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『やさしさに溺れる』 福々ちえ (推しの感想に見せかけた自分語り)

 Twitterで流れていた話をインスタグラムで全話読んだ。
 めちゃくちゃ泣いた。
 おすすめなのでみんな読んでほしい。
 それで推し活に見せかけた? 自分語りなどしてほしいと思う。
 今回の記事はフェミニズム、愛着障害関連に関心があれば、あーって思うかも。
 『やさしさに溺れる』はフェミニズム、母娘関係(愛着障害は関係ないかな)という感じです。

***

 語り手は、娘、母、娘の会社の先輩の三人。
 私はこの娘にも母にも気持ちを重ねて読んだ。


 最初は娘の語りだった。
 母の心配という感情が覆い被さってきて、これはしんどいよなって頷きながら読んだ。
 断りもなく侵入される不愉快さ。全く信用されていないと感じる惨めさ。先回りされる情けなさ。自分より自分のことをわかっているような口ぶりで、人生が塗り潰されてなくなってしまうような息苦しさ。相手は良かれと思ってしている。善意からだと疑わない。どれも少しずつ覚えがあった。

 私は息苦しさに耐えられなくなって20代の時期を家から遠く離れて過ごした。居場所も伝えず、連絡もしなかった。県内に入ったのは大好きだった曽祖母の危篤の知らせに一人で見舞いに行った時、それから葬儀に出た時くらいだ。
 語り手の彼女は期待に応える良い子だったが、私は下の子たちにとっての悪い見本のように言われて育った。いるだけで悪影響なのだ。何をやってもダメだった。
 だからいなくなることが、自分にとっても相手にとっても幸せなことだと信じていたのだ。


 母の語りに入ると、今度は自分を彼女の立場に置いて読んでいた。
 成人した娘のいるこの母は、シニアの入り口にいるらしい。
 私より10は上だろうか。
 けれど彼女の子供時代の経験は、団塊ジュニアの父を持つ私の経験と重なって感じられた。

 彼女は女の子だからと言う理由で進学を断念させられていた。男兄弟は座っていていいのに自分は家事労働をさせられる。

 私も君には学歴なんていらないんじゃないかと言われた一人だ。
 就職氷河期真っ只中。一応は進学校だったのもあって校内で就職する人の話なんて聞いたことがなかった。実際就活をしている人なんて11クラス中片手分ほどもいなかっただろう。
 だから、父や親戚から「女の子が大学に行く必要はないのでは?(ましてや県外なんてだめ、私学も無理)」と言われたときは、ショックだった。
 同じ教室にいても、県外の私学や予備校の話をする周囲の子たちとは違う。私の未来には手間もお金もかける価値がないのだと感じて悲しかった。

 女の子だけが気を利かせて、立ち働くよう求められるのが不満だった。
 家に集まった親戚の女たちもそれが当然とばかりに気を利かせた。
 地元にいる限り私もその一員になるよう求められるのだと思うと、絶望的な気持ちになった。

 公務員試験と併願(にはならないね……)で、国立推薦を受け私の受験は終わった。推薦の機会がなければ受験はできなかっただろう。
 すぐ下の弟はなりたくもない公務員試験なんて受けずに、当然のように受験勉強をするのだろうし、きっと学校も選べるのだろう。そして親戚の男たちの場所で女たちが立ち働くなか、飯を食いビールを飲み交わす大人になるのだ。私には与えられず、立ち働かされるのに。そう思うと悔しかった。

 弟にも何か思うところがあったのだろう。私と似たようにして家を出て、近寄らなくなった。私の想像は現実にならなかった。
 時代が変わり、実家に親戚が集まるようなことも、もうない。


 また語り手の結婚後の生活は、私が見た母の経験と重なるようでもあった。だから今度はそれを見て育った娘の気持ちに強く重なった。

 障害者の舅と気難しい姑、担い手のいない田畑を持つ長男の嫁として日々四苦八苦している母を前に、私はこの物語の娘のように「ママに幸せでいて欲しかった」と強く思っていた。
 思いすぎて自分は邪魔だと思ったのだった。私がいたら、ただでさえ気忙しいのに私の人生を心配することでもいっぱいになって、母は自分の幸せを考えてくれない。
 それと同じだけ自分も、自分を生きる勇気がくじかれると思ったのかもしれない。家から離れなければ、ここで求められている女たちの人生に絡め取られてしまう。何をしても無駄な気がしてしまう、と。

