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「鳥かごのハイディ」第六話

第二章

Haze

 レベッカに付き添われたアガサを見送ったわたしは、彼女たちが消えていったエレベーターホールをぼんやりと眺めていた。
「アガサが戻ってくる頃になったら看護師に連絡をして、君を呼び出してあげるから、それまで談話室か自室で過ごすと良いよ。廊下にいたら、体が冷えてしまうよ」
 気遣かってくれるモーヴィーの言葉に甘えて、わたしは談話室へと引き返してアガサを待つことにした。
 水色の扉を開けて談話室へと入る。幾つか備え付けられているテーブルの一つには、まるで画材屋のようにテーブルいっぱいに道具を広げたアビゲイルが夢中で画用紙に向かって色鉛筆を走らせているところだった。
 スタッフや仲間からはアビーと呼ばれている。けれどどんな名前で話し掛けられたところで、彼女が反応することは滅多にない。ただ一日中、ああして夢中で絵を描いているか、霊を見た猫のように突然宙を眺めてはブツブツつぶやくだけだった。
 このフロアの住人の中でも、アビーは一際特殊な雰囲気を持っている。見た目はわたしのママと変わらないくらいの歳なのに、ふとした瞬間にとてもあどけない表情を見せたり、かと思うと落ち着き払った修道女のような振る舞いをしたりする。
 ただ共通して言えるのは、彼女に絵心があるようにはとても思えないってことと、自分以外の人間がまるで見えてないってこと。
 元々は何かのアーティストだったってアガサが教えてくれたことがあるけど、あの情報通のアガサでさえ、アビーに関する事柄で知ってるのはそれくらいだった。
 アビーの白くて華奢な両手首には、今も生々しい傷跡が数えきれないほど残っているし、その中の幾つかはまだうっすらと赤みを帯びていて、見ているこっちが思わず目を逸らしたくなるほどだ。
 そんな彼女がテーブルに座って夢中で何かをスケッチする視線の先には、寒がりベティーがいる。ガリガリに痩せ細っているベティーは、いつも具合が悪そうに青白い顔をして、ガタガタと震えながら大袈裟に何枚もの分厚いコートを羽織り、さらにその上から何枚もの毛布で体を覆っている。
「寒いだけよ」
 本人はそう主張するけれど、わたしの目には、どうあってもそんな風には映らない。顔中、汗でべっしょりになって、それでいて目も虚ろな彼女は完全に精神がどうにかなってしまってるようにしか思えないからだ。
 たしかにこのリハビリ施設は、自殺願望を抑えるためのプログラムであることには違いないんだろうけど、彼女ほど病んでしまった人間の自殺願望など、どうやったら抑えることができるのか疑問でしかなかった。
 わたしは、ベティーを夢中でスケッチしているアビーに近づき後ろから覗き込む。だけどそこには何も描かれてはいなかった。正確には、たしかに描かれているんだろうけど、それを見ることができないんだ。
 ベティーを真剣な表情で見つめながら、真っ白な画用紙に走らせるのは、真っ白な色鉛筆。――アビーはその手に白い色鉛筆を握りしめ、画用紙に向かって擦りつけるように一心にスケッチを続けていた。一体ベティーの何を描いているのか見当もつかない。
 わたしは、アビーの傍に静かに腰掛けると訊ねた。アビーがわたしの呼び掛けに応えてくれるとは思わなかったけれど、ひたすら白い色鉛筆を走らせる彼女に、万が一にも不愉快な思いをさせないようにと、気遣って声をかけたつもりだった。
「素敵な絵ね。一体何を描いているの?」
 小声で訊ねると、アビーはそれまで夢中で走らせていた色鉛筆をピタリと止め、振り返って唇の前で人差し指を立てた。
「シィーッ! 静かに。ありのままのベティーをスケッチしておきたいの!」
 少女のような仕草と表情で、小声で叱る。
「ごめん、ただあんまり素敵だったから、何を描いてるのか気になったのよ」
 まさか問い掛けに反応してくれるとは思ってもみなくて慌てて答えると、既にアビーはベティーの方へと視線を戻して、色鉛筆を夢中で画用紙に擦りつけていた。
 このフロアにいる住人たちは、本当に気難しい者ばかり。でもそれは、共にこの場所で生活するわたし自身にも言えるのかもしれない。
 それ以上は何も答えてくれそうにないアビーに深いため息をついて、静かにその場から立ち上がろうとすると、唐突な言葉が聞こえた。
「自分のこともまるでわかってないあなたが、一体他人の何が理解できるって言うのよ?」
 さっきまでのあどけない声色とは違って、どこかヒステリックにアビーがつぶやく。
「え?」
 あまりに唐突に思える内容に、よく理解することができずに訊ねなおしても、アビーは画用紙に覆いかぶさるようにしてブツブツ言いながら色鉛筆を擦りつけていた。
「真っ白になる……真っ白になる……」
 アビーは呪文のようにつぶやき続けていた。
「真っ白になる……真っ白になる……」
 壊れてしまった時計の秒針が、同じ時間を指しながらコチコチと震えるように、アビーは何度も同じ言葉と同じ行為を繰り返す。
 真っ白な色鉛筆を力任せに画用紙へと擦りつけて。
 次第に擦り減っていく色鉛筆の芯と、ボロボロになっていく画用紙。興奮した彼女のその白い肌は赤みを帯びて、今も手首に残る傷痕だけが、ぼんやりと浮かび上がって見える。
