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11/10 『マザー・マーダー』『子どもが心配』読了

 『マザー・マーダー』

 作者さんのnoteから興味を持って手に取りました↓

 五篇の連作短編が収められている一冊。
 語り手や、真っ当かと思っていた人物の歪みが見えたり、想像以上のエグい展開にぞくりとする。

 5人の語り手の物語からちらりと見える、キーとなる人物梶原美里と引きこもりの30男である息子恭介。彼らの住む家の中が気になって仕方がない。

 息子のことになると感情が極端に振り切れる美里。彼女は外から見るとモンスターだ。しかし、彼女自身の人生を思うと、なんというか、思わず拳をぎゅっと握りしめたくなる。
 思えば各短編も度を超えて思うままにしようとする自己本位な人間に振り回され、踏み躙られる物語たちだった。

 カントの「汝の人格及びあらゆる他の者の人格における人間性を常に同時に目的として取り扱い、決して単に手段としてのみ取り扱わないように行為せよ」と言うことばを無にするような扱い。それに私はぞくりとした。

 本当に自己本位な人は自分のしていることには無自覚だ。悪いこととはつゆとも思わず、正当化するために都合よく言動を変えながら、時に相手や自分以外の誰かのためとさえ言い、自分ではなく相手こそ自分を手段にしている、相手が酷いのだと認識する。
 そのように扱われてきた美里もその一人だろう。

 最終話、あのあと、希望を見ることができたらいいのに。

『子どもが心配:人として大事な三つの力』

 新聞の書評を読んで興味を持ったんだったと思う。
『ケーキの切れない非行少年たち』の宮口幸治さんとの対談があったのだ。
 支援は必要に与えられるのではない。本当に手立てが必要な子どもは精神科にこられない。支援に繋がらない。
 そのとおりだとおもう。
 宮口さんは支援に繋がらないまま犯罪にまで行き着いた子どもたちにこそ必要な手立てをと思い医療少年院で仕事をすることに決めたと言う。


 日本には障害を持つ子どもの受け皿ができにくいと個人的には感じている。
 それは『フェミ彼女』『ぼくはイエローで』の読了メモにも書いたけど、日本は学校に来る子どもたちが、多様なバックボーンをもつ人の集まりであることが当たり前のこととして認識されていないからだ。

 海外から日本は障害児を学習の場所から隔離するなと言われている。
 私はそれに半分賛成するけど、それは前述の多様性の認識がベースにあるならねという条件付きで、だ。

 他者と自分が同じであるかのように振る舞う日本で、支援級、支援学校を無くしてしまったら、他者との違いの大きい「障害を抱えている側」が、普通を強いる健常者の啓蒙のために、よけいに負担を背負うことになるのが目に見えている。
 人と違うことで弾かれ通常級で傷ついてきた子は、支援級に繋がってようやく彼らにとってのあたりまえに耳を傾けてくれる場所を確保したんだ。
 それを奪うことはすべきじゃない。

 日本の障害児の場合、海外のように他者と自分は違って当たり前な社会で居場所を確保することとは、ハードルの高さが違うのだ。現状の日本の通常学級のままで支援学級をなくせ、統合せよというのは支援が必要な人を追い詰めることにしかならない。

 しかし現状のままで良いとも思わない。
 分離することでますます通常級は振り幅の大きい人と出会う機会がなくなり人との違いを認識しづらくなる。同じであることが当たり前になっていく。
 そして同じではない支援級は「普通にできない」「劣っているなど」の負の印象をなすりつけられがちだ。そのレッテルを背負いたくないばかりに頑張らせ支援の必要な人を支援から遠ざけてしまう。肯定感を蝕んでしまう。
 それは支援級側の問題ではない。通常学級が同じであることを前提にしていることのほうに問題があるのだ。

 だから支援級をなくして通常級にするのではなく、通常級を新しく支援級のようにいろんな課題を持つ、いろんな背景を持つ、いろんな子がいて当たり前の場所にしていくんだという発想でなければうまくいかない。
 

 私たちは、みんな同じにする、自分たちの普通を人に押し付けることがハラスメントなんだ、それは恥ずかしいことなんだってどこかで気づかなければ。同じだろと押し通してきたこれまでが、楽をしすぎていたんだから。

 でもだからこそ、どこの国にもコロニーが発生するように、自分の近しい人とホッとする場所はなくてはならないんじゃないかと思う。自分の普通がそれほどまでは苦労しなくても通用するようなところが。
 たとえ支援級がなくなっても自分みたいな人たちと会えるように。
 自分と似たような課題を持つ人がそばにいることで救われることもある。それは浮きこぼれでも同様だ。

 分離させられるのではなく、普通からこぼれ落ちて行かされるのではなく、あなたのための場所(受け皿)があるように。

 
 現状学校では、親や本人が落ちこぼれを認めないと支援には繋がらない。
 認めたところで親に医療に繋げてもらえなければ支援は受けられない。
 しかも通院に療育となると親に相当時間的余裕がないと続かない。
 病気と違い、目に見えない分、認めることも、助けを得ることも困難なのだ。しかも負担が大きくて受けにくい。
 放置されて医療少年院にくるまで支援に辿り着けませんでした、なんてあんまりだけど、その道筋は簡単に想像できるじゃないか。

 ほぼ話が本から逸れているのだけど、思い巡らせたことということで。


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