ジュディス・バトラー『分かれ道』――我々をがんじがらめにする二者択一から逃れるために

1.何ら変わらなかった11年間

 ジュディス・バトラーは今般のガザ地区で起こっているジェノサイドについて、「Democracy Now!」のプログラムに出演しコメントを寄せている。    
 パレスチナの人々は哀悼不可能(ungrievable)な存在としてみなされていないこと、イスラエルによるジェノサイドは今に始まった話ではなく75年にわたって続いていること、パレスチナ/イスラエルの間で起こっている戦いは(一般的な戦争のように対称的な暴力が行きかっているわけではなく)一方的な制圧という非対称なものであること、イスラエルはユダヤ人が過去に被った悲惨な歴史を自己正当化のために用いていること、ユダヤ人はジェノサイドだけでなくそうした横領に対しても抗議していること、イスラエルに抗議することは反ユダヤ主義ではないこと、イスラエルは2005年に占領を終結させたと公式表明しているが実態はまったく逆で今なおパレスチナは占領状態にあること……彼女の出演部分は30分ほどしかないが、単純に今起こっている状況に抗議するだけでなく、パレスチナがこれまでどのような状況に置かれていたのかという文脈もカバーしながら論じている点で、きわめて優れたコメントである。
 が、一方で筆者は既視感を覚え、やるせない気分にならざるを得なかった。というのも、上で羅列した論点は、バトラーが2012年に発表した『分かれ道』という本の中であらかた検討済みのことだったからだ。

 念のために言うと、筆者はバトラーに対して以前著書で論じたことを引き写しただけで今般の情勢を語るのは怠惰だ、と非難したいわけではない。むしろ、11年前にすでに論じられていた話が今日においても十分に通用すること、つまりパレスチナ/イスラエルの情勢がこの11年間でなんら変わっていないと証だてられたことに落胆しているのだ。
 たとえばバトラーは『分かれ道』のなかで、イスラエル政府がいかにして「国家設立にまつわる矛盾」を覆い隠してきたのかを分析している。ナチスのジェノサイドによって難民になったユダヤ人たちは、それ以前から入植を推進していたシオニストたちと合流し、パレスチナに新たな国家を樹立した。しかし、一方でそれはパレスチナに元いた人々を排斥することと引き換えに行われた占領でもあった。仮に難民が安全に暮らせる土地を求めるのは合法だとしよう。しかし、その過程で他人の土地を収奪し新たな難民を生むのは果たして合法なのだろうか?
 イスラエルが採ったのはこうした問いを無視し、批判者に対して「反ユダヤ主義」というレッテルを貼ることで口をふさぐ戦略だった。そればかりか、彼らはパレスチナに対する過剰な攻撃をあの手この手で正当化しようとさえしてきた。

排斥、占領、土地収奪といった政策に対してイスラエル国家を批判することは、歴史の流れを逆転させユダヤ人を新たなジェノサイドの暴力にさらしかねない「脱合法化」に帰結する、と。こうした議論は事後的に立てられたのであって、その目的は、国家装置や植民地的軍事占領を正当化し、ナショナリストに権利感覚をはぐくみ、すべての軍事攻撃行為を正当な自己防衛として命名しなおすことにあった。

ジュディス・バトラー『分かれ道』青土社p53

 2012年に発表されたはずのこうした文章は、2023年に採用されているイスラエルの戦略に向けた批判としても十分通用しないだろうか?
 実際、現在イスラエルはガザ地区への爆撃を、自衛権に基づいた合法的な攻撃であると主張している。もちろん、最初に攻撃したのはハマースだし、それに対して反撃する権利は確かにあるだろう。とはいえ、毎度のことながらイスラエルの攻撃は度を越しているというほかない。
 たとえば、CNNは10月7日以前と以後のガザ地区の様子を比較した衛星画像を公開している。

