見出し画像

「妖怪・憑き・怪異」現象を「宗教感情の理論」で読み解く

「妖怪・憑き・怪異」現象を「宗教感情の理論」で読み解く
 
本稿では、「妖怪・憑き・怪異」などの現象を、既に提示した「宗教感情の理論」の拡張により読み解けることを示します。

「宗教感情の理論」とは、先に記した
改訂Ⅰ.https://note.com/nihonos2020/n/n503827d4966c

 
改訂補足:1 https://note.com/nihonos2020/n/n3a5968ef3b72

などで示した、宗教感情-宗教表現、D表現-D感情、【祈り】【化身】などに関わる理論です。これのしぜんな拡張を本稿では展開しますが、
その過程で、過去の日本人の「神仏も-神霊も-妖怪や怪異現象までも混在した精神世界」が見えてくることを示します。そして
おそらく、これは多かれ少なかれ現代日本人の精神世界の話でもある
と思われるのです。

●前掲「宗教感情の理論」-神仏や偉大な神霊等との関りに関する理論の概略
浄土教の時代、平安時代後半から鎌倉時代などの数百年、日本では庶民の間に至るまで地獄の恐怖が浸透していました。神仏に対して、深く堕地獄を畏れ、現世においても神仏の罰を与えられることへの甚大な畏れの感情のもとにあったのでした。 https://note.com/nihonos2020/n/n3a5968ef3b72

神仏に関する上記の表彰などを前に、神仏を「畏れ」、「怒りを鎮めたまえ」・「讃え帰依します」・「私をお救いください」(地獄に墜とさないでください)・「悔い改めます」・「敵を滅ぼしたまえ」と呪いも含め、日々、意識-無意識に祈り続けていたのでした。

宗教-神仏が絶対的な権威と影響力を持っていた中世では、人々の心は神仏に多大な影響を受けており(【憑依】されており)、
【憑依】された人間においては二つの「自分」が存在しました。一つは
【祈り】の自分・・・讃え畏れます、救い鎮め給え…など神霊に対し人間として祈る自分、もう一つは
【化身】の自分・・・他の人間に対し神霊の化身のように振舞い力を行使する自分 です。

【化身】状態の人の心には「我を讃えよ・畏れよ・悔い改めよ」などの言葉があります。それらは『神仏から人間への「命令」』をコピーしたものになります。
仏教-宗教の支配が絶対的な時代が数百年続いた時点では、最上層から最下層に至るすべての人たち-すべての【憑依】された人間は、二つの「自分」-【祈り】の自分、【化身】の自分を共に内面化していたでしょう。 

そして、、https://note.com/nihonos2020/n/n3a5968ef3b72
中世の人格宗教表現と人間の感情等 を以下のようにまとめました。

図の一番下に「深い安堵 救済 幸福感」「活力 自信 万能感」とあります。
中世のこの時代、神仏に対する深い畏れ-恐怖の感情が通奏低音のようにあったのですが、
人が【祈り】状態にあるとき-「祈ること」には深い安堵や救済、晴れやかな気持ちなどの快さが伴っていたでしょう。祈りの義務を果たした満足感・願いが叶えられる期待・また神への感謝の祈りの際には幸福な気持ち-深い感謝の思いなどが伴っていたでしょう。
また、【化身】状態にあるとき、人は活力の漲り・自信・万能感などを体験していたと思われます。

この「幸福な気持ち-深い感謝の思い」や「活力の漲り・自信・万能感」につき少し補足します。

例えば地獄絵図などを前に深い根源的な恐怖を感じている体験は、「幸福」とは程遠い状態です。しかしその人は、「神仏を前にしたとてつもなく深い濃い心理状態」を体験しています。その人の後の行動や人生に影響を与えるような宗教的体験をしている訳です。彼は心の深い所を神仏にぎゅっ!と鷲掴みにされています。
彼は、表面的な恐怖、不快、嫌悪と並行して、神仏に鷲掴みにされ一体化したような、無意識の濃い充実した快さのようなものを体験している・・・
と推測するものです。

