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今日も一日

脱魔術化された世界

20歳までは、自分の内面に湧き上がる様々な情念がこの世界のすべてだった。
周りの人からどう見えているのかにばかり気を取られ、自分がどんな人間で、これからどうなっていくべきなのかが、なによりも最優先で大事なことだった。

他人と違う特別な誰かでありたいと願いながら、
他人と違うことに戸惑い、狼狽える。

この世の誰でもいいから、誰かと完全にわかり合えると思っていたし、
わかり合いたかった。たぶんそれが、自分が存在する上でのある種のゴールだった。

でも、マックス・ウェーバーがすべてを壊した。


落合陽一が著書の中で触れていたことでウェーバーを知り、当時はそのタイトルから、学問を職業にすることについて先人の知恵を覗いてみよう程度の軽い気持ちで読みはじめた。まだ、働くことに関してほとんどなにも知らない青二才の頃だ。
(まあ今もだけど。。。)

そこで「脱魔術化された世界」という概念に出会った。

本書の中で、ウェーバーは各分野の学問は、究極の真理を解き明かすことはできず、なぜその学問を行うのかという問いに答えることはできない(例えば、心理学を極めても”なぜ心理学が研究に値するか”は心理学では答えられず、全く別のところにあって学問以外のものによって価値付けされる社会的価値=その学問が社会や個人に還元する利益等に拠るしかない)し、
それに答えるのは宗教の役目だが、
肝心のその宗教はすでに科学によって機能不全にされている、
といった旨のことを若き学者志望のドイツ青年たちに語っている。
(ざっくりすぎて違ったら、ごめんなさい)

こうした事情を説明するのに使われているのが「脱魔術化された世界」という言葉だ。

いわく、科学技術が世界を支配するようになる産業革命前の世界では、世界中の各地域は交易こそあれ、社会的にも文化的にも基本的には分断された別世界であった。そして、その世界の根源を支えている価値観というのは、イスラム教やキリスト教、ユダヤ教に代表されるような一神教の世界観(=魔術的な世界の見方)だった。
こうした、宗教に基づく世界観は、別の地域を完全なる別世界(=世界の秩序の説明が及ばない外の世界)として見做し、域内の社会においては、秩序だった正義/不正義を定義していた。つまり、絶対的な正解と間違いが神によって定められた世界が別個に複数存在していて、その中で人々は暮らしていた。
ところが、科学がそれまで神だけが定めることのできた様々なルールを解明し始める。そして、産業革命後の世界では、神という絶対的な存在をなくし、人はそれぞれの世界が緩やかに干渉し合いながら、相対的な正しさしかなくなった世界に生きることになったのだ、と。

※説明がわかりにくすぎるのでこちらを参照してください泣

オーストラリアで見た光景

ウェーバーを読んで最初に連想したのは、高校1年生の夏に留学したオーストラリアで見た光景だった。

ブリスベン郊外の平屋建てに住むオーストラリア人とフィリピン人の夫婦の家に4週間の間ホームステイしていた頃のことだ。
(ちなみにその家には、中国からの留学生の姉弟も同じタイミングでホームステイしていた。今思えばとてもオージー味の強い世帯構成だ)

その家は、ホストマザーがカトリック色の強いフィリピンからの移民だったこともあってか、週末には教会のミサに参加するような信心深い家庭だった。

自分も4回しかない週末のうちの半分以上で教会のミサに参加させてもらった。神父さんが説教を行い、ギター弾き語りによる讃美歌があり、そして皆で卓を囲む教会でのランチを取る。TVでいつか見たような光景が、しかし現実世界の世俗的な生々しさを持って存在していた。
美しいゴスペルなんかじゃなく、近所のちょっと歌とギターがうまいおじさんが何度も「ロード…ロード…ロード…」と繰り返す歌、それに対して生まれる吹けば飛びそうな軽い神秘と感動の気配、古びた教会の設備、タダでお昼ご飯を食べるために集まる人々。そんな些細な物事の端から現実感が滲み出ていた。

宗教コミュニティがほとんどそのまま地域コミュニティを成すというのは古今東西よく聞く話である。この地域でもそれは同じだった。

日本の中では、かなり宗教色の強い家庭と周辺環境に育ったこともあり、こうした光景をみたときの感想は「日本で暮らす自分の周りで行われている人間の行為とまったく変わらないな」だった。

つまり、留学先のオーストラリアでは、宗教を基盤とした地域コミュニティが築かれており、それは日本で自分がそれまでに見てきたものと同質的だった。ただ信じるものの対象が異なるだけで、信じるという行為そのものや、週に一度集まった人々がお互いを気遣い合いながら、近況報告をするその姿や所作は驚くほどによく似ていた。