 誰もがこれを見て、「報復攻撃のためとはいえ、ここまでする必要があるのか?」といぶかしむだろう。そして、イスラエルは単に自衛権を行使するために今回の攻撃を実施しているわけではないことに気づかされるだろう。
 「自己防衛」という大義名分を掲げ国際社会の同意を取り付けつつ、一方でパレスチナを徹底的に殲滅すること――それこそがイスラエルが長年採ってきた戦略だった。11年前にバトラーはそれを指摘していたわけだが、にもかかわらず11年後もなおこの戦略は採用され続けている。これは、イスラエルに対する有効な批判を世界はこの11年間、いや、ともすると75年間まったく打ち出せなかったという証だろう(何も先程取りあげたような問題点をバトラーが初めて見抜いたわけではないだろう。彼女の前にも多数のイスラエル批判者がいたのだから)。だからこそ筆者は現状に暗澹とした心情を抱かざるを得ないのだ。

2.ユダヤをもってイスラエルを駁す

 もっとも、だからといってバトラーがこのようなコメントを出すのがまったくの無意味というわけでもない。それに、バトラーのように長年イスラエルに抗議し続けてきた人にとっては、こうした既視感はとうに体験済みのはずだろう。
 攻撃が起こるたびに、彼女を始めとしたイスラエル批判者は声を上げ続けてきたが、残念ながら情勢は変わらなかった。どれだけパレスチナの人々が置かれた状況を世界に伝え、イスラエルへの圧力につなげようと思っても、思うような結果は出なかった。そのたびに彼女たちは気落ちしただろう。しかし、だからといって抗議を止めるわけには行かない。イスラエルの責任は明らかであり、何度攻撃が繰りかえされようと批判すべきポイントは変わりはしない。ならばやるべきことは、たとえ同じことの繰り返しになるかもしれないと踏まえつつも、やはり声を上げることではないか。今度こそ状況が変わるかもしれないと信じつつ、抵抗を続けてこそ道は切り開かれるのではないか――今回のバトラーのコメントは、そうした背景を理解しながら受け取られるべきものだろう。
 それに加えて、11年前のバトラーが一切有効な手立てを講じることができなかったわけでもない、と注釈しておく必要もあるだろう。つまり、現状への解決策が『分かれ道』にはしっかりと書かれているということだ。特にこの本では、いかに反ユダヤ主義というレッテルから逃れつつイスラエル(ないしシオニズム)を批判するか、という問題が綿密に検討されている。
 バトラーはユダヤ人でありながら、イスラエルに批判的であるという理由でユダヤコミュニティからバッシングを被り続けてきた。ユダヤ人である彼女ですらそうなのだから、ユダヤ人ではない私たちにはなおさらイスラエル批判は困難な道にならざるをえないだろう。ユダヤ人への偏見を長年にわたって育んできたヨーロッパほどではないにせよ、日本にも陰謀論でもってユダヤを非難する言説が根強く存在する。そうした中で、いかに人種差別に与することなくイスラエルを批判できるか?
 そうした問いに『分かれ道』は、ユダヤ人たちが残した資源を発掘しつつイスラエルを批判する術はないか、という戦略で答えようとする。

 たとえば私が、国家暴力や植民地的排除と封じ込めに反対するところの、れっきとしたユダヤ的伝統があるだけでなく、厳格な命令的でもあるユダヤ的伝統があると首尾よく証明するとしよう。そうなると私は、イスラエル国家が、その名のもとに発言しているユダヤ性とは異なるユダヤ性の存在証明に成功したことにもなる。そして私は、以下の証明にも貢献することになろう。すなわちユダヤ人の間にも重要な差異――世俗的、宗教的、歴史的に構築された差異――があるだけでなく、社会正義や平等の意味をめぐって、また国家暴力や植民地的制圧への批判をめぐって、ユダヤ人社会の内部でも激しい闘争が存在すること。現に、もし議論が、ここで止まったとしたら、そして説得力ありと認められたら、政治的シオニズムによって制度化され維持されている国家暴力〔……〕に対する批判を提起することは、反ユダヤ的でもなければ、対抗ユダヤ的でもないと立証したことになるだろう。

