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鈴木商店に習う「ガバナンス」と「広報」

日工広報SOです。
先日、日工のルーツである鈴木商店を題材にした舞台「彼の男 十字路に身を置かんとす」を鑑賞しました。
経営企画部の一員、そして広報担当として、ガバナンスと広報は大切なんだなぁ(小並感)と思ったので簡単にシェアします。

鈴木商店とは?

鈴木商店本店

鈴木商店とは大正時代に日本一の年商を誇った総合商社です。
明治時代に鈴木岩次郎が開業。
丁稚奉公として入った金子直吉の商才すさまじく、セルロイドの材料になる樟脳や、砂糖の販売権などを得て順調に事業規模を拡大。
開業者の鈴木岩次郎が亡くなった後は、妻である鈴木よねがオーナー、金子直吉が番頭を務めた。
第一次世界大戦が勃発すると、軍需による暴騰を予測し、以下のような指示を出す。

BUY ANY STEEL,ANY QUANTITY,AT ANY PRICE
鉄と名のつくものは何でも金に糸目をつけず、いくらでも買いまくれ 

金子 直吉

結果、鉄・砂糖・小麦など買いまくって大儲け。
船も所持しており、当時のスエズ運河を通る船の1割は鈴木の船と言われていたほど。全盛期(1919年頃)には三菱・三井を超え、日本のGNPの1割を占める年商を誇った。
その全盛期、鈴木商店工事部出身者たちが立ち上げたのが日工である。
急成長の新興財閥は、世間からも注目を集め、メディアから批判的な報道を受けることがあった。
その代表例が、米の輸入を巡ってのデマ記事だ。
なんと、デマ記事のせいで、本店が焼き討ちに遭ってしまう。
さらに、第一次世界大戦後、さらなる軍需を予想して造船会社を買ったり、鉄鋼業に力を入れるも予想が外れ、ワシントン海軍軍縮条約で大損する。
業績悪化するなか、金融不安が襲い、鈴木商店は破綻へ・・・。

鈴木商店のガバナンス上の課題とは。


さっそく、史実に基づいて、鈴木商店のガバナンス上の問題を提起しよう。

①メインバンクに依存しすぎ

台湾銀行

鈴木商店は株式公開せず、銀行から借りた金で運転していたが、
その運転資金のほとんどを台湾銀行に依存していた。
株式公開しなかった理由が、金子直吉の考え方にある。
「最初に金を出しただけの株主に配当金を与えるくらいなら、店(鈴木商店)に財を残し、一人でも多くの人を養い国家のために仕事をして、銀行に利息を払った方が何より愉快である」・・・この考えであった。

当時、台湾銀行は国策銀行であり国として潰せない銀行であった。
第一次世界大戦終結後の鉄鋼業の失敗による鈴木商店の経営悪化に伴い、
台湾銀行の鈴木商店への貸付額も膨らむ一方だった。
そんななか、当然国会でも世論でも「台湾銀行、大丈夫?」というお話が出て、台湾銀行は鈴木商店への融資打ち切り、貸付金の引き揚げを行うことになった。
銀行からの借入金は「他人資本」と言われ返さなければならないが、
株主から調達した資金は「自己資本」で返す義務はない。
株式公開していたら・・・と思うと。。
自己資本比率が高い会社=安定企業となんとなく認識している人が多いと思うが、鈴木商店の自己資本比率は超絶低かったんじゃないだろうか?
ちなみに日工の自己資本比率は61%だ。

②ワンマン経営

金子 直吉

創業者の鈴木岩次郎亡き後、妻である鈴木よねがオーナー、金子直吉が番頭として鈴木商店を運営していたが、番頭の権限が大きすぎたことが問題であった。
金子直吉は商売の天才で、商人として日本政府ですら成し遂げなかった
アメリカ⇒日本への鉄輸出を実現させるという最強エピソードがある。
明治末期には砂糖・樟脳の貿易商に過ぎなかったが、10年足らずで三菱・三井抜きの世界的企業に育て上げた。
そのカリスマ性ゆえ、オーナーである鈴木よねは金子直吉にすべて任せ
、金庫番もおらず、だれも金子に口出しできない状況になった。
1922年、台湾銀行は元副頭取の下坂藤太郎を派遣し、「鈴木合名会社」と「株式会社鈴木商店」の分離による機構改革を主導して、金子の影響力を弱めようと試みるも、ワンマン体制は変わることがなかった。

