W・G・ゼーバルト『空襲と文学』~破壊の自然史はどのように語り出すべきか~

 以前筆者はジュディス・バトラーによるイスラエルのジェノサイドに関するコメントを取りあげたが、その中ではキャスターのエイミー・グッドマンがこんな発言もしている。

 イスラエルの政治家モーシェ・フェイグリンは「ドレスデン爆撃をガザに」と要求しています。第二次世界大戦のさなかにおよそ2万5千人の人々が殺された、あのドレスデン空爆を参照しながら。

https://www.democracynow.org/2023/10/26/judith_butler_ceasefire_gaza_israel

 実際にモーシェ・フェイグリンがイスラエルのテレビに出演した際の映像は、多くの人々の間で話題になっている。

私たちはまだ、聖書的な方法で復讐していない……ガザをすぐに灰燼に帰していない。とてつもない人類の危機を作り出せ。地域全体を平らにするのだ。ガザに石の上に石を残してはならない。ガザはドレスデンのようになる必要がある。今すぐガザを消滅させよ!

 筆者はこの話を聞いたとき、(あからさまに民族主義的な立場をとる者の扇動的な発言とはいえ)イスラエル人にとってはドレスデンは気安く引き合いに出せる出来事なのだと思った。かたや被害者側であるドイツではドレスデン空爆はぎこちない態度でしか話題に出せず、時には記憶に蓋をしたがるような人さえ出る有様にもかかわらず。

1.ドレスデンで何が起こったのか

 1945年2月、東部戦線を圧倒的優位で進めていたソ連軍はベルリンまで70kmのところにまで迫っていた。連合軍はこうした進攻を空から援護するために、ドイツ東部の都市の爆撃を計画していた。当初はベルリンへの直接攻撃やライプツィヒなどが候補として挙がっていたようだが、最終的には交通の要衝かつ工業都市であるドレスデンへの爆撃が決定された。また、ヤルタ会談の際にスターリンがチャーチルに対してドレスデンへの攻撃をせっついたことも大きかったようだ。
 作戦は2月13日の午後10時にスタートし、イギリス空軍は二手に分かれてドレスデンへの空襲を行っている。第一波では15分の間に881.1トンの爆弾が、翌14日の第二波では1800トン以上の爆弾がそれぞれ投下された。それに続いてアメリカ陸空軍も二度の爆撃を行っており、14日昼には771トンの爆弾を、翌15日には466トンの爆弾をそれぞれ投下している。結果、多くの人々が亡くなり、建造物は瓦礫になり、さらに聖母教会やゼンバー・オーバーのような文化財までも破壊された。
 この爆撃で亡くなった人数は当初20万人以上にのぼるだろうとも言われていた。そのためある時期までは、およそ14万人が亡くなったとされる広島の原爆投下を超える非道な攻撃だったと語られたこともあるくらいだ。が、その後研究が進み、正確な死者は2万5千人、どれだけ多く見積もっても3万5千人が最大だろうとの意見で落ち着いているらしい。
 そうした誇大的な評価が行われた一因には、(戦中のナチスによるプロバガンダとか、戦後のソ連による西側への批判を目的とした歪曲だとか、そういった要素はもちろんあるにせよ)ドレスデンが歴史のある文化都市であった事実もあげられるだろう。そんな都市が瓦礫の山になってしまうなんて……そういった衝撃が被害を実際よりも大きく見積もる要因になっていたのかもしれない。
 また、ドレスデンの人々の中には――それ以前にもアメリカによる二回の空襲があったにもかかわらず――自分たちの都市が丸ごと爆撃されるなんてことはないだろうと捉えていた者も少なくなかったらしい。

ギーゼラはのちに、空襲警報は単純にドレスデンの生活の一部として受け入れられていたと回想している。彼女はそれを空襲と結びつけて考えてはいなかった。夜間の警報は皆誤りだと知っていたからである。彼女は一〇歳であっても、戦争が何をもたらすかに気づいていた。ラジオと新聞から、連合軍の爆撃機がハンブルグやマンハイムのようなほかのドイツの都市を効果的に破壊したことを知った。実際、一九四五年以前、爆撃機軍団がフランクフルトやハノーファーのような都市を容赦なく攻撃していた時、ドレスデンは、東部からでなく西部から、煙る瓦礫の山と化した町や通りから避難して来る人々を保護する場所だった。だが、彼女の記憶によれば、ドレスデン市民の間全般に何らかの心理的な遮蔽が見られた。「私たちの都市が残酷で無意味な爆撃の犠牲になるとは、誰にも想像できませんでした」。

