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ネガティブな感情も抱きしめたい

幼い頃から私の頭にずっと染み付いている言葉がある。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんな事にも感謝しなさい。

毎週日曜礼拝の最後に牧師によって必ず読まれる御言葉だから、自然と頭が覚えてしまった。

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クリスチャンの両親のもとに生まれ、小さい時から日曜学校に通っていた私にとって、日曜日に教会に行くことは「意志」ではなく「習慣」になっている。

その為、礼拝中も牧師の説教をありがたく拝聴するどころか、大抵は「居眠りタイム」で。

まあ「はじめ」と「おわり」さえ聞いておけば要点は掴めるよね?なんて怠けた姿勢で聞いてしまう日もあったりする。

そんなわけで、教会に行っている歴=年齢にもかかわらず、恥ずかしながら聖書の知識は乏しい。なんとも怠惰なクリスチャンだ。

とは言っても、キリスト教の思想が自分の中に根付いていると感じることはあるもので。

何かといえば「隣人を愛しなさい」「許しなさい」「愛は寛容で、情け深い」といった教えが自分の言動を左右する時もあるし、それが自分自身の心の支えになってくれることもあるから。

ただ一方で、それが当たり前に染み付いているからこそ辛くなってしまう時もあるよね。というのが今日のお話。

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週が明けると、私は冒頭の御言葉を携えて社会に出ていく。

人間関係で思い悩んだり、社会の理不尽さに憤りを覚えたり、理由もなく不安に押し潰されそうになることもあるけれど、あの言葉のように負の感情を「喜び」や「感謝」に変えれば、なんとか一週間を乗り切れると思っていたから。

木曜日辺りで感情は擦り切れてくるけど、また日曜日になってあの言葉を聞く。その繰り返しで、社会生活をなんとか生き抜いていくのだ。

それに助けられていたのは事実だけど、一方でネガティブな感情は「悪いもの」という認識が私の中に作られていた。

精神は強くなっても、何かを失っているような気がした。そして、心の内側にモヤモヤが溜まっていく。

「いつも喜び、どんな事にも感謝する」

前向きになれるはずの言葉が、いつからか残酷に思えるようになった。

そんな時、SNSである言葉が目に留まった。

Toxic Positivity(有害なポジティブさ)

自分や他人のありのままの感情を否定して、常に明るくポジティブでいようとしたり、そうあることを人に求めたりすることでポジティブ思考が「悪意」になること。
ネガティブな感情が生じるのは人間として自然なことで、人が生きていく上でとても必要なものだ。

初めて知った言葉が、私の中で行き場を失っていた感情に居場所を作ってくれたような、そんな気がした。

ネガティブな感情を肯定してくれたことに、思いもよらず救われたのだ。

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身に染み付いた思考は、時に足枷となって自分や周りを苦しめる。

だから、たとえそれが「習慣」になっていたとしても、私は常に自問自答するクリスチャンでありたいと思う。

不安、恐怖、悲しみ、怒り、
ネガティブな感情も含めて「自分」なんだ。






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