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「鳥かごのハイディ」第十一話

Smoke
(2)

 誰かがわたしの名前を呼んでいる。

「チャーリー? チャーリー?」

 名前を呼ばれるたびに、心が苦しくなる。

「チャーリー?」

 ……アガサ?
 我に返った途端、息をするのも忘れていたかのように苦しくて大きく息を吸い込んだ。必要以上に膨らんだ肺が痛み、今度はむせるように咳き込んで萎んでいく。
「チャーリー? 大丈夫? 落ち着いて水を飲んで!」
 アガサがわたしを抱きかかえ、どこからか持ってきたペットボトルの水を口に含ませる。拒絶した彼女に結局助けられ、用意してくれた水を飲み込むと、わたしは青ざめた情けない顔で呼吸を宥めている始末よ。
「落ち着いた?」
 少し時間を置いて、側で様子を見守っていたアガサが訊ねる。恥ずかしさのあまり、まともに顔すら見れずに、わたしはごまかすように答えた。
「わたしが吸ってた煙草に間違いないのに、ちっともおいしいなんて感じないわ……」
 アガサと接していると、どこか他人とは思えない親近感がある。これまではそんな親近感も全部引っくるめて、彼女のことを変わり者なんだと思っていたけれど、今日一つだけ、はっきりわかったことがある。
 ――彼女は絶対に失くしちゃいけない友達だってこと。
「ねぇ……ごめん」
 俯いて小さくつぶやくと、アガサは意地の悪そうな笑顔でわたしを見た。それからわざわざ正面に回って座り込むと中指を立てながら言う。
「許してあげるわ。今回だけは特別にね」
 冗談めかすいつものアガサに、わたしはとても安心させられていた。

 まだ部屋に立ち込めるメンソールの香り。灰皿の上に燻る煙草を見ながら、不意にアガサが訊ねる。
「チャーリー。最後に、煙草を吸った日のことを覚えてる?」
 アガサの言葉に記憶を辿ると、すぐに甦ってくるのはミルウォーキーの高校に進学して一年を終えた最初の夏休み。初めてエレノアの前で煙草を吸って、ひどく咎められたあの日の記憶だった。
「細かい日にちは覚えてないけど、夏休みの間に吸ってたのは間違いないわ」
「もしその記憶が正しいなら、しばらく煙草から遠ざかってたことになるわ。体がびっくりして、咳き込んだりするのも無理ないんじゃない?」
「……そうね」
 そう話してくれるアガサの言葉に無理矢理納得するように立ち上がると、わたしは残りの煙草を彼女に返して言った。
「わたしもあなたと同じ。ただ家族の気が引きたかっただけだわ。正直、煙草を吸ってる自分にすごく違和感があるし……」
 家族でもない他人に向かって、自分の正直な気持ちを伝えることってとても勇気がいると思う。
「知ってる」
 わたしの本音を聞いたアガサは、からかう訳でもなく微笑んだ。そんな彼女との関係が今はとても心強くて、そして心地好い。

 家族の気を引きたかっただけ……。レクリエーションルームの小部屋の狭い階段をアガサの後ろについて下りるとき、わたしはさっき彼女に話したその言葉を思い出していた。
 家族の気を引きたかった。
 たしかにわたしはずっとエレノアの気を引きたかったし、それが本心だって思っていた。でもそれをはっきりと声に出してアガサに伝えたとき、妙な違和感があったんだ。
 昨日煙草を吸って咳き込んだとき、アガサは言った。
「煙草の味を覚えて、家族の気を引こうとした」って。
 彼女くらいの歳なら、もう十分自立した大人であることは間違いないし、今さら反抗期を迎えて家族の気を引こうなんてと、わたしはバカにしたけど、まさに今、そんな言葉を自問自答してみれば、わたし自身一体なんのために煙草を吸い始めたのか? その心当たりが中途半端なまま。まるで、誰も乗ってない公園のブランコが空虚な風に揺れているようだ。
 わたしがエレノアの前で煙草に火をつけたとき、エレノアの悲しそうな顔を見てわたしは何を思ったんだろうか?

