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【纏め読み】悼む色は赤

【纏め読み】

悼む色は赤

【ディレクターズ・カット版】


1. 人を殺すより簡単


 子供の頃から、誕生日が嫌いだった。誕生日になると陽のある内しか外へは出られない。陽がない時間に外へ出てはいけない。イノリはそれが嫌だったし、怖かった。日がぽっかりと暮れた誕生日。家の低い門扉の前に、女が立っているのだ。その女は街灯かと見紛う程に、異様に背が高い。顔の三分の二を占める大きな目も異様だった。女はイノリに向かって、間延びした声で言う。
「お母さんだよぉ お前は拾われた子だよぉ お母さんが迎えに来たよぉ」
 それは絶対に自分の母親ではない、とイノリは分かっている。母親は、自分の子供を見ながら涎を垂らすモノではない。


 イノリは就職に失敗した。大学を卒業して東京で就職した先がブラックだった。確かに大学の土木学科を卒業したが、彼は事務職を希望したのだ。だが現場を引き摺り回された。無茶な納期に理不尽な元請。胃に穴が開くのも仕方が無かった。三十手前で仕事を辞めて彼は地元に帰った。胃に開いた穴が塞がり、元気になったイノリは地元の解体業者の求人に応募した。圧倒的に事務職が足りない、と求人票の備考欄に書かれていたのでそこに応募することに決めたのだ。給与は以前の現場管理職よりガクンと落ちるが、それでも構わなかった。実家暮らしだったし、貯金もある程度はあったからだ。今の時期も年度が切り替わる四月と都合が良かった。


 採用試験は面接だけで、面接官は死んだ顔の若い女性事務員と七十を越えた労務安全担当だけだった。
「オガミ……あー、これで、イノリ、って読むの。猪に里で、へぇー、猪里さん、珍しいねぇ。横浜の人なの? 尾に上でオガミって読むの、横浜の地名でもあったよねぇ」
「おじいちゃん先進んで良いスか。すみません尾上さん。折角来て頂いたのに社長が不在で、こんな感じになってしまって」
 老眼鏡を上げたり下げたりしながらいつまでもイノリの履歴書を見ているのは労務安全担当で、彼を促す事務員は男のように低い声で、つっけんどんな喋り方をした。イノリは苦笑しながらも首を横に振る。社長は朝から解体現場を見に行っているということだった。
「尾上さんは事務職志望ということですが、お間違いないですか? 給料面で言えば正直あまり満足の行く金額とは言えないのですが」
「はい。どちらかというと、確実に休めて確実に退勤出来る仕事をしたかったんです。給料面については特に重きを置いていません」
「正直ですね。事務もかなり仕事量が多いですが、休暇と退勤時間については確約出来ます。それでは採用ということで」
「え?」
「え?」
 事務員があまりにも唐突に採用決定を下したので思わずイノリは耳を疑う。労務安全担当はまだ履歴書を読んでいた。
「さ、採用してもらえるんですか?」
 若い事務員は首を傾げた。バキバキと不穏な音がしていた。深刻な肩こりか、血行がかなり悪い。
「決定権は社長から貰っているので。大学を出ていて特に深刻な既往症などは無いし実務経験も二級土木持ってるなら文句無いですよ。算数が出来なければこれから覚えていきましょう。中卒程度なら即戦力です」
 真顔の事務員にイノリはたじろぎつつも頭を下げた。
「ありがとうございます。頑張って働きます」
「はい。よろしくお願いします。それでは書類を書いて頂きますので、下の事務所の方へどうぞ。勤務についてもそちらで説明させて頂きます。ホラおじいちゃん行きますよ」
「これでイノリって読むんだねぇ」
「いつまで見てんスか。そんなに名文ならコピーしてあげますから」
 従業員二人の応酬にイノリは顔を強張らせつつも事務所へと案内してもらい、書類の手続きを行った。


 そして初出勤の日。建設業の始業時間は早い。現場はもっと早い。その頃の癖なのか、イノリは早朝六時半に会社の前に来ていた。新しい職場は広い敷地に数台の重機を置いた三階建ての会社だ。出入り口の前はロータリーのように車での乗り入れが楽になるよう整備されている。
 イノリは作業服が支給されないことを祈りながら、スーツ姿で出社してきた。鍵は開いているだろうか、と玄関に近付いたところで彼の足が止まった。
 ガラスで出来た扉の脇に、女の子が膝を抱えて座り込んでいる。女の子は裸足だった。何故だか、スーッと背筋が冷たくなった。
「あ、これ、怖いやつだ」とイノリは直感した。
 女の子が顔を上げた。顔の変なところに目があった。普通、人間の顔は口が真横になってついていない。ぐしゃぐしゃに眉目と口を並べた福笑いだ。生きた人間の顔では無かった。
「あ み みみ みて みてみて みえて め みえて みえてる みえてる おまえ おまえ み みみ」
 女の子が音の羅列を発した。「逃げないといけない」とイノリは思った。足が動かなかった。
「み みえ みえて みえてる おまえ み みみみみみ み み み みみ みみ みみ しね 」
 いつの間にか女の子は立ち上がっていた。そして近付いてくる。初日にこんな酷い目に遭うのか俺は、とイノリが思った時だった。
「人ん家の敷地で何してんだゴルァアアアアアッ! ブチ殺されてぇかッ!」
 怒声がイノリの耳を劈いた。女の子は顔を声がした方へと向けたが、次の瞬間、飛んできたバールがその顔にめり込んで倒れた。驚いて尻餅をついたイノリに向かってドスドスと足音を立てて誰かが近付いてきた。
 見れば長身の、作業着を来た男がこちらに歩いてきていた。三十過ぎの、左の眉尻と目尻に掛けてに大きな切り傷がある男だった。イノリはてっきり男が自分の方へと向かってきているのだと思ったが、それは彼の勘違いだった。
 男はまっすぐ女の子へと歩みを進め、イノリには目もくれず、バールを拾い上げてから女の子の腹を思い切り蹴った。鉄板が仕込まれた半長靴タイプの安全靴。その爪先が女の子の腹にめり込んだ。「死ねオラッ!」という罵声と共に再度蹴りを食らったソレは、霞のように消えた。
 呆然とするイノリのことを、男は漸く見た。目つきの悪い、ピアスを開けた青い迷彩柄のインナーを着た社名入りの作業着姿。イノリが今日から働く解体業者の職員であることは確実だった。
「なんだテメェ。朝っぱらからこんなトコにいやがって」
 「酔っ払いの迷子かァ?」と見下ろしてくる男に、彼は上擦った声で自己紹介をした。
「キョッ、今日からお世話になります! 尾上猪里と申します!」
「あ? あ、あーッ! はいはい中途採用の! いや、悪いねホント。変なとこ見せちゃったな!」
 わはは、と男が差し出してきた手を取ってイノリは立ち上がった。男がまだ手にバールを握っていることは考えないようにした。
「ホントに悪かったよ。俺はセキショウだ。アンタの雇用主になるな」
「セ、セキショウ社長・・・・・・て、め、珍しいお名前ですね・・・・・・」
「赤い松って書くんだよ。寺の子供に生まれると変な名前付けられるもんだ」
 下の名前だけ名乗るんだ、と何処かズレた感想を抱くイノリを余所に赤松は快活に笑う。そして玄関に近付いて鍵を開けた。ドスドスと先へと進んでいく。イノリは慌てて赤松の背を追う。
 赤松はテキパキと社内を案内してくれた。「ロッカーはこれ使って良いから」「机はアクルの隣使って。その方が色々教えてもらい易いだろ」「この辺はコンビニが遠いから昼飯は来る途中で買うか弁当持ってきたほうが楽だな」「朝礼は朝八時半から。基本会社には俺と労安のクエさん、あとアクルぐらいしかいねーから」「一応会社支給の携帯渡しとく。番号は入ってるから後で見といて」「現場の奴のことは取りあえずアクルに聞いて」と説明をしてもらう内に時計の短針は八時を過ぎていた。そして事務服を着た女性がフロアに入ってきた。面接の日にあっさりとイノリに「合格」を言い渡したあの事務員だった。
「……はようざいまーす…………」
 朝が不得意なのか、死んだ顔で地を這うような声で彼女は挨拶してきた。イノリは「おはようございます」と頭を下げる。
「おうアクル。尾上さんスゲーぞ。俺より会社来るの早い」
「マジか。そんな早く来るとロクなことないから止めた方が良いですよ。玄関開いてねーし」
 イノリは漸く、つっけんどんな喋り方をする彼女の名前が「アクル」なのだと気付いた。それから後にフロアにやって来た労務安全担当、労安の老人が「クエ」という名前なのだろう。彼はイノリに気付いて微笑んだ。
「あ、こないだの人だね。おはようございます」
「おはようございます」
「うーん、ごめんね、名前なんだっけ?」
「…………尾上と言います……」
「へぇー、横浜の人?」
「おじいちゃんその話前回もしましたよ。再放送やめてください」
 そんな会話をしていたところで、朝礼の時間になった。


 「アクル」というのは「阿久留」という字を書く名字で、彼女自身は名前を呼ばれるのが凄まじく厭うようだった。渡された名簿の名前を声に出して呼んだだけで怖気が走ったような顔でイノリを見てきた。労安の「クエ」は「久延」という字を書く。下の名前の「ヒコイチ」は「彦一」。「久延彦一さん」と名前を読むと老人は「病院みたいだねぇ」とまた笑った。
社長の赤松は書類やら何やらに追われて上座にある大きな事務机に座ったままだ。アクルとイノリの机は窓が並ぶ南側に並んでいた。社員はそこそこの人数がいるので事務机四つずつ、島のようになって置かれていた。四十人分の机があった。業務用のコピー機があり、巨大なキャビネットが壁の一面を埋めており、打ち合わせスペースらしいパーテーションで区切られている一画には小さなテレビが置かれていた。
 年下のアクルだがイノリにとっては先輩社員だ。彼女に仕事を教えてもらうことは苦痛では無かった。アクルも彼のことを考えてか、簡潔で必要な分のこと以上は説明しなかった。お陰で変にストレスや軋轢を感じることが無かった。小馬鹿にされず罵倒されない業務説明は聞いていて楽だった。クエについては時折イノリに話し掛ける他は、赤松やアクルから振り分けられた書類仕事をして、たまに舟を漕いでいた。
 昼休みになるとクエはいそいそとコンビニ弁当を鞄から取り出し、アクルは事務椅子に座ったまま窓まで移動し、少しだけ窓を開けるとアイコスを吸いながら私用のスマートフォンを弄り始めた。この会社は個人自由主義らしい。前の会社であれば無理矢理連れて行かれて美味いのか不味いのかも分からないラーメンを食べながら先輩から仕事の愚痴を聞かされていた。それが無いと、イノリはどうしたら良いのか分からない。
コンビニ行こうかな、とイノリが立ち上がったところで打ち合わせスペースにいた赤松が手招きした。イノリが近くまでやって来ると赤松が重箱を机の上に並べていた。彩り豊かなおかずがぎゅうぎゅうに敷き詰められている。
「尾上さん、弁当持ってきてんのか?」
「いや、ないです。今からコンビニに行こうかなって」
「俺ん家の弁当、スゲー量多いから良かったら食えよ。あ、手作りとか平気か?」
 特に抵抗は無いし、確かに弁当の量は一個人分というより一家族分のような量だったので、イノリは分けて貰うことにした。重箱が四段で、その内一段がおにぎりで埋められているのは圧巻だった。割り箸は近くにあった誰かの机から出てきたものが渡された。何故そんなところから割り箸が出て来るのか、イノリは気にしないことにした。赤松はボリュームを抑えてテレビを点けた。
 弁当は赤松の妻の手作りだった。毎日この量になので、夕飯も食べきれないのだと彼は零していた。彼の向かいに座ったイノリは家庭の味に頬を緩ませながら重箱を突いた。金のピアスに顔の左側を厳つくする傷、刻まれた眉間の皺などのせいでかなりの強面になっているが、本当は善良な人なのかも知れない、とイノリは思った。だがそれはすぐに打ち砕かれた。
「尾上さん、『変なモン』が見えてるだろ?」
 赤松の言葉に何故だが背中から血の気が引いた。朝の奇妙な「女の子」のことが、泡のように記憶から蘇った。寒気がした。指摘されたくないことを指摘されたような気がした。自分の背中に、誰かが指をさしているような気がした。落ち着かない気分になる。恐怖が芽生える。朝のことではなくて、目の前の男に。
 赤松がイノリを見詰めている。表情を読んでいる。反応を伺っている。イノリは嘘など言えなかった。
「…………えっと、その、今日の、朝、以外は、あの、誕生日、以外、みえ、見ないです……」
「誕生日ねぇ……まあ、丁度いいや。昼休み終わったらちょっと俺と外回り行こうぜ」
「そ、外回りですか?」
「息抜きにな。現場手当出るぞ」
「あの、いや、でも、俺が行っても、しょうがないっていうか、意味ないっていうか……」
「メチャクチャあるよ。其処にいてくれるだけで十分だ」
「いや、ま、待ってくださいよ、俺、あの、現場志望じゃなくて、あの、」
「大丈夫だって。作業するんじゃなくて現場を見るだけ。其処に立ってるだけで良いんだって。ホントホント。安心しろって」
 押し切られるような形で午後の予定が決まってしまった。昼の休憩時間が終わり、赤松はイノリの教育係であるアクルのところへ行く。電子タバコのヒートスティックを五本吸いきった事務員が仕事に取り掛かろうとしていた。
「なあアクル、ちょっと外回り行ってくるわ。前に見積もり依頼あったとこ、なんだっけ、山ん中のラブホ」
「ああ、あの地主さんがギャン泣きで電話してきたとこスか。気ィ付けていってらっしゃーせー」
「尾上さん連れてくから」
 それを聞いてアクルの顔が険しくなった。
「あ? なんで連れてくんです? 辞めるなんて言われたら困るんスけど。一般人連れて行かんでくださいよ」
 赤松の背後で聞いていたイノリは不安に押し潰されそうだった。アクルの反応がおかしい。「事務員枠で採用した人間を現場に連れて行って初日はお終い」という反応ではない。それがイノリの恐怖を助長させる。
 赤松は「心配すんな」とアクルとイノリを交互に見て笑う。歯を剥いて笑うそれは威嚇でしかなかった。
「辞めたいって言ったら二度とそんな舐めた口が利けないようにしてやるから」
 またブラックに入社してしまった、とイノリは泣き出しそうになるのを必死に堪えた。


 冴えない上に青ざめた三十路の男の顔がフロントガラスに反射して映っている。現場に出ている時の自分の顔だ、とイノリは思った。赤松が運転するプロボックス・サクシードの助手席でイノリは放心していた。気付けばもう二時間近く走っている。赤松は機嫌良さげに鼻唄を歌いながら法定速度以内で運転している。山道をひたすら進んでいる。
「……すいません、社長……まだ着きませんか……?」
「あー、トンネル抜けた先だ。あと十五分。酔ったか?」
「アッ大丈夫デス……」
 イノリは「この人、心配だけはしてくれるんだけどなぁ」と胸の内だけで思う。車に乗ってからずっと「家に帰りたい」と考えている。
赤松の言った通り、トンネルが現れた。暗く明かりの乏しいトンネルだった。「怖いなぁ」と思いながらイノリは目を瞑る。
 トンネルを抜けると、耳鳴りがした。目を開ければ建物が見えた。三階建てだろうと目測する。風雨によってボロボロにされた外装や看板を見る限り、ラブホテルと思しき建物だ。木々が生い茂る山の中に廃墟が建っている、というのはなかなか忌避感を抱く風景だった。
 ラブホテルには駐車スペースだったのだろう、建物脇に広い空き地があり、其処に赤松は車を駐めて降りた。イノリも渋々降りる。赤松からは懐中電灯とデジカメを預けられた。
 山間であるせいか、中天を過ぎたといっても何故だか辺りが薄暗い。そして寒い。イノリが白い息を吐いているのを見て赤松は後部座席から予備のジャンパーを出して渡した。ついでにバールも取り出してきた。
「あの、社長。なんでバール持ってるんですか?」
 イノリの質問に赤松は「使うからだよ」と返す。バールを使うタイミングとして考えられるのが「人を殴る時」だったので、イノリは赤松に殺されるのでは、と半ば本気で思った。「じゃあ行くぞ」と赤松が先を行く。イノリは暗い気分で彼の後を追った。
廃墟の出入り口には、恐らくガラスが嵌められていたであろうドアの骨組みしか残っていなかった。赤松は作業用の合皮手袋を嵌めた手でドアを開ける。
「こんちわー! 誰かいますかァー!?」
 暗い廃墟のフロントに赤松の声が響く。返事は無い。イノリはドアを過ぎた辺りからずっと恐怖心がのたうち回っていて、動悸が酷かった。平然と歩き回る赤松が恐ろしいし、建物の中も恐ろしい。何がそんなに怖いのかも分からない。余計にそれが怖い。赤松は進んでいく。イノリは大柄な彼を見失いたくなくて追い掛ける。
「三階に行く階段は崩落してて、二階は歩けそうなところが半分残ってるか残ってないかぐらいだ。足元、気を付けてな」
「はい」
 廃墟の中を見て回る道中で、赤松が建物の概略を説明してくれた。

 この廃墟はバブル時代に建てられたラブホテルだった。時代が過ぎて、採算が合わなくなり、潰れて廃墟になった。すると素行の悪い連中がたむろするようになる。最初はただの走り屋の溜まり場だったのが、徐々に悪い方向へと進んでいき、最後は半分ヤクザのような連中が事件を起こした。平成に入ってからの話だ。
 以来、ここは所謂「心霊スポット」になった。肝試しに若者がやって来るようになる。雑誌やテレビの取材が入る。この山を所有している地主としてはあまり嬉しいものではないが、取り壊すのもタダでは無いから放置していた。ただの若者の酔狂で、案外すぐに忘れ去られてしまうだろう、とも思ったのだ。
 時間が経つ中で、徐々におかしなことになっていった。建物の所有者でもある地主には報告がやって来る。「敷地内の建物に肝試しにやって来た若い連中が」で始まる報告だ。「不法侵入した」「転んで怪我をした」で終わっていた報告が、いつの間にか「病院に入った」「頭のほうが駄目になってしまった」「自殺してしまった」「死亡事故を起こした」「火を付けた」「死んだ」「人を殺した」で終わるようになっていた。これには地主も異様なものを感じて建物を取り壊すことにした。だが頼んでも業者に悉く断られるのだ。下見の段階で「すみません、ウチにはできません」と言ってくる。酷い時には建物に訪れた職員が怪我をしたり、病気になったりした。誰にも廃墟を取り壊すことが出来なかった。

