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「ファミリア」第七話

Cate Cooper(6)

 ディランシー総合病院が、フィラデルフィアのどの辺りにあるか見当もつかない。運転手にそんなことを訊く余裕もないし、窓から街の景観を確認する余裕もない。今すぐにでも病院に着いてくれれば良いのに! その思いだけで頭の中はいっぱいだった。
 タクシーに飛び乗ってからどのくらい経ったのか?
 通り過ぎていく景色が異様にゆっくりに感じられる。それがゆっくりに感じられれば感じられるほど、この皮膚は傷つけられ血が滲んでいく気がした。切り傷から流れる血が内側へ侵蝕し、やがて心臓まで止めを差しにくる。この胸はいたぶられるようにじわじわと締めつけられていった。
「ねぇ! 病院まではどのくらいかかるんですか⁉ もう随分車に乗ってますよね⁉」
 堪らずに口を開くと、彼はルームミラー越しに言った。
「車を走らせてからまだ五分と経ってないぞ? ディランシーはイタリアンマーケットの近くだからあと十分くらいはかかる。嫌ならここで降りてもらっても構わないが」
 こんな大変なときに人の神経を逆なでするような言葉を投げ掛けてくるなんて! わたしは男から目を逸らすと、「とにかく急いでよ!」と吐き捨てた。
「なぁ、お嬢さん。焦る気持ちはわかるが、もうそろそろ渋滞も始まる時間だ。今ここで君が慌てたって仕方ないだろ? 今はお母さんの無事を信じるしかないんじゃないか?」
「わかった風な口利かないでよ! 病院の先生でもないくせに! 早くわたしを病院に連れていってよ!」
 お母さんが事故で病院に運ばれたって言うのに、人の気持ちを知りもしないで、この運転手はわたしを適当に言いくるめて大人しくさせようとしてるのが見え見えだった。
 所詮他人事なのよ⁉
 やるせない苛立ちに歯を食いしばり、膝の上で両手を握りしめると、いつの間にかジーンズの太もも部分がぐっしょりと濡れている。運転手がミラー越しに心配そうにチラチラと見てくる。わたしはいつからこんなに涙を流していたのか。
 それからしばらく無言のままタクシーは走り続けると、やがて渋滞の列に捕まって速度を落としていった。
「ほら? 見えるか? 正面右手にでかい建物が見えるだろう? 建物の屋上で赤い光が点いてるやつだ」
 運転手のおじさんがわたしに振り返り、前方を指差した。
「わかるわ、あの大きな建物ですね」
「直に渋滞でこいつは完全に停まっちまうから、そしたらそこから走って病院に行った方が早いぞ!」
「わかった、ありがとう」
 やがて先が見えないほど長い渋滞に阻まれて、タクシーは完全に停まった。メーターは、$6.25を表示している。たったこれだけ? もう随分と経った気分だったのに、料金から考えれば乗車していた時間はせいぜい15分か20分だった。
 バックパックから「もしも」の封筒を取り出すと、運転手の男に8ドルを支払ってタクシーを飛び降りる。
「この道をまっすぐ行くんだ! 半マイルも進めば入口が見えるはずだからな!」
 タクシーを降りると病院だけを目指して駆け出す。背中から「がんばれよ!」という叫び声とクラクションが鳴ったのが聴こえたけど、振り返らずに無言で走り続けた。

