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どう意味付し、選択していくのか

先日読んだ「人生の意味の心理学」
その中に書いていた「意味づけを変えれば未来は変えられる」「選択のすべての責任は自分にある」という言葉を実感する出来事がありました。


弱音を吐いてみたら

ブログでもTwitterでもつい弱音を吐いてしまう私ですが、他のSNSでも友人たちに高次脳機能障害について理解し、応援してもらいたくて投稿していました。

大部分の方からはいいねのスタンプを、何人かの方からは応援のコメントを頂きました。
ただ、Aさんからは
「私も色んな病気を持っているけれど前を向いて頑張ってます。そんなこと言っている間にやることがあるんじゃないですか?」
という趣旨のコメントを頂戴しました。

また別の日には別の場所で
「自分の病気をネタに悲劇のヒロインぶってる奴って嫌い。気分悪くなる」とAさんが発信しているのを目にしてしまいました。

今後も顔を合わせる機会がある方だったので気分を害させてしまったことを謝罪してみましたが、やはり「弱音を吐く前にすることがあるでしょう」という感じでした。

彼女にも辛い思いが

実はAさんも色々な病気に遭い大変な思いをしている人でした。
SNSでの発信やオンラインで顔を合わせた時にその話は聞いて知っていました。

そんな病気や怪我についての投稿に周りの人は「大変だったんだね」や「そんな状態なのに頑張ってるね」そんな言葉をかけていましたし、私もかけていました。
辛い思いをしている人がいたらそうするのが当然と思っていました。

自分がくも膜下出血になった後は、辛い思いをしている人がいたら私なりに力になりたい、そういう想いが強くなりました。

だから状況が異なっても辛い思いを発信している人がいた時は
「辛いんだろうな」と素直に思いましたし、「発信することで楽になることもあるよね」そんな思いでした。

でも、Aさんはそうではなく人が弱音を吐くのを目にするのは嫌なタイプだったようです。
何故なのだろう?純粋に疑問に思いました。

本当は弱音を吐きたい?

先日、オンラインでBさんと話をしました。Bさんは私が入院中「くすっ」と笑えるようなお菓子を差し入れてくれたり、季節のポストカードを届けてくれました。
退院後、会う約束をするたびに体調不良になりお断りのメッセージを送ると、ユーモア溢れる返事で気にしないように気遣ってくれるを優しい人です。

そんな明るいBさんには、実は辛い過去があったことを聞きました。
ご家族の病気やお子さんが巻き込まれた事故のことなど、一生の間に何故そんなに色んな目に遭うんだろうかと思うばかりの話でした。

でも周りの人に助けられて乗り越えてきたこと、頼ること、頼れる場所を作ることは大事だよ、そんなことを教えられました。

同じように辛い目に遭っても優しい人とそうでない人の違いはなんだろう?

BさんにAさんのことを話してみたら
「弱音を素直に吐けるあなたが羨ましいんじゃない?」と言われました。

なるほど、Aさんも本当は弱音を吐きたいのかもしれない。
けれども受け止めてもらえる場所がないのかもしれない。
もしくはいつも強い態度で出ているために弱い自分を見せることができないのかもしれない、そう思いました。

辛い出来事をどう受け止めるか

AさんBさんどちらも辛い目に遭って来た人だけれど、乗り越え方も受け止め方も全然違うのだろうなと思います。

私はというと辛い思いはしているけれど、弱音を吐いたらちゃんと受け止めてくれる家族が、友人がいること。頼れる場所がちゃんとあることは幸せなことだなのだと気がつきました。

そして同じ辛い目にあったならば、私はBさんのように辛い目にあった人を受け止め、励まし慰められる人になりたいと思います。

せっかく辛い目にあったんだからとは言いたくないけれど、遭ってしまった以上は割り切って、そういう人の頼れる場所になりたいと思いました。

そしてそれがアドラーの言う
「意味づけを変えれば未来は変えられる」ということであり、「選択のすべての責任は自分にある」ということなのかなと思いました。