。
そしてこうした衝撃は、空爆を行った側であるイギリスにももたらされた。
最初のころ、『デイリー・テレグラフ』や『デイリー・ミラー』などのような、今日も発行を続けている主要紙はドレスデン爆撃のあらましや攻撃の規模などを数字で伝えているだけだった。だが、16日にアメリカAP通信の記者であるハワード・コーワンが(おそらくは不用意に)「連合軍空軍司令官たちは、ヒトラーの破滅を早める無慈悲な手段として、ドイツの人口密集地に対する意図的なテロ爆撃の採用という待望の決定を下した」と報じたり、被害の全容が明らかになっていったりすると徐々に報道のトーンが変わりはじめ、紙面には「連合軍はドレスデンを……灰にした」だとか「ドレスデンの大惨事は前代未聞である……偉大な一都市がヨーロッパの地図上から消滅した」とかいった文言が並びだすようになった。
空爆の正当性は議会でも議論され、度重なる攻撃にさらされたチャーチルは3月末になると、極秘にこんな電報を送るまでになった。
軍事関係の施設のみを攻撃する――これより前にドレスデンで行われた二度の爆撃はそうした類のものだった――ならまだしも、民間人をも巻き込んだ無差別爆撃が、倫理的に間違っているのは言うまでもない。そのうえ、こうした戦略が果たして軍事的観点から見ても有効なのかさえ疑問符が付く。
この作戦を指揮したアーサー・ハリスは、空軍大臣であるチャールズ・ポータルに向けた手紙に、「我々にとって最後のチャンスです。ほかの何よりも終戦に貢献するでしょう」と書き、さらにわざわざアンダーラインを引いてまで地域爆撃の重要性を強調していたという。国民の被害が大きくなれば国全体の士気は落ち、やがて指導部への不信感が高まった結果反乱がおきて終戦は早まるだろう、というわけだ。
だが、爆撃の数日前にヤルタ会談が行われていることからもうかがえるとおり、すでに連合国側は戦後処理の話ができるほどに勝利をたぐりよせていた。爆撃があろうとなかろうと、ドイツの降伏は時間の問題だっただろう。それに、ドレスデン以前にもイギリス空軍はハンブルグやフランクフルトなどを爆撃していたが、それによってドイツが降伏にまで至らなかったのは言うまでもない。
またA・C・グレイリングによると、大規模空爆そのものの有効性は1944年の時点ですでに疑問視されていたそうだ。第一次大戦で救急看護奉仕隊にも従事したことがある平和活動家ヴィーラ・ブリテンは、『混沌の種――大量爆撃が本当に意味するもの』を出版し、爆撃を正当化する議論に対していくつかの反論を提示しているという。
ドレスデンの1年前に書かれたブリテンの文章は、その後の空爆の無意味さまでも含めて見事なまでに暴いていると言っていいだろう。
何より疑問なのは、ドレスデンの攻撃に使用された爆弾の量である。先ほども述べたが、この爆撃では総計約4000トンもの爆弾が投下されている。いちど百歩譲ってみて、都市を爆撃することで国全体の士気が低くなり終戦が早まる、との議論が正しいとしよう。だとしても、これだけの量の爆弾を投下し、2万5千もの人々を死に至らしめる必要がどこにあるのだろうか、との疑いは依然つきまとう。そうした目的を果たすには、小規模の攻撃でも可能だったのではないだろうか。
ここで我々は、これだけの量の爆弾が終戦を前に余っていた事実に思い至らなければならないだろう。それを用意するためには相当な経済的負担を要する。にもかかわらず、宝の持ち腐れにしていいのだろうか、といった配慮は当然働いたに違いない。
結論を言えば、ドレスデンの爆撃は倫理的だけでなく、戦略的な意味においても正当化しえない作戦なのである。現在の価値基準で過去の出来事を批判するのは難しい、などという言い逃れもできない。諸々の弁明は戦時中にすでに反駁済みだったし、チャーチルのような権力者も爆撃後すぐさま非を認めている。たとえナチスを裏から支えた者たちであろうと、また先に地域爆撃を実行したのはナチスであろうと、やはり軍事にかかわっていない人々を殺すのは犯罪というほかない。大規模爆撃で戦争が短期化するという証拠もない。あまつさえ、この作戦が余った爆弾を消化することを目的とした要らずもがなのものだったとなれば、イギリスやアメリカの罪はなおさら深くなる。
くだんのイスラエル元国会議員が、こうした背景を踏まえたうえでドレスデンに言及したのかは不明である。いずれにせよ、ドレスデンの爆撃は本当に必要だったのだろうか、また果たして正しかったのだろうか、との問題をきっちりと清算してこなかったツケがこんな発言を招いたのは疑いない。また、こうしたツケを払っていないことが、今日のイスラエルによるガザ爆撃を国際社会が有効な形で批判できていないことまで一直線でつながっているという見方も十分にできるだろう。