シンクレア・マッケイ『ドレスデン爆撃1945』白水社p190-191

 そしてこうした衝撃は、空爆を行った側であるイギリスにももたらされた。
 最初のころ、『デイリー・テレグラフ』や『デイリー・ミラー』などのような、今日も発行を続けている主要紙はドレスデン爆撃のあらましや攻撃の規模などを数字で伝えているだけだった。だが、16日にアメリカAP通信の記者であるハワード・コーワンが(おそらくは不用意に)「連合軍空軍司令官たちは、ヒトラーの破滅を早める無慈悲な手段として、ドイツの人口密集地に対する意図的なテロ爆撃の採用という待望の決定を下した」と報じたり、被害の全容が明らかになっていったりすると徐々に報道のトーンが変わりはじめ、紙面には「連合軍はドレスデンを……灰にした」だとか「ドレスデンの大惨事は前代未聞である……偉大な一都市がヨーロッパの地図上から消滅した」とかいった文言が並びだすようになった。
 空爆の正当性は議会でも議論され、度重なる攻撃にさらされたチャーチルは3月末になると、極秘にこんな電報を送るまでになった。

 ドイツの都市を、単に恐怖を増大させるために爆撃するという問題は(ほかの口実はあるにせよ)見直されるべき時が来たようです。さもなければ、我々は隅から隅まで廃墟と化した土地を支配することになるでしょう。たとえば、われわれはドイツから住宅資材を調達することができなくなります。ドレスデンの破壊は連合軍の爆撃に対する重大な疑問として残っています。私は、軍事目標は今後、敵の利益よりも自国の利益を目的にしながらより厳密に検討しなければいけないとの意見を持っています。外務大臣はこのテーマについて話してくれましたが、私は、当面の戦闘区域の背後にある石油や通信といった軍事目標により正確に集中する必要性を感じています。単なる恐怖行為や無茶苦茶な破壊行為のためではなく(いかに印象的なものであろうとも)。

https://winstonchurchill.org/publications/finest-hour/finest-hour-127/education-bombing-germany-again/

 軍事関係の施設のみを攻撃する――これより前にドレスデンで行われた二度の爆撃はそうした類のものだった――ならまだしも、民間人をも巻き込んだ無差別爆撃が、倫理的に間違っているのは言うまでもない。そのうえ、こうした戦略が果たして軍事的観点から見ても有効なのかさえ疑問符が付く。
 この作戦を指揮したアーサー・ハリスは、空軍大臣であるチャールズ・ポータルに向けた手紙に、「我々にとって最後のチャンスです。ほかの何よりも終戦に貢献するでしょう」と書き、さらにわざわざアンダーラインを引いてまで地域爆撃の重要性を強調していたという。国民の被害が大きくなれば国全体の士気は落ち、やがて指導部への不信感が高まった結果反乱がおきて終戦は早まるだろう、というわけだ。
 だが、爆撃の数日前にヤルタ会談が行われていることからもうかがえるとおり、すでに連合国側は戦後処理の話ができるほどに勝利をたぐりよせていた。爆撃があろうとなかろうと、ドイツの降伏は時間の問題だっただろう。それに、ドレスデン以前にもイギリス空軍はハンブルグやフランクフルトなどを爆撃していたが、それによってドイツが降伏にまで至らなかったのは言うまでもない。
 またA・C・グレイリングによると、大規模空爆そのものの有効性は1944年の時点ですでに疑問視されていたそうだ。第一次大戦で救急看護奉仕隊にも従事したことがある平和活動家ヴィーラ・ブリテンは、『混沌の種――大量爆撃が本当に意味するもの』を出版し、爆撃を正当化する議論に対していくつかの反論を提示しているという。

 爆撃が戦争を短期化するという主張に対する第二の答えとして、戦争の「短期化」という概念は、この状況下では誤解を招くとブリテンは言う。戦争によって引き起こされる破壊や苦しみが制限または極小されるように思わせるが、「途方もない規模の集中的な攻撃を数分間行う方が、近代戦の大規模な戦闘を二、三週間続ける場合よりも多数の死傷者を出すかもしれない」のである。しかも、こうしたことが「かけがえのない文化遺産の破壊に加えて」行われるとブリテンは続ける。「何世紀にもわたる人類の創造的な努力を象徴する記念建造物や重要美術品や文書」も破壊されるのだ。「実のところ、人口の集中する地域への大量爆撃は、前線の爆撃による大量殺人と苦難と物質的破壊を加速させたものなのである
 第三の答えとして、大量爆撃が敵国側の反乱や士気の喪失を招くことはないとブリテンは主張する。犠牲者は激しい衝撃を受けて疲労しきっており、生き延びることで精一杯なため、反政府革命を起こす余力がない。「しかし立ち直った時には、少なくとも大多数が復讐心を招くと思われる……したがって、われわれはヨーロッパに第三次世界大戦への心理的基盤を着実に築いていることになる」