 そして、藁にも縋る思いで赤松のところへ依頼した。
 事の顛末を聞いて、イノリは恐怖が一周回って冷静になった。要約するとこの廃墟は「入ったら酷い目に遭う建物」で、自分は今その建物の中をヤバイ社長と探検している。もう自分が死んでも仕方が無いような気がしてきた。
「社長、質問なんですが」
「おう」
「なんで『社長のところに頼めば助かる』みたいな展開になったんですか?」
 先導する赤松は得意そうにイノリを見返る。
「それはな、俺の実益を兼ねた娯楽のお陰だよ」
「娯楽?」
 疑問符を浮かべるイノリに彼は「朝、見ただろ?」と言う。その言葉に記憶を想起すれば思い当たるのは一つだけだ。「変な女の子」にバールを当ててすごい蹴っていた。あれが娯楽だと言っているなら、イノリには苦笑いを浮かべる事しか出来ない。
「それって、アレですか、あの、女の子」
「やっぱり尾上さんも見えてたよな、アレ」
 赤松がおもむろに軽くバールを振る。その工具はそうやって使うものではない、とイノリは思ったが言わなかった。
「ああいう、『変なモノ』をブチ殺すのが俺の娯楽なんだよ。靄になって消えんのを『死んだ』っつーのは正解かどうか怪しいけどな。で、『変なモノ』がいると仕事にならない時がある。そんな時は俺が出ていってブチ殺せばみーんな万々歳ってわけだ。俺はアイツ等をブン殴れるっていう才能があるから、それを活用してるんだ」
「アーすいませんちょっとよく分かんないです」
 あまりにも率直な感想がイノリの口から出た。赤松は「まあ趣味は人それぞれってことだ」とよく分からないオチを付け足す。
「で、尾上さんのことを連れてきたのは俺の娯楽のためだ。あの手の連中は、尾上さんみたいなのが好きなんだよ」
 とてつもなく不吉なことを言われた気がしてイノリは聞き直した。
「え? すいませんもう一回言ってもらって良いですか?」
「『変なモノ』は自分が見えて、かつビビってくれる人間のとこに寄ってくるってことだよ」
「ンアーーーーッ! もうやだ! 帰る! 帰りたい! お家に帰ります俺は!」
「ビビると発狂して変な雄叫び出るタイプだな。アクルとは真逆だな。アイツずっとキレてるから寄るモンも寄って来ねぇの。ギャハハ」
「なんスかギャハハて!? ぜんっぜん面白くないんですよこっちはァッ!? なんで!? ホント!? 何でこんな目に遭わなきゃいけないんですか俺はァッ!?」
「前世で僧侶でも殺したんじゃねぇの?」
「ナアアアァアアアアアアアッ! 転職失敗ッ! 全部クソッ!」
 イノリは頭を掻き毟って地団駄を踏む。その様を見て赤松は笑っている。いつの間にか彼等は二階のある一室にまで来ていた。これ以上先には進めない。赤松は「尾上さん尾上さん」と呼ぶ。イノリがその声に怒りを込めた視線を返せば「カメラ出せ」と指示された。車を降りる際に持たされたデジカメを取り出す。
「適当に写真撮ってくれ。一枚だけで良いぞ」
 赤松の指示を訝しみながらも、イノリは従う。現場写真というのであれば何枚も撮る必要があるが、「一枚だけで良い」と言われた。ならば、と床が崩落しているせいで進めない先を撮影した。ぽっかりと穴が開いて先に進めない廊下、そしてその先にある一部屋の扉をカメラに納めた。室内が暗いために自動でフラッシュが焚かれる。強い光が瞬いて廃墟の中を照らした。
 次はどうすれば良いのかと赤松を見れば「写ってるか確認」と言われた。「確認も何も無いだろうに」と撮影した写真を再生する。画面に写るのは何の変哲も無い廃墟の写真のはずだった。違和感がある。画面に表示されている風景の中で、何かがおかしい。
「ん?」
 イノリは目を懲らして見る。そして後悔した。
 行けない廊下の向こうにある部屋のドアが少し開いて、その隙間から誰かがこちらをじっと見ている。
「ギャアアアァァッ!」
「お、心霊写真撮れたな。もう出て来るぞ」
 赤松の言葉に「え」と声が漏れたイノリは、彼を見た後、思わず廊下の先を見てしまった。
 行けない廊下の向こうにある部屋のドアが開いている。部屋の中に女が立っていてイノリを見ている。
 ひゅ、とイノリは呼吸が乱れた。女と目が合った。ボサボサの長い黒髪にドス黒い染みを付けた丈の短いドレス。黒目しかない目が、イノリを見ていた。真っ黒い穴のような目で、老婆のようにひび割れた顔で、彼を見ていた。女には下顎が無く、長い舌が胸骨の辺りまで垂れ下がっていた。
「いいいいつもおおおおおおお いいいいいいっしょおおおおおおにいいいいいいい いいいいったあああああああああかったああああああああああああああああ」
 女がイノリを見ながら頭を振り、何処から出しているのか分からない声を出す。彼は足が竦んだ。
「とおおおおおなあああありいいいいいいいいでええええええええええ わらってええええええええええったああああああかあああああったああああああああああああああああああああああ」
 すごく怖いやつだ、とイノリは思った。失神しそうだった。ふいに女が彼を指さした。干涸らびた指の先に爪は無かった。頭の遠いところで「なんだろう」と彼が思った次の瞬間。強い力でシャツの襟首を引かれた。
「ぎゃあ!」
 イノリが我に帰ると赤松に襟首を引かれて廊下の隅に転んでいた。自分が今まで立っていたところに天井が落ちていた。今日何度目になるかも分からない恐怖に血の気が引く。女の声が室内に響いていた。
「いいいいいいまあああああああでもおおおおおおおおおお おぼえているううううううううう ああああああああああなたああああああのことばあああああああああああああ」
 女の声が耳元の傍で響いていた。顔を背けると、目の前に顔があった。眼球のない目がイノリの目を凝視していた。潰れた鼻が触れそうなほどに近く、死出蟲達が這い回る気管からの息を吸い込んでしまうほどに近かった。彼は最早悲鳴さえ上げられなかった。
「とおおおおおおおおびらあああああああああああのおおおおおおおおおおお むこおおおおおおおおおおおおうううううにいいいいいいいいいいいい」
 響く女の声を遮ったのは赤松の罵声だった。
「うるせえぞこのクソアマ!」
 イノリの前髪を掠って振られたバールの、釘抜きの部分が女のこめかみを打ち抜いた。女の体が吹き飛ばされる。イノリは極至近距離で凶器を振り回されたことに心臓が高鳴っていた。赤松は肩をバールで軽く叩きながら体を起こそうとしている女へと近付いていく。
「テメェよぉ、そんなクソみてーな歌を人に爆音に聞かせてんじゃねぇよブスが。殺すぞ」
 ザアッ、と女の髪の毛が逆立つ。そしてまたイノリの時と同じように赤松を指した。彼は臆さず近付いていく。何も起きなかった。腰が抜けたまま立ち上がれないイノリには、女が戸惑っているように見えた。赤松が不敵に笑った。
「人のこと一丁前に呪ってんじゃねぇよ。効くかそんなモン」
 女は床を這いずって逃げようとした。だが赤松が追いついた。容赦なくバールが振り下ろされる。何度も。執拗に。
 高笑いをしながら女の背に凶器を振り下ろす赤松を、「マジでヤバイ人だ」とイノリは思った。


「いやー、これで無事ラブホ潰せるな!」
 スッキリした顔で赤松が車の運転席でシートベルトを装着している。対してイノリは「ソッスネ……」と項垂れながらシートベルトを締める。
「ハハハハ、メチャクチャ面白かったな。いや、良かったマジで」
「良くないです何も良くないです」
「尾上さんに来てもらってホント助かったわ。俺一人だと全然寄って来ねーからさぁ」
「でしょうね」
 女の断末魔が耳にこびりついているイノリは何も楽しくない。兎に角早く家に帰りたかった。赤松は車を発進させる。
「あ、明日は尾上さんの歓迎会やるから。十八時から、近所の居酒屋で。酒とか大丈夫か?」
「……え、ああ、ありがとうございま…………明日? 明日ですか?」
「なんか予定入ってんのか?」
 赤松に聞かれて、イノリは口籠もる。しかし不思議と素直に話してしまう。
「あの、明日は、俺の誕生日で……」
 初日ではあるが赤松の為人をある程度理解出来たイノリは、隣の男が「そうか! じゃあ延期だな!」と言わないことが分かっていた。
「誕生日に『変なモノ』が見えるんだよな? それって、誕生日にだけ『来る』の間違いじゃないか?」
 赤松の言葉に「はいそうです」と、イノリは答えてしまう。にんまり、と赤松が歯を剥いて笑うのが横目で見えた。
「明日が俄然楽しみになってきたな!」
 分かり切っていた答えにイノリは渇いた笑いしか出てこない。もう疲れ切ってしまって、適当な話題を口走った。
「社長のアレって、なんであんなことしてるんですか? その、『変なモノ』を、退治するっていうか、えーっと」
 赤松は彼の問いに「ああ、あれな」と頷いて答えた。
「たまにスッゲー人間をブッ殺したい時があるから、そん時に我慢するためだよ」
 「人を殺すより簡単だし、どうしようもない時はアイツ等殺す感触思い出して我慢してんだ」と赤松がまた快活に笑うのを聞いて、イノリは「頭が本当におかしい人だ」と震撼した。


 イノリは出来れば会社に来たくなかったが、親の視線が痛いので出社した。入社二日目で「お腹痛いから休む」なんて、三十路の大人が言える台詞では無かった。
 八時前に出社すると既に社長である赤松、事務員のアクル、労安を担当しているクエがいた。基本的に事務所にいるメンバーが全員揃っている。
 クエが座る席の傍で赤松とアクルは話していた。クエも「じゃあ僕は行かない方が良いねぇ」と頷いていたりする。何の話をしているのだろうとイノリは彼等に近付いた。
「おはようございます」
 イノリの挨拶に三人は顔を彼へと向けた。赤松が笑んで「おはようさん」と返す。朝が弱いのであろうアクルは顔が死んでいるが挨拶は出来ている。クエも穏やかに挨拶を返す。
「おはよう尾上君。今日誕生日なんだね。社長から聞いたよ」
 その言葉を聞いてイノリの体が硬直する。そして昨日の狂乱も。ニコニコしながら中途採用の社員を見ている社長の頭がおかしいことも。イノリが「へぇえはははぁぁ」と謎の音を出している間に始業を知らせる鐘が鳴った。

 滞りなく時は進んで昼休み。イノリは昼食を持参していた。持参と行っても通勤途中の寂れたコンビニで買ったサンドウィッチと紙パックのウーロン茶だが。
 何処で食べようかと悩んだイノリは打ち合わせスペースに目をやる。其処は赤松のスペースなのか、彼が昨日と同じようにテレビを見ながら食事していた。また一人では到底食べきれない重箱の弁当を広げているのだろうか、と視線を下方へずらす。
 テーブルには平均的な大きさのアルミ製弁当箱が七宝柄の風呂敷の上で広げられていた。横には小さなスープジャー。昨日は運動会や花見ぐらいでしか見掛けないような、一家族用かと見紛う程の量だったはずだ。妻が料理を作り過ぎると言っていたのに、今日は彼が作ってきたのだろうか。
 イノリが首を傾げているとアクルに声を掛けられた。
「尾上さん立ち食いスか?」
 男のような声でつっけんどんに話すアクルは窓辺でiQOSを吹かしている。イノリは自分の席で食事を取ることにした。
「いや、昨日は社長が重箱みたいな弁当を持ってきてたので、今日は小さいんだなって思って」
 句点代わりに笑うイノリにアクルは真相を教えた。
「ああ、あれ『黄泉竈食ひ』ですよ。食べたら拙いんですよね。社長と同じ釜の飯を食うと言うこと聞くしかなくなるから」
「よ、よもつへぐいってなんですか?」
「…………多分聞いたら昼休み便所に引き籠もることになるんじゃないスかね」
 アクルはぽん、と主流煙で作った輪を吐き出す。ふわふわと窓の外へと煙は消える。まだ外は明るい晴天。イノリが恐れるモノはまだやって来ない。
「尾上さん、昨日はどうでした?」
 彼女は質問をする時カウンセラーのようになる、とイノリは思った。イノリは面接時も初日も緊張して彼女をあまり観察していなかった。黒い髪はミディアムのウルフヘアー。似たような髪型の女性歌手がいたと思う。フレームもレンズも分厚い黒縁の眼鏡。大人しそうな顔立ちだけ見れば文系の女子大生に見える。そんな風貌で多量のニコチンを摂取している。ヒートスティックがどんどん消費されていく。
 昨日とは、彼女の雰囲気が違うように見えた。
「昨日はその、えーっとですね、」
「まあ無事に帰れたのなら万古無問題ですね」
「ば、ばんこってなんですか?」
「説明が面倒なんで省きます」
 アクルとの会話は難解なものの、話し掛ければ返答をしてもらえるのは有り難かった。イノリは前の職場では中々その見極めが出来ずに話し掛けて怒鳴られたりしていた。もそもそとサンドウィッチを食べる彼はアクルが紫煙以外何も口にしないのが気になった。
「アクルさんはもうご飯食べ終わったんですか?」
 その質問に事務員は煙を吐き出す。
「昼はこれだけですよ。昼は何を食っても吐くんで」
 イノリは「あっ怖い話始まりそうだからやめとこ!」と思いそれ以上聞かなかった。

 日没が迫っている。
「何だよ。尾上さんの歓迎会兼誕生会、アクルと尾上さんの二人だけかよ」
「社長入れたら三人スよ」
 シュールな遣り取りを聞きながら、イノリは駅前の台湾料理屋に来ていた。会社にクエだけを残して就業時間を一時間早く切り上げて、赤松とアクル、そしてイノリの三人は会社を出た。
 原宿系ストリートファッションに身を包んだアクルを、イノリはついまじまじと見てしまう。髪を後ろで纏めている彼女の耳はピアスが幾つも空いているし、両側頭部の髪は刈り上げられている。
 仕事中の事務服姿とはかなりかけ離れた格好なので、純朴な三十路であるイノリは「都心の駅前にいる怖いヤンキーだ!」と内心怯えていた。赤松は作業着姿のままで、イノリは吊るしのスーツ。周囲の通行人の視線が痛い気がする。
 アクルが予約したという台湾料理屋はかなり年期が入っていた。暖簾はまだ白いが、店が全体的にくすんだ色合いになっている。排気口は黒い油汚れを外壁に垂らしているし、飾られたサンプル料理は日焼けしている。ペンキで看板に店名が書かれているが風雨と錆びのせいで読めない。
 「店として成り立っていないのでは……?」と思うイノリを余所に赤松は引き戸を開ける。立て付けが悪いせいで不快な音が響いた。赤松が顔を顰めながら店内に入っていった。
「オイ爺さん好い加減コレ直せよ! 余計客来なくなるぞ!」
 社長の言葉にイノリが苦笑いしているとアクルに一つ注意点を教えられた。
「店主の顔、あんまりよく見ないほうが良いですよ。たまに変なモン付けてるんで」
「へ、変なモノって」
「まあ、あの店主も業が深いんでしょうね。長生きするとロクなことがねぇんでしょう」
 気怠げに言うアクルも店の中へと入ってしまう。足が重くなるイノリだが、俯いて入っていった。中国語の訛りの強い「いらさいせぇい」という嗄れた声が聞こえた。店主の声だろう。
「二階の宴会場予約してたモンです」
 アクルの声がする。「ハイハイどぞどぞ」と店主らしき声が返す。アクルの踵だけ見詰めてイノリは奥へと進んでいった。
 床は赤い花柄のタイルが敷かれていた。店内はそこそこの広さがあるようで、テーブルと椅子の足が幾つか見え、座敷席らしい上がり框も見えた。二階へと続く階段脇の席に客らしい何かが二人いただけで、他にはいなかった。昼食には遅く夕食には少し早い時間帯なので、そんなものなのだろうとイノリは思った。
 階段の脇に設けられた靴箱に履いていた革靴を並べて入れる。赤松の安全靴に赤黒い汚れが付いていて、一瞬硬直してイノリは自分の靴をそっと離して置いた。急勾配の狭い階段を上がると、板張りの通路を挟んだその先に畳張りの広い空間があった。
 宴会場であろう和室は少し薄暗く感じるが掃除が行き届いている。脂で黄ばんでいる襖の柄は宝尽くし。巨大なブラウン管テレビと小さな冷蔵庫ぐらいの大きさがあるカラオケセットが縁台の脇に置かれている。書院甲板が設けられている窓の向こうは障子に阻まれて見えないが、駅前の風景が広がっているはずだ。
 三十畳はある宴会場を三人だけで使うのは少し気が引ける、と思っているのはイノリだけだった。
 赤松は部屋の隅に積まれている座布団を人数分持ってきた。イノリが自分と、預かったアクルの上着をハンガーに掛けていると突然「チリンチリン」と鈴の音がした。驚いて音がした方を見れば壁に真四角の穴が二つ空いていた。
 壁に大きさが違う四角い穴が空いている。大人が体を丸めれば入れそうな大きさの穴にはシャッターが付いている。その穴より高い位置にある小さい穴から、鈴が見えた。紐で括られているのか、独りでに揺れている。
「おっ酒が来たな」
 赤松が大きい方の穴へと近付いてシャッターを上げる。其処には盆の上に載せられたビールの大瓶が二本と、小さなグラスが二つ。それと大きなジョッキにウィスキーの大瓶が四本。氷が山のように盛られたアイスペール。どうやら学校やホテルにあるような、配膳エレベーターのような物らしい。赤松は盆を引き出すとシャッターを下ろして鈴を鳴らす。がこん、と音がして鉄の箱が下へとゆっくり降りていった。降りた先は厨房だろう。
 便利だなぁと思っているイノリは赤松に手で座るように示され、座布団に座った。赤松が酒とグラスの盆を運んできて同じように座る。アクルも煙草を取り出して腰を下ろした。酒を囲む形で三人は座る。
酒と一緒に運ばれてきたおしぼりで手を拭ったアクルがアイスペールから手掴みで氷を大きなジョッキに放り込んでいく。そして割り材を入れずにウィスキーを並々と注いだ。それを見て、率先して人のお酒を注ぐタイプなのか、とイノリは思った。だがアクルは注いだジョッキを持ち、そのまま呷った。スーッと静かに一気飲みした。
 唖然とするイノリを余所に赤松がビールを注いだ。
「はい尾上さん乾杯。入社&誕生日おめでとうございますっと」
「えっありがとうございま、えっいや、えっ? えっ? アクルさん、えっ? アレはウーロン茶ですか?」
「どう見てもブラックニッカだろ」
「私ビール飲めないんで」
「いやいやいやいや飲み方飲み方」
「社長、今日は店主の顔に百足くっ付いてましたね」
「あの爺さんも懲りねぇよなぁ」
「待って待って俺を置いていかないでください」
「七爺八爺コンビ、今日いましたけどいつもの嫌がらせですかね?」
「じゃねぇの? アイツ等飯食いに来ねぇだろ、死んでんだから」
「ねぇちょっと置いていかないでくださいってあと誰ですかその人達もしかしてアレお客さんじゃなかったんですか」
 イノリの混乱を放置してアクルはまたウィスキーをジョッキに注ぐ。そして一気に飲み干す。特に何のリアクションも無い。イノリは恐る恐る訊ねた。
「あ、あの、アクルさん、そんな飲み方して大丈夫ですか?」
 彼女はその問い掛けに平時と変わらないトーンで答えた。
「今から怖い目に遭うんだから酒でも飲んでなきゃやってらんないッスよ」
 「あ、俺達今から怖い目に遭うんだ」とイノリは思い、グラスを持つ手が震えた。外はまだ明るい。もうすぐ日没だ。
「あ、あく、アクルさんも、あの、『変なモノ』が見えるんですか?」
「前は見えませんでしたけど、此処で働くことになってからそうなりました。私の代わりに囮役が来て助かってますよ」
 また音も無くウィスキーがアクルの喉を落ちていく。からんからんと氷がぶつかる音がする。
「社長。この面子の説明しなくて良いんですか? クエさんがいない理由とか」
 事務員に言われてビールを啜っていた赤松は「それもそうだな」と上唇に付いたビールの残滓を舐めた。
「今日はクエさん欠席なんだけど、それはあの人がいると、尾上さんのとこに来るヤツが押し負けるかもしんねぇからなんだわ」
 赤松の言葉の意味が全く理解出来ずにイノリは疑問符を大量に浮かべている。そんな新入社員に赤松はどうにか説明しようとする。
「クエさん自体は別に問題ないんだけど、そのバックがちょっとめんどくさくてな」
「はぁ……」
「簡単に言うと『マジの鬼嫁』」
「えぇ?」
「嫁が鬼になって憑いてんだよ。独占欲の塊だからクエさんに近付くモノはオートでボコる。守護霊じゃねぇのに」
「んん?」
「社長、説明は諦めましょう。全然ピンと来てないですよこれ」
 アクルの言葉に「そうだな」と赤松は頷いてビールを飲んだ。イノリはずっと首を傾げきりで、何も理解出来ていない。ウィスキーの大瓶を一本空にしたアクルが説明を交代した。
「取りあえず、クエさんがいると社長のしたいことが出来ない、という程度に理解してください。尾上さんが嫌いだから来ないとかそういうわけではないです」
「な、なるほど?」
 「もしかして慰められてるのかこれ?」とイノリは思いつつ頷く。
「それで、私は何かと言えば補強役です」
「補強、ですか?」
「ええ」
 アクルがまたがぱがぱと酒を飲む。配膳エレベーターの到着を知らせる鈴の音が鳴って赤松が取りに行った。数品のつまみが籠に乗っていた。
「私の仕事は、尾上さんのトコに来るっていう『変なモノ』が何なのかを推論でっち上げてそれを三人で共有させることです」
 アクルの説明にも尾上は首を傾げる。彼女は赤松が運んできたザーサイをつまみ、ウィスキーで胃に流し込んでから煙草に燐寸で火を点けた。会社で吸っているアイコスではなくピースだった。
「尾上さんと私、社長はそれぞれ違う人間ですよね?」
「そうですね」
「尾上さんが見えている『変なモノ』は私や社長にも見えています。でもそれは必ずしも同じモノではないんです。例えばですが、尾上さんには『女の化け物』、私には『巨大な蛇』、社長には『なんとなく靄っぽい何か』に見える。三者三様になると避けられることも避けられないから共通の認識が必要になってくるんです。『正体不明』は怖いんですよ、本当に。何処から何がやって来るのか全く予測出来なくなるから。勝利条件とか敗北条件が分からないと死ぬのに、ノープランノー知識で立ち向かうことにもなるし」
 滔々とアクルは語りながら赤松の空になっているグラスにビールを注ぐ。イノリもつまみをつつきながら説明を聞いていた。
「向こうは私達の認識を誤魔化してくることもあるので、最悪同士討ちもあります。一回若いのそれで潰しましたしね、社長」
「なー、可哀想なことしたよなぁアレ。頭凹んじまってよ」
「潰すってなんですか凹むってなんですか怖い単語突然出さないでください」
「まあそれはさておき」
「全然さておいてないです」
 アクルはイノリを無視して酒を呷り、また続ける。
「相手は不確定で不明瞭な存在なんですよ。だからどんな風にも見えるし、どんな形にもなる。それに対抗するには予め共通の認識を持って相手を固定する。『正体不明』から『ぼくがかんがえたさいじゃくのゆうれい』にしてしまうんです。高い解像度の認識を共有すれば良いんです。例え違っていてもそれに納得して理解さえしてしまえば私達の思う通りにしかならなくなる。神と同じですよ。私達が理解出来る段階に引き摺り下ろすんです。逆説的『幽霊の正体見たり枯れ尾花』的な? 幽霊とかそこら辺信じてない人には手出ししてこないんですよねアイツ等。多分『信じてる人』しか認識しないのか、魅力を感じないのか、存在が観測されないとそれ自体を保つことが出来ないのかのどれかなんでしょうけど。相手が何なのか、それが私達の共通の認識になれば対応は難しくないしクリティカルヒット狙えるので。もう意味分かんないんスよねクオリアとエリアーデとウィトゲンシュタインと認識論全部ごた混ぜにして解釈してるんで。『俺がAと言ったらソイツはA』みたいなことになってる。命題が既にクソゲーなんスよ」
「おっアクル酔っ払ってきたな。舌がよく回ってるぞ」
 つらつらと話していたアクルに「分かります?」と訊ねられたイノリは唸る。
「正直、半分くらいしか分かんないし凄いトンデモ理論に聞こえます……すみません……」
「良いッスよ別に。ひとまず先に尾上さんのところに来る『変なヤツ』の認識を共有しつつ解像度を上げていきます。概要だけで良いので、まずは何が『来る』のか、教えて下さい」
 イノリは彼女の言葉に従い、簡単に説明した。「誕生日になるとやって来る」「来るのは陽が出ていない時だけ」「家の敷地の中には入って来ない」「人間に似ているが、異様に背が高くて目が大きい」「『お母さんだよ』と誘う」。それだけ説明した。アクルは「そうですか」と頷いた。
「それじゃ、今から幾つか質問していきます」
 鈴の音がして次の料理が運ばれてきた。餃子に酢豚、八宝菜、エビチリ、唐揚げ、五目焼きそば。配膳は赤松の仕事らしくせっせと大皿に盛られた料理を運んでくる。固定の宴会メニューなのだろうとイノリは思った。アクルがスマートフォンを取り出してイノリを呼んだ。
「尾上さん。最初の質問なんですが、ご実家に変な仏壇とか神棚ってありませんか?」
「へ、変なって、例えば?」
「成人男性が入れるくらいデカいとか、御神札や位牌がなんかキモいとか、あんまり視界に入れたくないとか」
「いや、そんなことはないです。普通の浄土真宗です」
「じゃあ自分の家にだけある謎ルールとかは? 蕎麦を食べてはいけない、家の者ではない女を連れて自宅の裏山を登ってはいけない、誕生日は家の外に出てはいけない、みたいな」
「いや、それも無いです。家の外に出るなってのは、言われたことないし。あと両親には見えてないみたいです」
 思い返せば、イノリの両親は彼が誕生日に外出を激しく拒むことを訝しげに思っていた。普段は喜ぶ外出を嫌がる息子に首を傾げていた。彼等にはイノリの前に訪れるモノが見えていなかったのだ。
 それを聞いてアクルは「んんー」と瞑目する。赤松と言えば一人で焼きそばを掻っ込んでいた。イノリも焼きそばが食べたかったのだが、諦めることにする。アクルがまた質問を再開する。
「ご両親は二人ともご健在で?」
「はい、まあ」
「身内や周囲もしくは自分は宗教にあんまりハマってない?」
「そうですね」
「自分の家にだけ伝わるおとぎ話やお祭りはない?」
「ないです」
 アクルは其処まで聞いて「じゃあ」とスマートフォンをタップし出した。イノリが何をしているのかと聞くと「ヒント探しです」と答えた。たぷたぷと指で画面を叩いている。それから唸る。
「尾上さんの出身地域で何か伝承出てこないか探したんスけど、それっぽいのが何も無かったのでもしかしたらマイナーなのかも知れません。誰か答えてくれそうなとこに質問します」
「知恵袋とかですか?」
「まあそんなとこです。暇人しかいない広場みたいな」
 アクルがそのまま数分黙り、そして「分かりました」と顔を上げた。
「行きずりタイプですねコイツ」
 一人で大皿料理を殆ど平らげていた赤松が「つまんねぇな」とコメントする。
「結局、どういうヤツなんだよ?」
 赤松に説明を求められてアクルは答える。
「『サラウバ』、という名前で伝わってます。サラウバ、サラウバ……ああ、『攫う婆』『攫乳母』か。それで、なんでも通り掛かった妊婦に唾を付けて生まれた子供を攫って食う、みたいな?」
 毎年、自分のところへやって来る恐ろしいあの化け物の名前が分かった。ただそれだけなのに、イノリはほんの少し恐怖心が和らいだ。どうして自分の元へ来るのかが分かった。それだけなのにほんの少し安堵していた。アクルの言う「正体不明」から「共通認識」に変わる、という言葉の意味が段々分かってきた。
 「それでは『サラウバ』と仮定しましょう」とアクルが「サラウバ」についての記述を読み上げていく。

