⑥愛と怒り ラリー・クレイマーとファウチ博士、そしてコロナ
日曜日の朝。R.E.Mの鬱ソング"Everybody Hurts"(1992)をジョー・コッカーがカバーしたバージョンがApple Musicのおすすめに出てきて聞いてる。
東京都は8月7日、新たに新コロに462人が感染したことを発表した。一億総鬱の日本で、本来リーダーシップを執るべき人間がその役務を果たしていない。それどころか「GoToキャンペーン」というズッコケ政府事業をやりやがるし、安倍ちゃんのgo-to guyのオミシゲちゃんはこのタイミングで「僕はGoToには当初反対してたんです」みたいなオトボケかましているし。でもオミシゲちゃんは「GoToキャンペーン」を「新しい生活様式の中での旅の在り方を国民に周知する契機にしていただきたい」と7月16日に提言しているんだよぉ。もちろん東京都と他の地域間の移動は控えるように言ってるんだけど、優しすぎんだよなァ・・・優しいから伝わんないんだよ。。。
一方、アメリカのトランプ政権下で、感染症対策の有識者として公衆衛生政策に提言しているアンソニー・ファウチ博士。米・国立アレルギー感染症研究所(NIAID)を1984年から率い、これまでレーガン、ブッシュ(父)、クリントン、ブッシュ(子)、オバマ、そしてトランプと、6人の大統領を相手にアメリカの感染症対策を指揮してきた。抗マラリア薬の服用やマスクを付けないことを擁護し続けるトランプ大統領に、ファウチ博士は歯に衣着せぬ意見で対抗。ふたりの溝はどんどん深まっている。
尾身ちゃんが自分の保身のためにしか働いていないじゃないか、と言うのはもちろん言い過ぎかもしれませんが、迷走を続ける日本の新コロ対策に一番足りないものは「リーダーシップ」。安倍ちゃんのご機嫌なんてどーでもいいんだから!どうせ自民党はおしまい!だから尾身ちゃんお願い、しっかり自分の仕事してー!!
さて、ファウチ博士にスポットライトをあてるとき、彼が向き合ってきた80年代のエイズ禍を語らずにはいられない。そしてエイズと闘うことに人生を捧げてきたラリー・クレイマーというアクティビストの話も忘れてはいけない。ファウチ博士のフレネミー、そして今年5月に亡くなったレジェンドの話を今回はしてみよう。今回何が言いたいかと言うと「黙っているだけじゃ、見殺しにされるんだゾ」ということ。このタイミングで伝えたい。
孤独
1935年6月25日生まれ。米・ニューヨーク(マンハッタン)出身。世界恐慌下、ユダヤ人家庭に育ちました。彼の略歴はウィキペディア英語版に事細かく書かれているので、この場を使って日本語にしますね。ブリタニカ百科事典の彼のページも参考にしています。
イェール大学を1957年に卒業したクレイマー先生、在学中は「大学にゲイは僕ひとりしかいないんだ」と思い悩んで自殺も考えたそうな。それが後に、生涯にわたって「ゲイのための権利」を深く追求する道へとつながっていく。
彼はまず23歳で映画業界に入る。コロンビア・ピクチャーズで脚本スタッフをつとめていたクレイマー。1961年に英・ロンドンへ赴任、69年に英国人監督ケン・ラッセルの映画「恋する女たち」(原作は「チャタレイ夫人の恋人」で知られるD・H・ローレンス)で脚本を手掛け、アカデミー賞脚色賞にノミネート。そして73年に公開された総製作費20億円とされる映画「失われた地平線」で脚本を手掛けるが興行成績は振るわず。とはいえ、彼にギャラはたっぷり支払われ、悠々自適に文筆活動を送れるぐらい充分な金を稼いだ。
72年に故郷・ニューヨークへ戻ってくると、芝居の脚本を書くようになる。まあ最初のうちは鳴かず飛ばずだったわけですが、43歳の年に小説「Faggots」(1978)を書きます。都会のゲイたちのファスト・ライフ(性的にも放埓な暮らし)を描き、主人公のモデルは自分としながらも同性愛者としての生活をむなしいものとして描いたこの作品は、ニューヨークのゲイ・コミュニティから反感を買う。当時ニューヨークで一軒だけだったゲイ向け書店「オスカー・ワイルド記念書店」の棚に並べてもらえず、またコミュニティのお店からも出禁を喰らう。とはいえゲイ文学史では売れた本の中に入るそうです。僕は読んだことなかった・・・つーか、ほんとクレイマー先生のことが日本にちっとも浸透していない・・・
魔の80年代
1981年7月。ビルボードTop100の上位にはキム・カーンズの"Bette Davis Eyes"、ダリル・ホール&ジョン・オーツの"You Make My Dream Come True"、エア・サプライの"The One That You Love"などが並んでいた。
時同じくしてニューヨーク州とカリフォルニア州で若いホモセクシュアルの男性たちの間でカポジ肉腫の症例が多発していることをニューヨーク・タイムズ紙が報道した。明らかにクレイマーの周りでも奇妙な病が流行していた。
81年8月、クレイマーはこの病に立ち向かう人たちを集め「GMHC(ゲイ・メンズ・ヘルス・クライシス)」と後に呼ばれる団体を立ち上げる。まだエイズという名前すら存在しなかった時。未知の病、同性愛者が感染する病として、偏見だけではなくこのエピデミックの存在自体が社会の片隅に追いやられているような雰囲気が世の中にはあった。国も、多くの企業も問題に無関心のまま。病に抗うための組織を立ち上げたのに、金銭的に治療を受けることができないため若い感染者たちが次々と倒れていくことが悔しくて仕方なかった。次第にクレイマーの態度と言動はアグレッシブになっていき、組織との溝も深まっていった。