だからそのことを留学の最終課題であったスピーチの原稿に書いた。
”人間は本質的に同質で普遍性を有す存在なり”と
(もちろん考えられる限り最高に拙い英語で)

そして迎えたスピーチの発表本番当日の朝。ホームステイ先のキッチンで制服姿の僕がスピーチ原稿を読む練習をしていると、ホストマザーが内容を見てあげるからしゃべってごらんと言ってくれた。

この感覚が伝わるといいな、と無邪気に自信作のスピーチを語ると、ホストマザーはすごくよくわかるとうなずいてくれた。

いわく、
すべての人に普遍性が見出せるのは、皆同じ神に作られたからなのだと。
しかし、それは彼女が信じていた神様である。
彼女が全ての人に含めた中には、というかその大半は、その神のことを、その存在を信じていないのだ。
にもかかわらず、彼女にとって世界とは、彼女の信じる神が全ての人を作りだし、故にその全ての人に共通の普遍性がある世界なのだ。
これは、自分が発見し、指摘したかった事実とある意味で正反対のことだった。
意図したことがまるで通じなかったのである。

この自分が見つけたつもりになっていた人間の間に共通の本質的な普遍性という概念が伝わらないという経験そのものが、人間のわかり合えなさを切に教えてくれることになった。人間の根っこはやっぱりおんなじで、言葉を学びあって話し合えば分かり合えるよね、なんて甘い世界ではなかった。

15歳の自分の前に現出した
圧倒的な”わかり合えなさ”だった。

それから、数年後に僕はウェーバーにその”わかり合えなさ”の理由を説明されることになるのだった。

わかり合えないということ

信じることは盲目的だ。
ただ、その盲目さも生まれ持っていればこそ意味がある。

思うに、信仰とは与えられるもので、後天的に選ぶことはできないのだ。

必ずしも、それが宗教である必要はないが、人は心の根底でなにかしらの価値を信じて生きている。そしてその価値は人によって異なる。
神の持つ意味が相対化されてしまった世界では、人が信じるべき絶対的な価値は存在しえない。ゆえにどんなに普遍的に見える価値でさえ、広い世界のなかでは、異なる価値とぶつかってしまう可能性を秘めている。

例えば、”人を殺してはいけない”という命題でさえ、その根拠を探っていけば絶対的な価値とはいえなくなる。
殺人を否定するには、人間の生を肯定する必要がある。
宗教の時代には、これはいたって簡単だ。つまり、神が与えてくれたものを奪ってはならない、あるいは、神が作ったもの=善であるから、壊してはならない、と言ってしまえばそれまでである。

しかし、神の不在、もしくは限定的な存在が暴かれてしまったのが、「脱魔術化された世界」である。我々が生きる現代だ。
そこでは、科学技術が定める確かさ、不確かさ意外はすべて相対的な価値でしかない。そして、科学は価値判断をしない。
つまり、科学はその性質から、人の生死は判定できるが、殺人を肯定したり否定したりすることはできない。
だからこそ、人は科学を新しい宗教として信仰することができないのだ。

そして、未だに僕たちは不完全で相対的なものでしかなくなってしまった宗教を今日も変わらずに信じて日々を生きている。しかし、それは究極的な「わかり合えなさ」を乗り越えられない。

わかりにくいことをだらだらと書いてしまったが要は、
人はそれぞれ根底で信じているコト(価値)がまったく違うから
完全に他人を理解したりすることはできない
ということだと思う。

諦めが生む許容

ウェーバーの言葉とそれを裏付けるオーストラリアでの体験から、
他者というものは絶望的に理解不能なのだと悟った。

でも反対にそれで他人を許せるようになった。
どんなに自分の価値にそぐわないことをされても、その人にはその人の価値があると思うようになったから。
自分の信じている価値は自分にとってだけ意味のある相対的なものでしかなくて、他の誰かにも意味があるとは限らない。
極端な話、お金を借りたままいなくなる友人にも、連絡もなく約束に現れない恋人にも、自分の都合で実家に隠居することを決めた親や、
SNSで人を叩いてばかりいる声の大きいマイノリティたちにも、腹が立たなくなった。
なぜなら、彼らにとっての正義は自分のそれとは別の場所にあって、自分はそこには届かないから。

価値が相対化されていて、他者を理解できないことを悟って、
ある価値基準に基づいて他者を評価/批判するようなことが、理論的に不可能になった。
これは決していいことではないのだけれど。
生きるのはずいぶんと楽になった。

