犬山まちづくり自主学校(第3期) 第3回「男女共同参画ってそもそも何のこと?」
3月10日(日)まちづくり自主学校(第3期)第3回「男女共同参画ってそもそも何のこと?」を開催しました。講師は前回に引き続き名古屋大学法学部の田村哲樹さんです。
私たち「みんなの社会部」は、はじめ「男女共同参画部」という名前でした。
でも、この「男女共同参画」というのがどうもよくわからない。英語では「Gender Equal Society(ジェンダー平等社会)」で、それだったらジェンダーにまつわる差別をなくした平等な社会を目指すということでわかりやすいのだけれど、「男女共同参画」ってどういうこと? 最近は女性活躍の話ばかり取り上げられているような気がするし、ジェンダーって、男性女性という性別の問題だけではないよね?
ということで、もっと大きな枠組みから学びを深め、社会について考えていこうということで、「みんなの社会部」という名前に変えたという経緯があります。
でも、この「まちづくり自主学校」も「男女共同参画」の枠組みがあるからこそ、市との協働が成り立っているようにも思えるし、「男女共同参画」の理念そのものは大事なことのように思う。それってそもそも何ですか?ということを学びたいと思いました。
男女共同参画社会基本法(Basic Act for Gender Equal Society)とは
田村さんにははじめに「男女共同参画社会基本法(Basic Act for Gender Equal Society)」についての説明をいただきました。
男女共同参画社会基本法は今から25年前の1999年に制定されました。基本法というのは、理念や基本方針が述べられているもの。罰則を定めたような法律ではないそうです。
この基本法では、「男女共同参画(社会)」は、以下のように説明されています。
そして、第二条二では、そのための「積極的改善措置」の説明がなされています。
その他にも大事な条項が並びます。
第三条【男女の人権の尊重】では、「性別による差別的取り扱いを受けないこと」を明記。
第四条【社会における制度又は慣行についての配慮】では性別による固定的な役割分担等を反映して、男女の社会における活動の選択に対して中立でない影響を及ぼすことのないように配慮されなければならないこと。
第五条【政策等の立案及び決定への共同参画】「男女が、社会の対等な構成員として、国若しくは地方公共団体における政策、又は、民間の団体における方針の立案及び決定に共同して参画する機会が確保される」
第六条【家庭生活における活動と他の活動の両立】 「・・・家族の一員としての役割を円滑に果たし、かつ、当該活動以外の活動を行うことができるようにすること」
第八条【国の責務】「男女共同参画社会の形成の促進に関する施策」には、「積極的改善措置」も含まれる。
第九条【地方公共団体の責務】 地方公共団体も「国の施策に準じた施策に準じた施策及びその地方公共団体の区域の特性に応じた施策を策定し、及び実施する責務を有する。」
などが述べられています。
なかなか法律の内容まで読み込む機会はありませんが、なるほどという内容です。
性別による差別を受けないこと、家庭以外の活動の両立が認められていること、国や地方公共団体が積極的に改善していく責務を負うことといった理念が法律によって定められていることの心強さを改めて感じます。
お話しのなかで興味深かったのが、法律を立案するときに、立場の違いで複雑な対立が背景にあると、両論に配慮した書き方をしないと通らないことがあって、それがまわりくどい表現の背景にあったりするということです。たとえば、伝統的家族が壊れてしまうのではないか、無責任になってはいけないのではないか、という懸念に応えるために、家族の一員としての役割や共に責任を担うべき社会形成について念押しされています。他方で、家庭と社会生活の両立や、ジェンダーバイアスへの警鐘もしっかりおさえられている。その辺に攻防があったことが見て取れます。法律は無味乾燥なものではなく、その背景にはいろんな人の思惑を読み取ることができるのですね。
「男女共同参画」=「女性の問題」ではない
さて、ここからが本題となります。
基本法では、性別による固定的な役割分担(ジェンダー)の慣行による不利益がなく、あらゆる分野の活動に参画する機会が確保されるよう明記されているわけですが、現実には男女共同参画といえば、女性がワンオペ育児を抱え、時短などを駆使しながらいかに活躍できるかといった視点に置き換えられがちです。
田村さんはそれに対し、「男女共同参画」=「女性の問題」ではないと言い切ります。
結婚してこどもが生まれても女性が「仕事」を継続することはできるようになってきましたが、「キャリア」を形成することはまだまだ難しい。仮に昇進等の機会があっても、今までも手一杯だったのにやっていけるのかと躊躇します。
その背景には「女性問題」としての男女共同参画の限界があります。基本的に「男性のあり方」は(あまり)触らずに、「女性のあり方」を変えようとしてきましたが、本当の問題は「仕事優先」の「男性の標準」。大切なのは男性の変化であり、「男性の家事や育児」が特別ではない社会にならないと、「女性の活躍」は限定的にとどまります。男女共同参画は、「男性の問題」=男性の「家庭参画」として(も)理解されるべきなのです。
田村さんも触れられていましたが、女性のキャリア形成を阻むキャリアバイアスについて調査された方の記事が最近の新聞でも取り上げられていました。キャリア形成に役立つ「重要」で「上位の仕事」は男性に回るという規範が、社会や会社のなかですでにできあがっているという具体的な調査です。とても興味深い内容なのでぜひご一読を!