A・C・グレイリング『大空襲と原爆は本当に必要だったのか』河出書房新社p234-235(原文の傍点を強調に変更)

 ドレスデンの1年前に書かれたブリテンの文章は、その後の空爆の無意味さまでも含めて見事なまでに暴いていると言っていいだろう。
 何より疑問なのは、ドレスデンの攻撃に使用された爆弾の量である。先ほども述べたが、この爆撃では総計約4000トンもの爆弾が投下されている。いちど百歩譲ってみて、都市を爆撃することで国全体の士気が低くなり終戦が早まる、との議論が正しいとしよう。だとしても、これだけの量の爆弾を投下し、2万5千もの人々を死に至らしめる必要がどこにあるのだろうか、との疑いは依然つきまとう。そうした目的を果たすには、小規模の攻撃でも可能だったのではないだろうか。
 ここで我々は、これだけの量の爆弾が終戦を前に余っていた事実に思い至らなければならないだろう。それを用意するためには相当な経済的負担を要する。にもかかわらず、宝の持ち腐れにしていいのだろうか、といった配慮は当然働いたに違いない。

とすれば詮ずるところ、ここには公式の歴史記述にはほとんど出てこない別の要因があったのである。一つには物資・組織ともに、銃弾爆撃の事業は、A・J・P・テイラーの計算によるとイギリスにおける戦争物資生産高の三分の一を占め、それ自体すでに大きく弾みがついていた。この方針を短期間で転換したり規模を収縮したりすることは論外だったのである。ましてや三年がかりで生産設備や産業基盤がおおはばに拡充された結果、事業は最盛期を迎えていた。破壊の能力はいわば頂点に達していたのである。せっかく生産した物資・機械・高価な貨物を使いもせずにイースト・アングリアの飛行場に放置しておくことなど、健全な経済感覚の許すところではなかったというわけだ。かてて加えて、大陸にある敵との接触がほかになかった時期に、連日の壊滅報道がもつプロパガンダとしての価値はイギリスの戦意高揚にとって不可欠であり、これが爆撃続行の決定打となった。こうした理由から、作戦の無意味さがすでに明白になった後も、都市爆撃戦略を頑として主張したアーサー・ハリス卿(爆撃司令部総司令官)の罷免は問題にされなかったのであろう。

W・G・ゼーバルト「空襲と文学」『空襲と文学』p23-24

 結論を言えば、ドレスデンの爆撃は倫理的だけでなく、戦略的な意味においても正当化しえない作戦なのである。現在の価値基準で過去の出来事を批判するのは難しい、などという言い逃れもできない。諸々の弁明は戦時中にすでに反駁済みだったし、チャーチルのような権力者も爆撃後すぐさま非を認めている。たとえナチスを裏から支えた者たちであろうと、また先に地域爆撃を実行したのはナチスであろうと、やはり軍事にかかわっていない人々を殺すのは犯罪というほかない。大規模爆撃で戦争が短期化するという証拠もない。あまつさえ、この作戦が余った爆弾を消化することを目的とした要らずもがなのものだったとなれば、イギリスやアメリカの罪はなおさら深くなる。
 くだんのイスラエル元国会議員が、こうした背景を踏まえたうえでドレスデンに言及したのかは不明である。いずれにせよ、ドレスデンの爆撃は本当に必要だったのだろうか、また果たして正しかったのだろうか、との問題をきっちりと清算してこなかったツケがこんな発言を招いたのは疑いない。また、こうしたツケを払っていないことが、今日のイスラエルによるガザ爆撃を国際社会が有効な形で批判できていないことまで一直線でつながっているという見方も十分にできるだろう。

2.締め出された苦痛の痕跡

 ところで、筆者がドレスデン爆撃に興味を抱き始めたのは例の発言を起点としているわけではない。それ以前に、先程も引用したW・G・ゼーバルトが興味深いアプローチをしているのを読んだからこそである。

