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戦前の沖縄におけるコーヒー栽培のはなし

※この原稿から3年、調査はだいぶ進みました。その後の調査結果は、コーヒーに関連する記事を取り上げた喫茶店/カフェ利用者向けコーヒーPR誌『四季の珈琲』に掲載しています。ただウエブサイトにはまだ掲載していません。

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 一人あたりのコーヒーの消費量が世界第5位の日本。

 私はその日本でのコーヒーの歴史、特に戦前の日本でコーヒーがどのように普及したのかを、当時の女性向け雑誌に掲載されているコーヒーの広告から調べるのが好きだ。時間を見つけては調査している。歴史の歩みが伸縮しながら受け継がれるのを探るのはまさに驚きと思考の連続だ。

 ここ数年、私は仕事の関係で沖縄県に移住しているため、戦前の沖縄県のコーヒーに関する広告について調べようと思い、まずは状況や歴史から紐解いている。

 そもそも日本では勧農政策の一環で明治頃から沖縄県と小笠原でコーヒー豆の栽培が行われた。
 世界のコーヒー豆生産地は、赤道をはさんだ北緯25度〜南緯25度の間を中心としたエリアで栽培されている。ベルトのように連なっているように見えることから「コーヒーベルト」と呼ばれている。
 日本の沖縄県と小笠原は 北緯26〜27度と少し外れてはいるが、コーヒー栽培ができる最北限地になっている。しかも亜熱帯地域に属し、加えて温暖な海洋性気候である。このためコーヒー豆の生産が可能となり、国産コーヒーの栽培が行われている。ただ両地域とも台風の通り道でもあるためコーヒーの木が強風で倒されてしまい、栽培には困難を極めていた。
 それでも明治以後、コーヒーの木の栽培が試みられた。まだまだ調べなければならないが、現時点でわかったことをまとめておきたい。

明治期に、小笠原と沖縄でコーヒーの栽培が始まる

日本で最初にコーヒーの栽培が開始されたのは沖縄
 明治頃、小笠原と沖縄県で国産のコーヒー豆を生産させようと当時の政府によって試みられた。
 これまで日本で最初にコーヒーの木がもたらされたのは、榎本武揚の建議により、1876年(明治9)4月、横浜港に到着したコーヒーの苗樹は小笠原で栽培が開始された、ということが広く知られている。しかし、実際は、前年の1875年(明治8)に、一足早く沖縄県に届き、移植されていた。つまり日本に最初にコーヒーの木が移植されたのは、沖縄県であったのだ。

明治24年頃、種苗を小笠原より取り寄せ、沖縄県で栽培
 次にコーヒーの苗が植えられたのが、沖縄県である。時期は明治24年(1891)頃、国頭(くにがみ)郡の農会長、朝武士干城(あさぶしかんじょう)氏(※2)により、今帰仁村と本部村の境界付近の場所にあった当時の農会の試験場に栽培を開始した。種苗は当時コーヒー栽培を行っていた小笠原より取り寄せたものだった。
 これは、昭和14年(1939)3月に刊行された『第八回 造林研究会記録』(熊本営林局)において当時の沖縄営林署技手であった穐山隆馬氏により残されている。

同時期、宮崎県の試験場で廃物となったコーヒーの木が沖縄に移植
 また明治43年(1910)、田代安定氏により著された『恒春種畜場事業報告』(台湾総督府殖産局)によると、宮崎県の試験場で栽培されていたコーヒーの木を、沖縄県八重山島、その他に移植したという記録がある。そこには、すでに栽培が開始されていた沖縄県内のコーヒーについての記述も残されている。以下抜粋する。
 「明治二十年頃農商務省より宮崎県下沃地に熱帯植物試験場を創設し同省技師田中節三郎氏を以て主任に充てコーヒー各種経済植物を移植し仝二十四年頃廃物となりてコーヒー木等は沖縄県八重山島、其の他に転植し田中技師其の事を擔當(たんとう)す 沖縄県諸島は是に前後して内地人某等のコーヒー栽培に従事するものあり、而して人代り時代移り植物は尚存在するも大成するに至らずして止めたり、右によると沖縄県下には明治二十年代にジャバからの種類が入ったものと思われます」。