 胸がスッとした? 
 嬉しかった? 

 多分そのどちらでもない。事実わたしは、あのときのエレノアの顔――涙ながらに煙草をやめるように訴えた表情が今でも忘れられないし、こうして思い出すたびに、この胸に鋭いアイスピックを突き付けられたように息もできなくなってしまう。
 そもそもわたしはエレノアのことが大好きだったし、いつも彼女の後ろを追いかけていた。じゃあなぜわたしは大好きだったエレノアを悲しませるようなことをしたんだろう? 
 煙草を吸い始めたきっかけを探ろうとして、いつの間にかわたしの頭の中はエレノアのことでいっぱいだった。
 いつまでも一歩踏み出せないわたしとは対象的に、いつでもわたしの一歩先にいる彼女。なんでも自分から率先して行動し、何事も器用にこなすエレノアと、いつも彼女の後ろからついて回り、彼女の真似ばかりする不器用なわたし。
 見た目はまったく変わらないわたしたち双子の、一体何がこんなにもわたしたちを変えてしまったんだろう? 
 エレノアのことを思うと、不安で胸が押し潰されそうになるよ。どうにもならない真っ黒な怒りに似た感情に飲み込まれてしまいそうになるよ。離れ離れで満ち足りない気持ちで涙が溢れそうになるよ。
 ――エレノアのことを思うと……。
 わたしたち双子が、もうそれ以上に詰めることのできない距離は一歩だったはずなのに、今では何十歩と離れてしまった気分。追いかけても、追いかけても、エレノアとの距離が縮まらずに焦る自分がいる。
「エレノア? 待ってよ! ねぇ! わたしを置いていかないでよ?」
 まだ幼かった頃の、エレノアに追いつくために必死だった自分の姿がなぜか脳裏から離れないんだ。
 まるで、白昼夢に襲われてる気分。わたしの足元は音もたてずに崩れ始めて、急に目の前が真っ暗になると平衡感覚さえも失って暗闇の中に浮かぶんだ。
 真夜中に目を覚ましたエレノアと一緒に、寝室を抜け出して裏庭で飛ばしたシャボン玉みたいに。そして人知れず弾けて消える。
 でも、その瞬間だけはどんなに暗闇であっても、弾けたシャボンがキラキラと輝いて、誰の目も見逃すなんてできないほどに眩しく見えるんだ。

「チェック!」

 扉を少しだけ開いて外の様子を伺っていたアガサが、突然突っ伏したように倒れ込むと、レクリエーションルームの扉の外では看護師長のクレアが、苦い顔をしながらわたしたちを睨んでいた。
「ほら! 絶対チャーリーのせいよ! あんなに堂々と部屋に入ったからバレてたのよ!」
 クレアに抱え起こされながら、アガサがわたしに野次を飛ばす。
「ごめんって謝ったでしょ?」
 わたしは口を尖らせるけど、そんなわたしたちにクレアは呆れたように一蹴した。
「どっちも初めからまる見えだったわ。部屋を利用したいなら、私たち看護師に許可を取りなさい」
 ナースステーションの前でこんこんとクレアにお説教を受けてる間中、わたしたちはお互いの顔を見ながら吹き出して笑った。
 アガサといると、子供の頃の自分を思い出す。内緒でキッチンの戸棚に隠してあるビスケットをエレノアと一緒につまんでは、今みたいに二人並んでママに叱られたっけ。
 見つかってしまう原因はいつもわたし。食べ方が不器用過ぎていつも食べかすが口の回りについてたから、すぐにバレてしまう。そしてママにお説教を受けてる間中、隣のエレノアと目が合うたびにすごく楽しくなってしまうんだ。そんな懲りない双子に、ママも呆れ顔で最後には笑って許してくれる。

 エレノア……あなたは今、どうしてる?
 エレノア……わたしはあなたに会いたいよ。

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