 「サラウバ」。身内が寝静まった夜に子供を攫って食べる。サラウバは妊婦を見ると生まれてくる子供を見失わないように印を付ける。××神社周辺にのみ伝わる。サラウバはその昔、神社を長年詣でた末に子を授かった母親であった。だが折角授かった子供を病か何かで失った。母親は発狂し近隣に住む子供を自分の子供と思い込んで家に連れ去ろうとするようになった。それは徐々に悪化していきとうとう子供を食って殺すようになった。以来、サラウバは通り掛かる妊婦を待っている。

 実家近くの神社の名前が出て、イノリはビクついた。アクルが最後まで読み終わると赤松は「おー」と感嘆しつつビールを飲み干す。一本、大瓶が空になった。
「身体的な話は特に出てこないので、見掛け倒しですかね? 雑魚だったら社長には靄レベルにしか見えないから尾上さんにガイドしてもらわないと」
 それを聞いてイノリは驚いた。昨日は赤松が恐ろしいモノを圧倒的暴力で叩き潰しているのを見ているので、てっきり彼に任せておけば良いと思っていたのだ。イノリは混乱しながら訊ねた。
「あ、あの、社長は見えてるんだから、俺いらないんじゃないですか?」
 赤松は「相手による」と枝豆を口に放り込んだ。
「あんまりにも雑魚だと黒いモヤモヤの塊にしか見えねぇ。昨日で言えば、朝のヤツは完全に排ガスの塊だったし、ラブホのヤツはぎりぎり女だって分かったレベルだな」
 赤松の言葉に「何処に頭があるのか分かんなきゃ殴れないッスもんねー」とアクルが同調して煙草を吹かす。鈴が鳴り、次の料理が到着したことを知らせる。赤松が取りに行けば大盛りの炒飯と人数分の取り皿、杏仁豆腐が籠の中にあった。それを見てアクルが「ああもうそんな時間ですか」と言った。
「尾上さん、確認ですが『サラウバ』は『家の中』に入ってこないんですか? それとも『家の敷地内』に入ってこないんですか?」
「そう、ですね。いつも家の門のところに立ってますけど、敷地の中に入ってこないです」
「じゃあこの店の中は安全ですね、多分。『家の中』は当人にとっての聖域、『敷地内』は境界の内側です。尾上さんが『この部屋には誰も入ってきて欲しくない』と思えば良いんです」
 それを聞いてイノリは目を瞬かせる。
「そんなんで良いんですか? 映画とかだと結構無関係に来るじゃないですか?」
「滅茶苦茶なヤツに障ればそうなりますけど、基本『お話』ですし」
 アクルは其処で一旦煙草を一吸いして、続けた。
「もしそうなら尾上さんはもう死んでません?」
 唐突な言葉が尾上の背骨を凍らす。動揺して持っていたグラスからビールが少し溢れた。それを見てアクルは彼がまだ気付いていないことを理解した。
「もう日が暮れて夜ですよ」
 部屋には煌々と蛍光灯の明かりが降り注いでいるから気付かなかった。アクルが窓に近付いて書院甲板の上に座る。それから障子を開けると夜空が見えた。一気に動悸が激しくなってイノリは胸を抑えて目を瞑る。怖いモノを見ないように。赤松が彼の肩を控えめに叩いた。
「大丈夫だ。此処には入ってこない」
「いや、あの、でも、」
「駄目だったら俺ら三人一緒にお釈迦だ」
「なんでそういうこと言うんですか!?」
 イノリは絶叫する。赤松はカラカラと笑い、窓に近付いた。
「噂のババアはもう来てんのか?」
 赤松の問いにアクルは「ビミョーですね」と返す。彼女は後ろで怯えている三十路男を見遣る。
「尾上さん、ちょっとチラッと見るだけで良いんで何処にいるか教えてくれませんか?」
 イノリはぶんぶんと首を横に振って拒否する。だがその抵抗は空しいものでしか無かった。
「良いからこっち来て窓の外を見ろ」
 赤松が低い声でイノリを呼ぶ。嫌な引力を感じて、イノリは呻きながら窓へと近付いていく。アクルが「あーあ」という顔をしているのが怖かった。
「で、何処にいるんだ?」
 赤松に言われて、イノリは障子の陰からそっと外を覗いた。
 地方都市の寂れた駅が見える。電車の間隔が空いているので、急ぎ足で駅へ向かう人や、駅舎からゆっくりと出て来る人が疎らにいる。花壇とモニュメントが申し訳程度にあるロータリーには客待ちのタクシーが一、二台停車している。送り迎えなのか、自家用車も停まっていた。バス停には短い行列。コンビニや居酒屋が軒を連ねているが、一本道を外れると暗い。民家にはぽつぽつと灯りが点いている。改札の前に一本だけ街灯があった。壊れているのか、光は灯っていない。
 イノリは目を懲らす。きょろきょろとあちこちに視線を移す。そしてびたりと一点に留まった。改札のところに視線が釘付けになった。
 壊れた街灯だと思ったモノは街灯ではなかった。背の高い女だった。異様に背が高い。そもそも全体の寸法がおかしい。手足は枯れ木のように細い。関節が全て伸びきっているようでだらりと垂れている。俵のように膨らんだ胴は無理矢理引き延ばしたように縦に伸びている。首は胴の倍ほど長かった。干涸らびたような肌。薄汚れた粗末な小袖。ぐしゃぐしゃになった長い黒髪。頭は体に比べて圧倒的に小さい。その顔の大半を占める大きな目が、イノリを見ていた。汚らしい口元に涎を垂れ流して笑っていた。
「おかあさんだよぉ」
「ギャアアアアアアアアアアッ! いたいたいたいたいた!」
 イノリは弾かれるように窓から飛び退いた。アクルも見付けたらしく、「あ、アレかぁ」と呟く。赤松も見たようで「メチャメチャいるな」と漏らした。
「しゃ、しゃちょ、社長、もっ靄です!? ぜっ全然見えないですか!? 雑魚ですか!?」
「いやー、ガッツリ見えるわ。ギャハハ」
「ギャハハじゃないでしょうが!」
 イノリは楽しそうな雇用主に怒声を浴びせる。アクルも窓から離れて煙草を灰皿で消した。それから畳の上の料理や酒、グラスを全て書院甲板に載せる。何かの準備のようでイノリには不吉に思えた。
「そんな強くないとは思いますけど、恐らく『誕生日であれば確実に見付ける』という条件でバフ掛かってます」
 アクルが赤松に問い掛ける。赤松は窓から離れ、顔の傷を掻きながら「まあ頭あるしなぁ」と返す。
「お前の使うゲーム用語、たまによく分かねぇんだよな。ま、俺が駄目ならお前の『旦那』を頼れ。どうにかすんだろ」
「嫌ッスよ死ぬの私じゃないスか。つか『巫覡(ふげき)』と『社畜』いて『祭神』が負けるとか無いっしょ」
「あ、アクルさん、フゲキとシャチクってなんですか? サイジンて」
「『社畜』は神社に繋いでる生き物のことで、尾上さんのことですけど、説明は明日しますね。めんど、今はアレをどうするか考えないと」
 アクルは再度窓の外を見る。それから「うーわ」と声を上げた。
「近付いてきやがったあのアマ」
 彼女の一言にイノリはまた悲鳴を上げる。自分が何度も叫んでいるのに店主が様子を見に来ることもない。それに気付いて恐怖に襲われる。アクルに「大丈夫ですよ」と宥められても寒気と震えが止まらなかった。
「は、はやくどうにかしてください……もうやだ怖い怖い怖い怖い!」
 イノリは今にも泣き出しそうになっている。彼のそんな様子にアクルは「社長、さっさと片付けないと」と肩を竦める。赤松は困ったような顔をする。
「店の中には入って来ないと思います。窓を開けて応戦するのはちょっと危なそうだし、外に出て迎え撃つとか?」
「でもよ、流石に駅前でシャドーボクシング始めたり凶器振り回したりしだしたら通報されるだろ普通。バール持ってきてねぇけど」
「それもそッスね」
「えっ社長武器持ってきて無いんですか何でですか」
「なんで飯食いに行くのに工具が必要なんだよ」
「そりゃそうなんですけど! あるって思うでしょ普通! 今日! 来るって! 分かってんのに!」
 恐怖が怒りに転化しているイノリを二人は「どーどー」と落ち着かせようとする。
「尾上さんが限界近いんで、いっそ呼びます? 此処に。多分条件付けず『サラウバ』呼んだりすると神隠しキメられる気がしますが」
「それが一番手っ取り早い気がしてきた。任せるわ」
 赤松とアクルの会話が不穏でイノリは感情が収まらない。過呼吸を起こす一歩手前だった。彼をアクルがそっと呼んだ。
「うーん、じゃあ尾上さん。ちょっと復唱してください」
「え? ふ、ふくしょう……?」
「はい。『此処まで迎えに来て。お母さん』」
「こ、ここまで、むかえに、来て、おかあ、さん?」
 何も理解していないイノリが言い終えると、室内を照らす蛍光灯が激しく明滅した。イノリはびくりと体を震わせ、赤松とアクルは「おっ」と天井を見上げる。蛍光灯はすぐに正常に戻った。アクルは外を確認する。
「素直ですねアイツ」
「ノリが良いヤツで良かったな」
 赤松は空のビール瓶の首を逆手に握って立つ。それからすぐに、リンリン、と鈴の音がした。配膳用の昇降機だ。イノリは「何か料理が来た」と思った。だが赤松は動かない。
「あ、あの、りょ、料理が来たんじゃ……」
「この店の宴会コース、シメが炒飯と杏仁豆腐なんだよ」
「えっあっ」
 アクルは足音を立てないように歩き、座り込んだイノリを引っ張って昇降機から離す。鈴の音が聞こえる。しかし鈴は揺れていない。イノリの心臓は停まりそうだった。
 昇降機の降りたシャッターの向こうから、内側をカリカリと爪で引っ掻いているのが聞こえた。がち、と固い何かに填まる音がして、がしゃん、とシャッターが持ち上がった。がしゃん、がしゃん、とシャッターはゆっくり持ち上がっていく。シャッターと床の隙間から女の顔が覗いた。
「迎えにきたよぉ」
 イノリは絶叫する。こんな至近距離で「サラウバ」を見たことなど無かった。視線を外せない。苦しい。恐怖で呼吸の仕方を見失う。アクルが彼の肩甲骨の間を叩いているからどうにか意思を保っているようなものだった。
 ずるずると「サラウバ」が這い出してきた。虫のように、ぐちゃぐちゃと関節を動かしながら、頭を畳に擦り付けながら、イノリの前に現れた。
 イノリは年下であるアクルの細い腕に縋る。逃げようとしても足が縺れる。腰が抜けている。醜態を晒しているなどと恥じる余裕も無い。徐々に近付いてくる恐ろしいモノに恐怖し続けることしか出来ない。
 アクルの声がした。
「『サラウバ』より尾上さんのビビり方に引いてるんスけど。あと腕痛い」
 それを聞いて赤松は「おう」と応える。
「殴ったら死ぬって拝んでてくれや」
 赤松は足を踏み出して「サラウバ」に近付く。ゆっくりと腕を持ち上げて、宣誓するように異形の顔を指差す。
「見えるぞ。俺にはお前の『頭』が見える」
 異形が首を擡げる。目の前の障害物が何かを確認するように、ゆっくりと。迫る女の頭に向かって、赤松は思い切りビール瓶を振り下ろした。鈍い音と共に女の頭頂部にビール瓶がめり込んだ。「サラウバ」は苦悶の声を上げて畳の上をのたうち回る。
「おっ効いてる効いてる! コイツ殴ったら死ぬヤツだぞ!」
 「イェー! ワハハハッ!」と少年のように歓声を上げながら赤松は「サラウバ」に迫りまた殴る。殴る。何度も顔を狙って殴る。不安定に揺れる化け物の頭に的確にビール瓶をめり込ませていく。其処にきちんと「化け物の頭がある」ように。
 悲鳴を上げる「サラウバ」は細長い腕を振る。赤松を掴もうとする。それを赤松は叩き落としてまた頭を殴る。噛みつこうとしてくる女の顔を殴打する。「サラウバ」の顔は最早原型を保っていられないほど凹んでいる。
「あ あぁああ ぁあああああぁああああぁぁぁああぁぁぁああぁあぁああぁぁぁぁぁ」
 「サラウバ」が絶叫して赤松のビール瓶を弾き飛ばした。ビール瓶は壁に当たって割れた。
「おっと」
 巫山戯たようなリアクションを取って赤松は笑う。その隙に「サラウバ」は赤松の横をすり抜けてイノリに迫る。イノリが逃げようとし、アクルは彼を立たせようとしたが「サラウバ」の方が早かった。
 異形の手が彼の左足を掴んだ。その手がぞっとするほど冷たかった。絶叫するイノリをアクルは引っ張り上げようとするがそもそも力が足りない。
「ぎゃああーッ! しゃっ社長ーーッ!」
「なにチンタラやってんスか! ここで拉致られたら良くても神社まで迎えに行く羽目になるんじゃないスかねぇ!?」
 アクルが声を張り上げる。赤松は楽しげな笑い声を上げる。
「ギャハハハハハッ! 俺等みんな酒飲んじまってるから飲酒運転になっちまうな!」
「笑ってねぇでさっさとやれやクソチンピラ!」
「しゃっ社長助けてぇーッ! 早く助けッ、助けろ! 早く!」
 アクルの罵声が響き、イノリの懇願が室内を埋め尽くす。イノリの両足がズブズブと「サラウバ」の口に飲み込まれていく。小さな女の口がマンホールのように広がり彼を飲み込もうとしている。膝の辺りまで飲み込まれて、感覚が無くなっていく。発狂寸前の彼は気絶したくとも恐怖が強過ぎるあまり気絶出来ない。声を張り上げ続けるしかない。
 「死ぬのが怖い」とイノリは思った。目を固く瞑って祈った。「助けて欲しい」と思った。「助けて」と叫んだ。
「そんなビビんなよ、尾上さん」
 赤松の声がして、目を開けると割れたビール瓶を持った赤松が目の前に立っていた。胴の部分から割れたビール瓶は何かを刺し殺すのに丁度良い。
 巨躯の赤松が体重を乗せて「サラウバ」の頭にビール瓶を突き立てた。そのまま力任せに胴体へ向かって引き裂いていく。薄皮に包まれた柔らかい肉の塊を裂くように、化け物を捌いた。
 断末魔の後に「サラウバ」は煙となって消えた。イノリは四肢が硬直していたが、徐々に落ち着き始めた。長年悩まされた化け物が消えたと、徐々に思い始めた。解放されたという実感はいつまでも来なかった。
 呆然としている彼を余所に赤松は割れたビール瓶をアクルと片付けて、料理や酒を並べ直して乱れた座布団を整えた。
「よし、じゃあ飲み直すか!」
「うぇーい」
「まだ飲むんですか……」
 イノリの歓迎会と誕生日会は「戦勝祝賀会」という名前に変わり、終電間際まで延長された。赤松は空き瓶や空いた皿を昇降機に載せ、ついでに「延長」と書いたメモも置いて下ろした。腰を下ろして仕切り無しの乾杯をして、赤松とアクルは飲み始める。イノリはまだ足が震えているので四つん這いで二人に近付く。赤松に注いでもらったビールを煽って、漸く人心地着いた。
「はぁ〜〜、怖かった〜〜」
 極度の緊張が消えて、イノリは今にも溶けそうな溜息を吐いた。アクルは「お疲れさんです」とあまり残っていない枝豆の皿を差し出した。礼を言って彼は温い枝豆をつまむ。
「あ、さっきはすみませんでした! 腕掴んだりとかして、ホント」
「別に気にしてないですよ。酷さで言えば社長が余裕で圧勝します」
 彼女の言葉を聞いて赤松が怪訝な顔をしている。イノリは苦笑いして話題を変えようとする。
「いや、この歳になって幽霊が見えるようになるとは思わなかったです」
「え? あれ幽霊なんスか?」
「え? 違うんですか?」
 アクルとイノリは顔を見合わせる。よくよく考えてみれば二人は所謂「幽霊」らしいモノを見たことがない、と話してみて分かった。
「社長は幽霊って見えるんですか?」
 ビールを飲みながら酢豚を食べていた赤松にイノリが訊ねると、彼は「いいや」と返した。
「俺、実家が寺だから墓場がお隣さんなんだけど見たことないぜ? ノリで墓石ブッ倒しても何も起きなかったし」
「すごい罰当たりだ……」
「社長に人を悼む気持ちとかないでしょ」
 部下二人の「うーわ」というリアクションに赤松は片眉を持ち上げる。
「失礼なこと言うなよ。あるぜ、相手に赤い血が流れてるならな」
 アクルに「人でなしだー」と囃される。イノリは彼に問い掛けた。
「社長は、これが娯楽だって言ってましたけど……怖いって思うことは無いんですか?」
 その質問は物心ついてからずっと怯え続けてきた彼が、高笑いしながら化け物を打ちのめす赤松を見てからずっと抱いていたものだった。
 赤松は悟った僧正のような顔で答えた。
「人間、生まれたら最後は死ぬだけだよ。なら娯楽を精々楽しむのが唯一人生にある価値ってモンだろ」
 赤松のそんな台詞を聞いて、イノリはつくづく「この人ヤバイ人だな」と思った。
「そういえばアクルさん。さっきのシャチクとか、なんなのか教えてくださいよ」
「酒飲んでたらめんどくさくなったんで明日また聞いてください」

