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「銀盤のフラミンゴ」第三話


ポスターはモノクローム

 夕暮れの町を、お母さんの運転する車が自宅へと向かう車内では、なにも言い出せない者同士の微妙な気持ちがとにかく時間だけをとても長く感じさせていた。
 家に着くと、すでに仕事を終えて帰宅していたお父さんが、わたしたちの帰りをガレージの前で待っていた。庭のスプリンクラーの錆を取っていたのか、手にオイルを染み込ませたクロスを持って芝生の上にかがみこんでいる。わたしたちを見つけるとうれしそうに腰を上げて大きく笑って見せた。
 ガレージに車を入れると、黙って助手席に座ったままのわたしにようやくお母さんが声をかけた。
「お腹空いたでしょ? 今日はあなたの好きなミートローフを作ったのよ」
「お母さん、わたし……」
 そう言いかけると、お母さんはいつもと変わらない笑顔で優しく見つめて言ったんだ。「その話は大好きなミートローフをお腹いっぱい食べた後にしましょ」って。
 テーブルに並べられたお母さんの料理は、いつだってどれも美味しい。きっと、お父さんはお母さんの料理の腕前に惚れ込んで結婚したのよ。それと、屈託なく良く笑う優しい笑顔。
 お母さんはすごく個性的な料理を作るわけでもないし、レシピのバリエーションだって豊富って言えるほどでもない。でも、フェットチーネのチーズパスタはきちんとチーズから削ってくれるし、わたしの好きなクラムチャウダーだって生のクラムをちゃんと買って調理してくれる。去年の誕生日には、イタリアンパセリを刻むための包丁をお父さんにおねだりしていた。
 ミートローフはとにかく野菜たっぷりで、わたしの競技前なんかはお肉の分量を減らしてベルペッパーやマッシュルームで彩りも飾ってくれる。お父さんには内緒だけれど、隠し味にディルを漬け込んだシェリーを入れるのよって教えてくれたことがある。レシピホルダーは、『将来はあなたのものだから大切にね』といつも笑うんだ。
 