同p9-10

 本書ではエマニュエル・レヴィナス、ヴァルター・ベンヤミン、ハンナ・アーレント、プリーモ・レーヴィといった、イスラエルに移住しなかったユダヤ人たちの言動が取りあげられている。それらを活用しながら、ユダヤでもってイスラエルを批判するという道が選べないだろうか。
 もちろん、こうした手段にも弱点がないわけではない。仮にイスラエルの横領に対抗できる、新たなユダヤ性が発見できたとしよう。しかし、それもまた横領される可能性がないとは限らない。つまり、正統なユダヤ教から離れてもなお我々はこれだけすばらしい思想を生み出すことができるのだ、とでも言わんばかりの形を変えたナショナリズムに行き着く危険性もあるのだ。

〔……〕ユダヤ的文化資源なるものから、平等と正義と共生の諸原則を導き出す〔derive〕のは可能だけれども、そうすることで、そうした価値観をユダヤ的としながら、返す刀で、ほかの宗教や文化的伝統や慣習実践に属する価値観の様式を抹消したり貶めたりしない保証など、どこにもないのである。

同p12

 こうしたつまずきの石を取り除くにはどうすればいいだろう? たとえば、ユダヤ人たちが残した資源を換骨奪胎し、それを普遍的な思想へと高めようと努力してみるのはどうだろうか? ユダヤによって培われた思想はなにもユダヤ人だけのものではなく、あらゆる人々に開かれているべきなのだから、それを(人権や民主主義のような現在広く行きわたっている概念のように)人類の共通財産にしよう、というわけだ。
 が、残念ながらそれは効果的ではない。イスラエルはこれまでも、世界からの普遍的な価値観に基づいた批判を平然と無視してきた。我が国はあくまでもユダヤ人のために作られた国であり、アラブ人のために作られた国ではない。ユダヤ人の権利を守るのは当然だ、しかしアラブ人の権利を守る理由など我が国には一切ない――そうした論理を臆面もなく主張し、彼らはパレスチナからあらゆるものを収奪し続けてきた。
 そうした醜悪な選民思想を打破するためには、普遍的価値を闇雲に主張するだけでは不十分なのである。(注1)そうではなく採るべきなのは、敵が依拠している価値観が実のところはナショナリズムとは無縁であると示すこと、すなわち、ユダヤはユダヤ人のために作られた国家なるものをむしろ否定すると証明する戦略を徹底しなければいけないのだ。

3.他者に向き合うためのディアスポラ

 そのためにバトラーは「ディアスポラ」という概念を取りあげる。
 言うまでもなくこれはユダヤ人が自らのアイデンティティとしてきた概念だ。故国からの追放を余儀なくされた彼らは、様々な形で自らの状況をディアスポラ(離散)と規定しながら異国で暮らさざるを得なかった。19世紀末になるとその中からシオニストが現れ、ディアスポラは克服すべき状態とみなされるようになる。離散は確かに我々のアイデンティティではあるが、一方で望ましくないものであって、本来は故国(シオンの地)への帰還を目標とすべきなのだ、と。こうしたディアスポラを否定的に見る勢力が、イスラエルの中枢を建国から現在まで担ってきたのは疑いない事実だ。
 バトラーはそれに対して、ディアスポラは必ずしも故国への帰還と結びつくとは限らない、と述べる。それどころか、ディアスポラは「倫理的様態」であって、「いかなる宗教や国籍も、他の宗教や国籍に対する支配権を主張しないという政治形態〔……〕の基礎」を築くためのうってつけの概念なのではないか、と提案するのだ。(注2)
 確かに歴史をふりかえってみると、ユダヤ人は離散によって多くの迫害にさらされてきたため、いまさらディアスポラを肯定的にとらえるのは危険性が否めない。ただ一方で、現在イスラエルが故国とみなす土地の確保に固執するあまり、テロを始めとした多くの危険を招いているのも事実だ。そればかりか、イスラエルの外で暮らしているユダヤ人たちでさえ風評によって新たな迫害に晒されるリスクもある。このように、離散状態を強引に解消し一つの民族だけで成り立っている国家を樹立しようとする試みは無理があるし、全く倫理的ではない。
 そもそも、我々人間は一人だけでなりたっているものではない。人間は多くの他者との関係のなかで生きなければならない存在である。同じことが民族にも当てはまる。一つの民族だけで暮らし、他の民族との何らかの関係がないコミュニティなどありえない。このようにアイデンティティとは一人ないし一つの民族だけで打ち立てられるものではなく、多くの他者との関係に基づいて出来上がるものである。故国を離れディアスポラを生きてきたユダヤ人とは、そのようなアイデンティティの作り方を何よりも実践してきた民族ではなかったか。