栽培には困難を極めるも栽培の研究は続く
 つまり明治24年頃には、沖縄県北部地域、八重山島内で、コーヒーの栽培が行われていたことになる。
 しかし、「人代り時代移り植物は尚存在するも大成するに至らずして止めたり」という部分があるように、明治43年頃には、栽培には困難を極めた様子が伺える。ただし、大正13年(1924)に、県内で初の造園業「桃原農園」を創設した尚順氏がコーヒーの木を含めた、国内外の植物を集め栽培の研究を行っていたという記録もあるように、コーヒー栽培の研究は続けられていた。

昭和10年、木村珈琲店が大規模栽培に着手

木村珈琲店が直営の「慶佐次珈琲栽培農場」を開場
 昭和10年(1935)、神奈川県・横浜でコーヒーの卸商であった木村珈琲店(現、キーコーヒー株式会社)によって相当規模のコーヒー豆栽培が着手された。場所は、国頭郡東村(ひがしそん)慶佐次(けさじ)。名前は「慶佐次珈琲栽培農場」であった。
 栽培種子は、前述した今帰仁村の試験場より採取したアラビア種のモカロング。栽培面積は、廿町歩(にじゅうちょうぶ、約20ヘクタール)であった。苗木も養成しており、6万本の苗木があったという。

直営農場を開いた理由(1)今帰仁村のコーヒーの木が優良だったこと
 昭和12年(1937)発行の『沖縄毎日新聞』には、木村珈琲店の店主であった柴田文治氏が、なぜ直営農場を作ることになったのかが書かれている。その中に「昭和9年(1934)に沖縄に来遊し、今帰仁村に於ける珈琲樹生育状態を観察しその品性優良なる事を看破し、早稲田大学時代の学友だった玉城村字前川出身知念喜文氏をして今帰仁村(なきじんそん)に珈琲樹を買い占めて移植し既に二千五百本を購入した。一方、東村慶佐次に山林二十町歩を購入しコーヒー園を計画している」とある。
 また記事の最後にコーヒーがいかに農家にとって有利なものであるかを記し、「コーヒーの栽培を農家の副業にすることに最適である」とまとめ、コーヒー栽培への関心をひくものとなっていた。

直営農場を開いた理由(2)台湾のコーヒー農園に植え付ける種子を生産する拠点
 キーコーヒー株式会社に伺ってみた。大正9年(1920)横浜で創業した同店は、昭和6年(1931)より当時日本の統治下にあった台湾に進出し、台東(たいどん)、嘉義(かぎ)の2カ所においてコーヒー農園事業を開始した。それぞれ500〜600tの収穫を目指し、開墾・植樹を進めた。その2カ所のコーヒー農園に植えつける種子を生産する拠点として昭和9年(1934)沖縄に「慶佐次珈琲栽培農場」を開設した、と同社の広報担当は話してくれた。

 『沖縄毎日新聞』の記事と広報担当の話をまとめると、柴田氏が沖縄に直営農場を開いた理由は、今帰仁村のコーヒーの木の品質が優れており、台湾に開園したコーヒー農園に植え付ける種子を生産する拠点として、そして私が加えるならば、沖縄と台湾という地理的にも近いということから、ということになる。

第二次世界大戦の激化とともにコーヒーの生産は中断

 同店の台湾の農園で収穫されたコーヒーは昭和11年(1936)、アメリカで高い評価を受けるまでに至ったものの、第二次世界大戦の激化、終戦を経て、その台湾での2つの農園は手放し、生産も終了したという。
 となると「慶佐次珈琲栽培農場」はどうなったのだろうか……。『沖縄毎日新聞』の記事内には、「知念氏の外に二名の係員を設置して」と農場に従事する人の様子が表現されている。店主の柴田氏の同級生である知念氏と係員の方々はどうなったのだろうか……。
 これは、先の小笠原でも同じである。第二次世界大戦により、父島でのコーヒ豆の生産も中断した。なぜなら全島民が強制的に疎開されることとなったからだ。終戦後もすぐには帰島できず、アメリカから返還され、島民が帰島できたのは1968年だった。