 彼は1997年チューリッヒ大学で連続公演を行い、ドイツの文学において連合軍による空襲がいかに明確な形で記憶されてこなかったかを暴こうとした。

歴史上類のない殲滅作戦は、戦後再出発を図った国民国家の年代記には、ばくぜんと一般化した形でしか記録されなかった。それは集合的意識になんの苦痛の痕跡もとどめていないかのように見える。当事者による回想からもほとんどが締め出されている。わが国の精神状況をめぐって起こる種々様々な議論においても、一度として正面から取りあげられたためしはない。アレクサンダー・クルーゲがのちに述べたように、この破壊は、一度としておおやけに解読される記号にはならなかったのだ。――いかにも倒錯した事態ではないだろうか。いかに数あまたの人々が、来る日も来る日も、何日、何か月、何年となく軍事作戦による爆撃に身を曝し、戦後にまたがるいかに長期間、肯定的な生活感情をことごとく圧殺する(としか思えない)現実に直面していたかに思いを馳せるならである。

同p11-12

 先に断っておくがこれは、連合軍による無数の空襲をドイツの人々が全く語ってこなかった、という話ではない。たとえば先程引用したシンクレア・マッケイによる『ドレスデン爆撃1945』を読めばわかる通り、ドレスデン爆撃に限っただけでも膨大な証言は残っている。
 もちろん、ゼーバルト自身もそんな話をしているつもりではない。そうではなく彼が問題にしているのは、諸々の爆撃の記憶をドイツ人たちが「ばくぜんと一般化した形でしか記録」しなかったこと、言いかえれば、皆が皆そろって凡庸な形でしか過去の惨事を語ってこなかったことこそ問題だとしているのだ。
 連続講義の内容の一部が様々なメディアに掲載されたのち、ゼーバルトのもとには様々な投書が寄せられてきたという。なかには具体的な書物の名を挙げて、ここに書かれているようにドイツ人の集合的記憶は死滅しているわけではない、と指摘する人もいた。これに対し、ゼーバルトはそれらの批判はそもそも論点が間違えていると応える。

しかしインタビューで表出されたとおり、私は時代の証言者の脳裏にさまざまなことにしまわれていること自体に疑義をはさむつもりは毛頭ない。ただ一方で驚かずにいられないのは、インタビューのほとんどがいかにも紋切り型の語り口に終始していることだった。いわゆる体験語りの最大の問題は、内容の不十分さ、信頼のおけなさ、奇妙な空疎さ、類型的な語り口や同じことの反復に終始しがちなことである。〔……〕繰り返すが、破壊の夜々の記憶は間違いなくあったし、いまもあることを私は疑わない。ただ文学を含めて、表現にもたらされるときのかたちフォルムに信を置くことができないのだ。

同p76

 では、ゼーバルトは爆撃を語る文学に何を求めているのだろうか。彼は以下のような叙述こそが、「ドイツの諸都市がいかなるむごたらしい仕方で滅びていったかを示す証左になっている」としている。

フリードリヒ・レックは、先に引用した一九四三年八月二十日付けの日記のくだりで、そうした避難民四十人から五十人がオーバーバイエルン地方のある駅で列車にむかって殺到した、と書いている。そのとき、段ボール製の一個のトランクが「プラットフォームに落ち、はじけて中身が飛び出した。おもちゃ、爪切りセット、焦げた下着。そして最後に焼けてミイラのように縮んだ一体の子供の屍。半分気の触れたひとりの女が、わずか数日前まで恙なかった過去の生活の遺物として、持ち運んでいたものだった」。この無残な情景がレックのでっちあげであるとは考えにくい。おそらくはこのような、生き延びる遮二無二の意志と鉛のような無気力のあいだを行き来していた錯乱した避難民の姿を通じて、ハンブルク壊滅の恐ろしい知らせはドイツ全土に広められたのであろう。

