普通について。

 「世の中ってのはねぇ、意外と普通なんだよ。」

 とある番組のロゴ、キービジュアルのデザインを担当して苦節三日、出来上がった作品を見て社員さんが言った言葉だ。どうやら私のデザインがクライアント側の意向と合わず、別のデザイナーの方が作ったものに決定したそうだ。その報告を受けて私は、やっぱりか…。と思ったものの、出来上がった番組のふわふわとした音楽の前でコミカルに動く「普通」のロゴや「普通」の芸能人の宣材写真を見て、どうしようもない無力感に苛まれている。

 私のデザインは、要するに「使いづらい」の一言で全て片付いてしまうようだ。

 「普通」

この言葉にこれほど苦しめられる日が来るとは思いもよらなかった。両親は私をできるだけ「普通」の大人になるように育ててきたそうだ。それに今回のデザインだって、特に社会から逸脱したような突飛なデザインにしようと思って取り組んだわけではない。

 世の中には「普通」を求める人間がたくさんいる。特に変わったところのないロゴ、取っ掛かりのないイラスト、なんてことない製品、これらが世界には溢れており、かく言う私もそういったものを数多く所持している。コンテンツの顔なんだからしっかりと時間をかけて、他にはないものを作り込まなければ…と考えたり、ああでもないこうでもないと作っては投げ、作っては投げしている間にも、そういったものは生まれ続けているし、求められ続けている。

 私はどうやらこの「普通」を生み出す技術を全くと言っていいほど持ち得ないはおろか、無意識のうちに避けているきらいがあるようだ。贅沢な悩みに聞こえはするが、言い換えれば「普通」も理解できないのに奇を衒ったものを作っていると、そういうことだ。

 ダッッッサ。

 今後制作をしていく上で、この「普通」にどれだけ近づけるか、そして近づいた上でどの程度離れるか、ということがテーマになって来るだろう。ただ悪い意味で三つ子の魂百までという諺があるように、どうしても私は「拗らせた変なダサいヤツ」なことに変わりない。だからこそ人一倍この「普通」というものを理解しなければならない。

 ありふれているとは言っても、どんなものにも魅力というものは存在するわけで、多分この「普通」のデザインを制作することは、ありふれた魅力のみを抽出してアウトプットする作業なのだと思う。ならば私はこのありふれた魅力に触れ、どこがどう素敵なのかということを研究しなければならない。今までカッコ悪いと思っていた店先の看板やWEBサイトの隅の広告、そういった全く見向きもされないようなものから着想を得ることが必要で、「個性」や、「独創性」と言ったものからは一旦離れなければならない。私でなければ作れないものを追求することは、言ってしまえば制作をするにあたって当たり前だ。それと今から研究する「普通」との距離をコントロールすることができるようにならなければ、私に明日はない。地獄に行く準備はできた。

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