「コーヒーで地域おこしを」と県内各所でコーヒー業界の活性に挑む現在

 冒頭でも述べた通り、そもそもコーヒー豆の栽培は、沖縄県を含め日本国内では難しいとされていた。特に沖縄は台風の影響でコーヒーの木が倒されてしまい、栽培に困難を極めていたという。しかし、現在では、「コーヒーで地域おこしを」と県内各所でコーヒー業界の活性に果敢に挑んでいる。
 県産コーヒー豆の安定生産やブランドの確立を目指すことを目的に平成26(2014)年に設立された「沖縄珈琲生産組合」。平成29(2017)年4月には、北部地方で珈琲を栽培する農家が集って「やんばる珈琲ツーリズム協会」を設立した。同年同月、沖縄県産コーヒーの栽培振興を目指し、「一般社団法人沖縄コーヒー協会」も設立された。商業・観光の両面をにらみながら、沖縄県産コーヒー豆の栽培は行われ、県産コーヒーの知名度を上げている。
 県内産コーヒーの生産だけでなく、「沖縄産コーヒー」に付加価値がついているのも、コーヒー業界が賑やかになっている理由でもある。
 その一つが、厳格な基準を満たした高品質のコーヒー豆だけに与えられる「スペシャルティコーヒー」の認定だ。その認定が2016年、日本で初めて沖縄県から誕生。北部地域にある国頭村安田の農業生産法人アダ・ファームから国産スペシャルティコーヒーがその名誉を得た。
 令和元年(2019)4月には、沖縄SV(おきなわ・エス・ファウ)とネスレ両者が、沖縄県内の耕作放棄地などを活用し、沖縄を拠点とする国産コーヒー豆の栽培を本格的に開始する「沖縄コーヒープロジェクト」(※3)が始動した。

 長くなるのでここで一旦筆を置くが、沖縄での調査への興味は尽きない。まだまだ情報が点である。線にして面にしていきたい。

 しかし……、最も関心がある戦前のコーヒーの広告に関しては、沖縄の戦前の新聞を調べているが見つけられない。



参考・引用文献
世界と日本のコーヒー豆事情(味の素AGF株式会社)
日本で採れるコーヒーがあるのを知っていた? 小笠原コーヒーの秘密(小笠原村観光局)
国産コーヒーの歴史(沖縄コーヒーアイランド)
四季の珈琲(いなほ書房)
沖縄コーヒー確立へ 県内21生産者が組合設立(琉球新報)
国産コーヒーの大規模栽培、沖縄で展開へ 名護市に1万杯分の苗植え、来年は40万杯分を計画/沖縄SV・ネスレ日本(食品産業新聞社)
国産スペシャルティコーヒー誕生 - 農業生産法人 アダ・ファーム
木村珈琲店が東村で『県産コーヒー農場』経営(沖縄毎日新聞)昭和12年2月24日付
問題の本県珈琲は世界的の高級品種(沖縄毎日新聞)昭和12年2月26日付『第八回 造林研究会記録』穐山隆馬著(熊本営林局)昭和14年(1939)3月刊行

脚注
※1 榎本武揚は、武士、化学者、外交官、政治家、正二位勲一等子爵とさまざまな肩書を持つ。 
※2 『沖縄県公文書館だより 第31号』によると、朝武士干城は青森県出身で、明治28年、奈良原繁知事の県政下、 国頭役所所長に就任し、明治29年国頭郡長となった。明治31年(1898)には首里区 長兼中頭郡長として約5年間勤めている、とある。
※3 鹿児島県奄美群島の徳之島でも、温暖多雨の亜熱帯性海洋気候を活かしてコーヒー栽培が行われている。味の素AGF株式会社でも徳之島のコーヒー生産者会とともに徳之島産コーヒーの生産を支援し、島の次世代に引き継ぐためのプロジェクト「徳之島コーヒー生産プロジェクト」を平成29年(2017)夏に立ち上げた。全国郷土紙連合によると、令和元年(2019)11月に、味の素AGFは、徳之島で生産したコーヒーの試験販売を令和3年(2022)をめどに始め、翌令和4年(2023)には、数量限定で本格発売を目指すと発表した。


※この原稿から3年、調査はだいぶ進みました。その後の調査結果は、コーヒーに関連する記事を取り上げた喫茶店/カフェ利用者向けコーヒーPR誌『四季の珈琲』に掲載しています。ただウエブサイトにはまだ掲載していません。

#一駅ぶんのおどろき

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