 走る足に力が入らない。運動は得意なはずなのに少し走っただけでもう息苦しかった。走れば走るほど病院が遠ざかっていくような感覚と、近づけば近づくほど上がる息に比例して不安が溢れ出してくる。
 体中が熱い。足が言うことをきかない。焦る気持ちとは裏腹に体を自由に動かすことが全然できない。悪夢にうなされて得体の知れない何かから必死で逃げてるみたいだった。
「ちょっと通してください! どいて! お願いだからどいて!」
 やっとの思いで駆け込むと、病院の総合受付は沢山の人で溢れかえっていた。たかる人波を無理矢理掻き分けながら、列の先頭へと進むと、カウンター内では複数のスタッフが忙しそうに対応している。
「すみません! ケイト・クーパーです! 電話があって、母がこの病院に運ばれたって! 母の名前はジェシカ・クーパーです!」
 一番近い場所にいた男性スタッフに声を掛けると、彼はちらりとこちらを見ただけで、ちょっと待てといったジェスチャーをとり、正面にいた老夫婦にのんびりと説明を続けている。
「ちょっと⁉ 緊急だからすぐ来てくれって言ったのはそっちでしょ‼ お母さんはどこにいるの⁉ 場所さえ教えてくれれば自分で探すわよ!」
 ヒステリー気味に叫ぶと辺りは一瞬静まり返り、再び騒音に飲み込まれていく。
 騒ぎを聞きつけた別のスタッフが駆け寄ってきて言った。
「誰かがここに運ばれたの? 名前は?」
「ジェシカ・クーパー! 先生の名前は確かローレンスって人よ」
 わたしの話を聞いた女性スタッフは、医師の名前を聞くと肯き、自分について来るように言った。
「ローレンス先生ってことはERね。今日、イタリアンマーケットで事故があったから、きっとその患者じゃないかしら?」
「あのっ! お母さんは……母は大丈夫なんですか⁉」
「ごめんなさい、私ではわからないわ。ERに連れていってローレンス先生を見つけてあげるから、直接先生に訊いてみて」
 足早に歩く女性スタッフの後ろを追いながら、何度も角を曲がり扉を抜けていく。病院内の廊下が延々と長く感じられた。ERと呼ばれる場所はどうやら正面玄関側から正反対の位置にあるらしく、移動するだけでも息が上がってしまいそうだった。

 廊下の先にやがて見えてくる薄い扉を押し開けると、そこは受付の人波が嘘のような別世界だった。大勢の怪我人や、具合の悪そうな人たちで溢れ返っている。処置室が空いていないのか、廊下で処置を施されている人までいる。
 皆、苦しそうにうずくまったり、ストレッチャーの上でぐったりとしている。痛みに呻く声や悲しみに泣く声が聞こえてくると、まるで地獄に来てしまったような気持ちになった。
「ちょっとどいて!」
 後ろから勢いよく運ばれてくるストレッチャーにドクターが馬乗りになっている。病院のスタッフは皆走り回っていて、のんびりと歩いてる人など誰も見当たらない。そんな光景を目の当たりにして緊張は一気に膨れ上がり、思わず足がすくんだ。どうしていいかわからずに、一歩も足を前に出すことができない気分だ。
「大丈夫? ここで待ってて! 今、先生を連れて来るから」
 立ち止まって怯えるわたしを側にあったベンチに座らせると、女性スタッフはそのまま混沌とする現場の中へと消えていった。
 お母さん! お母さん! 体が震え始める。言葉では言い表せないような酷い状況のなかベンチに座らされているわたしは、これから待ちうける現実が恐ろしすぎてお母さんを探す勇気さえ失くしそうだった。
 やがて受付の女性スタッフがローレンス先生を連れて来ると、緊張はさらに高まって、遂にわたしは嘔吐してしまった。
「大丈夫かい⁉ どこか具合が悪いのかい?」
 ローレンス先生がわたしに駆け寄って話しかける。わたしは何も言えずに首を振り、そしてまた嘔吐を繰り返した。
「ストレッチャーを!」
 先生がそう叫んだのを最後に、目の前は真っ白になっていき、わたしを取り巻く視界や騒音のすべてが徐々に遠ざかっていった……。

