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ヴィーガンについて

《ヴィーガン》という人々がいる。

ヴィーガンの人々が持っている思想を否定するつもりは全くない。むしろ私は肯定派である。 

先日twitterで、とあるヴィーガンがチートデイを満喫している旨のツイートをして炎上した。たしかに少々鼻につく文言(「この達成感はヴィーガンの人にしか分からないんだろうな」とか)があったので炎上して当然とも思える内容だったが……

残念なことにSNS界隈で「自分はヴィーガンです」と表明している人はやや煙たがられる傾向にある。たぶん人前でこれ見よがしに神に祈る宗教家に似ているからかもしれない(イスラム教徒は別である。なぜなら彼らの礼拝には強力な時間的制約があるからだ。人前かどうかは関係ない)。とにかく、ヴィーガンがネット上で置かれている立場は少し厄介なものになってしまっているのが現状に思える。

新しいものに飛びついて目立ちたがるファッションヴィーガンは別として、普通のヴィーガンが肉を食べない動機は純粋に倫理的なものだ。すなわち、「生きとし生けるものの感情を害することを避けるべきだ」という思想である。

したがって、「野菜も生き物だから食うな」という的外れな批判は完全に否定される。なぜなら現在の科学と進化論の観点に立てば、植物に喜怒哀楽のような感情は備わっていないと考えれるからである。ヴィーガンが大切に思っているのは命ではなく尊厳のほうなのだ。この考え方については私自身おおいに賛成するところである。

たびたび炎上の槍玉にあがるチートデイだが、これには仕方がない部分もある。人間の身体はまったく動物の肉を食べなくても生きられるようには作られていないからだ。つまり健康上の被害が生じるということである。だからチートデイを持たないヴィーガンは、自分を犠牲にして他の動物の尊厳を守ったり、地球環境の改善に貢献しているわけである。

これ自体は崇高なことだし、人は多かれ少なかれ自己犠牲の精神を持つべきだとは思うが、それを他人に強制するのは間違っていると言わざるをえない。だからチートデイを非難する人は、他人に「不健康になれ」と言っているようなものである。が、一見するとヴィーガンにおけるチートデイの存在は、自らの主張に対して筋が通っていないように見えるため、普通の人がステーキを食べるのを見るより非道徳に見えてしまうのは否めない。

食生活だけの問題ではない。毛皮はもちろん、動物実験の恩恵を受けて開発された医薬品などもヴィーガンにとっては制約の対象になっている。医薬品については特に表示義務もないだろうから、自分が飲む薬が開発の過程で動物実験をしていないかどうかについてわざわざ製薬会社に問い合わせる必要がある。こうしたことを察知するには身の回りのものについて常に注意を払い、相応の労力をかけなければならない。ヴィーガンであり続けるということは相当量の犠牲を強いられるということなのである。

現代の文明社会において動物の犠牲なしに生活をすることは難しい、したがってヴィーガンにとってこの世界は生きにくいと言わざるえないだろう。だがもう少し、ヴィーガンの倫理観の根底にあるものを掘り下げてみれば、この厄介な問題の解決策が見つかるかもしれない。

実はヴィーガンが一番気にしているのは、他の動物の尊厳を破壊することになる原因、すなわち闘争をまったく介さない、人間>動物の、一方的で不可逆な力関係にあるのである。もし、牛や豚や鳥に、労働組合を組織したりデモ行進したりできる知能があったとしたら、ヴィーガンなど存在しなかっただろう。その場合、牛や豚や鳥が一方的に食べられるのは弱肉強食の結果であり、自然の摂理だからだと言えるからである。すなわち、牛や豚や鳥が食べらるのは、抵抗できるのにしないからである。

ライオンが一匹のガゼルを捕まえて食べているのを目撃したとしよう。たぶんほとんどの人は哀れなガゼルを可哀想だと思うだろうが、ライオンに対して道徳的な責任を問おうと考える人は一人もあるまい。なぜだろうか、たしかにライオンとガゼルには一方的な力関係があるかもしれないが、それは自然の結果であり、ガゼルはライオンから首尾よく逃げおおせることができた可能性もあったからである。これはガゼルとライオンとの自然な闘争の結果なのだ。

しかし、これが動物園の檻の中の出来事だとしたらどうだろう。餌の時間になると、飼育員が生きたままのウサギを持ってきてライオンの檻に放り込む。腹を空かせていたライオンは待ってましたとばかりに飛びかかる。ウサギは食われてなるものかと逃げ回るが、所詮は檻の中、捕まるのは時間の問題である。かくしてライオンは、腰を落ち着け、檻の外の沿道を通る客を見ながら空腹を癒やすのである。もしあなたがこの光景を見たとしたら、檻に放り込まれたウサギに対して、先程のガゼルとは違う哀れみ以上の感情を覚えるのではないだろうか?

「公正世界仮説」という認知バイアスがある。これは簡単に言えば「世界はフェアにできているし、フェアであるべきだ」という思い込みだ。良いことをすれば良い報いが帰ってくるし、悪いことをすればバチがあたる、ということである。犯罪者が何らかの圧力によって無罪放免になったとき、人は憤りを感じるものだ。人間は不公平であることに本能的な嫌悪を感じるものなのである。

ヴィーガンが食肉について感じていることはこの不公平感なんだろうと思う。家畜の存在を肯定する人は、静かに回り続けるこの美しく愛すべき世界で共に生きていく同胞に対し、不正を働いているのである。一部のヴィーガンがやたら攻撃的なのもこれが理由に違いない。普通の人が犯罪者の不道徳な行いには刑罰が必要だと感じるのと同じように、食肉を肯定する人間にはそれ相応の罰が必要なのだと本能的に思っている。しかし、当然ながら食肉は合法なので普通に肉を食べている人が罰せられることはない、だから怒っているのである。

ではどうすればいいのか、一応根本的に解決する方法はある。それは人間が文明を捨て、正常な食物連鎖と弱肉強食の世界に帰ることだ。人間は依然としてガゼルやシマウマや象を狩って肉を食べるだろうが、怪我をして逃げ遅れた人間はライオンの晩御飯になるだろう。これはごくごく自然なことであり、善として肯定されるべきことなのである。しかし、この方法はまったく現実的ではない。ヴィーガンにとって現代社会は非常に生きにくいだろうが、おのれの理想を実現するために少しずつ進んでいくしかないだろう。幸いにもヴィーガンの展望は明るい。培養肉の技術が、ヴィーガンの悩みを解決してくれるかもしれないから。


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