 今目の前で起こっているこの状況がどれほど異常かは自分でも良く理解してるつもりだ。それでもわたしは、そんなアビーの姿を一瞬足りとも見逃したくないと感じたんだ。
 鉛筆という心の芯を擦り減らしながら、画用紙という器をボロボロになるまで傷つけていく。このフロアで生活する者たちはすべて、大なり小なり、目の前でアビーが表現してる色鉛筆と画用紙のような人たちばかり。
 黒い画用紙には黒色の鉛筆を、青い画用紙なら、青色の鉛筆を。相手がどんな人間であっても、きっとアビーは表現してしまうんだろう。
 彼女は、それくらい自分自身のことがわかっているんだ。そして、ボロボロになった画用紙を開いては、自分には何もなかったことを知る。
 あんなにも、自分の生きた人生の色んなものを書き溜めたはずの画用紙に、実は重要なものはおろか、書き留めた文字すら認められないほどに軽薄な人生だったということを。
「あら? アビー。画用紙がボロボロじゃない」
 背後から声をかけたのは、看護師長のクレアだった。
「さぁ、新しい画用紙を用意するから、今度はそれにチャーリーを描いてみてくれない?」
 クレアが、新しい画用紙を取り出してアビーに渡すと、彼女は黙ってそれを受け取り、今度は赤い色鉛筆を走らせ始めた。
「彼女はとても不思議な人でね、相手を見ただけで、どこかその心の内までも見通したような言葉をたまに言ったりするのよ」
 クレアはわたしの隣に立つと、アビーを見つめながらつぶやいた。
「でもきっと、実際にアビーは人の心が読めるんだと思うわ。さっきだって、自分自身のことがわかってないみたいに言われたもの」
「この世界に、本当に自分自身のことを知り尽くしている人が、一体どれほどいると思う?」
 首を傾げながらわたしを笑顔で見つめると、クレアは再びアビーに目を向けた。
「人って生き物は、とても脆くて、そして繊細なものよ。例えるなら、小川の水を、両手ですくったようなものだって思うの」
「どういうこと?」
「そうね……。あら? 完成したみたいね。アビー画伯が描くチャーリーは、どんなかしら?」
 夢中でスケッチしていたアビーの手が止まったのを見て、クレアは進み出てそれを手にとり、わたしに見せてくれた。
「チェリー……」
 画用紙の真ん中に描かれていたのは、一組の可愛らしいサクランボだった。一つはとても小さな実で、そしてもう一つは、もう片方よりも遥かに大きな実をつけている。二つ並ぶと、少しいびつに感じられるそのサクランボが、アビーから見たわたしなんだろうか? 
 クレアが言う。
「例えば、あなたの右手が体なら、あなたの左手は心よ。その両方をピッタリとバランス良くくっつけて、初めて小川の水を零さずに口に運ぶことができるわ」
 クレアが再び新しい画用紙をアビーに渡すと、それまでわたしに体の正面を向けていた彼女は椅子をずらしてベティーに向きなおり、真っ白な画用紙に白の色鉛筆を擦りつける。
「こんなこと、いつまでやらせるつもりなの?」
「さあ、いつまでかしら? きっとそれは彼女自身が答えを見つけるまで」
 一心不乱に色鉛筆を握るアビーの邪魔をしないよう、クレアはそっと彼女から離れると、わたしの傍に座った。
「チャーリー、あなたはいつまでもここに留まっていてはいけない人よ。その羽を広げて、外の世界を自由に飛び回ることができる人だもの。だから辛くても、自分自身と向き合うことを諦めないで」
 クレアがわたしに一体何を望み、そしてどう振る舞ってほしいのかもわからないままに、ただわたしは彼女の顔を眺めるだけ。
 本当ならこんな場所すぐにでも出ていって、エレノアやパパが住むラクロスに帰りたいと願っているし、いつまでもここに留まってるつもりだってない。でも、今すぐ愛する家族の元に戻ったとしても、きっとわたしはまた同じ行為を繰り返してしまうんだ。
 内から湧き上がってくる闇が、心から離れない。耳元で囁くあの声が、頭から離れない。
「お前は幸せにはなれない、幸せになんてなっちゃいけない」
 その不思議な声の魔力に囚われて、わたしはまた境界線を越えようとしてしまうんだろう。空に浮かべたシャボン玉が一瞬にして弾けて消え去るのを、期待に満ちた心の内でイメージしながら。
 アビーの目から見たわたしが、あの左右不揃いな一組のサクランボなら、きっとクレアが言うように、わたしの体と精神はそのサクランボのようにいびつで、小川の水を上手に口まで運ぶことができないのだろう。
 じゃあ、どうすればわたしの両方の手は、小川の水を零さずにすくうことができるのか? 今まで、意識せずにできていたことが、突然できなくなってしまったようなもどかしさと苛立ちが自分の中に湧いてくる。
「そろそろ時間ね。モーヴィーにあなたを呼んでくるように頼まれたの。アガサが戻ってくる頃よ」
 クレアはアビーに寄り添いながら、わたしに言った。
 でも、それだけ。
 結局のところ、ここの看護師長であるクレアですら、どのように振る舞い、そしてどんな風に自分自身に向き合えば問題を解決できるのかなんてわからないんだ。
「ありがとう。行ってみるわ」
 心にも思ってないような薄っぺらな感謝の言葉を挨拶程度に吐き捨てると、わたしは再び歩いていった。

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