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五輪も、スポーツも要らない理由

  昨日、こんなツイートをしたが、この彼女、というよりも正確には彼女の病気を利用した同情論とも言えない理屈が五輪強行派による巻き返しとして盛んに行われている。

 五輪を解散総選挙に利用したい菅政権や与党、それこそ彼女の兄が勤める電通を筆頭にTVや新聞といったメディアなど五輪というビッグビジネスに絡んだ所は正に必死のようだが、これで世論の流れが一変するかどうかは注目に値する。

東京五輪は開催すべきなのか?


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  そもそも新型コロナのパンデミックの中、今年の7月に予定されている東京五輪を開催することには否定的な意見が多い。上のNHKは今年の初め、例の森会長の辞任騒動の前、下の文春は最近と、調査の時期ややり方は違うとはいえ、「東京五輪の中止・延期」はこれまでの時点では圧倒的な民意と言っていいだろう。

 つまり、この夏の東京五輪開催、そして開催しようとすることには今までの費用を無駄にしない為、電通やマスコミの為、総検挙に利用する為、様々な利権の為…色々な理由があるにしても、民意を無視した暴挙というしかない以上、 中止・延期しかありえないし、本来、ここで論じる必要すらもないことだったのだ。

 だだ、「東京五輪の中止・延期」が民意とは書いたが、その民意も実際は危うい代物なのは確か。

上の記事は4年半前のものだが、この2016年の時点、『リオ五輪の閉幕直後に共同通信社が行った意識調査では、「東京五輪がとても楽しみ」「どちらかというと楽しみ」が合わせて63.4%だった』という。つまり、新型コロナの前から「東京五輪なんてやらなくていい」と考えていた人は実は少数派と言っていいだろう。

 更に東京五輪の開催が決定した2013年当時となると、全国会議員722人の中で東京五輪開催に反対したのは山本太郎(当時、参院議員)ただ一人という事実もある。安倍の「アンダーコントロール」という嘘や、買収など五輪誘致にまつわる数々の問題があったのにも関わらず、何と他の野党議員は誰も東京五輪開催には反対していないのだ。

 つまり、これは今は新型コロナの影響で東京五輪の開催に国民の8割以上もが反対しているが、そもそも東京で五輪を開催すること、そして五輪そのものにはこの国の多くの人々が全く反対していない証拠と言ってもいいだろう。そういう意味では、今回の池江璃花子の病気を利用した五輪強行派のやり方もそれなりの成果を上げかねないのだが。


なぜ私たちは五輪、オリンピックをやりたいのか?


 それではなぜそんなにも多くの人々が五輪をやりたいのだろう。

例えば、費用の問題を考えても、東京都が約1兆4100億円、国が1兆600億円もの税金の支出をしているし、海外からの観客を入れないことが決定しているなど、これからも多額の追加費用が掛かるのは確か。それでも“五輪なんぞにカネを使うのはけしからん”という声はあまり聞こえてこない。

 これには多くの理由が考えられるが、一つには1964年、昭和39年の「東京五輪」の成功体験があげられる。高速道路に新幹線など日本の風景を大きく変えた高度経済成長のシンボルとなった催しに、この20年以上も凋落するだけの日本を何とかして欲しいという望みを託す部分もあるのだろう。勿論、東京五輪を理由にした公共事業で今の日本経済や日本という国が立ち直れる訳ではないので、この望みは全く無意味なのだが。

 そしてもう一つ。現実には一番大きな理由が、TVや新聞などメディアによる影響だろう。東京五輪、そして五輪に関してはほぼ全てのTVや新聞が賛成派、推進派と言っていい。それには上にも書いたような五輪を最大のビジネスチャンスとする電通などの影響力云々だけではなく、メディアにとっても広告や売上げは勿論、コンテンツとしても五輪は大きな魅力があるからだろう。

   その結果として、例えば「Olympic Torch(五輪の松明)」に過ぎないものをなぜか日本だけが「聖火」と呼んだり、女性差別主義者のクーベルタンを理想主義者で近代五輪の父として称賛したり、そもそも単なるスポーツイベントに過ぎない五輪を「世界平和の祭典」と呼ぶような神聖化がずっと行われて来たのだ。

    また政府にとっても、森の一件でも明らかなったような政治家どもの様々な利権の巣窟というだけではなく、ナチスのベルリン五輪ではないが、民族の統合や国威の発揚に使える五輪は大きなメリットがあるし、神聖にして不可侵なものにしておきたい部分があるのだろう(そういう意味では、聖火リレーを最初に始めたのがヒトラーだったというのは象徴的だが)。

   五輪については、こうしたTVや新聞などのメディア、そして政府の一致した思惑の中に私たち国民は長年、置かれている訳で、正にプロパガンダによる洗脳状態。五輪の価値を疑うことなど出来ないのが普通なのかもしれない。

スポーツは神聖にして不可侵なのか?