 翌日。アクルは運転免許証更新の為に午前中だけ有給休暇を取り、クエは朝から現場のパトロールで不在だった。会社には赤松とイノリしかいない。朝礼前だが既にのんびりとした空気がフロアに流れている。イノリは未だに夢の中にいるような気分だった。ずっと幼い頃から恐れていたモノがもう二度と現れないということが、まだ信じられない。
 いっそ長い夢だったと思うことにしよう、とイノリは缶コーヒーを啜る。その時、フロアの扉がノックされた。会社には受付らしい受付が無いので来客は予め来社をメールや電話で知らせておくか、事務員が詰めているフロアを直接訪れるしかない。
「尾上さん悪いけど出てくれ」
 赤松は顰め面でキーボードを叩いていて手が離せない。イノリは返事をして扉に近付いた。トントン、と控えめなノックが再度される。「今お開けします」と声を掛けて、イノリは扉を開けた。
 扉の向こうには背の高い男が立っていた。百貨店の大きな紙袋を持って、薄手の黒い手袋か何かをしていて、手首に数珠を嵌めて、ダークスーツを着ている。イノリは男がすぐに「葬儀屋だ」と思った。男は同年代のように見えた。疲れた顔で、暗い目をしている。
「早朝から突然押し掛けてしまい申し訳ございません」
 男が口を開いて鐘のような声で言葉を発した。その瞬間イノリは肩を跳ね上げた。男の口の中は真っ黒だった。『変なモノ』ではない、とは分かる。人間だとは分かる。だからイノリは彼の異様さに恐怖した。
「あの、ど、どちら様でしょうか?」
 必死に平静を装ってイノリは来客の正体を確かめる。男は失念していたというように声を上げて懐を探った。
「嗚呼、失礼致しました。私、葬儀社をしております青沼と申します」
「せ、セイショウさん」
「寺の子供に生まれると物珍しい名前を付けられるので」
 渡された名刺を受け取り、「下の名前だけ名乗るんだ」とイノリは思い、それから既視感を覚えた。この感覚を以前も感じたことがある。
 視線を下に向けて、男の手も真っ黒なことに気付いた。手袋を嵌めているのかと思ったら違った。タールに腕を突っ込んで浸したかのように黒い。受け取った名刺には汚れらしいものは付着していないが、今すぐにでも投げ捨てたくなる。どうしてこんなに忌避感を感じているのか分からない。厭悪、という字面が唐突に浮かぶ。男の足元にある影の色が濃い。ドス黒く、何故か波打っているように見える。受け取った名刺には「国定 青沼」という名前が書かれていた。そしてやっとイノリは既視感の正体に気付いた。
 イノリは恐る恐る訊ねる。
「あの、もしかしてなんですけど・・・・・・青沼さんて、社長の、」
 ドスドスと重い足音がして、それからドスの利いた声が頭上から聞こえてきた。赤松だった。
「何しに来たんだこの野郎」
 背後から殺気を感じてイノリは冷や汗を掻いているが、青沼はどうとも思っていないようだった。
「なんだ、挨拶が出来るようになったのか。三年前よりは進歩したな」
 むしろ喧嘩を売っている青沼にもイノリは戦慄している。
「帰れ殺すぞ」
「駄目だ、私はお前と話をしに来た。すみません、何処か席をお借りできませんか?」
 青沼に訊ねられて、イノリは咄嗟に「打ち合わせ用のスペースが」と案内してしまう。赤松は嫌そうな顔を向けてくるが、客に帰る意思が無いのは分かっているので渋々一緒に向かう。
 イノリがお茶を出そうか迷っていると赤松は「出すな出すな」と手を振り、青沼は「つまらない物ですが皆様で召し上がって下さい」と小さな菓子折を出して渡してきた。受け取りたくないな、と思ったイノリだが我慢して礼を言った。
「あの、すいません。青沼さんて、社長のご兄弟とかなんですか?」
「ええ。コレとは四つ違いで」
「俺の弟だよ。生きてるクソ」
 仲悪いんだろうな、と察するイノリの足元で何かが聞こえた。え、と目を遣ると青沼の影を踏んでいた。
 また何か聞こえた。人間の声を逆再生したような音が聞こえた。波打つドス黒い影に、白い顔が浮かんでいた。人間の顔だった。それはイノリの顔をじっと見詰めて「いっしょに しんで」と男の声で希った。
 悲鳴も出ぬほど怖気が走ったイノリは咄嗟に後ろへ飛び退いた。誰も座っていない事務椅子にぶつかった。青沼は胡乱な視線を彼に向けて「どうかされましたか?」と訊ねた。青沼には見えないのか、気にしていないのか分からない。首を横に振るだけしか出来ないイノリを見て察したのか、赤松は「もうすぐ朝礼だけど座って待っててよ」と席に戻るよう指示した。イノリは従った。
 新入社員が自席に戻ったところで赤松は切り出す。
「で、何の話をしに来たんだよ」
「話は二つある。まず一つ目だが、父親と、私を安心させる為に来た。将来の心配事は少ない方が良い」
 青沼はそう返して、大きな紙袋を机の上に置いた。
「子供が生まれたそうだな。おめでとう。父親も喜んでいた。お前はいつも警察の厄介になっていたから、ちゃんと生活を営めているようで嬉しいと」
 機械的な弟の話し方が赤松の勘に触る。それは毎度のことなので赤松はやり過ごすことが出来る。青沼は紙袋から札束を一つ取り出した。
「これは、以前渡せなかった結婚祝いだ」
「いらねぇよ。テメェの施しなんざいるか」
「最後まで聞け」
 青沼はまた一つ札束を取り出して重ねた。
「これは出産祝い」
 また一つ札束が紙袋から取り出されて重ねられる。
「これは七五三」
 また一つ札束が増える。
「これは入学祝い」
 また札束が増える。
「これは進学祝い。中学と高校の分だ」
 また札束が増える。
「これは大学入学の祝い金」
 また札束が増える。
「これは就職祝い」
 そう言って置いたのが最後らしかった。青沼は何とも思っていない顔で兄を見ている。
「お前の好きにしろ」
「いらねぇっつってんだろ。そもそも、なんで子供生まれたの知ってんだよ。教えてねぇだろうが」
「役所で戸籍の附票を請求したらすぐに分かることだ。相変わらず知恵が足りないなお前は」
 こめかみに血管が浮く赤松はこれ以上低くならない声で唸った。
「何がしたいんだよお前。相変わらずイカレてんだな、ガキの時分から何も変わってねぇ」
「言っただろう? 父親と、私の将来的な不安を取り除きたい。具体的には、新しい親族の一人が貧困に喘ぐようなことになるのは心苦しいので先に纏めて援助金を渡して必要以上に関わらなくても済むようにしたい。お前が捨てた実家の維持に余計な力を使いたくないからな」
 軽く両手を挙げて、それ以上の意図は無いと青沼は示す。赤松は変わらずに拒む。
「いらねぇよ。持って帰れ。そんで早く親父に死ねっつっとけ。そんでお前も死ね」
「アレもそう長生きはしまい。だが不安は拭わなくては。此処で受け取らないというのであれば、私はお前の家に行かなくてはならない。お前の妻と子供に、確か娘だったな、その二人に会って話をしなくてはいけなくなる」
 長く骨張った両の指を組んで青沼は気怠げに首を捻る。今にも掴みかかってきそうな赤松のことなどどうでも良さげに。赤松は自分の身内の中でもこの弟が一等嫌いだったが、どうにか殺さないように気を付けていた。だが今日は殺すかも知れないと思った。
「…………そのまま喋り続けろ。殴り殺してやるから」
「では黙って金を受け取れ。それで二つ目の話だが」
 打ち合わせスペースから漏れてくる兄弟の会話にイノリは慄いていた。険悪過ぎるムードのお陰で定時を知らせるチャイムに気付かなかった。ハラハラしながら二人のことを見ている。転職先で殺人事件が起きたら困る。就活を年一の行事にしたくない。
 青沼は言葉を続ける。
「仕事を頼みたい。潰したい家がある」
「ハァ? なんだそりゃ?」
「娘の幽霊が化けて出るそうだ」
 イノリが青沼の言葉を聞き取ろうと身を乗り出していると卓上の電話が鳴った。慌てて受話器を取る。
「はい、国定興業株式会社です。えっ? 女の子の幽霊が出る家!?」
 思わず声を上げたイノリを見て、青沼は「嗚呼、良いタイミングだ」と呟いた。赤松は自分と会社が、目の前の碌でもない弟の娯楽に巻き込まれたのだと知って、いよいよ弟を殺すことにした。




2. 怒り深き青


 その家は最初、土地の売却を了承していたのだという。古い家と土地を売り、田舎のほうでのんびり暮らすつもりだと。円滑に話は進んでいたはずだったのだと。その家は家主と妻、そして一人娘の三人暮らしだった。夫婦は大人しい善良そうだった。娘のほうは今年高校を卒業するということだった。娘は暗い印象だが、土地の売却について来客した不動産屋に茶を出すのはいつも彼女だった。
契約書を取り交わして、これでトントン拍子に事は終わるはずだった。
 三ヶ月前に娘が姿を消した。警察に夫婦は娘のことを家出人として相談した。娘が高校を休みがちであったことから学校側や警察はあまりこの件に積極的な態度を示さなかった。娘が消えて家の中と両親の生活は荒れ出した。娘を失った悲しみのせいだろうと不動産屋は憐れんだ。
 そして家を引き払う予定だった今月、夫婦は不動産屋に「家を売らない」と言い出した。契約は既に取り交わしてしまっている。土壇場だったので不動産屋も困り理由を訊ねた。すると夫婦は答えた。
「娘が家を売らないで欲しいって泣くんです」
「えっ娘さん、家に帰ってきたんですか?」
「いや、それが、娘の幽霊が……」
「む、娘さん、した、死体で、見付かったんですか?」
「まさか! でも娘の幽霊なんです!」
 夫婦曰く、娘の幽霊が出て来るのだと言う。不動産屋は「そんなわけが無い」と思ったのだが、夫婦は最早支離滅裂なことしか言わなくなり交渉にならない。困り果てた不動産屋は、とある掲示板に相談した。
「そういうわけで、私は件の不動産屋に相談を受けて此方へ来たわけです」
 青沼はイノリに事の顛末を語り終えて一息吐いた。応接コーナーのテーブルに対面で着いていた中途採用のイノリと社長の赤松は厄介事の予感しか無く、眉を寄せて瞑目した。イノリの口からは「入社以来ずっとこんなんばっか!」という叫びが飛び出した。


 社員が殆ど出払っているため、イノリ達しかいない国定興業株式会社は朝の九時過ぎ。来客は赤松の弟である、葬儀社を経営している青沼で、彼が到着したのとほぼ同時に電話が鳴った。それは「女の子の幽霊が出る家があるので、どうにかして欲しい」という不動産屋からの相談だった。仲の悪い兄に門前払いを食らうことを予想して、保険として電話を掛けるように青沼が頼んでいたらしい。不動産屋の相談を補強する形で青沼は冒頭の話をした。
「なんでお前のとこに相談行くんだよ。お前葬儀屋だろ?」
「私が運営している掲示板に相談のスレッドが立った。その家の『一人娘』とも個人的に付き合いがある。だから引き受けた」
 赤松が「なんだそりゃ」と怪訝な顔をするが青沼は「娯楽の延長線だ」と気にしない。札束が入った紙袋をテーブルに置いて、彼は兄とイノリを眺めた。
「この金はお前の娘の養育費にでもと思ったが、この件の契約金として渡そう」
 イノリは理解出来ないという顔で青沼に訊ねる。
「どうしてこの会社を選んだんですか? そういうのって霊媒師的な人にお願いするモンじゃないですか?」
 彼の質問に青沼は一瞬視線を左にずらし、答えた。
「其処にいる間抜けに金を渡すのに丁度良いと思ったのと、私の個人的な願望です」
 青沼は「あと『除霊』で検索すると此処のホームページがトップに来ますし」と付け足す。解体業者のホームページなのに、と思うイノリを置いて赤松は弟を睨む。
「なんだよその『個人的な願望』ってのは?」
 鼻と耳が彼と同じ形をしている弟は兄の問いに、目を伏せて彼等ではない相手に向けた嘲りと共に回答する。
「私は、あの家に用がある」

