今日は早い

 個人的な話。個人的な話になるけれど、今日は記事の投稿が早かった。今は21時40分。いつも23時50分ぐらいになって書き始める私としては、けっこうな快挙と言える。言えない。なぜならこれはべつにやるべきあれそれではないから。他にやりたいことがないから書いているだけだ。今日もなにを書こうかと考えながら書いている。とくに書きたいことが見つからないからで、ならなぜ書いているかと言えば、ずいぶん前に書いた通り、商人欲求のためだ。(なぜかこう変換された。なんだかおもしろいのでこのままにしておく)。ちょっとまえにすこし承認欲求を満たされる記事が書けた。閲覧数がダンチだ。それだけにその次に書いたランチパックの記事はそんなにつまらなかったか……とややげんなりしている。まあ読み返すと時間ぎりぎりすぎてなにを書いているのかよくわからないことになっているのだが。

 そういえば、最近パワプロの栄冠ナインをやっているのだけど、転生プロのなかに誰? と思う人がなんにんかいた。いや、転生プロはけっこうマイナーと言うかほとんど活躍していないような人もいるので、そもそも知らない人もいるのだが(アンダースローの加藤とか。栄冠ナインではじめて知った)、そういうのでなく。赤見内と高井という選手である。ぜんぜん知らなかったのだが、赤見内というのは楽天の銀次のことで、高井はベイスターズの雄平のことらしい。知らなかった。二人ともすごい有名な選手なのに。というか、銀次の本名は赤見内銀次なのか? SF小説のなかの名前みたいだ。

 そうだ、それと名前で思い出したのだけど意味は分からないかもしれないけれど、小説っていうのはどこまで影響を意識していいものなんだろう? 私は小説を書くのだけど、書いた小説の話をまともにできるのはうちのお母さんぐらいだ。ほかはほぼまともに話すことができない。数少ない友達は批判的なことを言ってくれないし、サークルのひとたちとはそんなことを話せるほど仲良くない。私はちょっと前に大学の賞むけに小説を書いた。出来は置いといて、それはデヴィッド・ボウイの「火星の生活はどうだい?」をきいて思いついた小説だった。と、同時にニコラス・ケイジの(もしくはチャーリー・カウフマンかスパイク・ジョーンズの、あるいはもしかすると、ゲイリー・クーパーの)アダプテーションという映画を強く意識して書いた小説だった。アダプテーションは私のお気に入りの映画のひとつで、創作として理想とするものの一つだ。あらすじは……まあ書いておこう。脚本家のニコラス・ケイジが蘭と蘭泥棒をめぐるエッセイ本の実写化を任され、書けないと思い悩み、そのうち自分までも登場させてしまう、という内容だ。ちゃんと書くとただのネタバレになってしまうので、これぐらいにしておく。というか予告編を張ればよかったのだ。

 すごく面白い映画である。これについて誰かとたくさん話したいけれどそれはここで書くことでもない。そもそもそういう話じゃないしね。

 私はこの小説はアダプテーションみたいのが書きたくて書いた。と言った。そうするとうちのお母さんは、みたいの、じゃなくて自分のを書きなさいよと言った。私はこれにはあまり賛成しなかった。といっても、私は殊更に”創作とはなにかに影響されなければ書けないし、完全なオリジナリティなどない”などと吹聴する輩は嫌いなので、それだけで賛成しなかったのではない。そもそも書いた小説はアダプテーションのエッセンスをいれたものではなく、アダプテーションを解釈した私がアダプテーションの魅力的なフェロモン、もしくはアダプテーションのアトモスフィアに感覚を刺激されたに過ぎないものだったからだ。これは僕の中では、創作するひととしてのプライドや矜持や倫理意識に抵触するものではない。でもうちのお母さんとしては、あまりよくないことだったのだ。その線引きはどこにあるんだろう? うちのお母さんはどこまで影響を許すのだろうか。ついで私はどこまで許しているのだろうか。テンプレやフォーマットに則ることは影響と言えるのだろうか? 長くなりそうなので、ここでいったん切る。

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