 「五輪を神聖にして不可侵なものにしている」と書いたが、オリンピック、五輪だけではなく、私たちはスポーツそのものを神聖にして不可侵なものと考えていないだろうか?

 冒頭に紹介した私のツイートでもスレッドとして書き加えたが、五輪が単なるスポーツイベントで特別な大会でも何でもないのと同じように、五輪に出るスポーツ選手も特別な存在でも何でもない。

 彼らは走ったり、跳んだり、泳いだり…そんなスポーツをすることについて特別な才能を持ち、その才能を厳しい練習で伸ばして来た人間ではあるが、それはそのスポーツが彼らの「職業」だからに過ぎない。

 そういう意味ではパンを作る職人や工場で働く旋盤工、看護師、保育士、ウェイターや普通の会社員など、その他の「職業」の人間と彼らは何も変わらない。

 例えば、2年に一度のペースで「国際技能競技大会」、所謂、「技能オリンピック」という大会が開かれていて、旋盤から溶接、配管、建築大工、製図、料理、洋裁、造園など様々な職種で参加者がそれこそ金メダルを争っている。ただ、その大会が今年、上海で行われる予定だったが、それこそ新型コロナの影響で来年に延期されたことなどほとんど誰も知らない。その大会に出る人間と五輪に出るスポーツ選手と一体どこが違うというのだろう。

 そもそも「スポーツ」というのは、ラテン語の「deportare(デポルターレ)」、「運び去る、運搬する」の意味の言葉が語源で、19世紀から20世紀にかけて日々の生活から離れる気晴らしや遊びのことを指すようになった言葉。勿論、自分自身が体を動かしてする遊びや気晴らしが本来の意味だが、いつの間にか他人のスポーツを「見る」こともスポーツの範疇に加えられるようになっていったらしい。

 因みに、日本のスポーツ庁は『スポーツは「する」「みる」「ささえる」もの』などと言っているが、健康維持や身体性の保持などで人間に必要不可欠なのは「する」スポーツだけで、「みる」スポーツとやらは娯楽や芸能、エンターテインメントに過ぎない。

 勿論、娯楽や芸能にもそれこそ気晴らしとしての意味はある訳で、それを持って存在を否定することは出来ないし、スポーツを見ることを何よりも楽しみにするファンがいるのもおかしくも何ともない。ただ、それは映画や芝居、漫才や落語を見たり、コンサートやライブに行くのと何も変わらないのは確かだろう。その「みる」スポーツに何の特殊性もないし、ましてそれを職業として、それによって金銭を得て生活をしているスポーツ選手、最近でいうアスリートとやらに何の特殊性も神聖さもないのは当たり前なのだ。

 前にこんなツイートをしたことがあるが、“シナリオや八百長があるようなプロレスはスポーツではない”と言う人も多いだろうが、エンターテインメント、見て楽しむ娯楽という意味では、五輪で金メダルを争うスポーツも、チャンピオンベルトを争うプロレスも大同小異だろう。

 五輪は勿論、スポーツも神聖にして不可侵なものと考えるのは間違いだし、単なるスポーツイベントであり、単なる見て楽しむ娯楽。ビジネスにするのも、ファンがお金を出すのも構わないが、国が税金を支出したり、大臣を設けるようなことでは絶対にない筈。

 GHQが「3S政策(Sport・Screen・Sex)」で日本人を愚民化した、という話を持ち出す気はないが、たかがスポーツなのは確か。TVや新聞がスポーツを金儲けの為の重要なコンテンツとして私たちに押しつけているのは確かだし、それに踊らされるのはあまりにも愚か。

 五輪も、スポーツもなくなっても困るのは彼らだけなのだし、それよりももっと新型コロナ禍の中で私たちには必要なもの、必要なことがあるのは間違いないと思うのだが。




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