またある武将が親族を殺され悲しみ怒り、不幸の極致の中で復讐を誓う時、「不動明王の如く敵-かたきを討ち滅ぼすぞ」と不動明王の化身のようになっている時。彼は表面的な悲しみや忿怒と並行して、神仏と一体化したかのような、無意識の充実した高揚を体験している・・・と推測するのです。
このような
神仏に関わる、深く-強く-恐ろしくも感じられる特別な「心の快さ」があると考えます。
これを「神快Ⅰ(祈)」「神快Ⅱ(化身)」と呼称しましょう。

当時【祈り】【化身】の状態にある人は上記の特殊な「心の快さ」の状態にあり、彼らは数百年にわたり、【祈り】【化身】に伴う 「神快Ⅰ(祈)」「神快Ⅱ(化身)」 の心の体験の習慣を続けていたと推測します。
神仏を感じることは、意識の表面とは別個に、無意識、心の奥底に特殊な「心の快さ」をもたらすと仮定するものです。

続いては和歌-王朝文化に関わる宗教感情-D感情の理論を振り返ります。 

和歌を詠むときの『予期』と『驚き』
以下再掲になりますが二首の古今和歌集の和歌をご覧ください。
  秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
  (藤原敏行朝臣 018)
  谷風に解くる氷のひまごとにうち出づる波や春の初花 
  (源当純 999)
秋が来たと目にはっきり見えるものではないが、風の音に秋の訪れをはっと気付かされる-驚かされる。谷風に氷が融け、その隙間に現れる波こそ春の初花なのだ…といった意味の歌になります。
このような和歌が詠まれるには、歌人には生活の中で常に精妙な自然の変化に耳を澄まし待ち続ける祈り待ち-予期する心が必要でした。そして、変化を見出した歌人の心には動き-驚きがあり、それが歌となるのでした。季節の訪れは、古代においては意識-無意識に、神々の訪れに近い‐等しいイベントであったことを先に述べました。

さて中世の頃、神仏は何よりも大事なもの、怒りを買ってはならず、恩恵を与えてくださるものでした。中世の人びとは、神仏からのメッセージを常に「予期」し、耳を澄ませ探し求めている状態でした。
神仏からのメッセージを見逃す聞き逃すことは許されない、恐ろしいことにつながると畏れられていたのです。
そして神仏からのメッセージを受けた際には「!」-「驚き」がありました。
これらの「予期」「驚き」の感情と並行して、
やはり無意識、心の奥底に特殊な「心の快さ」があったと推測されます。

さて和歌-王朝文化は、あからさまに神仏-阿弥陀仏や不動明王などを描いた文化ではないところから、「D表現」という概念を導入したのでした。
・「D表現」とはあからさまには神仏を描いていない表現 でありつつ
・『讃え』『畏れ』『救い』『鎮め』『予期』『驚き』等の心の動き、
・崇高-強度がある-美的-あはれ-深遠等「深い-Deepな」感情体験を喚起する表現です。
・多くの王朝文化の作品は「D表現」に入ります。

・「D表現」に喚起される感情を「D感情」、神仏を描いた「宗教表現」に喚起される感情を「宗教感情」と表記したのでした。
・人格神的神仏への宗教感情の表記「讃」「救」「讃えます」…等に対し、「D感情」の表記においては『讃』『救』『讃えます』等、『』の二重鍵括弧で表記し、

和歌-王朝文化では『予期』『驚き』『讃』『畏』『救』『鎮』の6つの心の動きがあったとしたのでした。

そして和歌⁻王朝文化に関わる人間の【祈り】【化身】の「D感情」などにつき以下のように図示しました。

これらのフレームを再確認したところで、以下「妖怪・憑き・怪異」現象を読み解きます。
 

●「妖怪・憑き・怪異」現象を「【祈り】【化身】、宗教表現と宗教感情」のフレームで考える

ここからの論考は、古事記や万葉集の時代から室町時代頃に至るまでの時代を想定しています。風土記や今昔物語集などの資料から見て、当時様々な小さな神霊がおり、それらは姿形があるものも姿形もわからぬものもいた、
そして人間の生き死にや暮らしに大きな影響を与えたり心を騒がせるような原因不明・正体不明の様々な現象も、それらの神仏・強大な神霊・小さな神霊・姿形もわからぬ神霊が起こすことがある・・・と思われていたのです。
この時代の中ほどの中世では浄土教の神仏、また菅原道真の怨霊等強大な神霊やそれらの働き(祟り)があると考えられていたのでした。  