2.締め出された苦痛の痕跡
ところで、筆者がドレスデン爆撃に興味を抱き始めたのは例の発言を起点としているわけではない。それ以前に、先程も引用したW・G・ゼーバルトが興味深いアプローチをしているのを読んだからこそである。
彼は1997年チューリッヒ大学で連続公演を行い、ドイツの文学において連合軍による空襲がいかに明確な形で記憶されてこなかったかを暴こうとした。
先に断っておくがこれは、連合軍による無数の空襲をドイツの人々が全く語ってこなかった、という話ではない。たとえば先程引用したシンクレア・マッケイによる『ドレスデン爆撃1945』を読めばわかる通り、ドレスデン爆撃に限っただけでも膨大な証言は残っている。
もちろん、ゼーバルト自身もそんな話をしているつもりではない。そうではなく彼が問題にしているのは、諸々の爆撃の記憶をドイツ人たちが「ばくぜんと一般化した形でしか記録」しなかったこと、言いかえれば、皆が皆そろって凡庸な形でしか過去の惨事を語ってこなかったことこそ問題だとしているのだ。
連続講義の内容の一部が様々なメディアに掲載されたのち、ゼーバルトのもとには様々な投書が寄せられてきたという。なかには具体的な書物の名を挙げて、ここに書かれているようにドイツ人の集合的記憶は死滅しているわけではない、と指摘する人もいた。これに対し、ゼーバルトはそれらの批判はそもそも論点が間違えていると応える。
では、ゼーバルトは爆撃を語る文学に何を求めているのだろうか。彼は以下のような叙述こそが、「ドイツの諸都市がいかなるむごたらしい仕方で滅びていったかを示す証左になっている」としている。
トランクがプラットフォームに落ち、中から「ミイラのように縮んだ一体の子供の屍」が出てくる――これは確かにショッキングなエピソードだ。だが、まさかゼーバルトはこれが信じられない話だからこそすばらしい、などとは言いださないだろう。実際、筆者もまたこのエピソードはたしかに衝撃的ではあるが、それ以上に認識をゆさぶるような何かが潜んでいる、と感じざるをえない。
トランクの中から子供の屍が出てくるといった出来事を書いた文章がなぜ、「ドイツの諸都市がいかなるむごたらしい仕方で滅びていったかを示す証左になっている」のか。爆弾によって生じた火災旋風が人々を飲み込んだり、防空壕の中に潜んでいた人々が蒸し焼きに近い状態で亡くなったり、低空飛行する戦闘機が逃げ惑う人々を機銃掃討してきたり、といった無数の証言よりも、レックによって書かれた一文のほうがすぐれて都市の滅亡を証言していると感じられるのはなぜなのか。
それはおそらく、この叙述を読んでもなぜ「半分気の触れたひとりの女が」そんな行為に至ったのかまったくもって理解できず、そういった理解不可能性に触れることによって我々が、空爆がすべての秩序を破壊してしまったのだと実感できるからだろう。
「おもちゃ、爪切りセット、焦げた下着」をトランクの中に入れるのはわかる。しかし、彼女はなぜ「子供の屍」までトランクに入れたのか――これに明確な回答を与えられる者はいないだろう。我々がどのように理解しようとしても、一向につかみ取ることのできない、あたかも蜃気楼にでくわしたような感覚をここでは覚えざるをえない。しかもこれが現実に起こった出来事だからこそ、なおさら我々の理解を強要してくるのである。人間がやった行為なのだから、そこにはなにかしらの意図があるはずである――ふだん我々はそんな態度で現実に臨む。だが、ここではまるで意図がつかめない。意図と行為のあいだをつなぐ紐帯が暴力的な形で断ち切られている。
ひとりの女が落としたトランクの中から、子供と思しき小さな死骸が転がり落ちる――ここにどのような意図を認めればいいか、我々はまるで見当がつかないのだ。
このように、プラットフォームに落ちたトランクの前では、我々の常識は全く通用しない。ゼーバルトの言葉に倣うのならば、この一文は「表現にもたらされるときのかたち」をはみ出している。我々がふつう現実を理解するための枠組を、この一文にはまったくあてはめられないのだ。我々がそんな無力を味わうからこそ、この一文は無数の証言と違って凡庸にはならず、「ドイツの諸都市がいかなるむごたらしい仕方で滅びていったかを示す証左になっている」のだ。
3.廃墟を前にして文学には何ができるのか?
