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9/8 視聴・読了『AKIRA』『たゆたえども沈まず』『ゴッホのあしあと』

 8月の日記に読んだという記録だけを残して、感想を残してなかったものたちを発見。
 今更ながら一言だけでも残しておこう。

『AKIRA』

 ネタバレだらけの考察なんだけど面白かったので↓

 見たのは映画。舞台は2019年の東京。公開は1988年。
 1988年の子供たちが未来を想像したとき、近い未来に第三次世界大戦が起きるのではという発想はごく自然なものだったように思う。まさにその時代の子供だった私はそう思っていた。幼くて難しいことは何も分かってなかったけれど。
 文化や人物像は未来というより当時の懐かしさを感じる。どんなか上手く言えないんだけど、街の感じや子供たちはああいう感じだった。少なくとも私の周囲は映画に描かれていたような雰囲気だったように思う。(ほんとどんなかうまく言えない……)


『たゆたえども沈まず』『ゴッホのあしあと』

 ゴッホについて。その時代背景を含め、こちらのブログ記事が理解しやすかったです。

 こちらの二冊は大好きな書き手のたびーさんにゆずっていただいたもの。『たゆたえども沈まず』が小説で『ゴッホのあしあと』はそれにまつわるエッセイです。
 美術館でゴッホの絵を前に彼の人生をなぞりながら、このままでは芯から膿んで溶け出してしまう、と苦しくなったことを思い出しました。
 誰にも届かない。価値がつかない。それでも自分を信じる。逃げずに居続ける。人は病むことなしにそんなふうに居続けることができるだろうか。
 見てくれる画商のテオは弟だから、どんなに認めてくれようと、他者というより自分の延長のように感じカウントできないと思うのです。
 創作仲間の数人が認めてくれていると感じたとしても、ただ売れない、対象に見向きもされないという現実は彼を打ちのめし……だからヘタレな私なんぞは「フィンセント、もうやめて」と叫びたくなったりする。
 『たゆたえども沈まず』にはフィンセントを認めテオを支えた人物がいる。そのうちの一人はマハさんの創造した架空の存在であり、もう一人はゴッホ兄弟との関係をはっきりと証明するものがない人物だ。けれど、そういう存在に生きているうちに密かに認められ、世に出ることを願われていたと思っていたいじゃないか。
 そんなことを思ったのでした。



 あとは思いつくままに。

 美術館に行くのが好きです。
 好きになったのは中学生の頃、美術部の先生に連れられて色々めぐったからかもしれない。
 美術部員だったけど、私は自分の絵に愛着も価値も感じられなかったし、自信も持てなかった。ゴッホと違い私は早々に自分を諦めていたのだ。反応を知る勇気がなくて逃げ腰でいたので、大した努力もしない美術部員だっただろう。元来自分は不器用なのだという強い思い込みもあった。

 今にして思うと実際不器用で絵が下手くそだったというより、そういうキャラであり、ポジションであることが必要だと幼い頃に学習したんだろう。そのポジションでないと落ち着かない。人より一段劣っていることが、ミソッカスで誰の脅威にもなり得ないと証明することが、うまくやる方法だと理解したんだろう。

 私の周囲で「不器用な自己像」を持っていたのは母で、不器用だから彼女を愛したのは父だ。先日学んだエリックバーンの書いたとおり、子供の私は身近な環境に学んだ(真似んだ)。それから外でも同じ現実を作り出し自身に証明してきた。
 私は母を真似ることで、周囲に不器用で何も持たない私を喜ぶ相手を引き寄せて、このやり方の正しさを証明してきたということだ。こうして「不器用な自己像」はすっかり強化、内面化されてきたのだな。

 それは子供の頃の環境では人とうまくやる上で最もうまく行く戦略だったのかもしれない。でも今は全く効果的じゃない。自分がミソッカスだと証明できない事態に直面すると、ミソッカスであろうとしてしまうからひとり空転する。ミソッカスだと言ってくれる人を求め安心しようとする。ミソッカスだからいてもいい。ミソッカスだから愛される。それを確認しようとする。
 けれど本当にミソッカスでいたい人なんかいない。自分を諦めるのは誰にとっても辛いことで、人は反応を求める。評価されたいと願う。
 そうなると安心を求める気持ちと自分の本当の望みとの間で、矛盾した行動を取ることになる。その態度はとても不審に映るはずだ。周囲がミソッカスな私を求めたりしない、健全なものであれば、必ず。
 こうして自分がしていることがどういうことか、わかってくると、これまで安心だと思っていた周囲の相手がどういう人間か見えてくる。自分に内面化されたものをつぶさに特定できたら、つまみ出して新しいやり方を身につけられる。
 私が忘れたくないのは、その健全ではない相手も私と同じように自分の信じる何かを証明しようとしているただの人なのだということ。私の態度が知らず不審であったのと同じ。その相手も自分がしていることがどういうことかわかっていないし、彼の周囲に残る人間も彼をわからないままにする。外にいる人だけがそれをただ不審だなと思うことができる。私はその場所から小説が書きたい。

 美術館が好きって話だったのにあちこちしたな。
 私は中学の時、岡山の大原美術館で見たムンクの『マドンナ』に取り憑かれた。どうしても手元に欲しくなった。どうしても、どうしても。「どうしても」となるような感情はそうそうないし、誰になんと言われようが大事にした方がいい。そういうことを軽視してきたことを悔やむ。
 今日はそんなところで。

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