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Tea or coffee? と「確認する」外人妻と「察する」名人の森蘭丸

織田信長の小姓を務めていた森蘭丸は、日本の「察する」文化の体現者といえます。一方、西洋は「確認する」文化。この対比が面白い。

Tea or coffee? と毎朝聞き続ける外人妻

学生時代のフランス語の教師(日本人)が、英国人の奥さんについてぼやいていました。

その英国人の奥さんが毎朝毎朝、判で押したように聞いてくるというのです。”Tea or coffee?" (お茶にしますか、コーヒーにしますか)と。

彼はその度に「コーヒー」と決まって答え続けるのです。朝はコーヒーしか飲まないと決めているのです、その先生は。

結婚して五・六年たってもまだ相変わらず「ティーオアコーヒー」と宣(のたま)うのでたまりかねた彼は、とうとう言ってしまいました。

君はボクと結婚して、一体、何年になるんだい。ボクが毎朝コーヒーを飲むことぐらい、とっくの昔に分かっているはずじゃあないか。
いつまで猿の一つ覚えのように「ティーオアコーヒー、ティーオアコーヒー」と言い続ける積もりだい。
いい加減にボクのことを分かってくれよ。
朝は黙ってコーヒーを出してくれい

日本人の旦那さんなら、この気持ちはよく分かっていただけますね。旦那の好みの一部始終を把握して、朝は黙ってコーヒーを出してくれるのが、古女房という物ではありませんか。

ところが、たまりかねて外人妻に反撃した日本人の夫は、逆に外人妻にこう反撃されたというのです。

私はあなたを愛している。
愛しているからこそ、あなたの好みを尊重して「ティーオアコーヒー」と聞いてさしあげたのです。
昨日も愛していたから昨日も聞きました。
今日も愛しているから、今日も聞いたのです。
明日も明後日も私があなたを愛している限りは、あなたの心を尊重して「ティーオアコーヒー」と聴き続けるでしょう。
それは私があなたを愛しているという証拠なんですよ、ダーリン。

なるほど、外人さんはそう考えますか。それも彼ら彼女らなりに筋の通った言い分ですね。旦那はやむなく、その後数十年を「ティーオアコーヒー」と共に過ごしてこられたそうであります。

相手の気持ちを察するという日本人の文化と、相手を尊ぶが故にその意向をきちんきちんと言葉で確かめるという西洋の文化とは、まことに面白い対照をなしています。

黒澤映画に見る日本人の「察する文化」

黒澤明という映画監督がいて「七人の侍」その他数々の名画を撮って私たちを楽しませてくれました。黒澤監督の特に時代劇などを見ると、この日本人の「察する文化」が実に見事に描かれています。

織田信長が座っていて、その前に向かい合って小姓(こしょう)の森蘭丸が座っている。信長が腰の扇子に手を伸ばして立ち上がろうとすると、蘭丸は主人の心を察して、すっと横へ座をずらす。信長は立ち上がって扇子をかざしながら前へでて一差し舞を舞う。

これなども信長はわざわざ「おい、蘭丸よ、わしはこれから立ち上がって舞を舞うので、お前は横へ座をずらすがよい」などと言わないのです。言う必要は無いのです。それを言わせるようでは小姓(こしょう)の役目は務まりません。

また、信長が外で家来たちを謁見していたとき、信長のわずかな体の動きからその心を察して、蘭丸がさっと床几(しょうぎ)を差し出す。信長は当然のようにその床几の上に腰を下ろすのです。

これなども、信長はわざわざ言葉を発しないのです。「おい蘭丸よ、わしは疲れたから床几に腰を下ろすとしよう。床几を持って参れ」などと言葉を発する必要はないのです。主人のほんの一瞬の表情と雰囲気を読み取って主人の心を察して、言われる前にさっと床几を出すのです。

あの短気な信長の小姓を努めるには、これほどの気働きが必要でしょう。
黒澤映画に関わらず、上質の時代劇には、この日本人の「察する文化」がうまく描かれているものです。映画鑑賞の際に、気をつけてみていると、映画のおもしろさがいや増すことでしょう。

察する文化は日本語アップダウン構造から

日本人はこの「察する」ということの訓練を、根本的には日本語アップダウン構造によって繰り返している訳です。日本語は、英語ショートカット言語のようにぴしゃりと弓で的を射貫くような言葉ではありません。

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隠れた世界にアップして見える世界へダウンしてくるという、まことに間延びした言語であります。こういうアップダウン言語を使い続けているから、日本人は「察する」ことが得意なのです。

また日本文化のさまざまな局面で、好む好まざるに関わらず、この「察する」という訓練を日本人は行っているのです。

障子ひとつとってもそれが言えます。西洋の家屋では部屋ごとにドアがあって鍵が掛けられるようになっています。日本家屋の部屋は襖や障子で区切るだけです。その障子を、開けてもよいのか開けてはならないのかを「察する」必要があるのです。

この「察する」という気働きが、すこしばかり衰えかけているとしたら、さみしいことですね。
「ティーオアコーヒー」を言い続ける外人妻の言い分も充分理解できますが、日本人であれば、森蘭丸のように「察する」という気働きを大いに磨いていただきたいものですね。

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