 もう一時間以上車で走っている。県境を越えて、疎らに戸建てが並ぶ市街の中を走っている。典型的な地方都市だった。
 気不味い空気が車内には漂っている。特に会話も起きず、何か気が紛れるようなことがあれば良いのに何も起きない。会社に掛かってくる電話は赤松の携帯電話に転送されるようにしたのだが、それさえ鳴らない。つまらないカーラジオは空気を不味くするばかりだ。
 運転手であるイノリは助手席にいる青沼が何となく嫌だった。後部座席に座ってくれたらまだ気分が紛れる。イノリには彼の両手が真っ黒に見えている。口の中もタールのように黒々としていて、視界に入れたくない。イノリにしか見えない。そうでなければ赤松が言及しているはずだ。
「……なんで青沼さん、助手席なんですか? 後ろのほうが広いですよ?」
 とりあえずイノリは聞いてみる。青沼は端的に返す。
「アレの隣には座りたくないので。視界に入れたくないんですよ」
「奇遇だな、俺もクソが隣に来ちゃ反吐が出るからよ。助かるぜ」
「は?」
「あ?」
「車ん中で喧嘩すんのやめてもらって良いですかねェ!?」
 イノリは仲の悪い兄弟に頭が痛くなってくる。気を取り直してイノリは質問を続ける。
「娘さんと知り合いだったって、何で知り合ったんですか? 相手は女子高生じゃないですか」
「彼女は、私のサイトによく書き込みをしていました。スレッドも立ててましたね」
「そうなんですか。悩み相談とか?」
「『両親を短時間で効率的に殺害し被疑者として疑われないためにはどうすべきか』。彼女が最後に立てたスレッドのタイトルです。内容が面白かったので興味を持ち、メールの遣り取りを始めました」
 赤松は呆れた顔をしている。
「お前よぉ、またロクでもねぇことする気だったろ」
 社長の言い方に引っ掛かった中途採用は「ロクでもないこと」と鸚鵡返しする。青沼は黙ったまま車外の風景を眺めている。
「えっ怖いんで青沼さん黙んないで反論してください」
「コレが私にケチを付けてくるのは子供の頃からなので」
「お前がもうちょい倫理観持てば俺もこんなこと言わねぇよ」
 赤松はイノリに笑い話のように子供の頃のことを話した。
「俺の親と兄弟は全員頭がおかしいが、コイツはズバ抜けてイカレてる。近所の高校生が境内に煙草の吸い殻を捨てたんで、縛り上げて文字通り釘を刺した。背中に五十本ばかしな。小学生の時だっけか?」
「六十七本だ。境内に捨てられていた吸い殻を数えたらそれだけあったから、親の代わりに躾けてやっただけだ」
 聞いていたイノリは気分が悪くなってきた。
「社長、それ止めたんですよね?」
「あ? なんでだよ、おもしれーのに」
 「倫理観レベルが目糞鼻糞だ」と内心兄弟に毒突いて、青沼に「あとどれくらいですか?」と聞いた。
「この先の角を右折して少し行ったところです」
「そういや、双子はまだ生きてんのか?」
「東京にいるが、死んでいれば連絡が来るだろう。お前、殆ど会ったことが無いのに良く覚えていたな」
 イノリが「まだ兄弟いるんですか?」と聞けば「私の下に歳の離れた双子がいます。弟と妹です」と答える。
「二人ともやんちゃで世話が焼けるので家から追い出しました」
 言われた通りに道を曲がると空き地が広がっていて、その中に一軒だけ家が立っていた。「あの家です」と青沼は告げた。イノリは路肩に車を駐めた。
 目的の家は古い家だった。外装には罅が走り、屋根の瓦は褪せている。雨樋には落ち葉が溜まり、僅かばかりの庭は荒れ果て、生垣は無秩序な枝葉の塊となっている。崩壊している、とイノリは感じた。車から降りた赤松とイノリに青沼が問うた。
「それで、娘の幽霊は?」
イノリは首を傾げ、赤松は「今まで幽霊とか見たことねぇぞ」と答えた。
「青沼さんは、そういうの信じてるんですか? 俺、というかお兄さんのこと、知ってるんですか?」
「オイ『お兄さん』とか言うな気色悪ィ」
「社長はちょっと黙っててくださいよ」
 青沼は何の興味も無いように「いいえ」と答えた。
「いたらいたで、どうとも思いません。ソレのことについても、特に関心がありません」
 彼の言葉にイノリは疑問を持った。「そういえば、この人は何故この家に来たのだろう」と。青沼は確かに「この家に用がある」と言ったが、具体的なことは何も言っていない。幽霊が出るという家に赤松が行き、その手伝いでイノリが駆り出された。それに青沼がついてくる、というのは不思議に思えた。来たところで何をするのだろう。娘の詳細を聞きたいのか、彼女の両親に会いたいのか。
得体が知れない社長の弟に、イノリは徐々に忌避感を覚えていった。青沼の足元の影は異様に濃く、手は手袋を嵌めたかのように黒く、口の中には闇が広がっている。普段であれば関わり合いになりたくも無い手合いの男と、普通の人間には見えない「何か」を見て殴る雇い主と、悲鳴を上げて「何か」を誘き寄せるためだけに連れて来られた社員という面子は、イノリの脳内に警鐘を鳴らし続ける。
 家の錆びた門扉に触れる前に青沼が兄に声を掛けた。
「赤松」
「あ? なんだよ?」
「工具は積んでるのか? そうだな、バール辺りがあると良いんだが」
 赤松が「あるぞ」と答えると「持って行け」と青沼は言う。
「なんでだよ」
「必要になる」
 赤松は少し思案して「何かあればお前が責任取れよ」と言って乗ってきた車のトランクからバールを持ってきた。青沼は彼を待ち、それから家の門を開けて敷地へと踏み込んだ。イノリ達は後をついていく。
「家に入ったら私が家主と話します。二人は何も喋らなくて結構です。相手に混乱されても困るので」
 青沼はチャイムを鳴らす前に彼等を振り返る。
「娘の幽霊が出たら教えてください。生きている人間と死んだ人間には何度も会っていますが、死んだ後の人間には会ったことがないので」
 咄嗟のリアクションが取れなかったイノリは「もしかしてこれは彼なりのジョークなのか?」と思い、赤松は「面白くねぇぞ」と感想を述べる。
青沼がチャイムを鳴らす。明るい和音が響いた。少しの間を置いて、扉が開いた。開いたドアの隙間から悪臭が漂ってきた。現れたのは五十がらみの男だった。あちこちに染みが付いた股引姿で、お世辞にも綺麗な身形とは言えなかった。背の高い青沼の姿に驚いたのだろう、一瞬仰け反った。
「ど、どちら様ですか?」
 恐らく家主であろう男に青沼は丁寧な挨拶をする。
「午前中のこのような時間帯から申し訳御座いません。国定、と申します。娘さんのことで折り入ってお話ししたいことがありまして、こちらに伺わせて頂いた次第です」
 家主は訝しげに喪服を着た来訪者を見ている。怪しい男に見えるのはイノリも同意する。
「娘の? なんです、なんでまた、わざわざ」
「娘さん、ミズホさんとは少しご縁がありまして、メールの遣り取りをしていました。それが三ヶ月前、不穏な内容のメールを最後に連絡が付かなくなったものですから……」
 青沼は再度「その件でお話ししたいことがあります」と繰り返す。「ミズホさんはいらっしゃますか?」とは聞かなかった。
「お厭うようでしたら、警察に知り合いがおりますのでそちらにご相談致します」
 脅しでしかない男の言葉に、家主は苦渋の決断という表情で扉を大きく開けた。先程よりも生臭く腐敗しきったような臭いが鮮明になり、廊下に中身が詰まったゴミ袋が幾つも置かれているのが目に入った。ゴミ屋敷寸前だ、とイノリは顔が引き攣る。赤松は嫌悪を堪えるように唇を引き絞っていた。青沼は招かれるまま、構わず家に上がる。
 歩けるゴミ屋敷というのは下手に足の踏み場がある分遠慮する言い訳が出来ないな、とイノリは思った。家の中には蠅が飛んでいる。青沼は気にせずに平然と歩いている。三人は居間に通された。その部屋にもゴミが散乱していた。青沼は気にする素振りも見せずに畳の上で正座したのでイノリはそれに倣った。赤松はどかりと胡座を組んで弟を見ている。さっさと帰りたい、という顔をしていた。イノリも同意見だった。
 家主と同年代の、彼の妻らしい五十過ぎの女が寝間着姿のまま茶を淹れて出してきた。居間から台所が見える。床に、生ゴミを入れた袋が口を開けたまま置かれている。イノリにはそれが蠅の原因のように見えた。
 湯飲みは洗っていないようで、茶渋がこびり付いていた。青沼のものには蠅の死骸が浮いている。彼は一瞥するだけだった。
「ねぇ、なんでこの人はバールなんか持ってるの?」
 家主の隣に座った妻が赤松を見ながら家主に問う。代わりに青沼が「お気になさらず」と言い、本題に入った。
「今日は、娘さんのことでお話があって参りました」
 蠅の羽音が唸る中で青沼の声が聞こえる。ふと、イノリは視線を自分の右側に移す。襖が絞められている。家の大きさや此処までの廊下の長さから鑑みて、六畳間程度だろうと推測する。黄ばんだ襖の向こうが何故か気になる。ガムテープで開かないように目張りされているからだろうか。
「ミズホのこと、っていうのは?」
 家主は妻と顔を見合わせる。青沼の背筋は真っ直ぐ伸びていて、だらしない夫婦とは対照的だった。
「娘さんから相談を受けていました。『家を出たい』と。お会いしたことも電話したこともありませんが、私が運営している自殺防止サイトへの書き込みが切欠でメールの遣り取りをしていました」
「自殺……」
「ええ。それで、様々なことをミズホさんから聞きました。家のことや、貴方方ご両親のことも」
 イノリは隣の赤松にそっと「全部嘘ですよね?」と耳打ちし、赤松に「十中八九な」と返される。道中にそんな話は聞いていない。娘が両親を殺そうと思っていたことしか、二人は聞いていない。
 青沼は家主とその妻の顔を見比べる。
「失礼ですが、お二人とも現在は何かお仕事を?」
 彼の問いに夫妻は嫌悪を示し、曖昧な返事をした。青沼のほうもそれを予想していたらしく話し続ける。
「三年前に父が会社をリストラになり、母は結婚以来一度も働きに出たことが無い、とミズホさんは私に話してくれました。二人は頭が変になっていて、そのせいで自分が学校を休んで働かなければならないと。随分悩んでいるようでした」
 夫婦の顔色が悪くなっていくのをイノリと赤松は見ていた。てっきり彼等は自責の念に駆られているのだと、イノリは思った。青沼の言葉は続く。
「御母上はミズホさんを、些細なことで叱ってはよく折檻していらしたようですね。顔に痣が残り、指が変形する程に」
 彼の言葉を聞いて二人は状況がおかしな方向に進んでいると気付いた。青沼は尋問の真似事をしている。何故そんなことをするのか分からない。妻は凄まじい形相で青沼を睨んでいる。
「嘘ですよそんな話! あの子は昔っからそういう嘘を吐いて人の気を引こうとするんですよ!」
 がなり立てる妻に青沼は一瞥だけを返して、次は家主に目を向けた。
「お父上が最初にミズホさんを強姦したのは小学生の時だった、と伺っております。以来毎晩、部屋に入ってくるとも」
 イノリは居心地が悪い。青沼が淡々と冷たい声で話し続けるのを聞いているのも、家主の夫婦が怒りに顔を赤黒く変色させているのを見るのも、嫌な気分になるだけだった。
「なんだよ、単なるゴミ共じゃねぇかよ。つまんねぇな」
 赤松が嘆息する。一連の話を「つまらない」の一言で済ませられる社長にイノリは信じられないような気持ちになる。最悪な空気を生み出した張本人である青沼は能面のような顔のままだ。彼は気怠げに首を曲げて骨を鳴らす。
「アンタは娘のデタラメな話を信じるのか?」
 家主が訪問客を睨んでいる。今にも飛び掛かってきそうな夫を青沼は一笑に付する。
「ええ。彼女が如何にお二人を殺したいのか、伺っていましたから」
 夫妻が目を見開いた。青沼は彼等を観察している。
「ミズホさんからの連絡が途絶えたのは『今日二人を殺します』というメールが送られてきてからすぐでした。貴方方はあの夜に彼女を、見事に返り討ちにしたんですね?」
 夫妻が罵詈雑言を並び立てる。青沼は数十秒聞いていたが、飽きたのか湯飲みを持ち上げる。そして中身を卓の上へと撒ける。蠅の死骸が落ちる。青沼は湯飲みを振り下ろして蠅を潰した。夫妻はそれで静かになった。
「娘さんは自分を奴隷だと仰っていました。身の回りのことも、違法風俗でのアルバイトも、全て両親の為だと。父親はリストラ以来事実から目を逸らして家長面、母親は生まれてこの方娘のことを婢だと勘違いしている、と」
 青沼は「最初に聞いた時は私も何のお芝居かと思いましたよ」と心にも無いことを言う。彼の言葉は止まらない。
「家の中や貴方方の身形が荒廃しているのは、娘さんを殺したから、やってくれる人間を殺したからなんですね。なんともまあ、業の深いことで」
 青沼はゆっくりと立ち上がる。それからイノリを振り返った。
「尾上さん」
「ひぇ、ひゃい!」
「幽霊はいましたか?」
 上擦った声で返事をしたイノリはその問いにも否定を返したが、ふと目張りされた襖のほうに目を向けた。青沼は「成る程」と頷いて襖に貼り付くガムテープを剥がす。夫妻が彼を止めようと立ち上がり掛ける。赤松が持っていたバールをテーブルに振り下ろせば大人しく座り直した。彼の行動にイノリも驚いて腰を抜かしていた。
 ガムテープを取り払い終え、青沼は襖を開ける。悪臭が一層キツくなる。イノリの想像通り、その部屋は六畳程度の部屋だった。大きなカーペットが畳を覆っている。壁は全て板張りされていた。イノリはてっきり、その部屋も自分達がいる部屋と同じ漆喰の壁なのだと思っていた。青沼は部屋の中へと入っていく。ぐるりと部屋の中を見回し、壁に近付く。
「ミズホさんは何処にいるのだろう。若い娘がこんなところで腐っていくなど、全く哀れなことだ」
 青沼は何とも思っていない声でそんなことを呟きながら、壁を叩いていく。とん、とん、とん、とん、と端から順番に軽く拳で叩いていく。そしてある一カ所で音が変わった。青沼は一歩下がり「赤松」と兄を呼びつけて顎で示した。赤松はかったるそうに立ち上がり、バールを持って傍に行った。
「良いのか?」と赤松は最終確認する。青沼は「やれ」と返す。兄は肩を竦め、バールを壁に思い切り打ち付けた。
 板張りの壁が割れた。再度打ち付け、板を剥がした。二枚ほど剥がしたところで、悪臭の本当の原因が姿を現した。赤松が長い溜息を吐いたのが聞こえた。彼が頭を掻きながら後ろへ下がる。お陰でイノリにも「ミズホ」の姿が見えた。
 女と思しき死体が割れた板の間から覗いていた。死体は腐り果てていて長い黒髪と僅かに残っている目鼻立ちから、女と推測するしかない。死体は漆喰塗りの壁を掘ったその中にいて、上から板で覆われていた。ゴキブリが死体の顔や体を何度も往復している。
家主とその妻は悪態を吐いて頭を掻き毟っている。「この人達、反省してないんだな」とイノリは気付き、背が泡立った。
「おや、おや。これはこれは」
 洞穴から発せられたような青沼の声がイノリにはどんどん耳障りになっていく。家主達のほうを向いて青沼は両手の指を組み合わせる。「警察を呼ばなくてはいけませんね」と彼は言って、赤松に呼ばせる。赤松は嫌そうな顔をする。
「お前が呼べば良いだろ」
「私は不動産屋のほうに連絡を入れる。早くしろ」
 仕方が無いというように赤松は「臭ぇから外で掛けてくるわ」とすたすたと歩いて出て行ってしまった。家の中にはイノリと、家主夫妻と、青沼だけだ。青沼もスマートフォンを取り出して不動産屋に電話を掛けた。相手が出ると「終わりました」とだけ告げて切った。そして、待ち侘びたように家主と妻を見た。
「私は、娘さんと約束していました。それを貴方方が台無しにしてしまった。だから私はとても、腹が立っている」
 イノリが彼に視線を向けていると、青沼の足元にある黒々とした影が波打っていた。ぱしゃ、ぱしゃ、と水面のように。白い顔が影の中に競い合うようにしながら浮かび、それからドッ、という重量のある音がして青沼が立っているすぐ脇の畳に黒い泥の手形が付いた。ドッ、と音がしてまた手形が付く。手形には指が六本あった。
 「あっこれ怖いやつだ」と気付いたイノリの体が強張る。家主と妻は何も気付いていない。イノリや赤松とは違って、この異常な事態に「普通」だから気付くことも出来ない。
 ドッ、ドッ、と黒い手の痕は青沼の周囲を回る。うろうろと、獲物を探すようにぐるぐると、葬儀屋の周りを手形は歩いている。
 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッドッ、ドッドッ、ドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッ。
 手形は凄まじい速さで回っている。不吉な程に。
「さて、貴方方には彼女の代わりなってもらわなくては」
 青沼が虫か何かを見るような目で夫妻を眺めている。
「あ、あの、せ、青沼さん……」
 イノリは恐る恐る話し掛けるが、「お静かに」としか言われなかった。その間も不吉な音と手形は止まらない。
「か、代わり?」
 家主は聞き返す。青沼の周りを歩き回っていた手形が止まった。青沼が答える。
「ええ。ミズホさんの代わりです。そしてこれは彼女の望みでもある」
 再度、ドッ、という音がして手形が付く。それは青沼から少し離れたところに付いた。ドッ、とまた手形が付く。ドッ、と手形が付く。青沼の傍を徐々に手形は離れていく。イノリはやっと分かった。手形は青沼から離れて行き、自分と夫妻のほうに近付いて来ていると。
「これから何が起こるのか、お二人は分かりますか? 娘殺しとして世間に吊し上げられるんです。これまでしてきた陰惨な所業と共に」
 夫妻が狼狽える。恐怖している。娘を殺したことよりも世間に罪が露呈することを恐れている。手形はドッ、ドッ、と音を立てて夫妻へと近付いていく。
「娘さんは私に約束してくれました。『無理心中を見せてあげる』と。私はそれがとても見たかったのに、貴方方が台無しにした」
 とうとう、手形が夫妻の前にあるテーブルの上にバンッ、と付いた。イノリは後退りして部屋の隅まで逃げた。青沼が懐から煙草を取り出して一本吸い始めた。深く吸い込んで吐き出した紫煙が白かったので、イノリは不思議だった。口の中はあんなにも真っ黒なのに。青沼の額からタールのようなモノが垂れてくる。頭上から撒けた泥を被ったように落ちてくる。彼は夫妻に問いを投げ掛けた。
「全く、貴方方はよくもそこまでの恥を晒して生きていけるものだ。面の皮が厚いから長いこと牢の中で、愚かな身の内で生きていくことなど恥ずかしくないのか?」
 黒い手形が勢い良く家主の顔に付く。激励のように。洗礼のように。家主と妻は歯を鳴らして震えている。惨めな未来が余程恐ろしいようだった。葬儀屋が煙草を銜えて彼等を眺めている。今度は妻の肩に黒い手形が付く。促すように。急き立てるように。
「さあ、どちらが先だ?」
 彼の言葉に弾かれたように、先に夫のほうが発狂したようにしかイノリには見えなかった。一瞬の間に黒い手形や泥は綺麗に消え去っていた。
 突如絶叫した夫は妻を突き飛ばして台所へ駆け込み、流しから文化包丁を取ってくると妻に突き立てた。妻は悲鳴を上げて夫も体を撥ね除ける。妻は妻で手近に置かれていた急須で夫を殴打する。夫は怯むも再度妻を刺す。居間に悲鳴と怒声が交互に響く。獣のような有様だった。
 目の前で突然始まった修羅場にイノリは呆然としていた。夫妻が自分に気付かないことだけを祈っていた。夫が妻に馬乗りになって体を滅多刺しにしている。妻の絶叫は段々血の泡で濁っていく。それを前にして彼は無力だった。
 イノリはこれを引き起こしたであろう青沼をそっと見遣る。彼の顔を見て、イノリは「どうしてそんな顔をするのだろう」と思った。イノリは苛烈に死に至る二人を眺める青沼の表情を見て、「そんな顔をしないで欲しい」と思った。
追い立てる死を前にして、桜の蕾が綻んでいるのを見つけたような顔をしないで欲しい。戯れ合う幼児達を見守るような顔をしないで欲しい。道端に咲く野花を眺めるような顔をしないで欲しい。砂浜で美しい色硝子の破片を光に透かしたような顔をしないで欲しい。今まさに目の前で起きている惨劇は、そんな顔で見て良いものではない。
 妻が絶命すると、夫は血と脂で滑る包丁を自分の腹に突き立てた。「ひぃー、ひぃー」と泣きながら何度も自身の体を刺している。彼が死ぬ頃には部屋が血の海だった。青沼は夫妻が死ぬと「三人のほうが良かったな」と感想を呟いた。イノリは疑問を口にした。
「なんで、こんなことしたんですか?」
 イノリの問いに青沼は一瞬宙を眺めて思案し、「人が死ななきゃ面白くないでしょう?」と返した。どうやってこの場から逃げ出そうかとイノリが思案していると赤松が戻ってきた。
「なんかスゲー声聞こえたぞ。何してんだ?」
 警察が到着するまで通話を続けなければならない赤松はスマートフォンを片手に持ったまま、居間に入ろうとして夫妻の死体を見た。彼は「うおっ!?」と驚いて飛び退く。
「死体増えてんじゃねぇか……」
「しゃ、社長ー! 俺もう帰りたいです! やだ! もうやだこの人! もう普通に怖い!」
 四つん這いで彼のところまで這っていったイノリは雇い主の足に縋る。赤松は適当に返事をする。
「アーハイハイ、多分事情聴取とかあるからまだ帰れないぞ」
「ギャアー! イヤだー!」
 遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。イノリはまだ家に帰れない。