 あの家にいると、私は自分は無価値で可能性のない、どんなによく生きようとしても人に悪影響を与えることしかできない人間で、せめて自分を捨てて人の役に立つよう努めることだけができる唯一のことのように思ってしまう。
 そうなりたくなくて家を離れたのだけれど、どこにいてもその感覚は私の中に根付いていた。環境を変えても、感覚はすでに体内のそこここに滲んでしまって私自身と同化していた。すっかり私自身が自分をそういう人間だと決めつけていたのだった。
 そんな私がどんな親になったか。


 この話では「私が諦めたこと全部この子にはやってあげようと思った」と母が言う。私の母もそうだったのだろうと思う。
 しかし作中で彼女が反省するようにそれは「独りよがりだった」だろう。娘が欲しかったのはそんなことじゃない。

 私には娘はいない。
 でも子供が産まれて私が思ったのも、この母と似たようなことだ。
 自分が娘として強く望んだことが「ママに幸せでいて欲しかった」だったことも忘れ、自分を捨てて家族に尽くしてしまった。
 母のようになりたくない。あんなに自分のことを後回しにして人のことばかりしている人でなんていたくないと思うのに、それしかできなかった。


 私は親になっても、未だ自分に対する酷い評価を持ち続けたままだった。
 無価値で可能性のない、どんなによく生きようとしても人に悪影響を与えることしかできない人間。
 水面下で立ち働く女たちのように、自分を捨てて人の役に立つよう努めることだけが私にできる唯一のこと。
 それすら不適格で、なんならいなくなることが一番相手のためになるのでは? とまで考えたあの頃の私のまま。
 落ち込むでもなくそれを日が上ることと同じくらい自明のことのように思い、前提にして行動してしまう。 

 楽しむことに罪悪感を抱き、自分に投資なんて私にはすぎたこと。無駄なことだと諦める。
 評価されれば逃げ出したくなり、調子にのるな引っ込んでいろと自分が真っ先に楔を打つ。
 身近な人が悪感情を抱くと勝手に責任を感じ、整えようと必死になる。
 「安心するために」は、そうしていなければならないのだ。

 私は誰も求めていないのに自ら勝手に不幸になりに行き、身近な相手には自由な感情を認めなかった。
 そんな親やパートナーと暮らしていて相手が幸せを感じられるはずがない。

 善良な私の家族は「ママに幸せでいて欲しいから」いつもできるだけご機嫌でいなければならなかっただろうし、もっと自分の好きなことをやってほしい、贅沢をしてほしい、楽しんでほしいと願っただろう。
 私が母に願ったように。
 どうして私が勝手に不幸になるのか、わからなかっただろう。
 それは、私がこれまでの人生で一度もしてこなかったことだったからだ。私は全く反対のメッセージを受け取って育ってきた。
 大人の機嫌を取らねばならず、自分の世界に籠るなと言われ、出し惜しまれ、極楽蜻蛉がと罵られる。遊び出ることを許してもらえず、訪ねてきた友達は追い返される。
 私は自分のために何かすることが怖かった。



 この物語で母親が理解することとなった「子供を幸せにしたければ、親自身が幸せに生きること」を私が理解しはじめたのはここ3、4年のことだ。
 それまで私は自分が卑屈であることも、受けてきたのが人権侵害だと言うことも自覚がなかった。

 なぜならそれはありふれていたからだ。
 私の周囲の大人の女性たちが皆、当たり前のようにそのポジションでいたように、田舎の古い家では当たり前のことだった。
 それくらいのことを傷と言ってはいけないような気がしていた。

 大なり小なり女の子はみんな軽く扱われてきただろうし、反対に男の子も本人の適性や希望に関わらず過度の期待を背負い込まされてきた。
 母親は自分のことを後回しにして家族に尽くすのが仕事(家のことはお前に任せてある。子育ての責任は母親にある)だった。
 サポートは女に任せ、男は(特に長男は)責任ある仕事をし家族をリードしていかなくてはならなかった。

 自分の親が特別なのではない。みんなそうだったのだ。社会の構造上の問題として横たわっていた。なんなら若き母も取り上げられ押さえつけられた犠牲者、同志なのだった。

 18で家を出て以降、私は地元の価値観に触れていない。特に東京に出て結婚してからの暮らしは、ほとんど全く別世界だった。
 なのに私は新しい家族の中で一人地元の価値観を背負って生きていた。
 否定して出てきたのにも関わらず、当然のように大人になっても子供の頃扱われてきたように自分を扱っていた。
 幸せなはずなのに不幸だった。何が起きているのかわからなかった。自分で自分を不幸にしておいて、幸せなはずだ、幸せじゃないとおかしいと思っていた。