東京新聞Web記事:「なぜ女性は昇進できない」を解明した川崎市職員にたっぷり聞いた 「軽視される仕事」と「形状記憶合金」
田村さんはさらに続けます。
「男性が標準」の下では、仕事と家庭を「両立」する女性は特殊な存在のまま。形を変えた性別分業(=「男は仕事、女は家庭」)は持続し、男性の「家庭参画」は、「例外的」「特殊」なことのままとなります。
そして、引用されたのがこの言葉。
経験上、まさにその通りだと思う分析です。
アンケートでも、女性に光を当てることで、女性は特殊な存在になってしまうという一言がとても印象的だったという感想もありました。
「単独」で担うことの重要性と、「話し合える」男性と家族へ
ここで田村さんのオーストラリアでの「父子生活」の例をお話しいただきました。
田村さんはオーストラリアで2年間在外研究をされましたが、そのうちの約6ヶ月間、2人の子どもを連れての父子生活をされたそうです。
田村さんは育休も取得されているので、育児や家事の経験はありますが、身寄りのない海外で単独でこどもを世話をすることは想像を絶するような大変さだったと思います。
そうした「男性の家庭参画」の経験から学んだこととして、「単独」で担うことの重要性を挙げられました。
妻のお手伝いをするのではなく、単独でやることで、男性は(恐らく)初めて「メイン」になり、育児や家事の「大変さ」を理解できる。そして、「メイン」になることで、
・言われなくてもやる
・「自分の役割」を越えてできる
・「仕事」の優先順位を下げられる
ということが、はじめて自分事として考えられるようになってくる。
さらに、単独でできるようになることは、最終目的ではありません。家事や育児は、究極的には他の家族メンバー(妻や子どもなど)にも関わる事柄。ゆえに、他者と向き合い「調整」することが必要となってきます。
前回の講座内容にもつながってきますが、ここでも話し合いを通じて、どれだけ自分のこだわりを手放すことができるかが問われているのです。
ブリントンはこうも言っています。
きちんと「話し合う」ことができれば、「別の選択肢」も見えてきたかもしれないのに、日本の家族には「話し合い(熟議)」が足りないために、性別役割を引き受けるしか道がないと思うケースがたくさんある。
これは自主学校(第3期)第1回目の「同意」の講座にもつながってくる話です。自分はどうしたいのかを伝え、相手の同意をとることの小さい頃からの積み重ねが本当に大事な意味をもってきます。
そして、田村さんは最後にこう結論づけられました。
「男女共同参画」とは、文字通りには社会のあらゆる場面で、性別にかかわらず、誰もが等しく扱われることですが、そのためには男女共同参画=「男性の問題」としての理解が重要であり、最終的には「話し合える」ことが大切です。
田村さんのお話しを聞くことで、男女共同参画が女性活躍の視点でばかり語られることに対するモヤモヤが大分晴れたような気がします。
女性の問題として語られる以上、女性は特殊で例外なまま。今でも十分頑張っているというのに、もっと頑張れと言われても、もうすでに息切れ状態。今、決定的に足りていないのは男性の問題としての理解であるということが、身に沁みて感じられます。
でも、男性の問題としての理解が進むよう、どういうアプローチをしていくことができるのでしょう。
そして、無意識の偏見(アンコンシャスバイアス)として、そもそも女性の問題としてしかとらえておらず、対話の土俵にすらあがってもらえないと思えるときに、どうやって話し合いができるのだろう。
この辺のところ、次回の「あったらいいなワークショップ」のなかでも考えてみたいと思います。
対話の時間:「らしさ」って何?