 事情聴取は青沼が殆ど一人で話し、イノリは「ソウデス」と頷く係だった。赤松は会社を一日空けたことで事務員のアクルに電話で絞られた。三人が解放されたのは夜だった。「夕食でも」と言い出したのは青沼だった。昼食は事情聴取やら現場検証やらで食い損ねていた。赤松とイノリが顔を見合わせて逡巡していると腹の虫が鳴いた。イノリはラーメンかな、と思っていた。青沼が選んだ店は彼の予想外だった。
「…………なんで焼肉屋なんですか」
 じゅうじゅうと肉が焼ける音がする。目の前にある網の上で肉が煙を上げて焼けている。高級焼肉店で三人は和牛カルビを囲んでいる。
 青沼はトングで肉をひっくり返し、赤松はメニューを片っ端から店員に注文している。
「今日のことで『そういえば最近焼肉食べてないな』と思ったので」
「いやならないでしょ」
 青沼がイノリの皿に肉を入れてくる。「代行呼ぶから飲んで良いぞ」と赤松はイノリに酒を勧めてくる。イノリはとてもそんな気になれない。
「社長も青沼さんも、よく食べる気になりますね」
「オイ青沼テメー俺が育てたカルビ食うんじゃねぇ!」
「煩いお前は黙って炭の煙でも吸っていろ」
「ねぇ俺の話聞いてます!? いちいち喧嘩すんの止めてくださいよ!」
 店員が追加の肉を持ってきたところで一瞬静かになる。兄弟にうんざりしてイノリの口から溜息が出た。
「青沼さん、ホントに幽霊とか変なモノ、見えてないんですか? あんなことしといて」
 そう問われて青沼は豚トロを飲み下す。
「生まれてこの方そういったモノを見たことはありません。それに、『あんなこと』とは?」
「あの夫婦に、む、無理心中させたじゃないですか」
「警察の方にもお話しした通り、私は何もしていませんよ。ただ『話した』だけで」
 事情聴取で青沼は「メールで相談を受けていた女子高生から虐待について打ち明けられた後、連絡が付かなくなり心配になった。不動産屋にも相談を受けていたので、家屋の取り壊しに掛かる見積もりをしてもらおうと身内の解体業者も連れて来た。あまりにも異臭がするので壁を壊すと死体が出て来た。解体業者が通報していると家主夫妻が無理心中を図った。青沼とイノリは止めることが出来なかった」と話した。警察には随分と怪しまれたがイノリには訂正出来なかった。まさか「青沼が黒い手形を使って人を殺した」などと、言って信じて貰える話ではない。
「やっぱりお前ロクでもねぇことしてんじゃねぇか」
 赤松が大盛りの白米を掻っ込みながら言う。網の上の肉を殆ど掻っ攫っていくのでイノリは次から次へと肉を焼かなければならなかった。青沼は何てこと無いような顔で返した。
「私はただ、無理心中が見たかっただけだ。折角の彼女を申し出をあの夫婦が無駄にした」
「やっぱガキの時分から何も変わっちゃいねぇなお前は。気に入らねぇことがあるとすぐキレる」
 兄の言葉を無視して青沼は胡乱な顔で食事を続ける。自暴自棄になったイノリが酒を頼む。
「そういえば尾上さんご存知ですか?」
「え、何ですか?」
「人間が焼死した場合、全身の筋肉が拘縮して体が丸まるんです。ボクサー体勢と言うんですが」
「なんで焼肉してる時によりにもよってその話するんですか!?」
 怒るイノリを見て赤松は青沼に「お前尾上さんに八つ当たりすんなよ」と呆れる。店内にイノリの怒声が響いた。
「転職大失敗! 人生クソ!」



3. 明くる朝には皆死体


 ふと、アクルは深夜に目を醒ました。鈍い頭痛がする。窓の外で雨の降りしきる音が聞こえている。このところ夏の長雨が続いていた。クーラーの動作音が静かに響いている。ぼんやりとした視界に、テレビやDVDプレーヤーの電源を繋いだ延長コードから飛ぶタップの光が間接照明のように色を付けている。ズキンズキンと脳の中で血流が暴れ回っている。アクルは舌打ちをして、ベッドの枕元に置いてあるはずのスマートフォンを手探りで探した。指先に触れた携帯を掴んだ。時間を知りたかった。
 顔の前に持ってきたスマートフォンの電源を入れる。パッと顔の前が明るくなる。時刻は午前二時過ぎ。光源となっているスマートフォン越しに生気の無い男の顔が見えた。蛇の目が二つ、彼女の顔を見ていた。
 一瞬アクルは息を呑み、溜息を吐いて舌打ちした。そして携帯の電源を切って二度寝した。頭痛は大抵明け方まで続く。


 翌朝。アクルが出勤すると社長である赤松に、新入社員であるイノリを連れて客先へ行くよう頼まれた。
「悪いんだけどよ、ちょっと現場行かなきゃいけなくなったからよ、代わりに御中元置いてきてくれ」
「別の日じゃ駄目なんスか?」
「流石に当日ドタキャンすんのも気が引けるしな。それに向こうの都合も今日の午前中しか空いてねぇんだ。明日から早めの夏期休業に入るからって」
 アクルはそれを聞いて腕を組み、首を傾げた。ざらざらとウルフカットの黒髪が流れてピアスで埋め尽くされた耳殻が現れた。
「……人選については、意図ありません? 尾上さんだって一人でお使いくらい出来ますよ」
「え、なんかダメな子扱いされてません?」
 イノリの抗議はすんなりと無視されて、赤松は頬を掻いて「あー」と逡巡の後に応えた。
「我が家の『山の神』からのお告げだよ。『新人、怖い目に遭うから気を付けなよ』だと。俺は現場回りあって無理だからアクル以外っつったらクエさんだけど、クエさんは安衛協で一日埋まってるし」
 「悪いんだけど頼むよ」と赤松は手を合わせる。それを聞いてアクルは「じゃあ仕方ないッスね」と肩を竦め、イノリは首を傾げた。
 アクルとイノリは午前中に客先へ行くことにした。イノリは背広姿、アクルは事務服の上に作業着を羽織って出て行った。

 客先には駐車場が無いということで、少し時間は掛かるが電車で向かうことにした。幸い、駅から歩いて程近いところにあると言う。大きなターミナル駅で乗り換えるのだが、あまりこの駅を利用しない二人は出る出口を間違えた。巨大なターミナル駅は出口があまりにも多い上に改札も数多あるので、本来出るはずの改札の、よりにもよって真反対に出てしまった。イノリとアクルは「やってしまった」と天を仰いだ。
 気温が高いせいでイノリはジャケットを手に持ち、反対の手で御中元の入った紙袋を持たなくてはいけなかった。御中元の中身はビールなのでそこそこ重い。汗を流す彼とは対照的に、アクルは丈夫な布で作られた分厚い作業用の上着さえ脱がなかった。冷房が良く効いた室内にでもいるように平然と夏日の下に立っている。イノリはそれについてあまり深く考えなかった。
 目的とは真反対の改札に出てしまった二人だが、少し時間は掛かるが駅の周りをぐるりと回れば乗り換えられる。時間にはまだ余裕があるので、イノリ達は駅の外周を回ろうと歩き出した。ふと、イノリの足が止まった。何となく見ていた風景に、何となく違和感があった。「なんだろうな」と彼は辺りを見回した。
「どうかしました?」
 アクルは前を歩いていたイノリが足を止めたので訊ねる。彼は「いや、なんか」と曖昧にしか応えられないままにキョロキョロしている。駅の改札が見えた。ガラス張りの観光案内所。並ぶ券売機。多くの人が行き交う出口。ホームの壁際や、柱の傍には誰かを待っているらしい人の姿がある。特に珍しくもない光景。何かが変だ。
 イノリの視線が止まった。
 壁に背をぴたりと付けるようにして小柄な老人が立っていた。着古したポロシャツとチノパン。大きなボロボロのリュック。ホームレスにも思えた。老人は真っ白な頭を地面近くまで下げていた。腰を直角に曲げて。不自然なほど微動だにせぬまま。
 背中に悪寒が走って、イノリは思わず「うわっ」と声を漏らした。アクルは怪訝そうな顔をしている。
「なんです?」
「えっあ、いや、いやあの、なんか、あのおじさん変じゃないですか?」
「は?」
 アクルはイノリが見ているほうに目を向けようとして、途中で止めた。何かが彼女の上着の裾を引いたからだ。くん、とそう強くは無い力で裾を引かれた。アクルは顔を顰めてそれを意識しないように務める。頭痛が始まる。
「尾上さん、ソレ無視してください。ちょっかい掛けられても厄介ですから」
 アクルはイノリの腕を掴んで引っ張る。
「具合が悪い人だったらどうするんですか?」
「具合悪い人だったらもう少しリアクションしますよ」
 強く手首を掴まれたイノリは振り返った。そして悲鳴を飲み込む。
 アクルの右肩に、「人間としては大き過ぎる」男の手が乗っていた。腐った死人の手だった。
「あ、あく、アクル、アクルさん、かっかっ肩ッ」
「…………認識すると喜ぶんでそれ以上言わんでください」
 地の底を這うような声で答えるアクルの顔は真っ青だった。男の手はぐうっ、とアクルの肩を掴む。彼女はそれを無視する。
「尾上さん、そのおじさん、今どうなってます?」
 そう言われてイノリは老人を伺う。老人の頭が僅かに上がっていた。
「なんか、顔見えそうです」
「駄目なヤツですね。タクシー乗ります。多分ついてきますから」
 正直、イノリは老人よりもアクルのほうが気掛かりだった。ふらつかずに立っているのが不思議なほどに、顔色が悪かった。自分の手を引いている彼女の手はどんどん冷えていく。ひょっとしたら次の瞬間死ぬのではないかと思ってしまうほどに。
 心配するイノリを引っ張って、アクルは駅の正面にある道路まで行きタクシーを停めた。二人で乗り込んだ後は彼女が運転手に行き先の住所を告げた。イノリは、不安になって窓の外を見てみた。
 すぐ外にあの老人が頭を垂れて立っていた。
 イノリは口を塞いで悲鳴を上げないようにした。タクシーが走り出す。老人の姿は遠離っていった。
「こ、怖かった……」
 緊張が解けたイノリの体はぐったりと前へ倒れる。項垂れた彼は「これが社長の言ってたヤツかな」と思った。そしてアクルのことが心配だったのを思い出した。
「アクルさん、大丈夫ですか?」
 顔を上げたイノリは今度こそ「ギャア!」と悲鳴を上げた。
 隣に座るアクルの肩に男の手が乗っていて、ギリギリと彼女の肩を掴んでいた。生々しいまま渇いた爪が彼女の服に食い込んでいた。
 イノリは後退りしようとしてドアにぶつかった。アクルは未だに青い顔で窓の外を眺めている。今にも泣き出しそうな年上の後輩に、彼女は瀕死の状態のまま言った。
「尾上さん、なんか……適当に……駄弁っててください、かいわ、会話しましょう……気が紛れるから……畜生、うざってぇな……」
 凶相の彼女は死体の手と同じくらい怖い。そう思ってイノリは「あーあー!」と無意味に発声練習をしてから話し出した。
「そっ、そう、あのッ! やっ山の神! 山の神ってなんですか!?」
「ああ……山の神……山の神スね……」
 タクシーは速度を落とさず進み続ける。アクルが告げた客先の住所を目指して進んでいる。気怠げな彼女は返答する。
「山の神、というのは、『奥さん』の類語みたいなモンですよ……社長が使えば、社長の奥さんを指すんです……」
「なっなるほど~~! へ~~! 知らなかった~~!」
 タクシーは大通りから住宅や小さなビルが並ぶ通りへと入っていく。目的地まであと少しだった。イノリは恐怖に耐えながら会話が途切れないように続ける。相変わらずアクルの肩には男の手が乗っている。加えて、彼女の顔を真っ黒な影が覗き込んでいた。
「社長の奥さんかぁ~! 全然想像出来ないな~! でも料理上手ですよねぇ~!」
「スッゲーおっかないですよ、奥さん、リセさんは、いや、美人なんですけど、怖いんですよ……なんで人間の形してんだろって感じで……」
「へ~~! 社長みたいですね~~!」
「社長はホラ、元気なヤクザみたいなモンなんですけど……リセさん、下僕増やす系の神様みたいなんですよね・・・・・・尾上さん、社長の弁当、食ったでしょ?」
「あ、あ~! 前に確か、アクルさんが、『ヨモツヘグイ』って言ってたやつですね~! 俺あの後調べましたよ~! すごい食べちゃ駄目なヤツじゃないですか~!」
「尾上さん、変なテンションになり過ぎて目ェラリってきてますけど、大丈夫ですか?」
「全然大丈夫じゃないです! メチャクチャ怖いです!」
 タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。
「……私も、初日にあの弁当食べましたよ」
 アクルがボソリと呟いた。イノリが「そうなんですか」と返すと彼女は深い溜息と共に言葉を続けた。
「『黄泉竈食ひ』というのはその通りで、リセさんの手料理を食べると、リセさんの一族っつーか、使用人に数えられるみたいで・・・・・・強制的に従属関係が発生するんですよ・・・・・・トップがリセさん、次に社長で、以下愉快な下僕達になります・・・・・・」
「ほ、他に食べた人っているんですか……?」
 タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。
「いますよ。クエさんは嫁ガードがキツいんで食べてないって本人が言ってましたけど、新入社員の殆どに社長が食べさせてますね。リセさんの命令で。クエさんもかなりのモンですが、社長は輪を掛けた恐妻家ですよ」
「こ、こわ……」
「多分、尾上さんもリセさんに遭ったら分かります。スッゲーおっかねぇって」
 タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。
「…………あの、アクルさん」
 顔面蒼白で、滝のように冷や汗を流しているイノリは彼女を呼んだ。
「なんか、おかしくないですか? 現在進行形で」
 タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。
「尾上さん……気付くの、遅くないスか?」
 アクルは呆れたような声で言った。
「なんだったら、最初に尾上さんが叫んだのに、タクシーの運転手さんが反応しなかった時から変でしたよ」
「えっあっ」
 タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。
 イノリは泣きそうな顔で過呼吸寸前の状態に陥る。アクルは彼とは反対に現状に順応して、顔色も落ち着いた。肩に食い込む手や覗き込んでくる影は未だに煩わしい。煙草を吸えばすぐにでも追い払えるのに、と彼女は忌々しく思った。アクルは自分に付きまとう「それ」への対処が分かっている。
 タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。
「これだと、約束の時間に遅れるな……」
 アクルは諦めた心地で息を吐き、目を閉じた。
「アクルさん助けてください!」
 イノリが悲鳴を上げる。
 タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーが。タクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーが。タクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーが。タクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーが静かに停車した。
 イノリは「気絶したい」と心の底から願ったが、全く意識を失わない。喪服姿の女が後部座席の窓を覗き込もうと身を屈めるのがあまりにも恐ろしくて瞼を閉じることも出来ない。本能的に理解していた。「女の顔を見たら駄目だ」と。
 隣のアクルは落ち着き払って、まだ目を閉じている。
「どうか私達を助けて下さい。お礼に背中の皮膚を一部差し上げます」
 アクルが頭を垂れて祈る。すると彼女の肩を掴んでいた手は離れ、顔を覗き込んでいた影も消えた。
 イノリが「あっいなくなった」と思った次の瞬間、タクシーのフロントガラス一面に黒い何かが飛び散った。
「ギャアッ!」
「うわっ! な、なん、どうかしましたか?」
 叫んだイノリに驚いた運転手が振り返る。気付けば、タクシーは目的地に着いていた。心配そうに後部座席の客達を見ている運転手は親切そうな初老の男性だった。まだ心臓が跳ね回っているイノリは喪服の女が消えたことを察した。隣に座っているアクルが、痛みに耐えるような表情で料金を支払った。
「お世話様でした。ほら、尾上さん降りますよ」
 彼女に促されてイノリも降車する。走り去っていくタクシーに不審な点は何もなかった。イノリは安堵の溜息を吐き出した。
「こ、怖かった~……」
「最悪の行きずりでしたね。尾上さんがビビるせいで駅から着いてきたんですよ、アレ」
 アクルの言葉に彼はうんざりしたような顔しか出来ない。アクルは気分が落ち込む彼に気にしない。
「尾上さん、ちょっと見てもらいたいんスけど」
 そう言って彼女が上着を脱ぐ。制服である長袖の白いシャツと黒いベストに包まれた背中をイノリに向けた。言われて見たイノリは、アクルの着ているシャツに赤い染みが出来ていることに気付いた。染みは徐々に大きくなっていく。
「えっ!? アクルさん怪我してますよ!? どうしたんですか!?」
 彼の言葉を聞いてアクルは「あー」と項垂れる。上着を羽織り直して、彼女は「やれやれ」と頭を振る。首を曲げてバキバキと音を立てる。
「取り敢えず、御中元の挨拶済ませて、帰りましょう。帰りはタクシー使いますか。電車乗るの怠いんで」
「えっ? いや、いや教えてくださいよ怖いから!」
 アクルが舌打ちする。それだけでイノリは黙る。
「長い昔話になるんで、会社帰ってからにしましょうか」
 彼女はそう言って、煙草を取り出して銜える。火を点けたピースは深く吸い込んだせいで一気に短くなる。アクルは白煙を吐き出しながら客先のチャイムを鳴らす。

 アクルは今でさえレンズの分厚い眼鏡を掛けて耳にピアスを大量に開けているが、入社当時は裸眼で、耳も綺麗だった。酒も煙草もやらなかった。声が男のように低いのは元からだった。生育環境のストレスに因るものだった。
 有り触れた境遇だが、アクルはゴミのような家庭環境に生まれ、暴力と面罵によって育てられ、殺される前に家を捨てた。高校の時は寝る間を惜しんで日雇いと勉学に励み、資金と奨学金と学校推薦を得て大学に進学し、給与と福利厚生の面に引かれて「国定興業株式会社」に入社した。身元保証に関して殆ど確認されないことも就職の決め手だった。それと、自分の顔写真を見ても書類選考で不合格にしなかったことも。


 面接試験の時、社長だという男一人だけだった。まだ三十過ぎの男で、顔には左眉から目尻に掛けて傷が走っていた。ガタイの良いチンピラのような見た目をしている社長は「国定 赤松です」とニコニコしながら挨拶した。強面だが人の良さそうな雰囲気を纏った彼にアクルは一先ず安心した。履歴書を渡して、面接が始まった。
「じゃ、自己紹介お願いします」
「阿久留…………アンナマリアリーゼロッテです」
「……んん? アンナマリ……? ん? 履歴書の名前、四字熟語書いてあるけど?」
「四文字熟語の『翼(よく)覆(ふ)嫗(う)煦(く)』と書いて、読み方は『アンナマリアリーゼロッテ』です。履歴書に書いてある通りです」
 赤松は「へぇ~こういうルビの振り方あるんだな~」と何故か感心している。アクルはこういったことに慣れていた。子供を殴るのが趣味の親なので、変な名前を子供に付けても仕方が無い。赤松は「俺も寺の子供に生まれたから珍しい名前なんだよ」と笑った。
 大学での専攻を聞いたところで社長は頷いた。
「じゃ、採用っつーことで」
「え?」
「え?」
「いやあの、なんかこう、もっと、質問事項があるものじゃないんですか?」
 アクルの疑問に赤松は首を傾げる。
「そうなのか? ウチはいつもこんな感じなんだけど。働く意思があるタイプと逃げ場が無いタイプは大体採用してる」
 ついでのように「他に受ける予定ある?」と赤松が聞いてきたのでアクルは「御社が第一志望です」と返した。「その採用基準はちょっと駄目なんじゃないだろうか」と若干引いた彼女だが採用して貰えるなら助かると思った。恐らく此処以外何処も受からないだろうとも思った。
 赤松は少し言い淀んで、アクルに訊ねた。
「あー、ちょっと聞くのも申し訳ないんだけど、どっか体悪いとことかある? 事故に遭ったとか?」
 アクルは咄嗟に自分の顔を右手で覆った。もう片方の手は背に隠した。彼女の手袋に包まれた左手は捻れていて、幾つかの指は普通より短かった。子供の時に回転するミキサーに親が無理矢理手を突っ込ませたからだった。
「すみません。ちゃんと化粧したつもりだったんですが」
「あ、いや別に顔の傷がどうとか手がどうとか言うつもりじゃ無かったんだ。無神経な聞き方したな、謝るよ。単に仕事の割り振り気を付けとこうって思っただけなんだ」
 赤松は「やってしまった」という顔をしていた。申し訳なさと罪悪感と自身への叱責が入り交じった顔をしていた。彼の態度を見てアクルは彼を「変に分かり易い人だな」と思った。文章に脚注を付けるように、自分の感情をいちいち態度や口に出して周囲に知らせて来る。さながらパントマイムのように。
 パッと見た時の印象が「チンピラ」だから敵意が無いことを大袈裟にアピールしなくてはいけないのだろう、とアクルは若干失礼な納得の仕方をした。
気を取り直してアクルは「大抵の事務仕事については問題が無いこと」「左手、両手では物を持てないこと」「元は左利きだが右利きになったこと」を話した。家庭環境のことは実家に帰る意思が無いこと以外何一つ話さなかった。
 採用ということで赤松は書類の手続きをしながら会社の制度などを説明してくれた。詳しい内容を聞いてアクルはある程度ブラックなことを覚悟した。福利厚生については家賃補助が管理費込みで十万円まで出て、引っ越し費用も出してくれるらしい。これは何か裏があると思わざるを得ない。
 そんなアクルの覚悟は入社初日に揺らぎそうになった。


