【考察】【卑弥呼】伊勢の神宮の成立(垂仁天皇二十六年の丁巳年冬十月甲子の日)がAD237年だった場合

魏志倭人伝の卑弥呼に関して

伊勢の神宮の成立の年月日を以下の記事で特定しましたが、

そのときに使用した春秋暦(一年ニ歳暦)表の年表を改めて見直す過程で、卑弥呼(日巫女・日御子は役職名)の年表メモを見て、以下のことに気づきました。

伊勢の神宮の成立の翌年に使いを送っているので、倭姫命が魏志倭人伝の卑弥呼ではないかと。

魏志倭人伝 卑弥呼(AD238年に使いを送る)卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。

正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。 正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬された。

春秋暦(一年ニ歳暦)表

倭姫命と倭建命の関係と臺與(とよ)に関して

ただ、倭姫命=卑弥呼の場合、卑弥呼はAD247年に亡くなられているので、倭姫命は景行天皇の御世に倭建命(ヤマトタケノミコト)に天叢雲剣(草薙剣)を渡すことができなさそうです。

小碓命(おうすのみこと)は、この時はまだ、その髪を額の上で結う少年の髪型をしていました。何も知らない小碓命は、叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)から衣装(御衣と御裳)を賜り、剣を懐に収めて、勇んで出発しました。

現代語古事記

また、景行天皇の誕生は垂仁天皇17年と日本書紀に記されており、春秋暦(一年ニ歳暦)表で西暦に直すとAD233年生まれとなります。AD247年に数え年14歳(魏志倭人伝では13歳)なので、もしかすると臺與(とよ)は景行天皇もしくは近しい妹または若い后妃なのかもしれません。

景行天皇は皇子・皇女が多くに恵まれ、后妃に孝霊天皇の皇子の若日子建吉備津日子命(夜麻登母母曾毘売命の異母兄妹であり、氷河之前で清浄な壺を置いて神を祀ったと古事記に記述があります)の娘である針間の伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)がいます。また、皇子に小碓命がいます。
もしかすると、針間の伊那毘能大郎女は「日巫女」を継承した「臺與(とよ)」であり、実母であり叔母ではありませんが古事記で小碓命に剣を渡した「やまとひめ」ではないでしょうか?

もしくは、景行天皇の后に古事記では成務天皇の母の八坂之入日売命(やさかのいりびめのみこと)がいます。その皇子、皇女は「王(みこ)」「比売(ひめ)」ではなく「日子(ひこ)」「日売(ひめ)」となっています。皇位を継承する資格を持つ太王(ひつぎのみこ)とされている三王はいずれも八坂之入日売命の皇子であることから、「日売(ひめ)」で記される八坂之入日売命も候補だと思います。

斎王一覧より、倭姫命の次の斎王は「五百野(いおの)」とあり、八坂之入日売命の皇女に「五百木之入日売命(いおきのいりびめのみこと)」がいることから、八坂之入日売命が「五百野(いおの)」であり、「日巫女」を継承した「臺與」なのかもしれません。

また、景行天皇の皇子・皇女に「とよ」の名をもつ御子が2人います。
豊戸別王(とよとわけのみこと)
豊国別王(とよくにわけのみこと)

卑弥呼の陵墓といわれる箸墓古墳に関して

宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定(じじょう)されており、卑弥呼の陵墓といわれていますが、築造時期が241‐260年ということから、夜麻登母母曾毘売命ではなく倭姫命の陵墓なのかもしれません。

築造時期3世紀中頃~後半(241‐260年頃)

https://ja.wikipedia.org/wiki/箸墓古墳

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