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1/1 #note書き初め

 明けましておめでとうございます。
 2023年もマイペースにやっていきますので、どうぞよろしくお願いします。
 久しぶりに小説家になろうで活動報告を出しました。
遠宮にけ・小説家になろう活動報告
 最後に出したのが八月だったという。


 noteに日記を書いていても、たまにこれは時間の浪費なのでは? もっと他にすべきことがあるのでは? と思うことがある。
 つまり焦っているんだよね。
 もっと「ちゃんと」やらないと、という焦りがどこかにある。
 でもそれと真反対に「ちゃんと」やりたくない気持ちも同時にあるんだ。

 それって一体どういうことなんだろう? 一体どこからくるんだろう? ってしばらく考えてみた。
 「ちゃんとしたいけどしたくない」は、正確に表現すると「自分の気持ちを差し置いてまで、人の期待に応えたくない」ってことだった。
 それでいて「人の期待に応えないでいるのは不安」
 だから焦るんだ。

 最初に「人の期待に応えないでいるのは不安」だから応えようとしてきた。それが降り積もった結果「自分の気持ちを差し置いてまで、人の期待に応えたくない」状態になったということだろうな。
 何がそんなに私から余裕を奪ってしまったんだろう。本来期待に応えることは喜びだったりするんじゃないかと思うのに。 
 たぶんそれは「自分の気持ち」を無視してきたことと関係があるんだろうと思う。


 先日『母親になって後悔してる』という本を読んだ。これについてはまた後日感想をまとめる。
 そのなかにこんなようなことが書いてあった。子供を大切におもっている、大事にしているし、周囲や子供からからもそう評価されていると思う。だけど私は心の底から「母親という役割を降りたい」。でも降りられないとわかっているし、現実に降りることは絶対にない。だからこそ後悔している。「母親であること」は、私が私自身であることを消し去ってしまうものだったから。
 私はそれにものすごく共感した。

 一人の人格を持つ人間として子供のことは愛している。素晴らしい存在だと思う。存在していてくれて嬉しいと感じる。そのことと私が「母親であること」を拒否したい気持ちとが両立する。
 これは「あなたの母親であること」をではない。一旦母親という存在になってしまったら最後「私の人生はもうおしまい」と知ってしまう。それを悼んでいるのだ。
 その絶望的な感覚について誤解なく伝えることがこの本でも成功しているとは思えなかったし、私自身もできそうにないと感じる。

 どうして一旦母親という存在になってしまったら最後「私の人生はもうおしまい」なのか?

 どうしても子供のことが私の全てに優先してしまう(これは何かの心理的ブロックなのだろうか?)。生まれて数ヶ月とか数年とかではない。この先、一生ずっと自分のことは自分にとって二番手になることを確信した瞬間があったのだ。
 手が離れて大人になろうと、子供がどこへ行こうともずっと心が縛り付けられている。私はもう自分のために生きることができきれない。そう痛感して「私の人生はもうおしまい」と後悔したことがあるのだ。


 その感覚について『あなたを愛しているつもりで、私はーー』の冒頭に少し書いた。主人公夕子の心の中の誓いとして。

結婚して子供ができたら、私の時代はもうおしまい。
これからは、深町家の嫁、誠治さんの妻、七緒の母親……。
深町夕子は、どんなときも家族を照らす太陽にならなきゃいけない。
ーーそう信じていました。
『あなたを愛しているつもりで、私はーー。娘は発達障害でした』

 とはいえ夕子の心理は、私の心理とは同じではない。
 私は誰かの妻であることや嫁であることにほとんど役割意識を感じていないし、家族の太陽にならなきゃいけないとは思っていない。
 特に、母親は家族の太陽であれという言葉には反発を覚える。
 地域にもよるのかもしれないけれど、私の環境では妻だから、嫁だからどうこうとは感じない程度に解放されていた。
 これらは親や社会からの刷り込みが原因だと思っている。
 ともかくも、夕子はこうして「私」を失う。この誓いを物語で否定するために私はこれを冒頭に置いたのだ。

 だけど私自身が母親であることは未だ「私の人生はもうおしまい」にダイレクトにつながっていると感じる。
 でも、それもやはり親や社会からの刷り込みだろう。
 子供の存在が私を失わせると感じさせるのではなく「社会が母親に求める期待」が私を押しつぶすから感じることなのだ。

 どこまでも女性に母親に責任を背負わせる社会に押し潰されて、抵抗できない圧迫感、恐怖が「(社会の求める)母親を降りたい」と感じ後悔することになる原因だと私は思っている。
 なのに女性が「母親の役割がしんどい、降りたい」と口にすることは、「子供のことが嫌なのだ、見捨てたいのだ」とすり替えて捉えられる。ほとんど誤解されて責められてしまう。
 愛情のない母親というレッテルを貼られたり、子供自身を傷つけることになるのではないかと怯えたりして、女性は自ら自身に「感じること」を禁じ、口をつぐむ。

 私はこのメカニズムを知らずにただ「私の人生が終わったことを悼む気持ち」や「この役割を降りたいという気持ち」に蓋をしていた。多くの女性がそうしてきたように自分の中のもう嫌だを「感じること」を禁じて、無視をして対応していた。そういうものだ、諦めなければならないと自分自身を説得して。
 私の無意識はどこかでそれを知っていて、社会が母親に期待する全てに応えるもんかと抵抗してきたんだろう。

 「人の期待に応えないでいるのは不安」だから応えようとしてきた。その結果「自分の気持ちを差し置いてまで、人の期待に応えたくない」状態になった。
 は、つまり「(社会の求める)母親を降りることが恐ろしくてできない」から「私の気持ちをうやむやにしてごまかしごまかしやってきた」けれど「もうそんなことはしたくない」だ。
 でもうやむやにした自分の気持ちを掴むのは恐怖とワンセット。どうせ許されないと思っているから思春期の子供みたいに「期待に応えないのに好きなようにもしない」で止まっている。
 そういうことか。

 私の望みはもう誰のいうことも期待も無視して、自分の思うようにやりたいってことなんだろう。そう望むほど、これまで長く自分のことを無視してきたってことなんだ。
 大人として社会人としてはどうなのかそれ? という感じだけどこれが新年の抱負になるのかなって思いました。
 なろうの活動報告にはもうちょっと自分をコントロールできるようになろうね的な感じに抱負を書いたけど、多分まだハードルが高い気がするね。

 そんな抱負でした。

 せっかくなので、作中引用した私の本を宣伝させてください。
 なんか今Amazonの在庫が少ない……。


 noteの企画にこういうのがあるので、気が向いたら乗ってみようと思います↓

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