 どのくらい意識がなかったのか? 気がつくと硬い台の上で横たわっていた。辺りは相変わらず騒々しいけど、カーテンに視界を遮られていて様子はわからない。左腕にはいつの間にか処置された点滴が繋がれている。カーテンが滑らかに揺れると女性看護師が顔を出した。
「ケイト? 気がついたわね。あなたと電話で話した看護師のレイチェル・クランストンよ。気分はどう?」
 まだ少し頭がボーっとする。電話の人……。クランストンと名乗った女性は、実際に見ると声から受けた印象よりも、黒髪の似合うとても落ち着いた感じの人だった。歳はお母さんより少しだけ若いくらいにみえる。
「あの……クランストンさん。あの……わたしは一体?」
「レイチェルで良いわ。極度の緊張状態が続いて、ストレスから貧血状態に陥ったのよ。こんな状況だもの仕方ないわ。ケイト、何か必要?」
「あの……」テキパキと動く看護師のレイチェルを見ながら、わたしは脳裡にかかった霧を晴らそうとして訊ねた。「どうしてわたしの名前を?」
「ごめんなさい。緊急だったので、あなたのお母さんの持ち物から、手帳と携帯電話を調べさせてもらったのよ」
 わたしの顔色や血圧を測りながらレイチェルがそう答えたとき、わたしはすっかりお母さんのことが頭の中から抜け落ちていたことに気がついて青ざめた。
「お母さん! ねぇ! わたしのお母さんは⁉」
 取り乱してベッドから飛び起きようとすると、そこへローレンス先生が入ってくる。
「おっと? そんなに慌てて起き上がると、また目眩を起こしてしまうよ?」
 とても背の高く、色白で華奢な体格の先生は、白衣を着ていなければ患者と間違えてしまいそうなほどに線の細い人だった。
「わたしならもう大丈夫です! お母さんは⁉ わたしのお母さんはどうなったの?」
 結局のところ、お母さんが事故で運ばれたっていう知らせを受けてから、ずっと不安で押し潰されそうな気持のまま、なんとか病院まで辿り着いたけど、まだ何一つ聞いてはいなかった。
次第に意識がはっきりとしてくるのに対して、湧きあがってきた不安の正体を、わたしはやっと思い出していた。
 先生は丸椅子に座ると、ゆっくりとした口調で話し始める。
「ケイト、よく聞いて。お母さんは今、この病院のICUと呼ばれる場所にいるんだ。事故のときに頭を強く打ったみたいでね、深く眠ったままで目覚めないんだ」
 先生はわたしの手を握りながら話を続けた。
「脳の血管の一部が圧迫されて、昏睡と呼ばれる非常に危険な状態なんだよ。だからICUと呼ばれる、二四時間体勢のスタッフが監視している場所で、君のお母さんの治療にあたっているんだ。わかるかい?」
 先生はわかりやすいよう丁寧に説明してくれているんだろうけど、知りたいのはそんなことじゃない!
「お母さんは無事なの? ねぇ⁉ お母さんは助かるの⁉」
 わたしは伸ばされた先生の手を必死に握って、質問に答えさせようとする。
「さっきも説明したようにとても危険な状態だ。呼吸を助けるために、喉にチューブを入れて機械に繋がれているし、その他にも色々な機械に繋いで、お母さんの状態をチェックしていなければならない状態だ」
「息ができないの⁉ お母さんは死んでしまうの⁉」
 先生が状態を説明すればするほどに、わたしの気持ちは真っ黒に塗り潰されていく気分だ。
「今はね。でも君が呼びかけたり触ってあげれば、きっとお母さんもそれに応えてくれるはずだ。だからお母さんの回復力を今は信じよう」
 正直、先生の言葉は頼りなさすぎて、なんの助けにもならない。
 やっぱり、お母さんを助けることができるのはわたししかいないんだ!
 お母さんを守ることができるのは、わたししかいないんだ! 
 そう考えたら、一刻も早くお母さんに会いたくて堪らなくなった。
「お母さんに会えますか? わたし、今すぐにお母さんに会いたいんです!」
 先生は肯くと、側にいた看護師のレイチェルに指示を出した。
「ケイト、お母さんのところへ案内するわ、一緒に行きましょう。車椅子を用意するから、乗ってくれるかしら」
「あの……わたし、自分で歩けます」
「ごめんなさいね、病院の規則なのよ。それにICUには座ってるとお尻が痛くなるような固い椅子しかないから、きっと丁度良いわ」