同p32

 トランクがプラットフォームに落ち、中から「ミイラのように縮んだ一体の子供の屍」が出てくる――これは確かにショッキングなエピソードだ。だが、まさかゼーバルトはこれが信じられない話だからこそすばらしい、などとは言いださないだろう。実際、筆者もまたこのエピソードはたしかに衝撃的ではあるが、それ以上に認識をゆさぶるような何かが潜んでいる、と感じざるをえない。
 トランクの中から子供の屍が出てくるといった出来事を書いた文章がなぜ、「ドイツの諸都市がいかなるむごたらしい仕方で滅びていったかを示す証左になっている」のか。爆弾によって生じた火災旋風が人々を飲み込んだり、防空壕の中に潜んでいた人々が蒸し焼きに近い状態で亡くなったり、低空飛行する戦闘機が逃げ惑う人々を機銃掃討してきたり、といった無数の証言よりも、レックによって書かれた一文のほうがすぐれて都市の滅亡を証言していると感じられるのはなぜなのか。
 それはおそらく、この叙述を読んでもなぜ「半分気の触れたひとりの女が」そんな行為に至ったのかまったくもって理解できず、そういった理解不可能性に触れることによって我々が、空爆がすべての秩序を破壊してしまったのだと実感できるからだろう。
 「おもちゃ、爪切りセット、焦げた下着」をトランクの中に入れるのはわかる。しかし、彼女はなぜ「子供の屍」までトランクに入れたのか――これに明確な回答を与えられる者はいないだろう。我々がどのように理解しようとしても、一向につかみ取ることのできない、あたかも蜃気楼にでくわしたような感覚をここでは覚えざるをえない。しかもこれが現実に起こった出来事だからこそ、なおさら我々の理解を強要してくるのである。人間がやった行為なのだから、そこにはなにかしらの意図があるはずである――ふだん我々はそんな態度で現実に臨む。だが、ここではまるで意図がつかめない。意図と行為のあいだをつなぐ紐帯が暴力的な形で断ち切られている。
 ひとりの女が落としたトランクの中から、子供と思しき小さな死骸が転がり落ちる――ここにどのような意図を認めればいいか、我々はまるで見当がつかないのだ。
 このように、プラットフォームに落ちたトランクの前では、我々の常識は全く通用しない。ゼーバルトの言葉に倣うのならば、この一文は「表現にもたらされるときのかたちフォルム」をはみ出している。我々がふつう現実を理解するための枠組を、この一文にはまったくあてはめられないのだ。我々がそんな無力を味わうからこそ、この一文は無数の証言と違って凡庸にはならず、「ドイツの諸都市がいかなるむごたらしい仕方で滅びていったかを示す証左になっている」のだ。

3.廃墟を前にして文学には何ができるのか?

 ゼーバルトはその後も、戦後ドイツで書かれた文学作品の中からわずかにしか拾い出せない、「表現にもたらされるときのかたちフォルム」をはみ出す叙述を紹介していく。特に彼が称賛を与えてやまないのは、ハンブルグ空襲によってそれまで書き溜めていた原稿が焼失し、一から文章を書き綴っていかなければならなくなったハンス・エーリヒ・ノサックである。

ノサックは、空襲から数日後、ハンブルグに戻った時にひとりの女を見かけた。その女は、「ひとつだけ壊されずに、瓦礫の荒れ地のあいだにぽつんと立っている家で」窓をふいていた。「気のふれた女を見ているのだと思った」とノサックは記して、こう続ける。「おなじことは、子供たちが小さな前庭を掃除し、熊手でならしているのを見た時にも起きた。それは、とても理解できないことだったので、他の人々に、それがふしぎなことででもあるかのように言った。人々はバルコニーにすわってコーヒーを飲んでいた。それはまるで映画のようであり、元来あり得ないことであった」。罹災者の立場としては当然のことだが、ノサックは非人間性と紙一重の、倫理的感覚の欠如を目の当たりにして当惑したのである。隣の虫の巣が壊されたからといって、虫の群れが粛然として喪に服するだろうとは誰も思わない。ところがそれが人間となると、多少とも共感があってしかるべきだと期待するのだ。その意味で、一九四三年末、ハンブルグのベランダで小市民的な昼下がりのコーヒーの習慣が続けられていたことには、背筋の寒くなるような出鱈目さと破廉恥さがある。

同p42

 人々がこれまで通りの生活をする様子が「非人間性と紙一重の、倫理的感覚の欠如」を表す有様になってしまう逆転現象――こういった事態を克明に叙述してこそ、空爆によってすべての価値が顚倒してしまったことをこれ以上なく表現できる。ゼーバルトはそう主張し、さらにこういった叙述を積み重ねることこそ「文学的営為を続ける唯一のまっとうな理由である」とまで言い切るのである。