ゼーバルトはその後も、戦後ドイツで書かれた文学作品の中からわずかにしか拾い出せない、「表現にもたらされるときのかたち」をはみ出す叙述を紹介していく。特に彼が称賛を与えてやまないのは、ハンブルグ空襲によってそれまで書き溜めていた原稿が焼失し、一から文章を書き綴っていかなければならなくなったハンス・エーリヒ・ノサックである。
人々がこれまで通りの生活をする様子が「非人間性と紙一重の、倫理的感覚の欠如」を表す有様になってしまう逆転現象――こういった事態を克明に叙述してこそ、空爆によってすべての価値が顚倒してしまったことをこれ以上なく表現できる。ゼーバルトはそう主張し、さらにこういった叙述を積み重ねることこそ「文学的営為を続ける唯一のまっとうな理由である」とまで言い切るのである。
ゼーバルトは語っていないが、こういった「虚飾をまじえぬ客観性に裏打ちされた真実」の「報告」を読まされると、読者である我々の認識が劇的に変化することも見逃してはならないだろう。
先ほども見たように、我々はプラットフォームにトランクを落とした「半分気のふれた女」の話を読むと、どうしようもない理解できなさに捉われる。過去と現在との間に絶対にのりこえられない亀裂が走ったかのような感覚を味わう。そういった断絶を知ってこそ我々はようやく、戦争という人間が起こすにもかかわらず非人間的な結果をもたらしてしまう出来事の一端に触れられるのである。現在の文学を始めとした諸芸術に足りないのは、こういった断絶を前に立ち往生するような感覚を鑑賞者に味わわせるような表現ではないだろうか。
戦争の悲惨さを伝える物語はこの世界にゴマンと溢れている。それらがすべて善意に基づいて語られてきた事実は疑いえない。だが、戦争をこれ以上繰りかえさないようにとの想いがこれほどまでに広がっているにもかかわらず、一向に戦争はなくなる気配がない。無論、戦争を起こすのはたいてい権力者なのだから、すべての責任は彼らにこそ背負わせるべきであろう。しかし一方で筆者は、これまでの回想は果たして本当に戦争をうまく伝えてられていたのだろうか、うまく伝えられなかった結果人々の戦争に対する認識が曖昧なままにとどまってしまい、戦争にむかって無思慮に突っ走る権力者に対抗できないのではないだろうか、との疑念を抱かざるをえない。
戦争は悲惨であり、無意味であり、残酷であり、非人道的であり、絶対悪であり……今日並べたてられる戦争に関する定義の数々を疑う人は、(例のイスラエルの元国会議員のような)よっぽど露悪的な人間でない限りほとんどいないだろう。
だが、そうした誰もが疑いえない定義に寄り掛かった表現ばかりが垂れ流されていると、人々は結局戦争の現実を知らないまま過ごしてしまいかねない。どこかで見たような表現ばかりが世に溢れて、その後登場する表現者も過去の表現を真似するしかなくなって……そういった繰り返しになってしまうと、人々の認識は硬直して、日々変わり続ける現実に対応できなくなる。新たな惨事が生み出されても、過去の使い古された表現に頼ることしかできないので、有効な批判が繰り出せない。だからこそ我々はそんな硬直状態を打ち破る表現を生み出さなければいけない――戦後50年余り経ったところでゼーバルトがパフォーマンス気味に主張しようとしていたのは、そういう話だったのではないだろうか。
4.破壊はどの国民にも占有できない
ところで、ドレスデン爆撃の被害者となったのはドイツ人だけではない。ほかならぬユダヤ人もその場に居合わせていたことは、ぜひとも指摘しておかなければならないだろう。
ヴィクトール・クレンペラーはその代表例であり、ナチス期のドレスデンの在り様を伝えてくれる貴重な証言者だ。クレンペラーはプロテスタントに改宗し、第一次世界大戦にも従軍するなど積極的にドイツに同化しようとしていたユダヤ人だった。しかも彼は民主主義に懐疑的で、一度目の大戦が終結した後に成立したワイマール共和国についてもこんな言葉を残している。「どのような形であれ民主主義は専制よりも愚かしい。愚かしいという言葉が不適切なら、うそっぱちだらけで、下品、無能、無意味、理不尽といってもよい」。
皮肉なことに、ナチスが実権を握ると彼は他のユダヤ人と同様に大学教授の職を失った。クレンペラーは「アーリア人」の女性と結婚していたため強制収容所への送還こそ免れていたものの、迫害はやむことなく続き、彼は自らが愛着を寄せた国に裏切られながら12年の時を過ごさなければいけなかった。
クレンペラーの死後刊行された日記の中には当然、1945年の爆撃の記載も残されている。ゼーバルト曰く「型どおりの表現の域を出るには至っていない」とのことだが、やはりこの空爆でユダヤ人も被害を受けた証拠を残してくれた資料であることは疑いえない。