疫病 災害 事故
先ずは、例えば流行り病のような疫病、個人がかかる皮膚病、地震竜巻などの災害、そして事故など、これら人間の仕業とは思えずかつ原因不明・正体不明の現象が起きた際。
これらを神仏-神霊、死んだ人間の怨み怨霊などの仕業ではないか、それらからのメッセージではないかと考えた記録を平安時代などに多々確認できることは知られている通りです。

やまびこ 小豆洗い 狸火 頬撫でなどの「妖怪」
そして、人間の仕業とは思えない原因不明・正体不明の小さな現象も数えきれないほど多くあったでしょう。
山で斜面などに向かい声を出すと声が返ってくる。夜、川で小豆を洗うような音がするのに誰もいない。夜中に田や山中に火が躍っているが近付くと消えてしまう。夜中に山道を歩くと頬を撫でていくものが現れる・・・。
この時代、神仏や神霊からのメッセージを見逃す聞き逃すことは恐ろしいことに繋がり、原因不明、正体不明の事象は「神仏や神霊からのメッセージか否か」を見定めることは重要でした。
そのような中で、例示したような現象(帰ってくる声・川の謎の音・謎の火・頬に触れる不思議なもの)が起きた時に、「それは『やまびこ』と言うのだ」などと説明する人がいたら、それらの現象はやまびこ・小豆洗い・狸火・頬撫で ・・・などと名付けられることになった、と推測します。
なお、やまびこ・小豆洗い・狸火・頬撫でなどの名称は現代に至る時代の名称であり、古代や中世にはまったく別の名称であったことでしょう。ちなみに「妖怪」という呼び名が普及するのも明治以降、だいぶ未来のことです。

ここで、やまびこ・小豆洗い・狸火・頬撫で・・・その他の当時その場所における名称が告げられ語られる時、やはり「驚き」のような感覚があり、
現代で言う「妖怪」の存在を感知したり恐れたりする際にも、やはり無意識、心の奥底に特殊な「心の快さ」があったのではないでしょうか。

これらの現象は意識の上では、忌避すべきこと・恐ろしいこと・忌まわしいことと思われていたでしょう。しかし心の底-無意識の中では、このような
「妖怪」現象は、人間よりも大いなる自然、人間を包み込む自然の神霊のようなものの「眷属」の起こすものと感じられていたのではないでしょうか。「妖怪」現象に触れたときには、間接的に大いなる自然、人間を包み込む自然の神霊のようなものに触れたような感覚があったと思われるのです。
 
浄土教の信仰の中の人たちは地獄絵図を見て恐怖したり
悲しみと憤怒の中で不動明王の化身のような怒りに包まれている時にも
意識の上での恐怖や憤怒など「不快」な感情の海の底に、一方で
無意識、心の奥底に特殊な「心の快さ」があったと推定しました。
それを「神快Ⅰ(祈)」「神快Ⅱ(化身)」と呼称したのでした。
同じように、私たちの祖先たちは
暗闇に蠢く「妖怪」の気配や噂に恐怖や嫌悪など不快を感じつつも、
ある種の「心の快さ」を感じていた
のではないでしょうか。
明治以降「妖怪」と呼ばれるこれらの存在に感じる快さに「神快Ⅰ(祈)」「神快Ⅱ(化身)」の語はふさわしくないかもしれないので、これらを
「準神快Ⅰ(祈)」「準神快Ⅱ(化身)」と呼称し区別するものです。
 
私たちの祖先は、心の奥底で、
偉大なる神仏に触れた時に「神快」を感じ、
小さな神霊・姿形もわからぬ神霊に触れた時には「準神快」を感じた
と推測するものです。
これら「神快」「準神快」の両者が異なるものか本質的に同一なものかは保留し先に進みます。 