エリアス・カネッティは、『断ち切られた未来』中の一篇、蜂谷道彦の『ヒロシマ日記』についての論考において、これほどの規模の惨禍において生きのこるとは何を意味するだろうか、と自らに問うたうえで、こう答えを出している。それは蜂谷のしたためたような、厳密さと責任感とを特徴とする文章からのみ読み取れるものである、と。カネッティは書く。「今日文学のどのような形式が必須であるか、しかも、ものを知りものを見る人間にとって必須であるかということについて熟考することに意義があるとすれば、この日記がまさしくそれである」。おなじことは、ノサックがハンブルク市滅亡を描いた、彼の創作群のなかでも特異な位置を占める報告についてもいえる。少なくともかなりの部分にわたっての虚飾をまじえぬ客観性に裏打ちされた真実という理念が、激甚な破壊を前に文学的営為を続ける唯一のまっとうな理由であることがわかるのだ。

同p52

 ゼーバルトは語っていないが、こういった「虚飾をまじえぬ客観性に裏打ちされた真実」の「報告」を読まされると、読者である我々の認識が劇的に変化することも見逃してはならないだろう。
 先ほども見たように、我々はプラットフォームにトランクを落とした「半分気のふれた女」の話を読むと、どうしようもない理解できなさに捉われる。過去と現在との間に絶対にのりこえられない亀裂が走ったかのような感覚を味わう。そういった断絶を知ってこそ我々はようやく、戦争という人間が起こすにもかかわらず非人間的な結果をもたらしてしまう出来事の一端に触れられるのである。現在の文学を始めとした諸芸術に足りないのは、こういった断絶を前に立ち往生するような感覚を鑑賞者に味わわせるような表現ではないだろうか。
 戦争の悲惨さを伝える物語はこの世界にゴマンと溢れている。それらがすべて善意に基づいて語られてきた事実は疑いえない。だが、戦争をこれ以上繰りかえさないようにとの想いがこれほどまでに広がっているにもかかわらず、一向に戦争はなくなる気配がない。無論、戦争を起こすのはたいてい権力者なのだから、すべての責任は彼らにこそ背負わせるべきであろう。しかし一方で筆者は、これまでの回想は果たして本当に戦争をうまく伝えてられていたのだろうか、うまく伝えられなかった結果人々の戦争に対する認識が曖昧なままにとどまってしまい、戦争にむかって無思慮に突っ走る権力者に対抗できないのではないだろうか、との疑念を抱かざるをえない。
 戦争は悲惨であり、無意味であり、残酷であり、非人道的であり、絶対悪であり……今日並べたてられる戦争に関する定義の数々を疑う人は、(例のイスラエルの元国会議員のような)よっぽど露悪的な人間でない限りほとんどいないだろう。
 だが、そうした誰もが疑いえない定義に寄り掛かった表現ばかりが垂れ流されていると、人々は結局戦争の現実を知らないまま過ごしてしまいかねない。どこかで見たような表現ばかりが世に溢れて、その後登場する表現者も過去の表現を真似するしかなくなって……そういった繰り返しになってしまうと、人々の認識は硬直して、日々変わり続ける現実に対応できなくなる。新たな惨事が生み出されても、過去の使い古された表現に頼ることしかできないので、有効な批判が繰り出せない。だからこそ我々はそんな硬直状態を打ち破る表現を生み出さなければいけない――戦後50年余り経ったところでゼーバルトがパフォーマンス気味に主張しようとしていたのは、そういう話だったのではないだろうか。

4.破壊はどの国民にも占有できない

 ところで、ドレスデン爆撃の被害者となったのはドイツ人だけではない。ほかならぬユダヤ人もその場に居合わせていたことは、ぜひとも指摘しておかなければならないだろう。

 ヴィクトール・クレンペラーはその代表例であり、ナチス期のドレスデンの在り様を伝えてくれる貴重な証言者だ。クレンペラーはプロテスタントに改宗し、第一次世界大戦にも従軍するなど積極的にドイツに同化しようとしていたユダヤ人だった。しかも彼は民主主義に懐疑的で、一度目の大戦が終結した後に成立したワイマール共和国についてもこんな言葉を残している。「どのような形であれ民主主義は専制よりも愚かしい。愚かしいという言葉が不適切なら、うそっぱちだらけで、下品、無能、無意味、理不尽といってもよい」。
 皮肉なことに、ナチスが実権を握ると彼は他のユダヤ人と同様に大学教授の職を失った。クレンペラーは「アーリア人」の女性と結婚していたため強制収容所への送還こそ免れていたものの、迫害はやむことなく続き、彼は自らが愛着を寄せた国に裏切られながら12年の時を過ごさなければいけなかった。
 クレンペラーの死後刊行された日記の中には当然、1945年の爆撃の記載も残されている。ゼーバルト曰く「型どおりの表現の域を出るには至っていない」とのことだが、やはりこの空爆でユダヤ人も被害を受けた証拠を残してくれた資料であることは疑いえない。
 特に、空爆直後に彼が同じユダヤ人のアイゼンマンと慌ただしく話を交わした様子を書き留めたくだりは注目に値する。

