昨晩の迷走からの気付き

たぶん、昨日の夜考えていたことの伏線回収記事だと思います。
…早いよ!ミカハヤビどころか1日ですか!?
やっぱり私、導かれている!?

本日一日、好き勝手にアニメ見て、動画見て、ほったらかしだったスイッチのRPGもやってみたりして、本当に好き勝手に、ひさびさにオタクな活動もやってみてた。

でも全然没頭できなくて、むなしさみたいなものが胸をすいていた。
おかしいな。カタカムナやるより昔だったらもっとうきゃ~っと没頭没入しているはずなのに。


そもそも私って、この最近のモヤモヤした気持ちもそうなんだけれど、なんでこんなにイライラしているのだろう。神の絵も肌感覚がよくわからなくなったり、体重計の数字が動いていないのに苛立ったり、仕事でも今週は特にイライラしていた。
今までこんなに自分に対してイライラしてなかったように思う。

ぼんやりと、今まで描けていなかった「虎の檻の虎」を描いてみていた。
ちょっと描いてはさぼって、またちょっと描いて…。

描けたらPCに取り込んで…またサボって動画をみてはまた線を濃くしたり線を整えたり…またアニメ見たり…。

そんなことをしながら、イライラについて考えてみた。

つい昨晩、ぐるぐると考えてみたのだ。カタカムナでいうところの「シイハタ、シイフミ」(12句)。自分の感情に振り回されています。

そもそも、イライラってなんで起こるんだ?
自分のなかにこんな激情あったのかって逆にびっくりしている。
とりあえず、自分以外におきかえてみる。
イライラしているキャラクターってなんでイライラするんだろうって。

イライラを隠さないどのキャラクターも、怒っている対象への期待値が高い。それは他人にしても、自分にしても。
要するに、要求するボーダーが高い。
「ここまではできて当然」のハードルがその怒っているキャラにある。
それを超えるのは当然。
…でもハタから見て、努力なくして超えられないハードルだったりする。

あるいは、制約。「自分はこんなに縛られて我慢して苦しんでいるのに、なんでお前は笑っているんだ!」と相手に責任を押し付ける感じ。お前もこの苦しみを味わうべきなんだ!といわんばかり。

昨日の記事に書いたものを、他人事として見直してみたら、
「こんなに自分に対して期待値高かったっけ?私って」
という気持ちが湧いてきた。

繰り返し出てくる言葉。
「なんでこんなこともできないんだ」
ほら。ボーダー高めてる。自分で自分のハードル上げてる。
今までハードルあげたことあったっけ。

でも、思い当たることはある。
カタカムナに出会って、ひろのさんと出会って、
「貴女は神に選ばれました。導かれました」って聞いてからだ。

正しい言い方か分からないけれど、選民思想が刺激されているんだと思うのだ。
いままで自分の人生どうこうしようって思うほど人間できていなかった。そんなに自分に期待を抱いていなかった。
でも、文章力のうまさで、私は選ばれた!神様に選ばれたんだ!!って、
どこか他の人より高い位置に立ったような、間違った自尊心が刺激されてしまった。
誇りを持ったことのない私だけど、誇っていいのかも!って、どこか天狗になっていた。

神様に選ばれたんだから、もっとできるはず。
仰々しい二つ名もそれに拍車をかけた氣がする。
神さまに選び取ってもらえたのだから、未来は明るいはず。
元々が元々だから、ダイエットの絵ですっごい美しくなっていけるはず!!

そうやって、慣れないくらい自分の双肩に、「選ばれし勇者の自分」「神様に選んでもらえた誇れる自分に」という期待をドーン!!と、自分でも苦しくなるくらい乗っけてしまった。でっかくってたっかいハードルを設けてしまった。

だから、昨日の文章の冒頭なのだ。
『こんなこと』と言いつつ、
め~っちゃ高い期待を希望値込みででっかく乗っけておいて、ああ!神様がついていながらできなかったんだ!と失望していたんだ。
あぁ、だから苦しかったんだなぁと。
お恥ずかしい話、こんなに自分に期待したこと、今までの人生で体験してこなかったんですよね。その弊害かもしれません。
他人だと状況が見えやすいからアドバイスもできますけど、自分のこととなると必死で、その状況が見えてなかったんだなぁ。
そもそも、1週2週でパッ!サッ!はい完成~!なモノでもない。
少なくとも7週くらい経過みててくださいね、っていう技術であり、神様も絶対の自信で送り出しているダイエットの神の絵。

功を焦っていた、とSNSで発言したし、自分で分かっていたつもりだったけど、心がまったく納得してなかった。
だから引きずって、分からなくて、イライラして、落ち込んで……。
あとから見返すと、ほんとシイハタ、ですよ。
感情という心の風に、自分がバッタバッタ振り回されて。

私の星(ホロスコープ)を眺めていても、感情を感じる振れ幅が、たぶん他人と比べても大きいんです。感情って主観でみるもので、大きさとか深度とかどれくらいとか比べるのなんて難しいんですけどね。
でも必要以上に眺めて、苦しくて、振り回される。もともとそういう星の運命を選んで、私の魂はこの地球にやってきてるんです。