83年、クレイマーは「1,112人、と更に増え」(原題:1,112, and Counting)というエッセイを発表。アメリカ国立衛生研究所(NIH)の研究員や役人、医師、そして時のニューヨーク市長エド・コッチをはじめとする政治家の怠慢に対する指摘にとどまらず、彼の怒りのメッセ―ジは「病気の流行はいつか収束するだろう」と考えているゲイの男性たちにも向けられた。とはいえ数年前に出版した小説「Faggots」でクレイマーはゲイたちにある意味で干されており(このエッセイもカジュアルなセックスに対しての批判を含んでいたため)、なかなかクレイマーが思うように受容されなかった。無念を抱きながら、GMHCを追い出されるような形でクレイマーは組織を去った。
ノーマル・ハート
クレイマーの81年から84年までの奮闘は「ノーマル・ハート」という彼の自伝的戯曲(85年舞台上演)で描かれている。この題名は20世紀を代表する英国の詩人であり、同性愛者であったW・H・オーデンの「1939年9月1日」という詩から取られたものだ。この日付は第2次世界大戦の引き金であるナチスドイツのポーランド侵攻が起きた日だ。
「普通の人にだって、当てはまる」こと。問題を自分ごとにできれば、世の中は変わるはずなんだ。「ノーマル・ハート」は後にライアン・マーフィーがテレビ映画として映像化(こちらの記事に詳しく書いてます)。
84年、フランスの哲学者ミシェル・フーコーがエイズで亡くなり、85年にはハリウッドの黄金期を飾った二枚目俳優ロック・ハドソンがゲイであることをカミングアウトしたのちに亡くなる。また、血液製剤によるエイズ感染の実態も判明し、ライアン・ホワイト少年は薬害エイズ患者であるという理由で通っていた学校から追放されるという事件をきっかけに、エイズ活動家としてメディアから大きく取り上げられるようになった。
ACT UP
1987年「ACT UP」という組織が立ち上がった。この名前は、AIDS Coalition To Unleash Power=「力を解き放つためのエイズ連合」のアクロニムでもあって、「行動を起こして抗え!」という意味もある。このACT UPの約30年の軌跡を描いたドキュメンタリー「怒りを力に-ACT UPの歴史」を見てみると彼らの凄まじいエネルギー、パワー、そしてアンガーを感じた。
この組織のはじまりもラリー・クレイマーであった。87年3月10日、クレイマーはニューヨークのレズビアン・アンド・ゲイ・センターで、一向に解決の兆しが見えず、政府の無策ぶりで既に人災とも謂えるエイズ禍に対して、より具体的に行動を起こすことを訴えた。その2日後、300人が団結し「ACT UP」と自分たちを名乗り、非暴力ながらも大胆なデモ、集会、ピケッティングをはじめる。
当時、エイズの治療薬として承認されていたAZTは1人あたり年間10,000ドルもの負担がかかり、エイズ患者には手が届かないほど高額に設定されていた。彼らはウォールストリート、そして新薬の認可を行うアメリカ食品医薬品局(FDA)、さらには同性愛に反対するカトリックのセント・パトリック教会において大規模なデモを繰り広げ、時に逮捕者を出したり、時に批判を浴びることもありながら、メディアの露出と政治家たちへの抗議を続けていく。
こうした闘いの中においても時は無情に過ぎて、多くのメンバーの命がエイズで失われていったが、治療費が値下げされたり、政策に影響を与えられるようになったりと、彼らの一連の活動はエイズクライシスの歴史のなかで大きな意味を持つことになった。クレイマーのひと声から、何千・何万もの命が救われるきっかけが生まれたのであった。
功績
アンソニー・ファウチ博士は当時から国立アレルギー感染症研究所のトップにいたので、それはそれはクレイマーからも激おこぷんぷんの矛先が向けられるわけですが、二人は後に和解します。ニューヨーカー誌のライターであるマイケル・スペクターが書いたクレイマーの追悼文によるとファウチ博士はこんなことを言っていたという。
クレイマーはその激しい言動とスタイルで舌禍に巻き込まれることはしばしばあったが、同じくスペクターのこの記事によると、いったんスポットライトから外れて普段の彼に戻ると、本当に穏やかで優しくソフトな人だったそうだ。彼の裡で燃える炎は、しかるべき時にのみ激しく火柱をあげていたのであって、世の中を本気で変えたいという深い思慮が燃料になって情熱となっていたのだろう。
昔の上司が僕に言ってくれた言葉がある。今でも忘れないん「思想ではなく行動を」という言葉。「SILENCE=DEATH(沈黙は死)」というスローガンを掲げるACT UPを率いたラリー・クレイマーはそれを体現していたと思う。
新コロとエイズは別の次元で本来語られるべきかもしれないが、世界に君臨している大国アメリカとメディカル業界の利害関係、感染症研究、そして一連のエコシステムを監視していくべきメディアの在り方など、一度エイズ禍の反省と成果を振り返ってみることがあってもいい。
パートナーとの最期
ちなみにクレイマー先生は約10歳年の離れた建築家のファビュラスな旦那様(デイヴィット・ウェブスターさん)と2013年に同性婚をしていました。え、かっこいいよね??イケメン。
ラリー・クレイマー。ゲイ社会の求心力でした。2020年5月27日、ニューヨークで死去。享年87歳でした。生前、新コロとエイズという2つのエピデミックに翻弄されるゲイたちの姿を描く戯曲を用意していたそうです。残念です。
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