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ハングル普及したのは日本のおかげ?誕生、禁止、そして普及まで。

ハングルの誕生

ハングルが誕生したのは西暦1450年頃で第4代朝鮮王朝の世宗大王が作ったとされいます。それまで朝鮮半島では、自民族の言語である朝鮮語を表記する固有の文字はありませんでしたので、知識層は漢字を使用していました。(下記は世宗大王の肖像画)

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中国から伝来した漢字は習得難度が高く、朝鮮語の発音に合わないため、固有の文字を作って、漢字の素養が無い民も読み書きができるように(訓民正音)と、世宗大王は考え、朝鮮固有の文字(ハングル)の創製を積極的に推し進めましたが、事大主義(強い勢力に付き従うという考え)の王族、貴族、両班(官僚機構・支配機構を担った支配階級の身分のこと。)から反発されます。

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上記は黎明期の両班とされる写真。下記は李氏朝鮮時代の民衆の様子ですが、ご覧の通りハングルでは無く漢字が刻まれてるのが分かりますね。

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例えば、集賢殿副提学(世宗大王が作った諮問機関)だった崔萬理は1444年に上疏文で「昔から中国の諸地は風土が異なっても方言に基づいて文字を作った例はない。ただモンゴル・西夏・女真・日本・チベットのみが文字を持つが、これらはみな夷狄(野蛮人・未開人)のなすことであり、言うに足るものではない」「漢字こそ唯一の文字であり、民族固有の文字など有り得ない」と反対しました。

ですが、世宗大王は「これは文字ではない、訓民正音に過ぎない」と押し切り、学者に命じて1446年に訓民正音の名でハングルを頒布しました。「民を訓(おし)える正しい音」の意です。下記は当時の本と言われています。

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日本でも、まず覚えるのは「ひらがな」です。「あ」は"あ"と発音しますと習います。そして、この漢字はどう読むのか「ひらがな」がふってありますよね。いきなり漢字だけでは何て読むのか、何て発音するのか分からないので、世宗大王は日本の「ひらがな」のような文字を作りたかったのでしょう。

ハングルの普及

しかし、世宗大王が使臣の反対を押し通してまで創製したハングルは、広める機関も無く当時はあまり広まらなかったと言われています。
また、1504年に李氏朝鮮10代国王の燕山君の暴政を誹謗するハングルの張り紙が各地で発見され、燕山君はハングルの教育や学習を禁止、ハングルの書籍を焼却、ハングルを使用する者を弾圧しました。燕山君は朝鮮全土から女性を連れて来ては、酒池肉林ざんまい。批判した奴は粛清や厳罰に処しました。その後、クーデターが起こり王の称号を剥奪されました。それくらいの暴君だったのです。このような事があり日韓併合まで民衆の識字率は高くなかったとも言われています。(下記は燕山君の肖像画)

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拓殖大学国際学部教授の呉善華 氏の著書『日韓併合への道 完全版』では「1911年、朝鮮総督府は第一次教育令を公布し、朝鮮語を必修科目としてハングルを学ぶことになり、朝鮮人の識字率は1910年の6%から1943年には22%に上昇した。」と述べている。

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ちなみに識字率について、日韓併合後の日本の統治をどうにかして欧米列強の極悪非道な植民地統治のようにしたい人は日韓併合後も識字率は上昇しなかったと言いますが、以下の観点から識字率が上昇したのは確実だと推察できます。

まず、李氏朝鮮では儒教が国家的に庇護され、国家の枠組みも儒教の思想が元に成り立っていたため、官僚になるには儒教をトコトン勉強せねばなりませんでした。その為、女性は「立派な儒教男子」を生み育てることが何よりも家のためとされていたので身につけても出世に影響が無いハングルは身につけても意味がありません。それは、1890年代後期に訪朝したイザベラ・バードが「上流階級の女性は諺文が読めるが、女性の識字率は極めて低く、1000人に2人である」と述べている通り。これが、ひとつ。

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日韓併合後に戸籍制度を導入した事で李氏朝鮮時代を通じて人間とは見なされず、姓を持つことを許されていなかった奴婢、白丁などの賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録した事で、奴婢や白丁も学校に通えるようになったのが、ふたつ。

李氏朝鮮時代は学校がかなり少なく、逆に漢籍の素読や習字が行われていた書堂(私塾)が多かったが、日韓併合後に朝鮮総督府の初代総監だった伊藤博文が学校増設を指示し、朝鮮語(ハングル文字も含む)を必須科目にした事が、みっつ。(下記は当時の教科書)

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その他に大韓帝国の言語学者である周時経の弟子が朝鮮総督府の正書法整備事業に協力して朝鮮語綴字法統一案(朝鮮語の正書法。朝鮮語をハングルで表記するにあたっての綴字上の諸規則を指す。)を1933年10月29日に正式発表したりなど以上の観点から日韓併合後に朝鮮語(ハングル)の識字率が上昇したのは間違いないと推察できます。(下記は周時経)

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周時経らは関係無い!と言う異論があると思いますが、周時経は1898年頃に大韓帝国政府の弾圧から身を隠しつつも、ハングル研究を続けて、1907年7月に大韓帝国政府によって設置された国文研究所の中心研究員となった人物ですが、1898年の大韓帝国は帝国ロシアの影響が強かった時代です。その後、日露戦争が起き日本が戦勝した事で大韓帝国は日本の保護国になりましたので、1907年に大韓帝国政府が設置した国文研究所は日本政府の影響があったと見て良いでしょう。

なお「ハングル」という呼称が文献上に初めて現れるのは大日本帝国による韓国併合以降の1912年です。それまでは「諺文(おんもん)」と呼ばれてました。

まとめ

朝鮮固有の文字(後のハングルと呼ばれる文字)は朝鮮人である世宗大王が作りましたが、身分関係無く老若男女に普及できなかったのは両班ら特権階級の朝鮮人で、その原因は事大主義や儒教の朱子学によって阻まれていました。身分関係無く老若男女に普及したキッカケを作ったのは日本なのは事実です。

なお、日本語は朝鮮語(ハングル)を真似たという説は本記事をご覧になれば分かる通り、崔萬理が1444年に上疏文で「昔から中国の諸地は風土が異なっても方言に基づいて文字を作った例はない。ただモンゴル・西夏・女真・日本・チベットのみが文字を持つが、これらはみな夷狄(野蛮人・未開人)のなすことであり、言うに足るものではない」とハングルが無い時に日本は文字を持つと言っているので、デタラメです。

また、福沢諭吉や福沢諭吉の弟子である井上角五郎がハングルを普及させたという説は否定せざるを得ません。福沢諭吉の新聞を誰でも読めるようにという考えや、ハングルだけの新聞刊行など、キッカケを作ったのは事実ですが発行部数が少ないので"普及させた"とまでは言い難いでしょう。

以上が、ハングル誕生から普及までの解説です。個人的に日本の「かな」と「ハングル」の違いは、阻むものがあったかどうかだったのかな?っと思いました。

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まっつん
日本国士を運営している松岡 石舟斎です。 ノートをご覧いただき誠にありがとうございます。 サポートをしていただけると幸いです。 宜しくお願いします。