このことに気付けたのは、結局他人の人の考えや言葉に触れたからでした。

このお二方の対談方式の話を最近聞き始めました。

この動画の6分くらいからの「ライトワーカー」(地球により多くの光りをもたらすためにお仕事をする人のこと)、「アイデンティティ」の話で、スッと腑に落ちたんですね。

そうだった、自分のしたいことをやってる人っていうのは、心が燃えていたり、楽しんでいたりするから、暇をもてあますどころか、「時間が足りない!」くらいに思ってるかもしれません。
そしてそのお役目、運命、自分がこの地球で・この肉体で得たかった目的、目標。
それを見つけて赤命(あかみこと、ラスボス倒してこの人生を満足した命と私は解釈している。カタカムナ12句)になった命というのは、この3次元の世界での評価をそもそも気にしなくなっちゃう。
自分が得たかったものを既に得ているから、満足しているから。
そうなると、マイナスな考えも、悩みも、次元が変わっちゃったので、チャンネルを合わせない限りは引っ張られなくなる。

自分の感情は大事なんだと昨日は思い込んでいたけれど、そうだった、
命って、この世界っていうのは多面体だったんだ。
私のこの體と感情は、今しか感じられないのかもしれないけれど、いずれはさよならバイバイしなくちゃいけないもの。
そういう、一歩引いた俯瞰(フカン)の視点からみれば、客観視すれば、感情ばかり見つめすぎるのは視野が狭くなっていたな、っていうことに気付けました。
私から見た世界は、私はこう!これが絶対!これ以外の道はない!!
なんて、思わなくていいんだよなぁ。
かつて持ってた考え方だったのに、すっかり忘れていた。
俯瞰して見るってそれはつまり、神さまからの視点なんですよね。

さんざん自分を責めたり、苛めたり、心を攻撃して穴だらけにしちゃった、心の波動としては低い行為をしてしまったけれど。
とった方法や考え方はよくなかったにしろ、それだけ執着していた、ということは。
私はきっと私が思っているよりも強く、この體・このアバターを気に入っているし、良くしていきたいと強くつよく願っていたんだな。
そんな気付きと出会うことができました。

ある種、貴重な体験だったかもしれない。しんどかったけど。
それと思った。
この考えにたどり着いて記事にしてもらうために、あえて味あわされているのかもって。
や、やっぱり神さまのてのひらの上な気がする!!!!

以下は私のリマインドとして。また心が弱ってる時に見る用に。
ユーチューバーのひすいこたろうさん。

心をふっと軽くしてくれるショートや動画を出してらしてる方です。


オタク活動って、心はすっごく揺れ動くんですよね。
他の人やキャラたちの人生をなぞっている感覚。特に少年漫画や青年漫画はそう感じる。辛さや苦しさ、それを乗り越えた喜び。本当にいい作品は魂が揺れて、感動で涙も流れる。
ハマった作品のことを朝も夕もなく考えて、そのうち満足できなくなって続きを書いてみたりする。
でも、カタカムナやり始めて、「現代人って、考えすぎなのかもしれないな」って思うことが多くなってきた。

脳は5%しか使っていなくて、もっと使うにはどうしたらいいか、なんて話があるようですけど、そういう感情や思考、頭の中でのことに集中していると、體はほったらかしになる。
せっかく感度もよくて細かい作業ができる手や、耳、目、口とかいった器官を持っていても、現代人はそれらは使わずに、頭ばかり使っている。
カタカムナを始めて頭をあまり使わない生活になって、あんまり疲れを感じなくなってきたんですよね。
ニンゲンもしかして、考えすぎなのでは…?今まで異様に感じていた疲れって、頭を使いすぎていたからなのでは?

生きていたら、いろんな体験をする。生きるの苦しいって思ったのは一度や二度じゃない。自分に理由のないような事で勝手にレッテルを貼られたりもする。

でもそういうしんどいことや苦しい体験も、「そうかしんどいのか、くるしいのか」って抱きしめる。體からの発信を受け止める、言葉にして飲み込む、あるいは味わう。
自分と、自分の生き方についてひろのさん経由で叱られて、それで辛くなって迷って困って迷走したけれど、
私の中で見つけた方法論のひとつが、自分の體からの声をきく。

視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚…そして第六感。
私の場合は見えない存在はブルブルとして触覚に近い形で感じますけれど、そういう目に見えない存在を感じる瞬間が増えました。
最近ルーティンにした、寝る前の神さまへのおはなし時間でも、こと感じるようになりました。
その感覚は、自分にしか分からない主観的な物かもしれない。
でも今まで知らなかった、味わったことのなかった感覚。
私の體って、こんなことも感じ取ることができたのかっていう新発見。
でも、別に特殊能力に目覚めたとかでもない。ただ、考えるのをちょっとやめて、感じることにリソースを割いただけ。

主観を感情だけに振り回されず支配されず、體が感じ取っているものもまた、大切に扱い、味わうこと。
それが、神さまのいう「自分の人生と向きあうこと」「地に根をはって生きること」なのかなぁって思ったりしました。

2024.0727

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?