こんな議論ができるかもしれない。ユダヤ的アイデンティティの際立った特徴とは、それが他者性によって妨害されるということ、異教徒との関係が、そのディアスポラ〔離散〕状況を規定するだけでなく、その根源的な倫理的関係の一つをも規定するということである、と。

同p16

 ユダヤ人がこれまで自己規定の基準としてきたディアスポラを、自己中心的な価値観としてではなく、他者と向き合うための概念へと解釈しなおすこと、それこそがバトラーの採用する戦略である。
 もし、このような考え方が成立するのならばこの先ユダヤ人は、従来のような民族のあり方とはずいぶんかけ離れた存在になっていくだろう。自己を深く規定するアイデンティティをもちながら、同時に自己から抜け出すためのアイデンティティも持ち合わせている――そんな存在が成り立つとしたら、彼らはきっと現在パレスチナ/イスラエルを覆っている問題を解決しうるかもしれない。

〔……〕ユダヤ人であるということは、非ユダヤ人に対する倫理的関係を引き受けることを含意するとまでいってよいのなら、ユダヤ性とは反アイデンティティ主義プロジェクトとして理解されうるし、また、そう理解されるべきなのだ。こうしたことの淵源にあるところのユダヤ性のディアスポラ状況において、社会的にみて多元的な世界で平等を旨として生きることは、倫理的かつ政治的な理想でありつづけている。実際、もしイスラエルの国家暴力に対して公的批判をおこなうのに関連性をもつユダヤ的伝統が、社会性の規範としての共生に依存する者であるとすれば、当然の帰結として、樹立する必要が生まれるのは、これまでとは異なるユダヤ的公的存在様式〔……〕や、これまでとは異なるユダヤ的運動〔……〕だが、それだけではなく、逆説的に聞こえるかもしれないがユダヤ性が求めるアイデンティティ概念自体のずらし(deplacemant)を肯定することでもあるのだ。

同p224‐225

つまるところ、これはユダヤ人の存在意義を、他の文化的あるいは宗教的集団を乗り越えたり敵にまわしたりしながら、とことんつきつめることではないのだ――そうした努力に対しては懐疑的にならざるをえない理由を私たちはごまんともっている。これは、非ユダヤ人との関係そのものを、ユダヤ教の枠組みのなかで宗教を公共生活に適合させる手段として理解するという問題なのだ。重要なのはたんに地理的に散逸することではなく、四散した存在様態から、政治的正義の新たな概念に奉仕するような一連の原則を導き出すことである。その概念は、難民の権利に関する公正な政治原則をともない、また占領や土地収奪やパレスチナ人の政治的拘禁と追放を支える国家暴力のナショナリズム的存在様式に対する批判をともなうだろう。それがまた画院にするであろうものとは、共生概念、それもその登場をもって入植型植民地主義の終焉となるような共生概念なのである。さらにもっと一般化して定式化すれば、この共生概念を基盤としてはじめて、不当な国民国家暴力に対する批判(critic)が――例外なく――なされうるのである。