 食事中、お母さんはいつものように明るく振る舞っていたけれど、沈んだ表情で黙々と料理を食べているわたしをお父さんは決して見逃したりはしなかった。
 でも、『どうした? ダーリーン。なにかあったのか?』なんて野暮なことは聞かない。食卓の上に載った温かいミートローフ。これがお母さんの気持ちだということをお父さんはよくわかっている。だからいつものようにおだやかに食事の時間は淡々と過ぎていった。
 お父さんはお母さんが動き出すまでは勝手に動き出したりはしない。私から見ればお父さんはそれだけお母さんのことを信頼していてふたりは本当に愛し合っているのがわかる。
 食事が済むと、いつもならお父さんはテレビの前のソファーに根っこを生やしてベースボール観戦をしてるころよ。だけど今日はいつまでたってもテーブルから席を立たない。……ってことは、お母さんが動き出すのをわかってる証拠だ。
「で? 今日はいったいどうしたの?」
 お母さんが食後のコーヒーを淹れて差し出しながら言った。お父さんは黙ったまま、そんなわたしたちのやり取りを見極めようとそっとコーヒーをすする。その静かな動きが煩わしい。そんなわたしのすぐ隣で、さらにいつも以上にそっとソーサーを食卓に置く気配がわたしをざわつかせた。
 心の中でなにかが音を立ててカチャカチャと震えはじめる。
「わたし、わたしね……もうスケートは辞めようと思うの」
 考えうる限り柔らかなその空気に、わたしは耐え切れなかった。そしてこの言葉は、最大限わたしなりに勇気を振り絞って発したセリフよ。この言葉を口にするために、いったいわたしがどれほど思い詰めてそして悩んだことか。とにかくこの声を発した瞬間、わたしの頭はすでに真っ白になっていた。
「そう……それで、スケートを辞めて、あなたはどうしたいの?」
 お母さんの声は淡々としていた。いったいどんな顔をしているのか。お父さんは黙ったままだ。コーヒーをすする音がやけに大きく聞こえる。
 お母さんの顔をまともに見ることができない。だからお母さんがどういう気持ちで話しかけてるのか、わたしにはわからないままだ。
「今日ね、ジェシカおばさんと少し話したのよ。お母さんが先にテラスに出て、わたしが商品を待ってる間よ」
 お母さんはなにも言わず、話を聞いている。怒っているのか、悲しんでいるのか、それとも失望しているのか……。
「それでね、お店の跡継ぎを探しているみたいなの。ほら、ジェシカおばさんのところって、子供がいないでしょ?」
 わたしはどこを見て、誰に向かって話しているんだろう。誰か聞いているのかしら? この部屋にはわたしひとりなのかしら?
 一瞬の沈黙がやけに長く感じて、どこかに吸い込まれそうな気分になるけれど、次の瞬間お父さんがガチャッとカップを置く音がして、そのを打ち消した。
「お、おい、ダーリーン?」
 見兼ねたお父さんが話に割って入ってくる。わたしの視線の先に、ソーサーの上に置かれた少し傾いたカップが映った。お父さんはいつもとても几帳面でソーサーの柄の向きにまで気を配るほどよ。カップを受け止めるためのソーサーの窪みからカップがずれているなんてありえなかった。
 それくらい、お父さんはこのとき焦っていたってこと。
 わかってたんだ自分でも。わたしの言ってることは支離滅裂でまるで聞き分けのない赤ん坊みたいだってことぐらい。わかってるわ、そうよわかってるのよ、自分がなにを言ってるかくらい。
 わたしはせきを切ったようにしゃべり出す。
「だからわたし、学校を卒業したらジェシカおばさんのところで働くのも良いかなって思うの。だってわたしは今までお母さんの夢を叶えるためにスケート一本で勉強だって得意じゃないし、そんなわたしでも雇ってくれるなら、ありがたいでしょ?」
 わたしはうつむいて、傾いたお父さんのカップを見つめたまま。
「ダーリーン! おまえいったいどうしたんだ?」
 お父さんはわかってるんだ。わたしが吐き出した言葉がどれほどお母さんを傷つけるのかを。そしてどれほど悲しい気持ちにさせてしまうのかを。
 わたしの頭の中は、不安とストレスでいっぱいになって、膨れあがったニキビのように膿がぎっしりと溜まっている。脆い薄皮一枚でどうにかやりすごせるほど、わたしって器は成熟していなかったのよ。
「ダーリーン? それは本心で言ってるの?」
 わたしはうつむいたままで、震えるお母さんの声を聞くのが精一杯。
「きっと、今日はクラブでなにか嫌なことがあったんだよ、そうだよな? ダーリーン」
 お父さんから見て、お母さんはいったいどんな表情をしてるんだろう? 悲しみの表情なのか? それとも怒りの表情なのか?
「答えて、ダーリーン! あなたは今の今まで、私のためにスケートをやってたって言うの?」
 お母さんの声がリンクに響くザンボニ製氷車ー の駆動音みたいに、ブルブル空気を震わせていた。とても怒っているのかな? いいえ、お母さんの声は怒りで震えてるんじゃない。深い、とても深い悲しみで震えているのよ。
「ダーリーン! 答えて!」
 お母さんの声が徐々に荒々しくなっていく。
「アベリー、落ち着いて! きっとダーリーンも選抜テストに落ちたショックから、まだ立ち直ってないだけさ! そうだよな? ダーリーン」
 こんなにも荒々しく、そしてこんなにも悲しみに満ちたお母さんの声を、今まで聞いたことがあっただろうか? 本当ならすぐにでも泣いて謝って、「ごめんなさい!」って、自分の吐き出した言葉に後悔の念を示せば、あのときお母さんはわたしを許してくれたかもしれない。
 でも、生まれてはじめてお母さんに噛みついたわたしは、その牙を今さらおさめることなんてこれっぽっちも頭になかったのよ。
「ダーリーン! 答えなさい!」
「……だってそうじゃない! わたしに自分の叶えられなかった夢を追わせることで、お母さんは自分を納得させてるのよ!」
 心のダムが決壊したかのようだった。溜め込んだ不満という名のよどみが、ものすごい勢いで溢れ出していく。
「自分の叶えられなかった夢を娘のわたしに押しつけて、お母さんは自分だけその重圧から逃げ出したのよ!」
 不満がとめどなく流れていく。尖りすぎた牙の雪崩なだれとなって口から垂れ流されていく。そんなものを吐き出したんだもの。そうよ、わたしの口だって血まみれよ。
「ダーリーン! もう部屋に戻りなさい!」
 収拾のつかなくなったわたしを見兼ねて、お父さんが慌てて止めに入るけど、もうわたし自身自分を止めることなんてできっこなかったんだ。
「お母さんのせいで、わたしはスケート以外のことは考えられなくなったのよ!」
 金切り声を上げながら、血だらけの心を掻きむしるように叫ぶ。
「お母さんの期待に応えようと一生懸命努力したけど、わたしじゃダメなの! ……わたしじゃお母さんの期待に応えることが、できないのよ‼」
 そう叫んだわたしはすべてを吐ききったのか、力を失ってその場に座り込んで大きな声を上げて泣いた。
 いったい、なにがそんなに悲しかったのか。
 自分勝手に好き放題喚き散らし、大好きだったはずのお母さんをボロボロに傷つけてまで、聞き分けのない子供のように泣きじゃくったんだ。わたしの言葉に深く傷ついて、泣き悲しんでいるお母さんの顔を見なくても済むように……。