日工のコーポレートガバナンス

現代の上場企業では社外取締役の設置が義務化されているが、
金子直吉みたいなワンマン社長に対して社内の人間が言いにくいようなことを言って、ワンマン経営を防止する役割を果たしている。
また、株式公開している会社は株主が会社の意思決定にYES,NOを言う権利が与えられているのでこれもトップの暴走を抑えることができる。


鈴木商店にもし広報がいたら?

次に、もし、鈴木商店に広報がいたら・・・という設定で「米騒動による本店焼き討ち」を回避するための行動を考えてみました。
現代でもたびたび企業の炎上事件が発生しますが、広報担当者は矢面に立ち、鎮火の役割を担います。

本店焼き討ち事件とは?

焼き討ち事件

冒頭でチラっと書いたが鈴木商店の経営が傾いた理由の一つに、「本店焼きうち事件」がある。
日本人の主食である米。
1914年、第一次世界大戦開戦直後に米の価格が暴落したが、大戦景気により米の消費量が増え、1918年ごろから米の価格が上昇し始めた。
米の価格暴騰により米作地主や米屋の買い占めや売り惜しみ、投機が発生したことでさらに米の価格が上昇。
8月1日に1石35円だったのが、8月9日には1石50円に!!!
ここでマスコミが不安を煽るような報道をはじめたことで、
不安を感じた民衆が米商店などを襲いはじめた。
これが「米騒動」だ。
政府は米の輸入策を打ち出し、鈴木商店を取り扱い業者に任命。
鈴木商店はわずかな中間手数料で国のために米の輸入を実施するも、大阪朝日新聞にデマ記事が出る。
「鈴木商店が米を買い占め、法外な手数料を取ってるから、米が高いんだ!」(要約)
事実無根である。
このデマ記事によって鈴木商店は1918年8月12日に焼き討ちにあう。

当時は「プレスリリース」もSNSもウェブサイトもないので、勝手が違うと思うが、もし鈴木商店に広報がいたら?こんなことをしそうだ。

米の輸入事業を「社会貢献活動」としてPR

事実、鈴木商店の米輸入にあたっての手数料はほんのわずかで、ほぼ奉仕事業に過ぎなかった。「自社が社会貢献を行う」・・・これは会社のブランドイメージ向上を使命とする広報担当者にとって美味しいネタだ。
広報がいたら真っ先にステークホルダーに対し、「企業の社会貢献」だということを全面的に打ち出したプレスを紹介したと思う。
鈴木商店の流れをくむ日工広報が、105年前に思いを馳せながら内容を考えてみた。

このようなプレスを信頼できる新聞社に案内し、記事化を打診することで
デマ記事の露出は避けられたのではないかと思う。

もしそれでもデマ記事が出てしまったら?!

もし、それでもデマ記事が出てしまったらどうするか。
企業広報としては、まず抗議文章を出すべきだろう。
名誉が著しく棄損され、営業に支障が出た場合は法的措置を取る企業も存在する。

実際の鈴木商店は、デマ記事に対して「何も悪いことはやっていないから堂々とする」と静観していた。
しかしながら、本店が焼き討ちに合ってしまうのだ・・・
さすがに事実を重くみたのか、12月になって事実を明らかにした論文
「米価問題と米騒動」を発表した。

▼原文


おわりに

少々長くなってしまったが、鈴木商店の失敗から学べることは多いと思う。
ネタばれになるかと思い、舞台の内容については詳しく触れなかったが、
鈴木商店全盛期の「勢い」を感じることができた素晴らしい舞台だった。
さすがに焼き討ちには遭わないは思うが、「炎上」しないように
広報の重要性を再認識したとともに、今後の広報活動を気を付けていきたい。

▼鈴木商店の歴史について、双日さんがマンガにしています!
興味がある方はぜひ・・・!


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