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【読書記録】ほんのちょっと当事者

おすすめ度 ★★★★☆

タイトルでずっと気になっていた本。

私たちが「生きる」ということは「なにかの当事者となる」ことなのではないだろうか。(中略)
みんなが隣にいる誰かへの想像力を持つようになれば、まわりまわって思いもかけない方向から誰かが私の小さな困りごとを助けてくれる気がする。そういうのってなんだか素敵で、とてもふくよかな社会に思えるのだ。

と前書きにあるように、いろんなものを当事者目線で綴っている。カードローン破産、聴覚障害、性暴力、介護や看取りなど割とディープな社会問題ばかりだけど、「鋭く切り込む!」という上から目線ではなく、あくまでエッセイなのがよい。

最初のカードローン破産は、おバカすぎて笑うというよりドン引きしたし、序盤は笑っていいのか真面目に読むべきかわからんと思っていたが、中盤あたりから引き込まれるものがあった。

いくつか備忘録。


心理的虐待

「奪われた言葉」というタイトルがつけられたエッセイは、ある女性が出産した男児を窒息死させた事件の話だ。作者はその裁判の公開傍聴を通して、その女性の人生に想いを馳せる。

彼女は、親から異常なまでの過干渉を受けて育った。発言や意思表示を徹底的に潰されて、禁じられる。
叱責と批判、体罰、監視の体験は読んでいて苦しくなる。

裁判でも「誰かにこう言いなさいと言われたことをなぞっているような印象すら受けた」と書かれていて、自分のことなのに意志が感じられない答弁をしていたという。

彼女自身がそんな人生を導いたとも言える。自業自得という身も蓋もない意見もあるだろう。でもそう宣告して彼女を断罪するだけでいいのだろうか。一度落ちた人間は「自己責任」という言葉の元に徹底的におとされて、その後は放置される。それは果たして社会的に健全なやり方なのだろうか

言葉を奪われ、意思表示を潰されて育ち、社会から叩かれて罪を背負った彼女は、どうやって自分の人生を取り戻すんだろう。奪った命とどう向き合うことができるんだろう。

認知症・介護・看取り・遺品整理

後半は作者の亡くなった両親の話が多い。認知症〜遺品整理までを並べたのは、私自身も当事者として体験したことがあるからだ。

父親が認知症になって施設に入り、亡くなったという流れは、うちにとてもよく似ている。
違うのは、母親が長いこと父親を自宅介護していたということだ。

典型的な男尊女卑の、家父長制の権化のような父は、ごく当たり前に母を自分の手足であるかのように扱った。

(母親が肝炎になり、ベッドから起き上がることもできないほど衰弱していても)変わらず妻に食事の支度や入浴の介助をさせ、日常の細々としてことを要求した。何十年とそうしてきたように。


まさに「ちょっとだけ当事者」だった私でもかなりゾッとする。でもこの状況は、決して特別なものではなく、日本中の至る所で現実に起きていることなんだろう。

安楽死

作者の母が終末期鎮静をして亡くなった時の話。安楽死(尊厳死)と終末期鎮静はそれぞれ意味が異なるが、ここでは「死に方」を考えるという点に注目して読んだ。

私は父は最期、緩和ケア病棟にいて、痛みを無くすケアをうけたまま亡くなった。ガンだったからその選択ができてよかったけど、そうじゃなければどうすればいいのだろう、と今も考える。

引用の引用になってしまうけれど、作中で紹介されている幡野広志さんの言葉にストンと落ちた。

患者が望む最後と、家族が望む最後は違う。
患者は苦しみたくないが、家族は悲しみたくないのだ。意見が一致するわけない。

”安楽死”という言葉を想像した時、賛成する人は自分の命に置き換えて、自分だったら苦しみたくないなぁと必要性を感じて賛成をする。反対する人は”安楽死”という言葉で家族や患者の命で想像するから、死なせたくないという気持ちで反対するのだ。

はぁ、すとん。なんでこんなにも安楽死問題は前に進まないのかが、よくわかる。でもなんとかしてほしい。

自分が当事者になると、当事者が見える

思い出したのが「自分が妊婦の時って、周りに妊婦がいっぱいいるように感じたな」ということだ。あるあるだと思う。
赤ちゃんが産まれると赤ちゃん連れが目に入ってくるようになるし、小学生になると小学生がいっぱいいることに驚く。

息子が5歳の時、足を骨折して3ヶ月ほど車椅子生活になったことがある。その時は「街中にこんなに車椅子の人がいたんだ!!」と心底驚いた。
ブワッと世界が広がった気がした。

本も似ている。
本を読むと、リアル当事者じゃないけど当事者の気持ちを疑似体験できる。すると、ニュースや街の見え方が変わってくる。
見え方が変わると今まで無神経に誰かを傷つけたり、助けてあげられなかったことに気づいて反省する。

見えていないことが多いんだな、と思う。
私も含め大半の人が、悪気があるわけでも、無神経なわけでもない、ただ無知なだけ、というパターンなんじゃないか。たまに悪意の塊みたいな人もいるけど。

だからといって、全てにおいて当事者になることはできないし、全ての当事者に寄り添うこともできない。
できるとしたら、「自分には見えてない世界があるのかも」と謙虚な気持ちを持つことだろう。無知の知。

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