講座のあとは休憩を挟んで哲学対話(進行役:犬てつミナタニアキ)を行います。
今回は「らしさ」をテーマに話しあうことにしました。
「男らしい」「女らしい」という意識が、物事をいろいろとややこしくしていないだろうか?
「らしさ」ってそもそも何だろう?
まず出てきたのは、「リーダーは男の人ばかりが多い。それは力が強かったりする男性の方が向いているのか、女性が向いていないと思わされているのかどうなんだろう」という問いかけです。
それに対して、こんな経験談が話されました。
・小中学校では学級委員が男女一人づついて、それには立候補もしやすかった。でも、児童会や生徒会役員という学校全体での役職になると、女の子が立候補する雰囲気がなくて、手を挙げるのにも躊躇した。一回勇気をだしてチャレンジしたけれど、男子はノリノリで楽しそうに応援してもらってたけど、女子の自分はウエルカムな雰囲気がなかったし、自分が役員になるというイメージがわかなかった。女子というだけでレア扱いされ、楽しめなかった。さらに、小中学校のときはまだ手をのばせばあったものが、社会がまじってくると、社長や役員は手の届かない遠い存在になった。
そんなとき、こんな問いも出されました。
・確かに性別によって決まっていることは多いけど、どうして自分は女性側にいると思うんだろう。
たとえばヒーロー物の5レンジャーがあると大抵女性役がピンクとか赤で一人いる。自分はその一人に自分を投影しがち。必ずしも性別ではない性格や性質で選んでもよさそうなのに、どうして性別がこんなに強い影響をもつんだろう。
それに対して、自分は性別は関係なく、好きなヒーローを応援するつもりで見てるという意見もでてきたり。自分を一員としてみるのか、外部のものとしてみるのかといった違いも関わってきそうです。
さらにこんな話もでてきました。
・らしさの話でいうと、自分らしさってなんだろう? 何かを選んだ時に、◯◯さんらしいねとか、らしくないね、と言われることがある。自分にとってはどちらも自分にしっくりくるチョイス。らしさは自分が決めるものなのか、相手が決めるものなのか。
・昔職場で女性だけお茶汲みをさせられた。どうして私だけがやらないといけないんですか?と聞いたらその慣習がなくなったことがあった。一方で、重いものをもたないといけないときに、職場の男性が誰も手伝ってくれないことがあった。女性は持てないと思われたくないと思ってすごく頑張って運んだことがあった。自分がどう思われたいかわからなくて、モヤッた思い出がある。
・女だからと扱われるとえっと思うけれど、女なのにと思うことがリアリティとしてはあるかもしれない。でも、重い荷物は女性でなくても重くてぎっくり腰の危険があったり、階段とかは危ない。誰でも重いよねという話になるとジレンマに陥らなくていいんだけど、女性は重いものは持てないということとセットで、男性は持てるということがある。そこら辺がリセットされるとお互いにとってもっとよいのでは。
・女性だけ時短という話もそれに通じるかも。
といった話がでてきたところで、あっという間に終わりの時間となりました。
「らしさ」の中にある、自分の中から出てくる要素(自分らしさ)と、外からこうあった方がいいと言われる目線(男らしさ・女らしさ)との違いについてや、男女の身体的な特徴とジェンダーバイアスの関係について、これからもっと深めていきたいところでしたが、今日のところはこれで終了です。
アンケートのなかでも、もっとこのテーマについて話して考えたいという意見がありましたが、また折をみて対話の機会を設けていきたいと思います。
講師の田村さん、ご参加いただいたみなさま、ありがとうございました!
以下、田村さんより紹介いただいた本です。
〈参考文献〉
中里英樹『男性育休の社会学』(さいはて社、2023)
中野円佳『なぜ共働きも専業もしんどいのか』(PHP新書、2019)
萩原久美子『迷走する両立支援』(太郎次郎社エディタス、2006)
メアリー・C・ブリントン、池村千秋訳『縛られる日本人』,(中公新、2022)
〈その他のお勧め本〉
【男性の「家庭参画」関係】
巽 真理子『イクメンじゃない「父親の子育て」』(晃洋書房、2018)
平野翔大『ポストイクメンの男性育児』(中公新書ラクレ、2023)
【「話し合い」について】
ジェニファー・ペトリリエリ、髙山真由美訳『デュアルキャリア・カップルーー仕事と人生の3つの転換期を対話で乗り越える』(英治出版、2022)
マーシャル・B・ローゼンバーグ、今井麻希子ほか訳『「わかりあえない」を越える』(海士の風、2021)
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