学びなおす、思考しなおす、ということ
大学時代は美学・哲学を専門に学び、卒論は日本における病跡学の可能性について考えました。社会人になって仕事を始めると、実務的に役に立つことではありませんが、人間として成長する過程においては随分と助けられたと思っています。
不惑を迎え、過ぎ去ろうとする若さにすがり、迫りくる老いの始まりに抗ってきました。ようやくそれらを受け入れられる心境になったは本当にごく最近のことです。
年齢がどうこうという話ではなく、肉体的な衰えや、社会的な立ち位置(周囲からの見られ方)についてのギャップに気持ちが追いついたという方が正しいかもしれません。よく、歳をとると人間が丸くなると言いますが、その心境に近いものが自分にもやってきたといいう印象です。
さて、勢いや瞬発力でなんとかなった20代、知恵と経験をつけた30代を経て、いよいよ人間力が試されてきているなと感じることがあります。公私を問わず相談される内容にも重みのあるものが増し、思いつきで言葉を返すことができないなと痛感しはじめています。
知ったように偉人の名言を引用したり、小説の一文を例に出したりすることは単なるひけらかしにしかならず、本質的な「私」のメッセージにはなりません。では「私」が「私」たる所以とはなんなのでしょう。
自分を見つめ直し、その存在を考えるために哲学は大切な友です。まずは、学生時代の自分に大切な考えるきっかけをくださった鷲田清一先生の著作を読み直しました。
特に『「待つ」ということ』には相手との関係性、「時間を駆る」という意味について今の自分に抜け落ちている視座を与えていただきました。
次に、同世代でデビュー当時から考えの近いところにいると勝手に思っている平野啓一郎さんの「分人」について考えます。
個性とは、すなわち「分人」の集合体である、という指摘にはとても納得ができました。私は「1」ではなく「1/n」の集合体である。これはすごく腑に落ちました。家族と対する自分、友人と対する自分、仕事仲間と対する自分、全部偽りなく同じ「私」ですが、少しづつ異なることも確かです。それらが共存しなければならない場において感じる居心地の悪さについても、わかりやすく論ぜられており、なるほど「分人」という考えはまさにソーシャル全盛の今の時代において紛うことなき考えだなと感じています。
そして最後は内田樹先生です。
私の学問の師匠である小林昌廣先生が非常勤先の同僚であったことから、20年ほど前に一度だけお話しさせていただいたことがあります。内田先生といえば身体論や現代思想のイメージがありますが、本書は半生記です。まさに「私の履歴書」ですね。少年時代から現在に至るまで、学生時代の友人についてのコラムを挟みながら、生き方について話されています。
最近、人生の選択であったり、自らに課せられる責任について思い悩むことが増えています。悩んだところで状況が好転するわけではないのですが、「選択しなかったことへの後悔」はしたくはないなと感じています。
そのようなことを日頃から考えていたところ、本書で内田先生は後悔について「したことへの後悔」と「しなかったことへの後悔」があると指摘しています。そしてその重みは後者の方が長年にわたり人生を苦しめるのだと。
もし、あのとき「あの選択をしていた自分」を考えるのは無理です。それを考えている私が「していない自分」なのですから、結果を含めてどのようになっているかを考えあぐねることは徒労でしかないと思います。
そして、行き道が違っても、結果的には似たような目的地にたどり着く、という点においても僕は深く納得しています。東京から大阪に移動するのに飛行機を使うか、新幹線を使うか、自動車で行くか、それぞれの道中は違ったとしても結果的に大阪にはたどり着く。これはドラえもんでセワシくんも言っていましたね。
閑話休題
とにかく、最近は年甲斐もなく小さなことやちょっとしたことで思い悩むことが増えてしまっています。勢いがなくなったとも言えるし、細かいことに気がつくようになったとも言えます。今の自分をきちんと受けとめて、自分らしい生き方を模索するのは、僕という人間を形成した20代の頃の思想や哲学が今もなお新しく影響を及ぼしていることを改めて思い知りました。
自分を確立するために学び、悩み、思考していた経験がようやく生きてきたという実感があります。40代になった今、今度は自分の人生と向き合い、できるだけ人に優しく、後悔のないような生き方を選択していくための生き抜く術を身につけるために、学び思考し直す必要があるのです。
人生は常に勉強し続ける方がきっと楽しい。
小説や新書、映画や展覧会などのインプットに活用させていただきます。それらの批評を記事として還元させて頂ければ幸甚に存じます。