p225

4.パレスチナとともにディアスポラを定礎とする

 もっとも、こうしたアイデンティティ観の転覆をユダヤ人のみで行っても片手落ちである。先ほども述べたように、このような新たなユダヤ性を確立したとしても、それが形を変えたナショナリズムの餌食にならないとは限らない。それに加えて、アイデンティティがそもそも他者との関係によって成り立っているのだとすれば、他者(つまりパレスチナ人)は今どんな状況に置かれているのか、ということも考慮しなければいけないからだ。

もしこれこそが、本書で提起されている「ユダヤ的倫理」の公式化であると主張するというのなら、その主張は部分的にしか正しいとは言えないだろう。それはユダヤ的/非ユダヤ的の両方にまたがり、その意味は、まさにこの結合した不連続のなかに宿るのだから。

p18

 ユダヤ人のアイデンティティの一部を分け持っているパレスチナ人の状況を思い合せてこそ、国家暴力への批判は成り立つ。『分かれ道』の最終章でバトラーが取りあげるのはユダヤ人ではなく、エルサレムに生まれたパレスチナ人エドワード・W・サイードである。
 もっとも、サイードがここで呼び起こされているのは彼がパレスチナ人だからという理由のみならず、彼が「ディアスポラ」という言葉に対して尋常ならぬ屈折を抱えていたからこそでもある。
 イスラエルによって追放されたパレスチナ人について語る際、サイードは彼らをディアスポラと呼ぶことを拒絶し続けてきた。それはユダヤ人の語彙であり、パレスチナ人にはふさわしくない、と。実際、パレスチナでは昔からのアラブ語の地名をヘブライ語に変えて公式の地名にする、という収奪も行われている。そんな中で追放されている状態までも敵の語彙で表現されるのは、屈辱に他ならないだろう。
 しかしながら、最晩年のサイードが突如ディアスポラを肯定的に取り上げたことがあった。『フロイトと非-ヨーロッパ人』にて、ユダヤ人はディアスポラのような悲劇に見舞われたからこそ「等しき者たちのインターナショナルな世界」を説く資格がある、と述べたアイザック・ドイッチャーにむかって、サイードは「苦言を呈し」こう述べる。

こうしたこと〔ディアスポラ〕がユダヤ人だけの特徴だと言う必要はない、と。膨大な人口移動、避難民、亡命者、国籍離脱者と移民が氾濫するこの時代において、自分の共同体の内と外の両側に同時に生きる人びとの、ディスポラな流浪と未決のコスモポリタンな意識にもまた、そうしたことが探し出せるはずです。

エドワード・W・サイード『フロイトと非-ヨーロッパ人』平凡社p70-71

 「膨大な人口移動、避難民、亡命者、国籍離脱者と移民」の中には、言わずもがなパレスチナ人も含まれている。ディアスポラは故国への帰還と結びつくわけではないどころか、ユダヤ人の専売特許というわけでもない。むしろこの概念を通してこそ、パレスチナとユダヤの共生はなしうるのではないか。サイードは同書の元となった講演の末尾でそう訴えかける。

 それ〔ディアスポラに見舞われた人々の歴史〕は、ディアスポラな生の政治のための条件といった展望を与えてくれるでしょうか? それは、イスラエルとパレスチナがともにその部分をなすに国民国家のユダヤ人とパレスチナの地にとって、相互の歴史と根本的現実における敵対というよりも、むしろ、さほど脆弱でない定礎となりうるでしょうか? 私自身は、可能だと思うのです。