 一瞬後にはもう丸屋根(か、あるいは手すりか段か)をよじ登って越え、外へ。弾孔に落ち込んだまましばらく地面にはいつくばっていた。そこをよじ登って電話ボックスのなかへ。誰かが呼んだ。「こっちへ、クレンペラーさん!」。ボックス横の破壊された公衆電話のなかに、ショルシーを腕にアイゼンマン(シニア)。「妻がどこに行ったのか……」「私も妻と子どもたちがどこにいるかわかりません」「熱い、板張りが燃え始めた……あっち、帝国銀行のホールへ!」。

ヴィクトール・クレンペラー『私は証言する』p305

 空爆から一夜明けた後、妻と再会したクレンペラーはアイゼンマンとも再会する。

 再会を喜び合っているちょうどその時、ショルシーをつれたアイゼンマンが現われた。家族はまだ見つからぬという。すっかり弱った彼は、「もうすぐこの子が朝ごはんを欲しがるだろうけど――やるものなんかありゃしない」と泣き出した。

同p309

 クレンペラーはアイゼンマンと2月20日まで共に行動していたようだが、その間にアイゼンマンの家族が見つかったという記述はない。その後、クレンペラーは汽車に乗ってドレスデンから脱出したが、以降アイゼンマンの姿は家族の安否が確認できないままに日記から消える。終戦とともにクレンペラーは「破壊されたドレスデンに徒歩で無事戻り着いた」というが、その後日記は終わり、やはりアイゼンマンの家族の安否については不明瞭なままだ。
 クレンペラーの日記の日本語版解説を務めている石田勇治は以下のように記している。

クレンペラーが住んだドレスデンには、一九三三年には四六七五人のユダヤ教徒がいた。だが三九年にはナチによりユダヤ人と定義された人を含めて一二六五人まで減少した。四二年一月に行われた最初の「強制疎開」で約二四〇人がリガへ移送され、その後、現地で殺害された。四二年七月から四四年一月の間に、テレージエンシュタット強制収容所に向かう「強制疎開」が少なくとも十回行われた。四三年三月にはアウシュヴィッツへ三五〇人が移送された。クレンペラーは何度も移送の現場に立ち会ったが、リストにのったユダヤ人はトラックでドレステン駅に連行され、そこから貨物列車に押し込められて「死の収容所」へ運ばれたのである。四五年二月には「ドレスデン外への勤労動員」の名目で移送の手筈が整えられたが、この時点でドレスデンに残っていたユダヤ人はクレンペラーを含めてわずかに一七四人。幸いにもこの移送は空襲でドレスデンが破壊されたため実行されなかったから、空襲を生き延びることのできたユダヤ人は、ナチ国家の崩壊を目の当たりにしたかもしれない。いずれにせよ、戦争直後のドレスデンで生存が確認されたユダヤ人は一三七人にすぎない。

石田勇治「ヴィクトール・クレンペラーとその時代」同書所収p350

 「四六七五人」いたユダヤ人が最終的には「一三七人」にまで減った。その事実はナチスの罪の莫大さを示すゆるぎない証拠である。
 だが一方で、「四五年二月」に「一七四人」いたユダヤ人が、戦後(すなわち1945年5月のどこかの時点で)「一三七人」に減っていたという事実も見逃してはならないだろう。もちろん、すべてのユダヤ人が空襲の犠牲になったとは限らないだろうが、幾人かはやはり2月13日から15日にかけて亡くなったとみていいはずだ。

 こうした歴史があるにもかかわらず、イスラエル人(すなわちユダヤ人のための国家に属する人間)がガザの殲滅爆撃を提案するに際して、ドレスデンを持ち出すとはなんと馬鹿馬鹿しい話だろうか。あえて喩えるならば、韓国人や北朝鮮人が原子爆弾の投下を笠に着るようなものか――その犠牲者の中には朝鮮人も含まれていたにもかかわらず。
 そんな思いつきが浮かんでいたところ、破廉恥な人間は残念ながらどこにでもいるもので、こんな文言を見つけてしまった。

