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日本の芸能界に於ける “idol” ”star"

 決めるのは全部「推し」である彼等。
其れを全部が全部、受け入れられるような人間ではないけど、ヲタク側はヲタクにまわった時点で「消費者」だと云うことは忘れてはならない、のだと何度でも何度でも肝に銘じる。


視力があると視覚情報が強く入るから、見た目が重要なのは人間みな同じであると考える。ましてや自分自身が商品価値と直結する世界、【有名人や芸能人と呼ばれたりする世界】に身を置いている皆様においては尚更のこと。
そうでなければ、様々な表現をする世界の「印象」「価値」など作品の存在に大きく左右することは言うまでもない。

見た目も商品となって消費されてしまう側になってしまう3次元に存在する「推し」の皆様。
もっとこうだったら、ああだったら、のべつ幕無しのように云ってしまいがちだけど、其れはただ「自分が好きな時の見た目」が長続きしてほしい欲なのかもしれない。押し付け。
「●●が誌面で持っていたから」、「□□がネット上で紹介していたから」、情報の中に人間の情報が色濃く載るだけでも、其の商品の輝きが増して、知らなかった商品の引き出しに出逢ったり、想像だにしていなかった層、「まさか」な部分へと繋がることだってあるのが人物の存在だと思う。

魅力の相乗効果を引き出すのが人物。

…いろいろな考え方があるのは勿論だけど、決まったことにはどうすることも出来ない。自分ならこうする、こう思う、と留めておくことの大切さもある。

生きてく上で切っても切れない「衣・食・住」に関わる媒体への起用は本当に凄いと思います。
CM映像が公式YouTubeに投稿されるのは良いけれど、栄枯盛衰もあるし諸行無常で、長期間映像を残すようには考えていないだろうから、期間が来たら消えてしまうのが勿体無く感じてしまう。

見た目にも気を配ってほしいのは勿論だが、健康第一で。

…彼等は、ほんの少しのことでも「商品」になってしまうのは否めない。
何を使用しているのか、其の「名前」を載せることにより経済効果が変わったりもする。どの商品に誰をどのように起用するのか、モノにもよるだろうが、CMで商品よりも気になるのは起用されている「人物」の方が多いような気がしなくもない。

自分(たち)がやることに対して「癒しに使ってもらえたらいいな」と「消費されてしまう側」の認識がしっかりあることの其の言葉に、判ってはいても何処かで封じ込めていた気持ちを突いてきて、胸がきゅっと締め付けられる。
「僕たちを都合よく利用して」とあの日の会話の内容にも、とある雑誌にも同じようなことを述べている。自分自身が商品であるから消費される側だと理解していて我々は擦り減らしてしまう側だと思い知らされる言葉。





 「今」が積み重ねられて出来ていく現在進行形の世界に、生き様、「今」を積み重ねることによって存在感が増して、「文化」をつくり、「 “今” を終わらせない」ことで其れが残り「歴史」となっていく。



人間だけではない、移り変わりゆく様々な媒体。商品。価格。
変化は必要だとは思う。

何処を維持し、何処を変化させ付加価値とするのか。


「CD」というのは、もうおまけ感が強くなってる気がする。顕著。
純粋に「音楽を届けたい」という気持ちより「イベント参加権を売る」ということをここ数年で もの凄く感じるようになった。
音楽業界の衰退、娯楽の多様化、環境の変化、経済的な問題、等諸々、見えないものまでもあると思う。

売り上げが大切なのはよく判る、商売ゆえ。
でも 「握手券」 「イベント参加権」と「CD」を分けて販売したらどうですか、と思う気持ちもやはりある。

感覚を使い、考える「体験」には勝てるものはない。

───「此の商品」に金額を付けるなら?
見えない工程までが含まれている数々、考え方の差違、価値観で明確な基準や相場が無い中で決められてしまうのだろうか、と。
何が高く感じで、安く感じてしまうのか。

「体験」という付加価値の方が、「CD」という届けたい、遺したい作品本体価値より上回っている、と感じる数々の増加、
と云えばそれまでであるけど。価値観だって其々違うから難しい、様々な商品の価値。



音楽や文化は歴史に残る「作品」であることを改めて思った。
年齢や経験を重ねないと表現出来ないものは存在する。

「作品」の表現にも熟成が必要
なのだと。

───商品にすれば、残る。

そのためにも、どうか、生きていて様々な表現方法を試して提示をしてほしい。

此方には絶対に見えることのない、沢山のものをすり減らして、同じ人間であるのに「商品」として存在されて「消費される側」でもある。
「私たちは選ぶ側」で、「推したちは選ばれる側」。

どちらが残酷なのか、きっと「私たち選ぶ側」なのだろうと思う。
数ある存在の中から、「推したい」と選んだのだから。

きっと覚悟があるから、其の世界に居るのだと信じて居たい。

内側は見せてくれないと見えない。
見せてくれる加減で、見せたいと思ったら知らせてほしい。
擦り切れて居なくなってしまう前に、どうか辛かったら休んで、心に背負ってしまった見えない荷物を降ろして。


「推し」が生きていてくれたら、もうそれだけで良いから、推しが楽しくしあわせなら良い。
初めて推したいと思ったその日からずっと思っている。


「1日分のありがとう」と「幸せ」を毎日推したちにお届けしたい。


見た目も商品となって消費されてしまう側になってしまう3次元に存在する「推し」の皆様、いつも本当にありがとう。

そして、ヲタク側はヲタクにまわった時点で、「商品となってしまう推しの皆様」を消費してしまう存在の「消費者」だと云うことは忘れてはならないと肝に銘じて、今日もお慕いから推したい。