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より良く在れという呪い

好きなものと似合うものは違う、ということをぼんやりと考えたので今日はそれを書きます。

先日、たまたまTwitterでロリータファッションがモテないという話を見かけました。
否定する話ではなくて、文脈としてはロリータがモテないけどそんなのはやってる人にとってはどうでもよくて、服として可愛ければいいだろうと思っているというようなものです。
(引用して迷惑をかけたくないので今回は引用していません)

該当ツイートそのもの言及するというよりは、別の観点が気になりまして記事を書いています。
現在において「モテる」という物差しは重要視していない人も増えてきた(むしろ一種の古い価値観として語られつつある)けれど、代わりに「似合う」という物差しを気にするようになっている気がします。あくまで私の体感ですが。


昔に比べてやれパーソナルカラーだ、やれ骨格診断だそういう「似合う」ための方策が目に付くようになりました。
10年前、私の学生時代にはイエベ・ブルベという概念って全然知らなかったんですが、今では高校生くらいの子でも知っているのではないかな、というくらい一般的な概念になっているように思います。
もちろんパーソナルカラーはカラーリングの参考になって非常に興味深いし、いつだって自分に似合うもの・綺麗に見えるものを探すのは面白い、賛成です。実際私も診断を受けて参考にしています。
ただ、その「似合うもの」を是とすることで、「似合わなくても好き」という感覚が追いやられるような、少し肩身が狭くなりそうな、そんな危機感があります。

私は結婚や人との関わりみたいなものを重視していないし、所謂「社会的に正しく」在ろうとするのを諦めているので余計にそう思うのかな。正しいと思われていることの押し付けへの、一種の恐怖ですね。
いや~、でも結構、「この色似合わないから買うのやめよっかな」ってなるのは呪いじゃないですかね?
選択の一助としてはいいけど、縛られたら本末転倒だし、それを他人に押し付けたら終わりになってしまうのでは……?と思います。

私も、似合うから好きという感覚はあるし、より良く見えるために似合うものを身に着けるのは大賛成です。他者からの肯定は自信にもつながるし。
……その一方で、似合わなくても好きというものはあるじゃないですか。
私は似合わなくてもでっかい柄の派手なワンピースを着たいし、爪を真っ黒や真っ赤に塗るのも楽しい。そういう単純な楽しさって、もしかして忘れられがち?という気持ちになりました。お洒落も自己表現や自己実現の方法のひとつであって(もちろんそう考えていない人もたくさんいる)、様々な考えがあっていいのではないか、他人に押し付けないようにしたいなぁと思った次第。

何かを肯定することで何かを否定する意図を持ちたくないです、といちいち言及しないといけないのはわずらわしさもあるのですが……でも、否定したくないので書いておく。いちいち言う必要がないけど言うと、モテるためのファッションだって自己実現の一つとして良いと思っていますよ。


結局あれもこれも、多様性を認めようという話に帰着してしまうんですが、ちょっと自分が凝り固まっていたような気がしたので書いてみました。

おしまい

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