だからと言ってもちろん、感情がまるっと消えてしまったわけではない。
悲しいことは悲しいし、傷つく事は変わらずある。むしろ、わかり合えないと分かってからの方が、わかり合えないことが目について、ため息を吐くことは増えた。

でも、

多様性

個性

まあなんと表現しても良いのだけど、
自分の枠の中で処理しきれないレベルでも
人間ってなんだっていいんだなと思えるようになった。

生きる意味がなくなった後に

ウェーバーの話をすると自分でもよくわかってないことをよくわからないままによくわからず語るから、意味不明な文章が出来上がってしまう。

だから、前置きが長くなってしまったけれど、言いたいことはとてもシンプルだ。

先日、飲みの席でロシアの文豪の話になった。

僕はチェーホフが好きだ。ドイツならケストナー。
どちらも自己の内面の深いところまで降りていったりしないから。
人生を深く捉えたりしない、生活の軽やかさを身につけているから。いずれも相当の賢者だと思う。

反対にロシアならドストエフスキーやトルストイ、日本なら太宰だろうか。
彼らは自らの内面を見つめて、人間存在の意味を問うようなタイプの作家だと思う。

確かに、彼らの功績は人間の文化的にも重要な位置を占めているし、
芸術作品としても傑出している。
ただ、ウェーバー後の世界で、特にそのウェーバー的特徴がますます顕著になっていく世界において生きる現代人にとって、内省による自己と普遍性の探究にどこまでの必要性があるだろうか。どうせ本当の自分を見つけたところで、他人にはそれをわかってもらえないのだ。
こうした古典はきっとその価値を失わないだろう。ただ、こうした作家たちが今を生きる人にとってのロールモデルになる時代は終わってしまったといえよう。
(仮に今までがそうだったとしての話だが)

神の存在の下での人間存在の意味ならまだしも、
現代的文脈の上での人間存在の意味など、もはや存在しないのだ。万人に共通して当てはまる人間の生きる意味など存在しない。

そして仮に、自分自身だけの生きる理由を見つけても、
それは非常に高い可能性で他者には理解されない。

自己探究の果てにトルストイらがたどり着いたのは破滅の道だ。
であれば、僕らはどうしていまだに”自分探し”などにかまけているのか。

それよりもやるべきことがあるのではないだろうか。

自分を探すべきでない理由

自分を探すべきでない理由は主に二つだ。
まず、一つは美しくないから。自己探究は泥臭い作業であり、その先に見つかる自分というのは、決して素晴らしいものとは限らない。その先にある自分をみつけることに特別な価値を感じるのでない限り、やめた方がいい。文豪級ならいざ知らず、大抵の人間は自分を深く掘ったところで大したものはみつからないから。全人類に共通の生きる意味なんかも見つからないから。

第二に、自分を探す作業は多大なエネルギーと時間を要する。
その間のフォーカスは基本的にすべて自分に向き、他者に対してあまり、あるいは全く目を向けられなくなる。これが最も重要な理由だと思うのだけれど、自分のことが最大の関心事になると、周りで困っている人がいても気付けなくなる。
他者の声に耳を傾ける余裕がなくなるのだ。

だから、僕たちは自分のことにばかり向きあうべきじゃない。
むしろそれ以上に、他人に対して興味を持って、その声を聞こうとすべきだと思う。なぜなら、逆説的だけれど、ただでさえ僕らは根底ではわかり合えない。それなのに、聴く態度さえなくしてしまったら、きっと悲惨な結果を生むだろう。
わかり合えないことがわかっているからこそ、わかり合う努力をするべきだ。

不可能だと思えることだとしても、
その作業をやめない事が人間の本質だと思いたい。

他の誰かにとってはなんの価値も意味もないことかもしれないが、
自分にとっては、他者に良い影響を与えることの方が、自分という存在の本当の姿を探し当てて理解することよりも価値があると思える。

理解できないとしても、
わかり合えないとしても、
他者の声を聴こうとする態度は
自分の声を聴こうとするそれよりも大切にしたい。

僕らが本当のところやらなくちゃいけないのは、
きっと他者に耳を傾けること、そしてあくまでも続いていく人生を軽やかに生きること。

僕らはそれぞれおそらく”Special One”じゃないけど、別にそれでいい。
立派でも偉大でも、すごくもなくて、でも別にそれでいい。
生きる意味なんてなくていい。
別にありのままでいい。
それだけで、誰もが聴かれるに値する。





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