結局自分はどこに向かっている?

今日は今まで足を踏み入れたことのない地区に来ている。

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昼頃に雨が降ったが、13時頃にはカンカン照り。家にいてもベッドの上で過ごすだけなので、外に出てきた。


先日、学生に学校を卒業することを伝えた。

あるクラスの学生は出会って2か月ぐらいなのに、すごく長い時間を一緒に過ごしてきたように距離が近い。

「びっくりと、寂しいです」と言ってくれる学生もいた。



これは学生の性格によるが、今まで関わってきた学生は、結構淡白な子が多いと感じている。

だから(?)あまり”わたし”として相手にされてきた感じがしない。
なんというか、あくまで私は先生であり、それ以上でもそれ以下でもない。

そのことに気がついていた。


海外で働こうと思った理由として、少なからず必要とされたいという気持ちが自分の中にはあった。


日本より海外のほうが、日本人という貴重な存在をフルで活用できるのではないかという安易な考えだ。

「あなたが必要」と言われるような存在になりたかった。

確かに”日本人”としての必要性は感じてもらえたが、結局はそれは、あくまでに日本人として。


日本人なら誰でもいい。


それは学生だけでなく、職場の人間からもひしひしと伝わってくる。

”わたし”として必要とされないことへの切なさ。



本当に自分という人間は面倒くさい人間だ。



でも、最近は学生との距離感が変わってきているような気がする。

以前と比べると、学生と先生の間にある何かフィルターのようなものが薄くなっている気がするのだ。

それはどうしてなのか考えてみた。


もしかしたら、自分の学生に対する接し方が変わったのかもしれない。


ある学生が私の印象の変化についてこんなことを言っていた。

「最初は真面目。今は、楽しいけど、なにかやわらかい感じ」


正直私も、学生と過ごす空間に同じような気持ちを抱いている。この感覚は、地域のボランティア教室で学習者と接してきたときと似ているような感覚。


そして気づいてしまった。

『たぶん、私は学校という環境には合わないのかもしれない』


コロナウイルスの影響で学習者が減り、こじんまりとしている現在の職場。

その分、一人ひとりの学生と向き合えるという意味でも、学生との距離感が物理的に近くなっている。
そして、堅苦しくないこの感じが、いい意味で学生の言う

「やわらかくなった」

なのかもしれない。


別にいい加減になっているわけではない。


こんなメッセージをもらった。

「私は先生がベトナムに住んでいないことを聞いて、びっくりして、ざんねんです。先生はとても親切と思います。先生に日本語を習うことの4か月は楽しくてとても助かりましたどうもありがとうございます。」


普段はあまり感情を表にださないこの学生。

日本語の勉強を始めてまだ4か月。そんな学生からこんなにも丁寧なメッセージをもらったことに嬉しく思う。


慣れれば居心地はよくなる。でも時々、時間が止まっているような感覚に焦る。


変化することへの楽しみはあるが、その分恐怖も大きい。


日本語教師を続けようと決めたはいいものの、優柔不断な自分はどこに向かっているのだろうと最近はそればかり。


いつかは、ここだと思うところでずっと働き続けたいな…。



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