見出し画像

文豪みたいに生きてみたい

とにかく毎日何か書いてみなさい、と言われ、手を動かしている。
とは言え、今日は仕事がなく、何かあったといえばひどくおなかが痛かった、ということくらいだ。

なので取り立てて書くこともないので、最近の妄想について記しておく。

文豪、というと何を思い浮かべるだろうか。
厭世的で、文机に向かいながら頬杖をつき、目の前の窓から川に目をやり、煮詰まるとふらりと酒を飲みに出かけ、帰ると妻が待っている。
なんか素敵。

と、こんな文豪がいたかは全く知らないのだが、なんとなく素敵だな~と思う。
私の仕事はもちろん文豪などではなく、しがないサラリーマンなのだが、毎晩ウォッカを飲み、相方に介抱されている、という点は文豪らしいかもしれない。もちろん妄想の中の文豪であるが。
厭世的な部分も文豪らしい。

厭世的、といえば懐かしいのが小学6年生の時にとある親戚のお兄さんに「君はペシミストだね」と言われた時からの付き合いである。約30年間この性格で生きてきた。立派なペシミストに育った。

ただ以前の自分と違うのは、ペシミスティックになるのは自分が何も知らないからだ、と学んだことだ。
何かを恐れるのは、相手にしていることを理解していないからである。得体の知れなさが恐怖を生み出すのだ。

悲しいかな、世の中のすべてについて知ることはできない。そういった意味では私たちは恐怖に付きまとわれたまま一生を終えるであろう。

そんな恐怖から少しでも抜け出したくて、すき間を見ては本を読んでいる次第である。けれども、本を読むのはひどく時間がかかるし、体系的ではあるがな、生々しさが失われている場合が多い。

そんな時コロナを恨む。
もし他者と触れ合う機会がもっとあれば、自分が知らない世界に生きる人と出会うことができただろう。

などときれいな言葉を並べてみるが、コロナ前から他者とほとんどかかわらない生活をしてきたので、コロナは関係ないですね。

そうは言っても、コロナが蔓延したおかげでまた一つ大切なことに気づけた、という点では有意義だったかもしれない。

以前はSNSでフォロワーの数を増やすことなど馬鹿にされてきたものだが、個人的にはSNSの活用は侮れないと思う。蛸壺的やり取りだったり、自己顕示欲を満たすためだけの使用については疑問を抱いているが、オンラインで自分と異なる経験を積んでいる人と触れ合える機会は貴重だ。

一方で、例えばTwitterであれば140字という短い文字で物事を伝えなければならない。それは土台無理な話だ。それを補うために多くの人はツリーにしてツイートを重ねるわけだが、すべての人がツリーに目を通すわけではない。ましてやトップのツイートですら流し読みされ、切り取りが行われることもある。悪意のあるようやくも出回る。

言葉は切り取られるものであるから、こうした流れを防ぐことは、SNS上でなくとも難しい。これまでの学校教育でも「抜粋」を元に思想の解説などを受けたはずだ。

なのでいきなり影響力のあるツイートをしようと力むのではなく、他者とのコミュニケーションを通じたネットワークの形成を念頭に置くのが良いのではないだろうが。

とはいえ、例に出しているTwitterは「○○垢」という考えが根付いており、それぞれ主要のジャンルについてつぶやくことがフォロワーから求められ、他分野に関するツイートをすることでマイナスに作用することも少なくない。それに代表されるのが政治のツイートだろう。

誰にでも愛されるツイートといえばかわいい動物の画像であろうか。

多くの人が政治について語り合うことができない社会は、衰退の一途をたどるのではないだろうか。書籍で学ぶこともあるだろうが、口に出して初めて意識することもある。言葉にして初めて感じることもあるだろう。
ツイートにしてみることは、それぞれが政治に向き合う良い機会だと思う。

だが、先に述べたように140字しか書けないので、「議論」をするのは到底無理である。仲間内でしゃべっていることがいきなり日の本に晒され集団リンチを受ける可能性があるからだ。

あくまで希望的展望であるが、ある程度の多様な人物が集まった冷静なネットワークを構成し、その中で深い議論をできるとよい。

この「冷静なネットワーク」をつくるのが非常に難しいだろう。
人間は二人でも上下関係をつくろうと争う生き物であるのだから。

なんとまあ、やっぱりペシミスティックな思考を捨てられないらしい。明日に希望を持つために、もっと学ぶ必要がある。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?