同p73

 こうしたサイードの提起に、バトラーは以下のように応答する。

 より無残ではないかたちの二国民主義に近づくためには、ユダヤ系イスラエル人たちは市民権や難民の権利についてのあらゆる点において、みずからのユダヤ性を脇に置かねばならない。逆説的ではあるが、そしてきわめて重要なことだが、この脇に置くこと(setting aside)にもっとも労せずして取り組む方法は、まさに自身の故国喪失の歴史を参照してみることなのだ――すべての少数者と難民の権利を、強制封じ込めと強制退去/国外追放への反対を、国境と天然資源そして人間の自由に対する植民地主義的で軍事的な支配を解体する必要を、無条件に擁護するような一連の原則を外挿敷衍(extrapolate)するために。くりかえすようだが、ひとつの苦難の歴史からもうひとつの苦難の歴史への外挿敷衍(extrapolate)は厳密なアナロジーに依拠するわけではない。まさにアナロジーに依拠するわけではない。まさにアナロジーが破綻するときにこそ翻訳がはじまり、ある種の一般化可能な原則が可能になるのである。そしてそうした原則には、次のようなものが含まれるだろう――すなわち、難民の権利の行使そのものが、新たな無国籍人口を創り出すようならば、その難民の権利は正当なものでないという原則が。

『分かれ道』p409

 「ディアスポラ」という言葉で簡単に括れるほど、パレスチナ人とユダヤ人の歴史は同じものではない。そこには多かれ少なかれ違いがある。だが、その違いを前にやはり懸隔は埋められないとあきらめるべきではない。そうではなくやるべきなのは、各々の違いを踏まえながら、それでも両者が分かり合えるポイントはないかと各々の歴史を翻訳し、そのうえで共に掲げることができるような一般的な原則はないかと努力し続けることなのである。

5.二者択一を疑う

 それにしても、本書は書名から受ける印象とはだいぶかけ離れた本だ。”Parting Ways”と書かれると一見、二者択一のどちらかを選ばなければいけない、という決断の書なのではないかと想像してしまう。
 しかしながら、読後の印象は正反対だ。ただでさえバトラーの文章は入り組んでいて文意がつかみづらいが、それ以上に彼女は目の前の状況に対してどのように振舞っていいか、思い惑っている感じがある。
 そもそも、ユダヤ人たちが残した遺産を活かしながらイスラエルを批判する、という手立てを講じる時点で、彼女は二者択一のどちらかを選んでいるわけではない。現在世界に散在するユダヤ人が、パレスチナで起こっている状況を前に迫られている二者択一はおおよそ以下のようなものだろう。
 自らのユダヤ性を否定しつつイスラエルを批判するか、それともユダヤ性を温存しつつイスラエルを擁護するか。
 『分かれ道』はそうした二者択一をそのままに受け止めることなく、他の選択肢(つまり、ユダヤ性を温存しつつイスラエルを批判する方法)がないかを探っている書である。バトラーのこうした姿勢からはやはり学び取るべきところが多い。
 『分かれ道』から11年経った現在にあっても、私たちは多くの二者択一を突きつけられている。

 ハマースにつくか、それともイスラエルにつくか。
 テロに屈するか、それともテロを根絶させるか。
 反ユダヤ主義か、それとも親ユダヤか。
 パレスチナか、それともイスラエルか。

 
 だが、本当に二者択一なのだろうか? ハマースを批判しつつイスラエルを批判する方法はないのだろうか? テロを止めつつイスラエルの虐殺を止める方法はないのだろうか? 反ユダヤ主義に与することなくイスラエルを批判する方法はないのだろうか? パレスチナとイスラエルを共存させる方法はないのだろうか?
 いずれもそれなりに難しい道ではある。とはいえ、大切なのは二者択一の抑圧に屈することなく、現状を解決するための別な対策はないか、と模索するための力を発揮することだろう。二者択一をそのままに吞み込んでいたら、我々が持っている思考の力は一向に使われないままだ。
 そもそも、敵はそうした思考力の発現こそを恐れているからこそ我々に二者択一を課そうとしている。たとえば、今般の情勢を前にイスラエルを批判としたとしよう。すると、「ならばハマースを擁護するのか!」と反論されるのは容易に想像がつく。そうすることでこちらのポジションを画定させ、話を分かりやすくしようとするのだ。連中に複雑な話は分からない。あるいは、一見複雑な物事は思いのほか簡単に割り切れるものだと思い込んでいるから、二者択一を押しつけようとしてくる。そうした思い込みが覆され、世の中はもっと複雑に捉えられるものだと思い知らされるのが怖いから、二者択一以外の選択肢なんてあるはずがないと思い込もうとしている。
 我々はそんな連中にかかずらう必要はない。そこを越えたら二度と戻ってこれないような分かれ道にでくわしたとしたら、他の道がないかと探してみたほうがいい。言うまでもないが、これは「どっちもどっち」だとか「Whataboutlism」とは一切関係のない話だ。二つの選択肢のほかにもっと良い選択肢がないかを探す試みが、議論そのものを台無しにするような蛮行と同じわけがない。

