バトンを握るべきか。

辻褄が合ってない時の居心地の悪さと
面白味が最近どんどん強くなってきてます。

施主が選ん物件と
施主の望むことと
作るべき空間と
の辻褄も当然考えます。

最近はさらに
過去の建築やデザインの歴史や背景と
これからの建築やデザインのイメージとの辻褄も考え出しています。

これからどんな仕事をしていこうか?
今後何を作っていこうか?
みたいな漠然とした悩みのようなもので
そこにはどう独自性を作っていこうかみたいな
問いかけが自身にあったりもします。

昔から時代を象徴するような建築家やデザイナーはいて
パルテノンのカリクラテス
タージマハルのラホーリー
サンピエトロのミケランジェロ
カウフマン邸のライト
光の教会の安藤忠雄
国立新美の黒川紀章

コルビュジェが前川國男を育てて
前川國男が丹下健三を育てて
丹下健三が磯崎新を育てて
磯崎新が坂茂を育てて〜
みたいな血脈もあって
当然直接的な師弟関係はなくても
彼らが作った作品に僕も触れているわけで。

時代ごとに彼らが繋いできたバトンみたいなものがあって
当然僕も受け取る選択肢があったり
安藤忠雄みたいにバトンを受け取らずいきなり走り出しすこともできたり。

そういう時代感の中での辻褄も考えていけるといいと思ったり。

彼らは物質的には建築を作ってるわけだけど
構築してるのは思想だったり哲学だったりする。

石工や大工の知恵と数学や物理の知識とアートのハイブリッドで生まれたのが建築家やデザイナーのポジションで
だんだんペーパーに図面を描くポジションになり
最近ではデータと3dプリンターを操るポジションになってきて
物質から非物質への流れ。

ロマネスクからゴシック
ゴシックからルネサンス
ルネサンスからバロックやロココ

みたいな感じで
建築やデザインのブレイクスルーの瞬間が過去には何度もあって
新しい設備
新しい技術
新しい材料の誕生の瞬間がブレイクスルーの瞬間だったりで
2020年から2030年にかけてもそのブレイクスルーが訪れる気がしています。

ブレイクスルーが訪れても
そこに哲学や思想がなくては残らないと考えてて
自身の思想と哲学を編み続ける必要があるなと。

コモディティ化した今の建築インテリア業界で唯一の差別化する手段として
思想や哲学は有用でもあるので
本は読まなくてはならないし
人と話さないといけないし
文は綴らないといけないし
宇宙を妄想しないといけないし
瞑想しないといけないわけで。

結果的に「徳を積む」に着地するので
「やったことないことをやる」が概ね正しく
最近仲の良いお坊さんとの話の毎回の着地点とも辻褄が合ってきて大変気持ちいいです。

「ニーチェを読んでない人とは話せない」

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