見出し画像

読書記録「高次脳機能障害者の世界」

手にしたきっかけ

退院後に感じた違和感が高次脳機能障害ではないかと気づいたのは
鈴木大介さんの「脳が壊れた」と「脳は回復する」を読んでです。
私の感じる違和感を見事に言語化してくださっていました。

それからもっと高次脳機能障害について知りたいと本屋さんを巡り、
やっと購入した中の一冊が  山田規畝子編著「高次脳機能障害者の世界」でした。
脳出血と脳梗塞により重篤な高次脳機能障害者となった
著者の山田さんは元々は整形外科医でした。

こうした医療の知識を持つ方が当事者として発信してくださることは
とてもありがたいことです。

目にはっきり見えない障害を持つ人に対して大切なのは家族や友人、
そして医療やリハビリの専門家、介護の人々の存在とした上で
“とりわけ見えないものを知るための「想像力」を備えた人たちの存在が鍵になると思うのです“ と書かれています。

知らないこと、わからないことを想像することは大変だと思います。
だからこそこの本を少しでも多くの方に読んでいただけたら、
高次脳機能障害を持つ人が生きやすくなるのではと期待しています。

脳手術後の患者さんは誇り高い勝利者

この本を読んでいただくのが1番ではありますが、
とりあえず私の感想を綴りたいと思います。

“脳に傷を受けても「私」は変わらないのです。(中略)
何もできなくなって周囲に必要とされなくなった自分、
重荷になった自分がいる、自分が死んだら絶対に困る人がいると
思える暮らしが残っていない、
だから、大病から生還してよかったと思えない。
助かるべきじゃなかった、死んだ方がまし…
こうして「私」が壊れていくのです“

自分ができなくなったことは自分が1番よくわかっている。
私がずっと感じてきたことでした。
回復期で「できなくなった気がする」と訴えても
「ちゃんとできてますよ」と言われてしまう。
外からできているように見えても本人は違和感を感じているのです。

高次脳機能障害のスクリーニングを受けて思ったことがあります。
元々90点の能力を持ち社会で活躍していた人が
脳に障害を負ったことで55点になったとします。
でも50点未満じゃないと高次脳機能障害と疑われず次の検査に繋がらない。
そして「高次脳機能障害はないです」と退院し社会復帰をします。

当然本人は90点の仕事をこなせると思い、周囲もまた要求します。
そして社会に出て初めて「できないこと」を認識させられるのです。

なんの心の準備もないままに知らされる自分の無力さ。
退院したら「あれもやろう、これもやろう」
その思いが無残にも打ち砕かれるのです。

”境界線を越してこちらの世界に生還してきたことが、
もし自分の家族や医療関係者や、その他の誰にとっても価値のある、
誇り高いものとして受け止めてもらえるものではないとしたら、
むこうの世界に自分を消してしまおうという決心は
「私」の最期の意思なのです。

見出しに使った「脳手術後の患者さんは誇り高い勝利者」とは
脳外科医である著者の義兄の言葉で
”生命の危機を乗り越えて堂々と帰ってきた勝者なのだと。
勝者として敬われる価値も権利もある、介護する人々は勝者への尊敬を胸に患者さんに接するべきだと“と言い、著者も真実だと思うと語っています。

”リハビリの場も、ただできなくなったことを指摘して本人に思い知らせるだけではなく、まず「帰ってきた」ことを褒める雰囲気で、良いところ、
できるようになったことを褒めるのを日課にしていただきたい”

そして“セラピーとは一般の人では理解してあげられない、脳に傷を持つ人々の心も想像してあげられる特殊技能によって支えられるものではないかと思います。人の心を思いやったり想像できたりするのも、ある種の技術だと私はおもいます。“と書かれています

急性期・回復期を含め高次脳機能障害については気付かれなかったので
そちらについての検査もリハビリも受けることはできませんでした。

感じていた離人感や足の麻痺について、退院後の頭の中の異変。
訴えた私に医療従事者から返ってきたのは
「何もいえずに亡くなった人もいるんですから」や
「死ぬような病気だったんですから」といった言葉でした。