     †

『ダーリーン、これにしましょう』

 わたしはベッドの上で、お母さんが言ったその言葉とそのときのお母さんの横顔を思い出していた。部屋に篭ると、不思議ともう涙は出てこなかった。なにかが枯れて空っぽになってしまっているのがわかる。
 こじんまりとした部屋には、ベッドに勉強机、小さな本棚にはフィギュアスケートに関する本がびっしりと並べられている。おおよそ、ティーンエイジャーにしてはなんの味気もないわたしの部屋。
 壁には数枚のポスター。その中でもお気に入りは、映画『ロミオとジュリエット 』の古いモノクロームのポスターだった。部屋の一番大切な位置に貼ってあるそれを見つめながら、わたしは昔のお母さんを思い出している。
 今はもうないけれど、幼いころお母さんと入った小さな映画館。リバイバル上映だったんだろう、1968年の『ロミオとジュリエット』が上映されていた。七歳だったわたしは、繰り広げられるきらびやかな舞踏会のシーンで素敵に踊る主人公に夢中になってスクリーンを見つめていた。
 きっと実際にはフワフワなんてしていないかもしれない大袈裟なスカートの裾から、少しだけのぞく複雑なステップ。オリヴィア・ハッセーの髪に飾られた宝石が、画面の隅々に舞い散るように踊っていた。
 わあ……! っとなって左側を見上げると、お母さんはなぜか泣いていた。スクリーンに照らされた横顔に細い涙の筋が、氷面に残るエッジ跡のように美しく輝いていたのよ。
 どうして泣いていたんだろう。帰り道、手をつなぐお母さんがいつものように屈託なく笑うのを見ながら、わたしはなぜか『なぜ?』という気持ちを飲み込んでいた。
『ダーリーン、これにしましょう』
 そう言って、お母さんが買ってくれたポスターはモノクロームだった。美しいジュリエットの横顔が映るそのポスターは、そっけないわたしの部屋で、その日から一番のお気に入りになったんだ。
 ポスターを見るたびに、ジュリエットの横顔と泣いていたお母さんのきれいな横顔を重ね合わせていた。そしてリンクに通いスケートシューズを履くたびに、その美しいデコルテの細くしなやかな白い輪郭を思い描きながら、リンクの上に曲線を描いていたっけ。
 いつしか忘れていた気がする。ボロボロになるまで開いたスケートの本と、数枚のポスターがあるだけのこの部屋をぼんやりと眺めながら、わたしはそんな昔のことを思い出していた。
 明かりを消してベッドに横になると、枯れたと思った涙はまた溢れ出してきて、その夜もわたしは白い枕を濡らしながら眠りについた。

     †

 次の日、スクールバスでいつものように席をリザーブして待ち受けていたスコットが、わたしの赤く腫れ上がったまぶたを見てしきりに心配そうなそぶりを見せる。けれどそれ以上深く訊いてはこない。
「おはよう、ダーリーン! 今日は前髪を留めてないんだね。そういうのも似合うよ!」
 そう言ったきり、膝の上に乗せたバックパックを抱え込んで、毎日見飽きているはずの外の景色をずっと眺めている。きっとスコットだってわかっているんだ、わたしがなにも話したくないってことを。それでも、ただ黙って寄り添ってるなんてスコットのがらじゃないのよ。
 バスが揺れるたびに、彼のやぶれたデニムの膝がわたしの脚に触れると、スコットはなぜかバックパックに貼りつけたステッカーのシワが気になるのかしきりに直そうとしている。だけど、バスの揺れで手もとが狂ってしまったのか、ステッカーをビリッと破いてしまった。
「ああ⁉」
 情けない声でそうつぶやくと、指でつまんだままのシールを凝視して固まっている。そして勢いよく顔をこちらに向けると、くだらない言い訳を始めた。
「これさ! こないだ解散した好きなバンドのステッカーなんだ! もうはがそうと思ってたところでさ! ちょうどよかったよ!」
 わたしは苦笑いするしかない。
「解散したなら、もう手に入らないってこと?」
「あ? ああ! そうともいうよね!」
 それからスコットは、それまでの沈黙を取り返すように、いつもみたいなバカ話でわたしの気持ちをほぐそうとしてくれた。
 きっと、わたしが話を聞いていてもいなくても彼にはどちらでも良い。この腫れぼったい目をどう思っているんだろう……今日は髪をおろしてきてよかった――なんてことを思いながら、そんな彼の優しさに安心感を覚えたりもするのよ。
 スコットの顔の向こう、バスの窓から差し込む陽の光が少しまぶしくて下を向くと、わたしの茶色い髪がカーテンのようにフワッと肩に落ちた。
「ウィークエンドのキャンプは……ゴメン……」
 そうつぶやくと、スコットは黙って頷いた。
 パウワウのパレードを控え、町は活気づいていくけれど、わたしの気持ちは落ち込んでいく一方。
 あの事件の翌日の朝には、お父さんがしばらくスケートは休ませると、クラブに電話をしてくれたようだった。