 車椅子に乗せられて騒がしいERの廊下を抜けると、広いエレベーターホールが見えてくる。レイチェルがエレベーターのボタンを押すと、思い出したように言った。
「そう言えば、弟は一緒じゃないの? 電話では連れてくるって言ってたわよね」
 チク・タクのことを思い出すと無性に腹が立った。お母さんの緊急事態だったのに、ぐずって言うことを聞いてくれなかったからだ。
「置いて来たんです。急いで出掛けなきゃならないのに、チク・タクったらまったく動こうとしなくて……」
「チク・タク?」
 レイチェルがチク・タクの名前に反応する。
「ごめんなさい、言ってなかったけど、チク・タクは家の犬なの。チク・タクが家に来たとき、お母さんがペットとしてじゃなく、家族として接しなさいって言ったから、だからチク・タクはわたしの弟なの」
 エレベーターが目的の階に到着するとレイチェルは扉を開状態で待機させ、わたしが座る車椅子を押しながら笑った。
「確かに、いくら家族でも、たぶんチク・タクはICUには入れてもらえないわね」
 ディランシー総合病院の十階部分にICUはあった。ナースステーションや待合室など一部の場所以外は薄暗く、さっきまでの喧騒さが嘘のように感じられる。
 お母さんがいる部屋は大部屋で仕切りはほとんどなく、同じように機械に繋がれて横たわる人たちが他にも数人いた。レイチェルがお母さんの眠るベッドまで案内し、脇に車椅子を止めてくれる。
「それでは私は一旦戻るけど、あなたはしばらくここにいて良いわ。ナースコールを押せば部屋を出してもらえるから、このナースステーションで待ってて。私がすぐにあなたを迎えに来るから」
 わたしの肩を優しくさするレイチェルに、「親切にしてくれて、ありがとう」とお礼を言って見上げると、彼女は微笑んだまま何も言わず、部屋を出ていった。

 無機質な機械音がリズム良く響く。ベッドの上に横たわるお母さんは、悪い魔女に毒リンゴを食べさせられた白雪姫みたいにきれいだった。その左頬に優しくキスをするけど眠り姫は目を覚ましてはくれない。きっとわたしが王子様じゃないからだ……。
「ハーィ……。今日は散々な目に遭っちゃったね……」
 お母さんの手をさすりながら、今日起こったことを話し続ける。
 チク・タクと行ったドッグランで、事故現場で見掛けたレインコートの男を見つけて思わず話しかけに行ったこと。コインランドリーでは、シクサーズのバスケットプレイヤーのように、ディフェンスをかわして華麗に得点を決めてチク・タクを驚かせたこと。そして誰かがマシンを壊して、帰りがけにオーナーに八つ当たりされたこと……。
「ねぇお母さん? 今日ね、ストロベリークリームサンドのフラミンゴ・ジョージィのイラストを描いてるイラストレーターの名前がわかったよ。どうしてわかったかっていうと、その人がこの前の大雨の日の事故で亡くなってたからよ」
 無機質に響く機械音と呼吸を助けるチューブの音だけが、この薄暗い部屋に響いている。止まらない涙を流したまま、何度もお母さんの頬にキスをするけど、お母さんが反応することはなかった。
「ねぇ、お母さん? お母さんがいなくなったら、わたしはこれからどうして生きていけば良いか全然わからないよ」
 冷たいお母さんの手をさすりながら繰り返し訴えても、決まって返って来るのは無機質な機械のアラーム音だけ。そしてわたしは、いつの間にかお母さんの手を握ったまま眠ってしまっていた。お母さんの心にシンクロするみたいにして……。

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