脚注

注1 とはいえ、バトラーは一方で普遍化への努力自体は否定していないことは銘記しておくべきだろう。彼女は普遍的な価値観を特殊な価値観を持つ人々に対して押しつけることは否定する。また、「普遍性」という美辞の裏で特殊性を無き物とするふるまいにも反対する。そうではなく彼女が求めているのは、特殊なものが絶えず異議申し立てをすることで終わりなき普遍化への努力が続くような、「ラディカルに民主的なプロジェクト」だ。

 ある種の普遍性の体制は、時として限界のあるものと判明したり、ある種の主張を無効にするための、またある種の主張がなされる様式(mode)を抹消するための道具であったりする。したがって、普遍化のプロセスに対して特殊(idiomatic)な、あるいは外的なと思われるものが、「普遍的」性格に疑問をつきつけるのだ。もし普遍化のプロセスが、個々の特殊な言説群を、確立された体制に同化吸収するプロセスとなるなら、その体制の持っている個別特殊性が普遍的という地位に格上げされその体制の持つヘゲモニー的権力が実質的に覆い隠されることになる。そうした権力の体制をもっとも効果的にくつがえすような普遍化の様式(mode)というのは、「同化吸収できないinassimilable」ものを、現在の普遍化の様式の前提条件であると暴きたて、同化吸収できないものの名において、普遍化のプロセスを解体し、再公式化することを要求する様式(mode)となろう。肝要なのは、同化吸収できないものを同化吸収できるものに転換することではなく、同化吸収を規範として求めるような体制のありように挑戦することなのだ。そのような規範が解体するときにはじめて、普遍化は、ラディカルに民主的なプロジェクトのなかで、みずからを刷新する機会を手にすることになる。

同p47-48

注2 ディアスポラの再解釈を提案するのはバトラーの独創ではない。彼女が脚注で参照を促しているように、ジョナサン・ボヤーリン/ダニエル・ボヤーリンこそがイスラエルの独占を許さないような「ディアスポラの力」を早くから訴えていた。この後見るようなバトラーのディアスポラ再解釈は、ボヤーリン兄弟に負うところが間違いなく大きいだろう。

 ディアスポラは、領土国家に代わる別の「地盤」を提供し、文化的アイデンティティと政治組織とを、つねに論争を生み出すような複雑な形で結合する。このような代替的地盤によって、国家が自らの避けられぬ非永続性に抵抗するうえで行使せざるをえない暴力的手段は回避されうるし、正統な集団的アイデンティティといった凝り固まった支配的観念に由来する純粋性の主張も改善されうるだろう。この地盤はまた、すでに確立しているディアスポラ的な共同体が存続し、超国家的な文化・経済圏において必然的に現れたディアスポラが発展するための、より大きな文化的・政治的「時空間」をも供給しうる。ともかくも、以上が、われわれが提唱したいと考えているディアスポラの力に関する最も包括的な考え方である。

ジョナサン・ボヤーリン/ダニエル・ボヤーリン『ディアスポラの力』平凡社p21-22

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