ブログの中でもこのことについてはなんども触れて来ました。
時間が経っても理解することも忘れることもできない言葉です。
幸い家族は「生きていてくれるだけでいい」と迎えてくれています。

けれども1番理解し想像してもらえるはずの医療従事者からは
勝者として扱われたという感じはありませんでした。
意図はなかったのかもしれませんが、
「助かったんだから多くは望むな」と言われた気がしました。

記憶の不思議


“日常生活に必要な記憶はたどたどしいのに、感情の動いた出来事は
新しいものでもよく記憶が保たれているようです”

覚えていられることといられないことの区別が何なのか
わからなかったのですが、そういうことかと思いました。

続けて書かれている
“忘れたいことが忘れられない困難については案外
知らない人が多いのではないでしょうか“

私が悩まされていることがまさにこれです。
嫌なことは早く忘れて前を向きたいのに忘れられない。

“医療やリハビリのことでかなり以前のことなのに、
その時の嫌な感情も一緒にありありと思い出し、
そのことに苦しんでいる人がいるということも知りました”

こんな性格の自分に心底嫌気がさしていました。
また、そのことを何度も繰り返し聞かされる家族も
たまったものではないだろうと思っていました。
でもこれが高次脳機能障害のせいだとしたら。
後遺症の一種なのだとしたら
自分の性格のせいだと思うより少し気が楽になります。

障害受容

この本はどれだけ書いてもきりがありません。
なのでもうひとつに絞ろうと思います。

“死線をさまよってこの世の中に生還してきた人たちの多くが、
いっそあのときに死んでいればとか、生きていてもいいことはない
という思いを抱えながら日々を過ごしているのだろうと想像するのです”

これは後遺症の大小にかかわらないのではと私は思っています。
私は発病以前にエンディングノートを書いており
「障害が残る可能性がある場合には治療は行わないでほしい」
と書いていました。

私の思いは聞き届けられずに治療は行われ障害を持つ身となりました。
そのことを療法士さんにふと漏らしたとき
「障害と言っても後遺症と言っても色々ですからね」と言われました。

確かに私の障害は軽い方なのだと思います。
高次脳機能障害と左半身の麻痺があるとはいえ、
「日常生活に支障はない」と言われ退院しました。

でもやはり療法士さんには
「どうしてみどりさんはそう思っていたのだろう。
今はどういう気持ちで生活しているのだろう」
そう考えて欲しかったです。

“リハビリでまず最初に重要なことが障害の説明だとこの本の冒頭に書きましたが、患者さんがリハビリ室に通っている間に、
自分のことを決めるのは結局は自分でしかないこと、でもそれを急いだり、独りきりで決める必要はないことを必ず教えてあげてほしいと
願っています。”

「障害受容について」療法士さんたちは学んでいると思います。
でも、知識としてという人もいるのではないでしょうか。

ある時「麻痺が良くなる可能性があると言われたら元に戻ると思ってる
でしょう。障害は障害としてちゃんと受け止めないと」と言われました。

受け止めるってどういうこと?
それは麻痺の改善をあきらめるということなんだろうか?
いつもリハビリは諦めたらそこでストップだからと言ってなかった?
混乱ししばらく精神的にボロボロになりました。

障害受容の5段階なんて知識は患者さんにとっては
何もももたらさないのではないでしょうか。
患者さんが受容するために必要なことは何か。
患者さんの気持ちにきちんと向き合い寄り添った上で
受容を促してほしいとおもいます。

最後に

この本は当事者にとってとても有益な本だと思います。
そしてリハビリに携わる人だけでなく、
医療従事者のかた皆さんに目を通していただきたいです。

高次脳機能障害をもつ人も医療機関を受診します。
その際に「高次脳機能障害があります」とお伝えしても
対応して頂けない場面が多々あります。
障害をもっていても受診しやすい環境を作っていただけることを
切に願います。