 入社初日。定時が八時半と聞いていたのでアクルは早めに会社へ向かった。制服としての事務服はあるものの、好きな服装をして良いと言われていたので市販で一番大きいマスクで目元近くまで覆って出勤した。
 定時の一時間半前に会社に到着したアクルは玄関の前まで行って、男が立っていることに気付いた。男は酷く汚れた作業着を着ていた。
 大きな声を出さなくても話し掛けられそうな距離に近付くまで、視力は良いはずの自分が、見通しの良い会社の玄関前に立っている男に気付かなかった。その事実にアクルは「なんでだ?」と思った。どうして自分は気付かなかったのだろうか。
訝しむアクルだが男に声を掛けた。同じ新規入社の人間か、もしかしたら先輩社員かも知れない。
「あの、すみません」
 アクルが声を掛けると男はゆっくりと振り向いた。
 振り向いた男は顔がドロドロに崩れていた。だらりと垂れ下がった眼球でアクルを見た。
 明らかな死体と対面したアクルの第一声は「うおっ!?」であり、感想としては「気持ち悪ィな」だった。彼女が後退ると、作業服の男は開いた分だけ距離を詰めてきた。新入社員への悪戯かと考えたが、男はどう見ても死んでいる。理解の追い付かないアクルは眉を寄せる。男はまだ近付いてくる。伸ばしてくる手に蛆が這い回っていた。
 不快感からやって来る忌避の感情に従ってアクルは逃げようとした。彼女の腕を男は掴んだ。冷たい、湿った肉の感触がした。不快感がアクルの背を駆け上ってきた。瞬間、アクルの脳は怒りに煮えた。
 衝動的に怒声を吐こうとしたアクルだったが、彼女の喉から声が出る前に横槍が入った。何かが顔の横を掠めて飛んできた。猛烈な速度で飛んできたのはコンクリートブロックで、男の溶けた顔に激突し、それにより男の頭は水気を多く含んだ音を立てて弾けた。頭を失った体は倒れた。
「…………なんだこれ」
「おっ! 朝早いなぁ!」
 背後、即ちブロックが飛んできた方向から聞き覚えのある声がした。アクルが振り返ると赤松が立っていた。彼は快活な笑みを浮かべて歩いてきた。
「まだ全然時間早いぜ? どうした、眠れなかったのか?」
「えっあの、いや、ちょっと説明してもらいたいんですけど」
 アクルがあまりにも普通に訊ねてくるので赤松は目を瞬かせた。頬を掻きながら、彼女の隣を通り過ぎて倒れたままの首無し死体を思い切り踏み付けた。熟れた桃が潰れるように、汁っぽい何かを飛ばして死体は黒い靄となって消えた。赤松は「きったねぇな~」と悪態を吐いて靴底を地面に擦り、アクルを見た。別人のような顔をしていた。
「見えたか?」
 アクルは雇い主の足下に目を向ける。風に流されたのかもう何も残っていなかった。少し考えて、アクルは返した。
「さっきまで其処にいた、『何か』のことを言ってるんですか?」
「おっ、やっぱり見えてたか!」
 赤松は元通りの明るい顔で喜んだ。困惑が続く新入社員に、中に入るよう彼は促した。


 業務の説明がてら、赤松は雑に説明してくれた。アクルを除けば会社に常駐しているのは赤松と労安のクエという社員の二人。今日はクエが夜勤明けで午後から出勤してくることになっていた。朝は大抵いつも何かよく分からないモノがいるので、赤松は誰よりも早く出勤して始末しているらしい。他にも現場に出て悪さをするモノがいたり、元々其処にいて邪魔をしてくるモノがいる。その度に赤松は出張っていって殺すのだそうだ。この辺りまで聞いてアクルは「うーん、会社辞めたいな」と思った。
「まあ『殺す』って表現が正しいのか分かんねぇけどさ」
 昼休みになって赤松は大きな重箱の弁当を広げながら言った。かなり量の多い弁当だが社長一人で食べる分では無いらしい。アクルは打ち合わせスペースにあるテーブルに座らされ、綺麗な紙皿と割り箸を渡されて赤松の弁当を勧められた。
見知らぬ誰かの手作りに抵抗は無かったので、アクルは促されるままに唐揚げを取って食べた。味覚が鈍麻している彼女は義務的に「美味しいです」と言った。赤松の視線が少し気になった。アクルが怪訝な顔をしていると赤松はすぐに人の良さそうな顔になる。
「嫁さんの弁当、旨いか?」
「はいとても。優しい奥さんですね」
「凄いぞ、食ったヤツは言うこと聞くしか無くなるんだ」
「えっ?」
「悪い意味で『胃袋を掴む』んだよなぁ。黄泉竈食ひみたいに、食った人間の根本に影響するんだ」
 アクルは箸を置いた。胃に入れたモノを全て吐き出したくなった。アクルの内心を察したのか、赤松はニヤニヤと嫌な顔をしている。
「『意味分かんない』とは言わないんだな」
「朝のアレ見たら、何言われても否定出来ないッスね。黄泉竈食ひが出るとは思わなかったッスけど」
「おっ! オカルトに詳しかったりするのか?」
 機嫌の良い赤松の問いにアクルは「まあまあ」と答える。現実逃避の先がインターネットだった。様々なコンテンツの中でアクルの興味を引いたのがホラー関連で、感情が鈍くなったアクルの精神に刺激を与えてくれるものだった。お陰で若干詳しくなっていた。
 機嫌良さげに赤松は言う。
「今日の夕方ってなんかあるか? 残業頼みてぇんだけど」
「…………残業って言うのは」
「一緒に解体予定のビル見に行こうぜ。曰く付きなんだ」
 アクルは「嫌です」と言いたかったが、先に赤松に言われてしまった。
「行くよな?」
 有無を言わせぬ強制力を伴った問いに、アクルは素直に「はい」と答えていた。弁当を食べなければ良かった、と思った。


 そして定時になり、アクルは赤松に連れられて解体予定のビルに連れて行かれた。助手席でげんなりしているアクルは赤松に訊ねる。
「で、どんな曰くがあるんですか?」
 車が走っているのは地方都市の大通りで、明るいし人通りも多かった。心霊スポットがあるとは思えない暢気な街に見える。赤松はパーキングを探しながら答える。
「なんかよ、首無し男が出るんだと」
「首無し男」
「そんで出会した人間に『俺の首は何処だ?』って迫ってくるっていう」
「迫ってくる」
「確かにだーいぶ昔に殺人があったっていうんだ、そのビルでな。ヤミ金が入ってて、その債権者だか貸してたチンピラだかが殺されて首切られて、で、ソイツがビルに出るんだと。お陰でビルのテナントはどんどん出て行って廃墟になって、とうとう解体することになったわけだ」
「殺人」
 コインパーキングがあったので車を駐めて、二人は件のビルへと向かう。懐中電灯を持った赤松が、もう片方の手にバールを持っているのがアクルの不安を煽った。
 進むに連れて、歩いている道路の幅がどんどん狭くなっていき、街灯の数も少なくなっていく。歩きながら、アクルはあれこれと考えていた。
「なんで、首が無いのに『首無し男』なんスか? いや、服装見れば分かるってのはありますけど」
「あー、全裸なんじゃねぇの? 知らねーけど」
 赤松は話の細部にあまり興味が無いらしい。「全裸は嫌だな」とアクルが思ったところで、前を歩く男の足が止まった。
「此処だな」
 言われてアクルが立ち止まり見上げると、如何にもな廃墟ビルが建っていた。六階建ての、隙間に建てられたような細いビル。風雨と排ガスで汚れた壁のビルは、既に窓ガラスは全て外されていて人の気配は無い。完全に死んでいるビルだ。
「…………で、何階に出るんスか?」
「知らねぇ。四階とかじゃねぇの?」
「雑ッスね」
 目的の階が曖昧のまま、赤松は施錠されている扉を開けてビルの中へと入った。アクルは近所のガキ大将に付いていく気分で彼の後を歩いた。頭の中でどんどんビルに出る「首無し男」の想像が膨らんでいく。もしかしたら全裸で、四階にいるかも知れない、「俺の首は何処だ」と言って迫ってくる幽霊。アクルは帰りたくなってきた。
 懐中電灯の光が照らすビルの中は埃だらけで、窓にガラスが無い為か、フロアは砂塗れだった。風の波紋しか無い砂の上に二人の足跡が残る。二人が歩く音だけがビルの中に響いている。
 階段を登りながら、彼女は赤松に訊ねた。目的の四階まであと少しだった。
「なんで私を連れてきたんですか?」
「俺だけだと出てこないんだよ。殴る気しか無いから察知されてんのかもな」
「…………もしかして殴りたいからこんなトコ来るんですか? あの黒い『何か』を? 私を囮にして?」
「俺の娯楽なんだよ。それにアイツ等いると仕事できねぇし。怪我人出たり人が死んだりするからな」
「娯楽て」
 頭痛がするアクルだったが、とうとう四階に辿り着いてしまった。赤松は彼女に懐中電灯を持たせる。
「いそうか?」
「いや分かんないッスけど」
 アクルはフロアの真ん中辺りまで進み、室内をゆっくりと照らす。人気は無い。ゴミは幾らか落ちているが室内は綺麗なものだった。廃墟と言えば馬鹿な侵入者の阿呆らしい落書きやら何やらがあるのだが、そういったものは無かった。施錠されているせいだろう、と納得することにした。
そうでもしなければ嫌な想像ばかりが思い浮かぶ。例えば「入って出会した途端にそんな真似も出来なくなる」とか、「出現する階は決まっていない」とか、「四階に着いたところで階段を上がってくる」とか。
 さっさと帰ろう。そう思ってアクルは少し後ろに立つ赤松に声を掛けた。
「いなそうです。もう帰りましょうよ」
 そう言ったところで、階下から誰かが上がってくる足音がした。
 驚いてアクルは階段の方へと懐中電灯の光を向けた。
 照らされた階段は口を開けた墓穴のようだった。其処から、足音が反響しているのが聞こえる。
「……私達の他に、誰か来ることはありますか?」
 懐中電灯が照らす先を面白そうに眺めている赤松に、彼女は恐る恐る訊ねる。男の答えは明白だった。
「いいや」
「最悪ッスね、マジで」
 うんざりとしたアクルの声に答えるように、男の声が聞こえた。
「俺の首は何処だ……」
 階段を登ってきたのは、首の無い、全裸の男だった。何処から声を出しているのか分からないが、「俺の首は何処だ」と言いながら、二人に向かってゆっくりと歩いてくる。アクルは近付いてくる『それ』を見て、思わず怒鳴った。
「来るんじゃねぇクソ露出狂が!」
 首無し男が戸惑ったように止まった。赤松はその男に向かって床を蹴って距離を縮め、バールを振りかぶった。「死ねオラ!」という怒声と共に振り下ろされたバールは首無し男の肩に当たった。人体から出てはいけない音がして、男は倒れた。赤松が高笑いしながら暴行を加えている。
アクルはそれを眺めながら「普通の傷害事件の現行犯みてぇだな」と他人事のように思った。
 矢鱈目鱈にバールを振り下ろされて、瀕死の首無し男を見てアクルは不思議だった。赤松がたまにバールを外して床に打ち付けたりするのもそうだが、あまりにも「そのまま」だったからだ。語られた通りで、かつ自分が想像した通りのモノが現れた。本当に「幽霊」なのだろうか。別の「何か」なのではないか。悪意を持って人を恐怖させて捕食するような、「何か」だ。アクルが好きなのはホラー映画であってモンスターパニック系では無い。
 全て空論だ、とアクルが自嘲したところで赤松が漸く首無し男にとどめを刺した。満足そうに一息吐く赤松に彼女は質問した。
「社長には、どう見えてるんですか?」
 アクルの問いに赤松は少し考えてから答えた。
「黒っぽい靄だな。雑魚は大体そんな風に見える。ちゃんと生き物みたいに見えるのはレアで、そっちのほうが殺りがいがあるんだよ」
「成る程」
 アクルは頷いて、赤松に言った。
「残業代付くなら、心霊スポットに行くの付き合います」
「おっマジか! まあ行かないっつっても連れてくんだけど」
「そんな気はしてました。なので、まあ良いですよ。気になることもあるんで」
 アクルは思考し続けることが好きだ。他に何も考える余裕の無いことを思考することが好きだ。今日目の当たりにした「何か」は良い題材だった。赤松は彼女が何を考えているのか気にもせず「よろしくな」と笑った。


 四度目の心霊スポット巡りでアクルは自分の考えを検証してみることにした。今回の心霊スポットは「古い団地」だった。会社から車で三十分程度走ったところにある、誰も住まなくなった低層住宅団地。既に日が暮れて辺りは暗くなっていた。
 車の中でアクルは赤松に頼んだ。
「社長、今日は説明無しでお願いします」
 赤松は首を傾げて理由を訊ねる。アクルは自分の仮説について話した。
「向こうは私達の認識に合わせてくるのかも知れないって思ったんです。あまりにも説明と似過ぎているのはおかしいですし」
「合わせてくるって、なんでそんなことすんだよ?」
「自分で色々設定考えるより元々ある話に乗るほうがハズレ無いでしょ、多分」
「そうだとして、それって俺等と関係あんの?」
 赤松はあまり興味が無いように疑問を返す。アクルはスマートフォンで掲示板の記事を眺めながら答える。
「ありますよ。『アレ』の説明がもし『誰にも見えないし触れない』だったら、社長に勝ち目が無いじゃないですか。『アレ』が適当にそれっぽく作った、勝ち目があるようなストーリーに乗ってくるようなヤツなら楽じゃないですか」
 赤松は「それもそうか」と納得し「それじゃ」とストーリーテラー役をアクルに振る。
「例えば?」
「あー…………例えば『ガスパン遊びをしていた女子高生が一服しようとうっかりライターで火を付けて引火、爆発。女子高生は四肢を失う羽目になり、最後は苦しんで死んだ。以来、芋虫のような姿の娘が現れるようになった』とか」
「なんでそんなエグい話思い付くんだよ……おっかねぇなぁ……」
 引いている赤松を意外そうに眺めて、アクルは言葉を返す。
「怖いって思ったなら十分です。多分ソレに反応するんですよ、『怖い』っていう感情に」
「お前の想像がおっかねぇっつってんだよ」
 「はははは」とアクルが無表情に笑う。車が停まったのは雑草が蔓延る、煉瓦で舗装された歩道の前だった。その歩道の先に、ぼんやりと並んだ低層アパートの影が浮かんでいた。懐中電灯はアクルが、バールは赤松が装備して二人は車を下りた。歩く人間がいなくなって久しい道を歩いて、彼等は灯りの無い団地へと入った。
 二階までしかないアパートが三棟、静謐なまま並んでいた。バールで肩を軽く叩きながら赤松は「で?」とアクルに問うた。
「芋虫女はどの棟に出るんだ?」
「そうッスね、あー、じゃあ、『団地に足を踏み入れた瞬間』で。覚悟決まってないから嫌じゃないですか」
 アクルがそう言って、一番近い団地の階段に向かって歩いて行く。ぐしゃぐしゃと伸びた雑草を踏み荒らしながら。赤松は彼女の先導に従う。懐中電灯で照らしながら、アクルは割れたコンクリートの階段に足を掛けた。
 何かの物音がした。
 アクルはじっと、上へと続く階段を見ながら言った。
「恐怖は人間の持つ、最も根本的の感情だそうですよ。私はそこら辺が鈍くなって大分経ちますが」
 「『アレ』にも伝わってますかね」と言うアクルに赤松は「俺よりはあるだろ」と返す。
 懐中電灯は踊り場の辺りを照らしている。階段は其処で折れて上へと続いている。その向こうから、何かが階段を落ちてくるような音が聞こえた。重量のある、水風船のような何かが落ちてくるような、どちゃ、どちゃ、という音が。
 アクルは一歩下がり、代わりに赤松が前に出る。赤松は期待を膨らませて「何か」が現れるのを待っていた。
「幾らでも『アレ』の解釈は出来てしまうんですよね。どうして連中はこっちを認識しているのか、とか。彼等は私達の恐怖心を関知してくる、つまり見えてるわけですよね。人間の色覚と犬の色覚の違いのように、私達には不可視の恐怖を見ている、みたいな。色で無ければ嗅覚とか」
 自分の気を紛らわせるためにアクルは話し続ける。そうしていないと怒鳴りそうだったからだ。「出て来るのが遅い」と、意味の無い怒声を暗闇に浴びせそうになっていた。
「じゃあやっぱり、俺はお前みたいなのがいないと駄目なわけだ」
 赤松が言う。その言葉に彼女は何とも言い難い気分になる。其処で漸く、待ち兼ねた「何か」が姿を現した。
 懐中電灯の光に照らされた踊り場に、どちゃりと何かの落ちる音がした。それは手足の無い、セーラー服姿の女の子だった。
 アクルは赤松に確認する。
「どんな風に見えてます?」
「達磨の女子高生に見えるぞ。マジで言った通りになったな!」
 ギャハハ、と笑う赤松が女子高生を見る。火傷で見るも無惨な顔になった彼女はどちゃどちゃと彼に向かって転がってくる。「うぅ、うぅ」と悲しげに呻きながら芋虫のような彼女は階段を落ちてくる。
苛立つアクルの気配を背後に感じて、赤松は遊ばずに、少女の小さな頭にバールを叩き付けた。破裂音がした。その音にアクルは不快感を隠さない。あっさりと終わった割りに、赤松の感想は良いものだった。
「雑魚でも人っぽく見えんのは良いな。ちょっと楽しくなる」
「なんスかそれ」
「人間をどうしてもブッ殺したい時にこれで我慢してんだよ。言ったろ? 俺の娯楽だって」
「えっ頭おかしいヤツじゃないスか。マジで人殺して捕まんないでくださいよ」
 アクルがそう言えば赤松は「俺はちゃんと法律分かるし倫理観もある」と偉そうに言う。アクルは「あーはいはいワロスワロス」と適当に流した。
 用も済んだので二人は帰ることにする。その道すがら、赤松が提議した。
「もしもよ、さっきみたいなのが俺にも適用出来たらどうなるんだ?」
「適用って言うと、例えば『社長は最強! 絶対に負けない!』って思ったら本当に強くなる、みたいな?」
「それか、俺が化物みたいになるか」
 アクルは「神様扱いする形になるんじゃないですかね」と答える。
「社長って、あの手の連中相手で勝てないって思ったことあるんですか?」
「そうだなぁ、廃寺とか、神社とか、神仏系にいるのは強いのが多いな。反撃してきてよ、怪我したこともあるぜ」
 「怪我して帰ると嫁が怒るんだよ」と赤松は嘆息する。アクルは推測を提示した。
「奉られてる系はそうなんじゃないですか? 人間の、敬う感情とか、畏れみたいなのが集まってるわけだし。こういうとこにいるのよか強いっしょ」
 アクルが「そういうトコ行く時は、私は留守番しときます」と言えば赤松は残念そうに声を上げる。
「楽しいぞ、きっと」
「いやぁ、やめときますわ」
 軽くアクルは断った。赤松もそれ以上誘わなかった。
 人生とは上手くいかないもので、それから四ヶ月ほど経った時に「曰くのある神社を解体して欲しい」と仕事がやって来た。


