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めんどくさい

ふと思い出す。

子どもの頃、
どのくらいの期間かは覚えてないけど、

僕は「めんどくさい」が口癖だった。

「宿題するのめんどくさい」
「部活めんどくさい」
「学校めんどくさい」


何かにつけて
「めんどくさい」
を連発していた。

ちょっと格好をつけたかった部分もあるとは思う。



「めんどくさい」と言うと、いつも母親から

「これからもっとめんどくさいこと沢山あるで」

と返されるのがお決まりだった。



今も昔も「めんどくさい」

そして大人になった今。

日常の中に

「めんどくさい」はあちこちに存在している。

朝起きるのが 「めんどくさい」
着替えるのが 「めんどくさい」
歯磨きが   「めんどくさい」
仕事行くのが 「めんどくさい」
電話かけるのが「めんどくさい」
何かの作業が 「めんどくさい」
運転するのが 「めんどくさい」
ご飯作るのが 「めんどくさい」
皿洗いが   「めんどくさい」
掃除が    「めんどくさい」
人間関係が  「めんどくさい」


もう、ありとあらゆる場面で
「めんどくさい」に出くわす。

すべてが「めんどくさい」
なんなら生きるのが「めんどくさい」

とさえ感じる時だってある。


これまでの僕は、
「めんどくさい」と感じるたびに、

「なんでもめんどくさがらんと、やらないと」
「めんどくさいと感じるなんて、怠けてる」

と言い聞かし、
自分を責めがちになっていた節がある。



でも、これからは

「めんどくさい」と感じる自分も、
それを責めようとする自分も、

すべて、許そうと決めた。



「めんどくさい」時はどうしたって
「めんどくさい」
のだ。


なら、
とことん「めんどくさい」
にのめり込めばいいんじゃないか。


そうすれば、いずれ
「めんどくさい」に飽きてきて、
また動き出す活力が出てくる。


だから、
「めんどくさい」時は、
「めんどくさい自分」を赦そうと思う。



仕事はだれかの「めんどくさい」


「働く」ことは、「傍を楽にする」こと

という言葉がある。


人はみんな
「めんどくさい」に絡まって生きている。

その絡まりを少しでも解くことに努めることが、
仕事なのではないかと思う。


外食したなら
「食事を作るめんどくささ」を、

ごみを出したなら
「ごみを処分するめんどくささ」を、

コーヒーを買ったなら
「コーヒーを淹れるめんどくささ」を、


お金を払うということは、

その人の応援でもあり、

自分の代わりにしてくれた手間賃でもある。


今でこそ

クラウドファンディングも市民権を得た言葉になってきたけど、

仕事の根本は
誰かの「めんどくさい」をやることなのではと思う。


だからこそ、
「人は一人では生きていけない」という言葉は真実で、

あらゆる他人から頂く仕事やサービスによって
ぼくたちの日常は成り立っている。

それらがなければ日常が日常でなくなる。

だから「有り難い」と思う。
どんな仕事も。


「めんどくさい」をやると、
「人のため」になって、
「役に立つ」ことができる。

「めんどくさい」には、
「人のため」が隠れていると思う。


だから、
「めんどくさい」と感じることは
良いも悪いもない、ただの感情だけれど、

その「めんどくさい」の裏側に気づければ、

きっと日常は豊かになるんじゃないかと思う。




そんなことを書きつつ、
お風呂に入るのって、めんどくさい。






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