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手を合わす

日本人の信仰への思いは様々なようです。
最近は若い人もお遍路で四国を巡ったり、朱印帳を何冊も持っていて、神社仏閣にお参りに行くことが楽しいという。おとなたちに押し付けられたものではないだけにそこで手を合わすことは、みんなの心に祈るという文字が自然と刻まれているのかもしれません。

比叡山延暦寺にお参りに行った時えらいお坊さんのお話に「どんなことでもお願いしたらいいんですよ。例えばパチンコに勝ちますように!」と言われた時はその集団の中で違和感を感じた人はどれくらいいるのだろうと思いましたが、その内容は当時の私には読み取れない深いものを優しくわかりやすく説いて下さったのかもしれません。

家には仏壇がありご先祖さまが祀られています。最近はお仏壇のない家もあり、墓終いを考える年配者も増えているとか。これも現代の諸事情かもしれません。

私も偉そうなことを言うほど信仰心が強いとは言えませんが、日本人の心のよりどころが変わってきているようにも思います。

昭和の時代、神だな、仏壇は家の中で一番神聖な場所でした。
何よりもご先祖と言う言葉が身近にありました。

朝早くにお供えの水、ロウソクに火をともし、お線香も。
朝を迎えられたことに感謝して一日が始まりました。

一日の夕餉にも同じように無事家族が揃ったことへの感謝で手を合わす。

炊き立てのご飯を一番にお供えするのが私の役目でした。
湯気がごちそうと教えられてしばらくしたら下げたご飯をありがたくいただく。それはごく自然の事でした。。

食事の前には手を合わせて「いただきます」といい食べ終えたら「ごちそう様」とまた手を合わせる。これはもう習慣で、それは家の中だけでなくどんな場所でもするものですから、おとなになってそれを見た人はくすっと笑う人もいて…。なぜ笑うのかは聞いたことがありませんが、子供じみている?たいそうな?スマートではない?となるのでしょうか?

たまに子供たちや孫と食事をすると、みんな自然と手を合わせています。
孫たちのその儀式?は代々同じで、みんなパン!と勢いよく手を打ってちょっことお辞儀。それが何とも可愛くて、私は秘かに今まで楽しんでいました。

神社やお寺、お墓にお参りしても私はお願い事をしたことがありません。
「いつも見守ってくださってありがとうございます。」これ1本です。
もっと素直にお願い事で手を合わせても良さそうですが、何かに挑戦する時は「どうぞ見守ってください。」と。でもこれも結局はお願いしていることですよね?!

熱心な友達は生ぬるい信仰だと言います。
彼女は熱心なある宗教の信者で暮らしの中にではなく信仰の中に生きているという感じです。

食事に誘われても結局はそのありがたさを説く話になるので、みんながだんだんと遠慮するようになってきました。本人は気が付いていないようですが…。
私もその話になると「早く終わらないかなあ?」と正直思うことがあります。

それを素直に聞けないのは修行不足なのかは解りませんが、人それぞれ心のよりどころはあるものです。

難しいことは解りませんが、信仰=感謝することだと思うのですが、いかがでしょうか?

今日もいい日にしましょう!


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