     †

 翌日には連休の初日を控えたハイスクール帰りの自宅で、キッチンで洗いものを済ませたお母さんが、わたしの部屋のドアをノックした。
「ダーリーン、入っても?」
「ええ……」
 ドアを開けると、お母さんは何事もなかったかのように入ってくる。そしてベッドに腰をおろすと、ポンポンとシーツを優しく叩いて隣に座るように促すんだ。躊躇いがちに少し距離をとって隣に腰かけると、お母さんはなにを考えているのか、しばらく黙ったまま部屋を眺め回していた。
 そして、ロミオとジュリエットのポスターに視線を留めると、小さな息を漏らし「ねぇ、ダーリーン」と小さく微笑んだ。気づくと、少しだけかさついたお母さんの左手がわたしの右手をそっと覆うように握っている。
「ダーリーン、……私は、たしかに銀盤の妖精に憧れる女の子だったわ。もちろん、あなたがそうなってくれたらどんなに素晴らしいだろうって思ったことがあるのも本当よ」
 あの日以来まともに会話もしてなかったのに、突然部屋へと入ってきて、いつものように手を握って話すお母さんにわたしは少し怯まされていた。
「でもね、あなたに私の夢の続きを押しつけるつもりなんて、一欠けらだってないのよ。だから、あなたの強い責任感が、私の気持ちとは裏腹に自分を追い込ませてしまったのなら、私は本当に悲しいし、あなたに謝らなくてはならないわ」
 そう震える声で、わたしの頭を優しく自分の胸へと引き寄せる。
「ごめんね、ダーリーン。私はあなたをそんなふうに追い込むつもりはなかったのよ。あなたにはただ、幸せになってもらいたいの。ただそれだけなのよ」
 わたしを抱き寄せたお母さんの震える声と、上がっていく体温。そんなこと言われなくたって本当はわかってる。お母さんは最初から、スケートをするわたしを見て笑ってたんじゃない。幸せそうに笑うわたしを見て、笑っていたんだ。
『スケートってね、小さな銀盤の箱庭で、ルールなんて不自由さにもがきながら、必死に羽を広げて自由を表現するアートのようなものよ』
 そう言ったお母さんの言葉が脳裏に浮かんでくる。わたしは銀盤での不自由さに負けて羽を広げることを諦めた哀れな鳥よ。……自分の稚拙さに涙が溢れ出す。大好きなお母さんを傷つけてまで、自分を正当化しようとした哀れな自分――。
「お母さん! わたし……」
「シー……。良いのよ。あなたには少し時間が必要なだけよ。自分がどうしたいのか、ゆっくり決めるための時間がね」
 小さな部屋で、人生の不自由さにもがくわたしの頭を、お母さんは優しく撫でてくれた。
「スコットたち、明日はイエローストーンにキャンプに行くんでしょ?」
「どうしてそれを?」
 お母さんは優しく笑った。
「この前、夕食の買い物にスーパーへ行ったら、彼、スーパーの入口で私を待ってたのよ」
 そのときのことを思い出したのか、涙目のままお母さんは少し吹き出した。
「最近、ダーリーンに元気がないからキャンプに誘ったんだけど、断られたって」
「それで?」
「それだけ……」
 そう言うと、お母さんはさらに吹き出していた。
「それだけ⁉ それだけ言うために、わざわざお母さんを待ち伏せしてたの?」
 スコットの間抜けな様子が浮かんで、笑いがこみあげてくる。
「彼、素直でかわいらしいけれど、少しネジの緩いところがあるわね。きっと、それだけあなたにお熱なんでしょうけど」
 ケタケタと笑いながら体を揺らすお母さんの揺らぎを感じながら、わたしも一緒になって笑った。
「いってらっしゃい。どうせあなた、パウワウパレードはいつも家に篭ってるんだから……良い気分転換になるわ」
 こうしてお母さんに背中を押され、わたしはスコットとのキャンプ行きを決めた。

※続きは『銀盤のフラミンゴ』製品版でお楽しみください。


ありがとうございます!!!!!!がんばります!!!