 神は人間の手を借りて人間の悪行を懲罰したりする。最も苛酷な刑罰が大規模空襲だ。歴史には代表的な神の懲罰が2つある。第2次世界大戦が終結に向かった1945年2月、ドイツのドレスデンが火に焼けた。6カ月後に日本の広島と長崎に原子爆弾が落ちた。

 これらの爆撃は神の懲罰であり人間の復讐だった。ドレスデンはナチに虐殺されたユダヤ人の復讐だった。広島と長崎は日本の軍国主義の犠牲になったアジア人の復讐だった。特に731部隊の生体実験に動員された丸太の復讐であった。

キム・ジン「【時視各角】安倍、丸太の復讐を忘れたか」中央日報2013年5月20日

 もっとも、馬鹿と鋏は使いようという言葉が示すとおり、阿呆らしい発言からも教訓は得られるものだ。すなわち、空爆のようなあらゆる人間をひとしなみに犠牲者にしてしまう非道な出来事を、被害者であれ加害者であれ、特定の国民だけが所有する記憶とみなすことはできない、という教訓が。
 広島と長崎に落ちた原爆を日本人のみの記憶とみなすことはできないし、ドレスデンの空爆もまたドイツ人のみの記憶とみなすこともできない。同じように、原爆をアメリカ人や韓国人が得々と語ることはできないし、ドレスデン爆撃をイギリス人やイスラエル人が得々と語ることもできない。そういった莫大な被害は、一つの国だけに記憶することが許された出来事ではないのだ。むしろ、人類が共有すべき記憶として一つ一つの出来事を分かち合わなければいけないのである(もちろん、そうした被害をもたらしたのが誰か、と責任者を追及することも忘れてはいけない)。
 ゼーバルトが述べたように、人々は絶大なる破壊に見舞われるとなぜか凡庸な形でしかその記憶について語れなくなってしまうのならば、なおさらそれらの記憶を共有する必要性は高まる。どうしてそのようにしか語れないのか、という問題は世界中の人々が参加して探求しなければいけないし、どうしたら従来の枠組を越えた語りをもたらせるのか、という課題は世界中の人々が参加して解決しなければいけない。
 ゼーバルトは、第二次世界大戦中にイギリスで空爆の戦略的分析も行っていたソリー・ズッカーマンについてこう書いている。

有効な戦略をめぐる議論に直接関わり、したがって無差別絨毯爆撃の効果にいわば専門的な関心を抱いていた者として、ズッカーマンもまた、破壊されたケルンの市をいちはやく訪れた。そこで目の当たりにしたものの衝撃は、ロンドンに帰ってからも冷めやらず、彼は〈破壊の博物誌〉と題した報告を書く、と《ホライズン誌》の発行者シリル・コナリーに約束した。それから何十年後かに綴られた自叙伝で、ズッカーマン卿は、結局この報告は書けなかった、と述懐している。「私が初めて眼にしたケルンは」、と卿は書く、「わたしが過去に書いたものなどの及びもつかない表現を求めていた」。八〇年代になってから、ある折りに私はズッカーマン卿にこのことについて尋ねたことがある。当時具体的にどんなことを書こうとしていたかを、卿はもう思い起こせないと語った。ただ瞼に残っているのは、石の荒野に真っ黒に聳えていたケルン大聖堂の姿と、瓦礫の山の上で見つけた、一本のちぎれた指ばかりだ、と。

「空襲と文学」p34

 これを受けて、ゼーバルトはまるでその課題を引き継ぐと表明するかのように「破壊の博物誌はどのように語り出すべきだったのだろう」と続けている。このように破壊に関する不十分な記憶を補う作業は、埋もれた記録を発掘するだけでなく、誰かがしたためられなかった文章を代わりに引き継いで書くことでもあろう。ゼーバルトがそのように意図していたことは、本書の英訳が『On the Nature History of Destruction』と題されているあたりからも十分にうかがえる。
 残念ながらゼーバルトはこの連続講演を行った4年後、交通事故で亡くなっている。彼の小説群そのものが「破壊の博物誌」ないし「破壊の自然史」と形容すべき物語ばかりで構成されているにせよ、やはり志半ば、との印象はぬぐいがたい。それに加えて、不幸な話だがゼーバルトが亡くなった後もこの世界には依然として破壊が横溢していると言わざるを得ない。我々は彼から「破壊の自然史」のプロジェクトを引き継ぎつつ、現在進行形で続いているガザの空爆も含めて、諸々の破壊の有様をこれまでにない表現で記録していく必要があるのではないだろうか。

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