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無能vs無能の戦い 日露戦争最大の陸戦

日露戦争

そう聞かれたら、大体の人は日本海海戦というイメージを持つでしょう。   しかし、日露戦争最大の戦いは旅順攻防戦です。                    今日はそれを紹介していきます。                               それではどうぞ

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1904年2月10日、日本はロシアに宣戦布告し日露戦争が勃発しました。   形的には近代化したものの、欧米と比べると圧倒的な差がありました。

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とくにロシアは世界一の陸軍大国。                         勝てるはずがない・・・

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南山の戦                                               鴨緑江の戦                                             ロシア軍の機関銃に圧倒されながら、日本軍は勝利を収めることが出来ました。

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これに驚いたのがロシア皇帝、ニコライ2世。                               ちょっと前までは日本人のことを「猿」だの「マカーキー」だの侮っていましたが、その日本がロシアに対して連戦連勝。                         即刻にもこの事態を打開するためにも、旅順艦隊をウラジオストクに入港させようとします。

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そうはさせるか。                                         旅順から出てきた艦隊を日本海軍は叩きました。(黄海海戦)                           この黄海海戦や鴨緑江の戦はここで掲示しています。

さあ、なんとか旅順艦隊は叩きました。                            しかし、臭い元は取っておかなければ。                           またバルチック艦隊と挟み撃ちに合わないためにも旅順を陥落させようとしました。

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きつすぎる・・・・                                    当時世界最大の要塞は旅順でした。                                  そこを貧乏日本が陥落させようとしたのでしたから無理もありません。                    しかし、落とさなければ待っているのは「滅亡」の2文字。                     

その上、旅順攻防戦、司令官は伊地知 幸助というどうしようもない無能でした。

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司令官が有能ならまだチャンスはありましたが、無能なら勝てる戦も勝てません。                                          しかし、これ幸いというべきロシアの旅順司令官はアレクセーエフという引けも取らない無能。                                かくして、無能vs無能の戦いが今、ここで落とされました。

この戦の戦力は

日本軍

約51,000名
(第一回総攻撃時)

ロシア軍

陸軍約44,000名
海軍約12,000名                                 その他約7,000名                             (籠城戦開始時)

さあ、日露戦争最大の死傷者が現れた旅順攻防戦が開始しました。                  伊地知 幸助に指導のもと、日本軍が突撃を繰り返します。

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日本は開国したての貧乏小国。                             かたや旅順は世界最大の陸軍国が造る世界最大の要塞「旅順」。               その上、日本軍は何の策も練らずに突撃を繰り返すありさま。                  そこに大量の機関銃が火を吹く。                           なので、日に日に死傷者は増加する一方。   

実は、こんな突撃を良作と考えているのは伊地知 幸助だけで、大多数の人は2百3高地を占領し、そこから大砲を打った方法が良いと考えていました。

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その様子を見かねた、幸助の友人である満州軍参謀井口 省吾が訪れました。

省吾「おい、幸助。何だこのありさまは!2百3高地に変更したほうがいいじゃないか!」

幸助「そんなことはない、つまらないことを言っている暇があったら弾薬でももってこい」

省吾「なんだと・・・」

これにはさしもの、省吾も幸助を殺害しようとするまで至りました。(結局は実行しなかったんですが)

その後も第一次、第二次、第三次と実行するんですが、被害を増やす一方。

これにはほかの人も不味いと思い、満州軍参謀、陸軍参謀、海軍参謀、連合軍参謀・・・etc                                      

全員「2百3高地にしろ!!」

幸助「嫌だ、断固反対する!」

こうなったら、その上官の司令官である乃木を更迭すればいいだけの問題です。

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天皇陛下「乃木を更迭してはならん!」

その時の天皇陛下は乃木の人間性を深く愛していましたので、更迭に反対しました。                                        しょうがなく、「相談役」(実質的には司令官として)として、児玉 源太郎を派遣しました。

児玉は就任するや速く2百3高地を占領しました。

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そして、その2百3高地から大砲を雨あられと旅順に降り注ぎました。

するとどうでしょう!                                    あんなに、犠牲を払っても陥落できなかった旅順が児玉就任4日後で陥落することが出来ました。

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旅順を陥落することが出来た児玉はその旅順司令官、ステッセリに訪問しました。

ステッセリは児玉が2人の息子を亡くしたことを深く悼みました。                      また児玉は武士道精神に従いロシア軍の大剣を認め、丁寧に扱いしました。           この事は「水師営の会見」として、広く語われました。

【その後の影響】

世界最大の要塞である旅順を陥落させたことは多くのヨーロッパ人に驚きを与え、児玉の名前が広く知れ渡りました。                           また第一次世界大戦にヨーロッパは要塞に無為無策に突撃し日本以上に被害を被りましたが、旅順を陥落させた歴史を学び、要塞攻略に頭を使いました。

【後書き】

このように、旅順を陥落させとことは日本にとって一つの山を越え、また一歩、勝利に近づきました。                              その後の歴史についてはまた後程紹介したいと思います。



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