 今、私は自分が不幸だったことを認め、そばに誰も私を苦しめている人はいないことを理解した。他の人同様に、私にも自分を生きる権利があり、家族からそれを行使するよう望まれていると知った。自分が自分に与えなかっただけだ。
 居心地の悪さを感じながらも自分に与えることを始めた。やりたいことをやりたいように、自分のちょうど良いと思えるペースでする。
 まだ私は自分を生きるリハビリ中なのだ。

 娘の脳裏に幼い頃の母との思い出が溢れ出す、このシーンが私はとても好きだ。

 けれど私の中にそういうものはどうしても浮かべられない。浮かぶのは苦いシーンばかりだ。そしてそのことをなぜか申し訳なく感じる。
 このシーンで味わったような柔らかな感覚を幼い私は毛布やカーテンに求めていたことを思い出す。慢性的に感じていたのは身体的な淋しさだった。
 与えられなかったのは、母が健康を失っていたことや余裕が持てなかったことなど大人側に事情があった。
 下に歳の離れた妹たちもいて、そこを押して入り込むことは許されなかった。
 父が禁じたのだ。体の弱い母を持つ五人兄弟の長男だった父も、私と似た寂しさを抱き、与えられないできた。だから自分と同じ長子である私が親の関心を求めること自体許せなかったのだろう。
 やはりこれもやはり大人側の事情だ。
 けれど幼い子供はそれを理解することができずただ自分に理由があるのだと考えてしまう。
 他の誰でもない、私だから与えられないのだと。

 私は赤ちゃんの頃から泣いて眠らず母を困らせる子だと聞かされていた。そうして母の健康を蝕み、労わることもなかった悪魔のような娘だと刷り込まれていた。あなたのせいで病気になった、あなたのせいで今も体が効かない。その言葉を前にどうしていいかわからない。
 私には母を困らせようなんて意図は微塵もなかった。ただあまりに幼かった。子供らしくいただけだった。

 「ママに幸せでいて欲しい」けど、自分の存在がそもそも悪だから、それでも存在を許してもらおうとしたら、母が私に望んだように、でしゃばらず、わきまえて、人を立て、小さくなっていなければならない。
 全然できなかったのに私の奥底には母の求めが染み付いていた。
 普段は正常な判断ができていても、動揺するようなことが起きて安心が感じられなくなると(それは良いことでも悪いことでも同じだ)この卑屈な態度が真っ先に顔を出して、全部いらない、だから存在を許してねと顔色を窺うのだ。
 今の現実では、そんなことをしても人を困惑させるだけで全く効果的ではないのに。


 私は悪くない。不幸だった。
 そう認めることは難しかった。
 けれど実際私は悪くない。責任を背負わされてきただけだ。
 自分の存在を迷惑で申し訳ないものと決めつけて、どんなチャンスも自分にはふさわしくないと遠ざけてしまう子供が不幸じゃないわけがないだろう。
 それを認めることに人生の半分の時間がかかってしまった。


 『黒いネコの友達』を書いていた頃、私にとって小説を書くことは、どこかでブレーキをかけてしまい未だ感じられないでいた幼い私の感情を感じようとすることだったのだと思う。
 その後『星に願う』で母を困らせる悪い子(私)ではなく娘に困らされた? 母の気持ちをなぞるように小説を書いてしまった。それは、私が自分の不幸を認めまいとする力を強化したかもしれない。

 『やさしさに溺れる』で描かれたような、その時代の女の子がみんな受けていたような社会の構造上起きていた人権侵害と、どうしてうちはよそとこんなにも違うんだろうと感じたことを区別しないまま、私は、こんなことは誰にでも起きたこと、そんなことくらいで傷つくのはおかしい、みんなそれでもちゃんとやってる、と自分の傷つきをまともに受け止めようとしなかった。
 もちろん人権侵害によって起きた傷も受け止められ、権利も尊重されるべきだ。なのにそれくらいのことと矮小化して、傷つく女が弱いと蔑んでいたことがわかる。
 自分の傷つきを同じようにして無視し、自分のせいにしてしまっていたからそういうことができたんだろう。
 それらは効果が全くないどころか女性の人権が奪われている環境を現状維持すること、子供の頃のように自分自身を無価値化することに力を貸してしまっている。

 不幸でいようとするのはやめよう。
 それは全く逆効果だと理解したのだから。
 それだけで一歩進める。


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