運がいい 運が悪い ついている
私たちは現代でも暮らしの中で、仕事で、恋愛などでも偶然の良いこと、悪いことが重なったときにときに「運がいい・運が悪い・ついている」などと口にします。
古代や中世の人たちは神仏や神霊からのメッセージにいつも耳を澄ましていたことを考えると、彼らはそのようなときに「憑いている」「憑かれている」のような(当時の)言葉でそれを「驚き」とともに口にしたでしょう。
そして「何が憑いたのか?」など思い、祈り、不安を巡らし互いに話し合ったりもしたでしょう。
(なお「憑いている」「憑きもの」等の言葉も普及したのは大正時代以降であり、古代や中世にはまったく別の名称でよばれていたと思われますが、「憑いている」「憑きもの」等の言葉で説明すること、ご了承ください。)
この「驚き」や「何が憑いたのか」を想像し高揚感や不安の中で話し合う際にも「準神快」の感覚があったと推測するものです。
当時の人たちが
「運がいい 運が悪い ついている」等と思い口にし悩み喜ぶとき、
何か大きな神霊に触れたかのような、無意識の快感-「準神快」を感じていた
と推測するのです。

その快感-「準神快」を感じたいがために、私たちは「運がいい・悪い・憑いている」と口にし、それを聞き話したがり、話題や噂として広まるのです。この延長で考えられることですが

狐憑き 犬神憑き 生霊憑き
運がいい家、悪い家、急に富んだ家や、不慮の災難に見舞われた家の話を見聞きしたとき、それは狐憑き・犬神憑き・生霊憑きなどと言われました。
村の中で急に富んだ家に対する妬みやっかみもあり・・・誰かが「あの家は犬神憑きだ」と陰口で囁くなどしたとき、
村の人たちの妬みやっかみもあり、そして「準神快」の感覚を燃料として「犬神憑き」の噂は村の中に静かに強く燃え広がっていったことでしょう。

霊感、虫の知らせ
霊感、虫の知らせなどの現象も、古代や中世の人たちが神仏や神霊からのメッセージにいつも耳を澄ましていたこと、そしてそれらのメッセージ-神仏や偉大なる神霊、また小さな神霊・姿形もわからぬ神霊に触れた時にさえ
「準神快」の感覚があったと考えれば、
「霊感、虫の知らせ」などに気が付いて「驚き」、
互いにその「霊感・虫の知らせ」を話題にして驚き畏れ・・・

それはある意味で「準神快」の感覚を味わう体験であったと理解できます。  

まじない 呪い 神のお告げ
なお、人間が主体になって行う「怪異」としてはまじない・呪い・神のお告げなどがあります。これらについては以下の図を念頭に考えてみます。

人間は、神仏や偉大な神霊に【憑依】されて【化身】のようになることがあったのですが、
神仏や偉大な神霊ではない、小さな神霊・姿形もわからぬ神霊に【憑依】されることもあった・できたのではないでしょうか。

小さな神霊・姿形もわからぬ神霊に【憑依】され【化身】となった人は、
やはり深い高揚感-「準神快Ⅱ(化身)」-のもとまじないや呪いを発し
あるいはお告げを垂れたことなど推定できると考えます。
キツネの霊に憑かれて「コンコン」と鳴き跳び跳ねたりするのも、
キツネの神霊に【憑依】され【化身】と化している状態
かと考えます。

●「神仏や偉大な神霊に関わる事象」も「妖怪・憑き・怪異」現象も、
私たちの心の深層は同じシステムで処理している
以上、「妖怪・憑き・怪異」現象を「【祈り】【化身】、宗教表現と宗教感情」のフレームで整合性、一貫性があるように考えてみましたがいかがでしょうか。
この分析に妥当なところがあるとしたら、それは
『「神仏や偉大な神霊に関わる事象」も「妖怪・憑き・怪異」現象も、
私たちの心の深層は同じシステムで処理している』
ことを示しているのではないでしょうか。
 
神仏や偉大な神霊と、妖怪・憑き・怪異現象を起こす小さな神霊、姿形もわからぬ神霊の違いは何なのでしょうか。神霊の力の大きさ、権威、思想の合理性、普遍性、深遠さ、そして人間に害をなすか益をもたらすか・・・様々な基準があり得るでしょう。しかし、神仏や偉大な神霊を定義づけられるような客観的な「基準」はあるのでしょうか。