特に、空爆直後に彼が同じユダヤ人のアイゼンマンと慌ただしく話を交わした様子を書き留めたくだりは注目に値する。
空爆から一夜明けた後、妻と再会したクレンペラーはアイゼンマンとも再会する。
クレンペラーはアイゼンマンと2月20日まで共に行動していたようだが、その間にアイゼンマンの家族が見つかったという記述はない。その後、クレンペラーは汽車に乗ってドレスデンから脱出したが、以降アイゼンマンの姿は家族の安否が確認できないままに日記から消える。終戦とともにクレンペラーは「破壊されたドレスデンに徒歩で無事戻り着いた」というが、その後日記は終わり、やはりアイゼンマンの家族の安否については不明瞭なままだ。
クレンペラーの日記の日本語版解説を務めている石田勇治は以下のように記している。
「四六七五人」いたユダヤ人が最終的には「一三七人」にまで減った。その事実はナチスの罪の莫大さを示すゆるぎない証拠である。
だが一方で、「四五年二月」に「一七四人」いたユダヤ人が、戦後(すなわち1945年5月のどこかの時点で)「一三七人」に減っていたという事実も見逃してはならないだろう。もちろん、すべてのユダヤ人が空襲の犠牲になったとは限らないだろうが、幾人かはやはり2月13日から15日にかけて亡くなったとみていいはずだ。
こうした歴史があるにもかかわらず、イスラエル人(すなわちユダヤ人のための国家に属する人間)がガザの殲滅爆撃を提案するに際して、ドレスデンを持ち出すとはなんと馬鹿馬鹿しい話だろうか。あえて喩えるならば、韓国人や北朝鮮人が原子爆弾の投下を笠に着るようなものか――その犠牲者の中には朝鮮人も含まれていたにもかかわらず。
そんな思いつきが浮かんでいたところ、破廉恥な人間は残念ながらどこにでもいるもので、こんな文言を見つけてしまった。
もっとも、馬鹿と鋏は使いようという言葉が示すとおり、阿呆らしい発言からも教訓は得られるものだ。すなわち、空爆のようなあらゆる人間をひとしなみに犠牲者にしてしまう非道な出来事を、被害者であれ加害者であれ、特定の国民だけが所有する記憶とみなすことはできない、という教訓が。
広島と長崎に落ちた原爆を日本人のみの記憶とみなすことはできないし、ドレスデンの空爆もまたドイツ人のみの記憶とみなすこともできない。同じように、原爆をアメリカ人や韓国人が得々と語ることはできないし、ドレスデン爆撃をイギリス人やイスラエル人が得々と語ることもできない。そういった莫大な被害は、一つの国だけに記憶することが許された出来事ではないのだ。むしろ、人類が共有すべき記憶として一つ一つの出来事を分かち合わなければいけないのである(もちろん、そうした被害をもたらしたのが誰か、と責任者を追及することも忘れてはいけない)。
ゼーバルトが述べたように、人々は絶大なる破壊に見舞われるとなぜか凡庸な形でしかその記憶について語れなくなってしまうのならば、なおさらそれらの記憶を共有する必要性は高まる。どうしてそのようにしか語れないのか、という問題は世界中の人々が参加して探求しなければいけないし、どうしたら従来の枠組を越えた語りをもたらせるのか、という課題は世界中の人々が参加して解決しなければいけない。
ゼーバルトは、第二次世界大戦中にイギリスで空爆の戦略的分析も行っていたソリー・ズッカーマンについてこう書いている。
これを受けて、ゼーバルトはまるでその課題を引き継ぐと表明するかのように「破壊の博物誌はどのように語り出すべきだったのだろう」と続けている。このように破壊に関する不十分な記憶を補う作業は、埋もれた記録を発掘するだけでなく、誰かがしたためられなかった文章を代わりに引き継いで書くことでもあろう。ゼーバルトがそのように意図していたことは、本書の英訳が『On the Nature History of Destruction』と題されているあたりからも十分にうかがえる。
残念ながらゼーバルトはこの連続講演を行った4年後、交通事故で亡くなっている。彼の小説群そのものが「破壊の博物誌」ないし「破壊の自然史」と形容すべき物語ばかりで構成されているにせよ、やはり志半ば、との印象はぬぐいがたい。それに加えて、不幸な話だがゼーバルトが亡くなった後もこの世界には依然として破壊が横溢していると言わざるを得ない。我々は彼から「破壊の自然史」のプロジェクトを引き継ぎつつ、現在進行形で続いているガザの空爆も含めて、諸々の破壊の有様をこれまでにない表現で記録していく必要があるのではないだろうか。
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