突飛なたとえ話をさせて頂きます。
私たち人間は生き物に恣意的に「害虫」「益虫」「害獣」などレッテルを貼ります。また投資信託などの金融商品については、人によっては、その内容と関わりなく資産価値-基準価額が上がれば「良い商品」下がれば「悪い商品」だったりするでしょう。
私たち日本人の精神文化において、神仏や神霊的なものは、もしかすると投資信託なみに、人間に益を及ぼすか害を及ぼすか等の人間の都合、恣意的な基準で識別されるものであり、客観的基準を持たないものかも知れない・・・そのようなことはないでしょうか。
この点は引き続き探求を続けたいと思うところです。

●「妖怪・憑き・怪異」現象:「準神快」から「準D快」へ そしてメディア化・商品化 

「妖怪・憑き・怪異」現象の諸相を表題の視点で概観してみます。
「小豆洗い」という妖怪を例に考えてみましょう。

・「準宗教表現」「準宗教感情」「準神快」
ある村で「夜間に小豆を洗っているような音がするのに誰もいない」現象を村人が「小豆洗い」と呼び、
実在の妖怪のしわざと思い話していたならこれは「準宗教表現」であり
村人が不気味-少し怖いと思っていたなら、それは「準宗教感情」です。
恐いと言いながら話題にしているとき、
そこには心の深い所で「準神快」の快感が働いているでしょう。 

・「準D表現・準D感情」=「D表現・D感情」
さて、ある絵師が「小豆洗い」の話しを聞いて、遠い田舎の村で聞いた逸話として絵物語にして京の貴族や武士、江戸の町人や武士、また他の地方の人たちに紹介したとします。その絵物語を「どこか遠くの村の話」として人々が楽しんでいると想像してください。
都市や、遠く離れた土地の住人が絵物語で見る「小豆洗い」は
既に「準宗教表現」ではなく、「準D表現」
と言えそうです。
先に「神仏を描かないが深い慰安や畏れや救いなどの感情を喚起する表現」を(Deepな表現の意味で)「D表現」と規定しましたが、
絵物語の「小豆洗い」は、現実的な不気味さ怖さを漂泊され物語の水準で享楽されているものであり、「準D表現」と呼ぶべきもの、
言えるかと思われます。
でも、ちょっと待ってください。https://note.com/nihonos2020/n/n503827d4966c

先にアップした上記の投稿で
能の「安達原」「葵上」「鉄輪」で演じられる「鬼女」はD表現、浮世絵の武者絵等に描かれる、戦神の如き武者はD表現」
と記したことを考えれば、
鬼や幽霊、妖怪などを描いた表現は「準D表現」と言うよりは「D表現」であり、「D感情」を喚起するものであると考えます。
私たちの心では「宗教表現」も「準宗教表現」もその奥底に行くと
「D表現」に繋がっている
のです。 

・メディア化-商品化
なお「準D表現」と言うより「D表現」と言うべき「小豆洗いの絵物語」
他の絵師や物語作家に見られたり講釈などに使われると、それはメディア化-商品化の段階に至ると考えます。
絵師が描いた絵物語により貴族や武士、江戸町人は「D感情」を喚起され、そこでは「D快」とも呼ぶべき心の深層における快さが開発され強められ、人々は一層それを求め、絵師はそれに応えますますエスカレートした妖怪や鬼幽霊の表現を繰り出し・・・更に人々の「D欲」が強化され続けるサイクル
に至ります。
江戸時代の出版文化の隆盛は後の世の資本主義を彷彿とさせるように、そのサイクルを強化させていきました。
その「D欲」自己強化サイクルの歴史の果てに今の私たちがいるのです。
 
浮世絵には「D感情・D表現・D欲」の自己強化のプロセスが顕著にみられ、その表現は西洋絵画に大きな影響を与えたと言われています。
ちなみに現代日本のアニメーションが「D感情・D表現・D欲」の自己強化のプロセスを顕著に進めその表現が海外でも高く評価されているのは、浮世絵や妖怪の文化を継承するものと思われるのです。

以上

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?