 夏日になったその日。アクルが出勤すると赤松が仕事で必要な書類の作成を頼んできた。資料として渡された見積を見て、アクルは「曰く付き」の案件だと気付いた。見積に記載されている諸経費の金額が、同規模の「普通」の案件より三倍近くある。
 労安のクエを交えて朝礼を終えた後に、彼女は赤松に確認した。
「社長、なんかヤバ案件ぽいスけど」
「それな、田舎にある神社の解体なんだわ。もう参拝客は殆どいないらしい。それで、解体して病院建てるって話が出たんだ」
 陸の孤島とも言うべき、車で二時間以上掛かるところに神社はあった。
「山の上にあるから最後はほぼ登山だな」
 山の上の神社、と聞いてアクルは何だか嫌な気分になった。「曰く付き」だからこの会社に話が回ってくる。山も神社も曰く付きだとしたら碌な目に遭わない。
「私は行かなくても良いッスよね?」
 彼女の確認に赤松は頷く。
「取り敢えず、元請さんも打ち合わせ行きたいって言ってるから俺だけで行ってくるよ。打ち合わせに行く程度で遭遇したことないけどな」
 赤松の電話が鳴り、電話に出る直前に彼は打ち合わせの日程確認をアクルに頼んだ。頼まれた彼女は、その土地の所有者でもある神社の宮司に打ち合わせの日程を確認するついでに、禁則事項も聞いておくことにした。見積に付箋が張ってあり、元請の希望日程や神社側に連絡が済んでいる事項が書かれていた。神社の宮司に繋がる固定電話番号も記載されていた。
 掛けてみると、すぐに壮年の男性が出た。アクルが名乗れば丁寧な挨拶が返された。やはり彼が神社の宮司だった。
「元請からも連絡があったかと思いますが、弊社の担当を交えて一度ご挨拶に伺わせて頂きたいのでご都合の宜しい日など教えて頂ければと」
 アクルがそう言えば宮司は幾つか希望する日を挙げた。その内から元請の希望に合う日を選んだ。
「では来週の金曜日にお伺いさせて頂きます。それで、山に入山するにあたって何か注意することはありますか?」
『…………出来れば、四人でお越し頂きたいのですが』
「分かりました。元請からは三名、弊社は社長のみでお伺いさせて頂きますので」
『その中に女性の方はいらっしゃいますか?』
 宮司の質問にアクルは首を傾げながらも、元請側の担当に女性職員がいることを伝えた。すると宮司の声はあからさまに明るくなった。
『神様に是非ご挨拶してください。お喜びになられます』
 宮司の態度に不安を覚えたアクルは電話を切った後、その神社について調べてみた。幾ら調べてもその神社について何も情報が出てこなかった。徐々にアクルの血の気が引いていく。これは「大当たり」の現場なのではないかと。それから思い直す。「社長には注意するだけしておけば良いか。自分が行くわけじゃないし」と。
 大間違いだった。


 曰く付きの神社へ打ち合わせに行く日。アクルは作業着を上下とも着せられて、ハイエースの後部座席に乗せられていた。
「私は行かなくて良いって聞いてたんスけど」
 地を這うような声を出すアクルに、赤松は弁明する。
「いやー、今朝ウチの嫁さんにお前のこと連れてけって言われちゃってさ」
「カカア天下なのは別に良いですけど巻き込まんでくださいよ」
「しょうがねぇだろ逆らえねぇんだから」
「ああ、胃袋的な意味で」
 長々と溜息を吐いて、アクルは伸びをして座席に身を預ける。自分が激したところでどうしようもないことは分かっている。アクルは諦めることにした。元請の職員達とは最寄り駅で待ち合わせをしていた。彼等を拾って、神社に向かうことになっていた。
 駅前のロータリーまで行くと作業服姿の人影を見付けた。四十過ぎの男と、二十代後半の青年と、アクルとそう歳の違わない若い女が揃いの作業服を着て雑談していた。赤松は路肩に車を駐めて彼等を呼びに行く。其処で名刺交換が始まってしまったのでアクルも慌てて下りてそれに加わった。
 一番年嵩で現場所長になるのが「戸川」、営業担当の青年は「井上」、現場研修中の女性社員である「白井」だと、元請職員達は名乗った。車に乗り込んで、何故かアクルは一番奥の座席に追い遣られ、隣には白井が座った。運転席の赤松は助手席の井上や後部に座った戸川と喋り倒している。心細さを感じるアクルは、白井が猛烈な勢いで話し掛けてきて即座に心を閉ざした。
「えぇ~アクルさんも現場管理の方なんですか~!?」
「アッイヤ今日ハ付添イミタイナモンデスハイ」
 白井は今時の可愛らしい若い女だった。長い艶やかな黒髪を後ろに纏めて、控えめながらも綺麗に化粧をしていて、清潔な香りが漂っている。この手の人間が眩しく見えるアクルは距離を急激に詰めてくる彼女に「うわっ」と心理的に引いてしまう。そんなアクルを知ってか知らずが白井はアクルが身を引いた分だけ距離を詰めてくる。
「アクルさん、マスクして長袖って暑くないんですか? あっ! 風邪とか引いてます?」
「アッイヤソンナンジャナインデ……大丈夫ッスハイ……」
「なんでずっと片言なんですか~?」
 あまりにも距離感の違う彼女にアクルは疲れ果てていたが、道中はまだ始まったばかりだった。
 漸く目的に到着した時は、思わずアクルは涙を流しそうになった。車の中で延々と白井のどうでも良い話を聞いたり根掘り葉掘り無遠慮になされる質問を躱したりし続けるのはあまりにも苦痛だった。。
 山の中腹は拓けていて、車を駐めることが出来た。其処に正装した年配の宮司が立っていた。黒袍に白奴袴、冠と、大祭で用いられる特級の正装だった。宮司は大きな花束を抱えて立っていた。アクルと元請職員達は戸惑ったものの、気にしないようにした。
 宮司は訪れた彼等の人数を数えて眉を寄せた。
「四人でお越しくださいと、お願いしたはずですが?」
 すかさず赤松が「いやぁ申し訳ない!」と前に出る。高身長でガタイの良い彼に宮司は怯んでしまう。「なんかマズいですかねぇ?」と赤松が言えば宮司は渋々といった様子で了承した。
 挨拶もそこそこに宮司は白井に花束を渡した。そして参拝の手順として「先に男性が参拝すること」「女性はその後に花束を持って参拝すること」を説明された。
「まずは頂上の本殿へ参拝のほうをお願い致します。それから一度麓に戻って社務所のほうでお話をさせて頂きたく」
 宮司がそう言うので、赤松達は頂上へと続く一本道を登っていった。人が歩いて踏み固めた細い道だった。植樹された杉が生い茂っていた。きちんと手入れされているらしく、間伐した後の切り株が見て取れた。
 アクルは赤松に近寄って話し掛けた。
「あの、社長」
「おう」
「あの宮司、なんかヤバくないスか? 打ち合わせっつって正装してくるとか、なんか、今日こそ山に入っちゃ駄目な日、じゃないですか?」
「あー、俺も思ったわ。いやマジどうすっかな。戸川さん達を危ない目に遭わせらんねぇしな」
 二人がそんなことをこそこそと話していると白井が乱入してきた。
「何お話しされてるんですか~?」
「アッナンデモナイッス」
 アクルが赤松から離れると白井も彼女に付いていく。赤松は赤松で今度は戸川と井上に話し掛けられた。
「いやぁ国定さん、こりゃ大変ですよ。重機登れないでしょこれは!」
「ホントですね! いやでも戸川所長にはいつも良くしてもらってますから頑張りますよ! ねっ、井上さん!」
「えっ社長なんでこっちに振るんですか!? 機械の運搬費でもういっぱいいっぱいですよこっちは~!」
 ワハハ、と楽しそうな男性陣とは反対に、アクルは疲れ果てていた。明るい白井がとにかく明るくて辛かった。
「アクルさんて下のお名前なんて言うんですか? お名刺には無かったですよね?」
「アッ非公開デス」
「非公開ってなんですかちょっと~! アクルさんおもしろ~い!」
「ヨカッタッス」
「国定社長、カッコイイですよね~。なんていうか、ワイルド?」
「えぇ? どう見てもチンピラじゃないスか?」
 思わず素の返事をしたアクルに白井は「やっとちゃんと返事してくれた」と微笑んだ。彼女の笑みを見て、アクルは「悪い人じゃないんだけどなぁ」と思った。花束が重そうだったので、アクルは代わりに持ってやった。
 十五分以上歩き続けて、漸く本殿のある頂上に到着した。山の中であっても気温の高い夏の日で、赤松以外はぜえぜえと息を乱していた。
 神社は廃れて久しいようだった。大きな石の鳥居は、支柱だけが残っていた。参道は敷かれていた石が崩れて道の体を為していない。石の灯籠も狛犬も、ボロボロに朽ち果てていた。立派だったはずの本殿は屋根が腐って落ちていた。異様な神域だった。元請の職員達も、アクルも、赤松も、その雰囲気に息を呑んだ。
「これは確かに、参拝客は来ないでしょうね……」
 井上がなんとか空気を明るくしようとするが、その笑みは引き攣っていた。戸川もわざとらしく大きな声で「いやぁ酷いなこれは!」と言う。白井も「すごーい!」と調子を合わせる。
アクルはじりじりと背が焼かれているような気分になった。こんな廃れた神社で大祭があるわけも無いのに、宮司は正装していた。自分達は別の儀式に巻き込まれたのではないのかと、アクルは思った。
「あっそういえば男性が先に参拝するんでしたね!」
 戸川が気付いて井上と赤松に言う。彼とアクルは緊張を含んだ視線を交わす。今のところ、彼等を納得させて連れ帰ることは出来ない。何も無いことを祈って参拝をするしか無かった。
 一先ず全員で参道を進んだ。女性二人は真ん中辺りで足を止め、男性陣はそのまま進んでいく。賽銭箱の残骸があった。その前に赤松達は立った。彼等は頭を下げた。
 遠くで宮司が祝詞を奏上する声が聞こえた。瞬間、赤松は戦慄を覚えた。
 赤松は咄嗟に地面を蹴って後ろへ跳んだ。透明な、巨大な何かが戸川と井上を横薙ぎにした。彼等は自分に何が起きたのかも分からずに真っ二つになる。鞭のように撓る不可視の何かが空を切って、取り残した赤松に向かってくる。避けようにも見えない。脇腹に強い衝撃を受ける。肋骨の砕ける音がして、巨躯の赤松はボールのように飛んだ。地面に落ちて転がった彼は倒れ伏したまま動かない。アクルは隣にいる白井が悲鳴を上げたことで我に帰った。
 先程まで生きて、喋ったり動いたりしていた元請職員の二人が、二分割されて死んでいる。転がる死骸から夥しい血が流れている。頼みの綱である赤松が動かないのを見て、アクルは息が止まりそうだった。白井が彼女にしがみついてまだ悲鳴を上げている。
 宮司の祝詞が未だ聞こえていた。
 白井の金切り声は延々と続いている。本殿の舞良戸から泥のような黒い影が伸びてくるのが見えた。影はドロドロと、ゆっくりと、アクルと白井のほうへと向かって伸びてくる。影は男達の死体を飲み込んで伸びてくる。
「白井さん! 白井さんホラ立って! 走りますよ!」
 花束を捨ててアクルは錯乱する白井をどうにか走らせようとする。逃げることだけに集中させようとする。アクルは彼女を見捨てようとは思わなかった。自分だけ逃げようとは思わなかった。
 泣き喚く白井を引き摺るようにしてアクルは走った。参道を戻る。来た時よりも森が深く見えた。宮司の祝詞が聞こえる。アクルは悪態を吐く。あの宮司は最初からこうするつもりだった。最初から全員殺すつもりだった。何かの儀式に巻き込むつもりだった。激怒しながら彼女は走った。
 白井が足を縺れさせて転んだ。影はすぐ其処まで迫っていた。
 何故だか、アクルは昔観た映画を思い出した。それからすぐにその映画を想起した理由を思い至った。映画の中で取り残され、死んでいった老婆と、ぐしゃぐしゃに化粧が崩れた顔で自分を見上げる白井の顔は同じだった。
 アクルは彼女の腕を思い切り掴む。後ろに倒れる勢いで引き上げ、踵を支点にして体を回転させ、白井を背後へと放った。白井が影から逃げた代わりにアクルはその中へと落ちた。影は冷たかった。
 アクルの体を飲み込んだ影は動きを止め、咀嚼するように揺れて、本殿へと戻っていった。白井は呆然とそれを見ていた。逃げなくちゃ、と立ち上がり、手段として乗ってきた車のことを思い出した。地面に倒れている赤松に目をやる。運転手は彼だった。車の鍵も彼が持っている。
 地面に倒れている赤松に白井は近付いていった。彼の作業着から鍵を取ろうと身を屈めたところで、赤松が上体を起こした。
「あー畜生、いってぇな。二、三本折れちまった」
 赤松は血痰を吐き捨てる。驚いて悲鳴を上げた白井だが、生きている人間がいることに安堵した。
「なんだ、白井さんか」
 草臥れたように赤松は立ち上がる。肋骨が折れているはずなのに平然としていた。
「はやく、はや、早く逃げましょうよ……」
 白井が縋るように言う。赤松は恐怖で震えるうら若い彼女を眺めて首を傾げる。
「なんというか、随分と冷たいんだな」
「えっ?」
「アクルは白井さんを助けて落ちたんだぜ? 言わば身代わりみたいなモンなのに。それに死んだかどうかも分からない」
 彼にそう言われて、白井は「え、でも、そんな」と顔を覆い、自分の肩や腕を摩る。それを見て、赤松は首を傾げる。能面のように無感情な顔で。
「人間はもっと情深い生き物だと思っていたが。自分を助けた相手でも見捨てることがあるのか。知らなかった」
 ぼそりと呟かれた赤松の言葉は動揺した白井の耳には届かない。泣き出す彼女を余所に赤松は一人で理解して「成る程」と頷く。それから平時に設定している「人懐っこそうな顔」に戻した。年下とは言え成人している白井を小さな子供を相手にしているように宥める。
「怖いよな、そうだよな。でもな、多分俺達だけじゃ帰れないんだよ。帰り方が分かんねぇから」
 「白井さん、一緒にアクルを探してくれよ」と赤松が頼むと、白井はどうにか頷いた。神社に到着したのは昼過ぎだったはずが、辺りは徐々に薄暗くなってきていた。陽が傾き始めていた。日没があまりにも早い。
「さっさと逃げ出さねぇと、明くる朝には皆死体って感じだな」
 そう赤松はカラカラと笑った。


 アクルは気がつくと何百畳と広い部屋に立っていた。床は赤い敷物が敷かれた板間。天井は真っ暗で見えない。やたら体が重いので何かと思えば白無垢を着せられていた。綿帽子まで被せられている。遠くから男達が朗々と「高砂」を歌う声が聞こえる。アクルは事態が厄介な展開になっているのを理解する。
 兎に角、此処から逃げて赤松と合流しようと彼女は思った。その時だった。
 何かが部屋の奥から走ってくる。沢山の足音がする。走ってきたのは子供達だった。皆、正月のように綺麗な着物を着ていた。わあわあと歓声を上げて子供達はアクルに走り寄ってくる。駆け寄ってくる彼等の顔を見てアクルはぎょっとした。子供達の顔は全て年老いていた。「成長し、年齢を重ねていけばこんな顔になるのだろう」という顔をしていた。老化は、顔にしか現れていない。老人の顔を持つ子供達が彼女を取り囲んだ。
 アクルは警戒する。気味の悪いものには慣れているが、目の当たりにすると体は強張り、険がきつくなる。ルールや仕組みが分からないことにはいつだってそうなる。理解の及ばないことに直面するとそうなる。怖いのではない。苛立たしいのだ。
 一人の子供が歩み出た。老爺の顔をした子供だった。そして大きく口を開いた。
「この度はぁ! 目出度くご結納の運びとなりぃ! まことにぃ! お喜び申し上げまするぅー!」
 それに合わせて周囲の子供達も「申し上げまするぅー!」と声を張り上げる。小学校の卒業式のようだった。代表らしき子供は言葉を続ける。
「それではぁ! 花嫁様よりぃ! ご承諾のほどをぉ! 賜りたくぅー!」
 「賜りたくぅー!」の合唱が終わり、全ての視線がアクルへと向けられる。アクルは威嚇するように腕を組み「なんだ?」と奇怪な彼等を睨みつける。
「承諾? 承諾だと? 攫っといて承諾もクソもあるかダボ共が。舐めてっと殺すぞクソボケ」
 アクルはルールの一部を理解した。恐らく彼等に同意すると自分は死ぬ。もしくはそれに近い目に遭う。それを踏まえて他のルールを理解していけば良い。
 高圧的な花嫁を前に子供達は尻込みする。代表格の子供がアクルを睨むが舌打ちを返されてビクリと肩を跳ね上げる。彼等に自分を傷付ける手段が無い、もしくは権限が無いと推察したアクルは更に威圧する。
「私は帰る。さっさと案内せい」
 尊大な振る舞いを見せるアクルに怯える子供達だったが、奮い立って口々に喚き立てた。
「玉の輿! 玉の輿!」
「良縁ですのに! 良縁ですのに!」
「お優しいお殿様! お優しいお殿様!」
「不幸になることはない! 不幸になることはない!」
「御婿様はこれより東の地一帯を治められている御大尽様であらせられるのに! 御大尽様であらせられるのに!」
「はいと言え! はいと言え!」
「泣いて喜べ! 泣いて喜べ!」
「貴方様はあの宮司に選ばれた人間の中で最も幸福な花嫁様であらせられるのに! 花嫁様であらせられるのに!」
「なんでも叶えてくれる! なんでも叶えてくれる!」
「捧げさえすれば! 捧げさえすれば!」
「幸せになれる! 幸せになれる!」
「ご成婚! ご成婚!」
 喚く子供をアクルは鼻で一笑に付す。彼女にとっては餓鬼が声を張り上げているだけだ。
「ほざいてろ。私は帰る」
 アクルの態度は硬化するばかりだった。子供達は大声で泣き出した。わんわんと泣きながら誰かを呼んだ。
「奥方様! 奥方様!」
 子供達が口にした「奥方」という単語がアクルは気になった。
 「花嫁」である自分をそう呼ぶはずはない。では「奥方」とは誰だ。もし、「花嫁」が輿入れを承諾したら。呼称が変わるとしたら。自分が来る前に既に「花嫁」が来ていたら。「奥方」が交代制だったら。
 間を置かずに切り替わり続ける思考を続けるアクルの耳に、ペタペタと裸足の足音が聞こえた。足音が近付いてくると子供達は「奥方様」と呼んで助けを乞うた。
 現れた「奥方」はボロボロに擦り切れた白無垢姿の痩せこけた女だった。女の顔の、鼻があるはずの辺りにはぽっかりと穴が空いていて、女の手には小刀が思い切り力を込めて握られていた。
「わぁあああああああぁああぁああぁぁああああぁっぁああああああぁあああぁあああぁぁぁぁい!」
 「奥方」は狂喜した。綿帽子と裾が激しく揺れる。「奥方」はアクルを食い入るように見詰めて叫んだ。顔の真ん中に空いた穴から膿が飛んだ。
「あなた、代わりでしょ!? 私と交代するんでしょ!? やったやったやったやったやったやったやった! 終わり終わり終わり終わり! 私の番は終わり! 私と交代! 大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫!」
 「大丈夫な奴は刃物を振り回したりしない」と、アクルは言おうとして止めた。狂える「奥方」を下手に刺激したくなかった。子供達は「奥方」に纏わり付いた。
「奥方様! アイツ! アイツ断るんです!」
「玉の輿を断るんです! 玉の輿を断るんです!」
 必死に訴える彼等に向かって、狂乱する女は絶叫しながら小刀を振り回す。蜘蛛の子を散らすように子供達は逃げた。女はまだ叫んでいる。
「ああぁぁあああぁぁあああぁぁぁあああぁああぁぁぁああああああああぁ! 煩い! 煩い! 死ね! 死ね!」
 頭を振り乱す「奥方」は手にした小刀を自身の顔に突き立て始めた。
「交代してよぉッ! 私ばっかり! 私ばっかり! 私ばっかり酷い目に遭ってるのよぉ!? なんなの!? ねぇ!?」
 ざくざくざくざく自分の顔を刺している「奥方」は絶叫する。流血することが無い女の顔を見てアクルはぼんやりとスポンジを想起した。穴だらけでスカスカになってるなぁ、と思ったところで指先に激痛が走った。
「うわっ!?」
 痛みよりも驚きの勝った声を上げたアクルは自分の右手を見る。指が糸の束のように裂けていた。「奥方」が笑っていた。アクルはそれに、恐怖よりも怒りを覚える。
「笑ってんじゃねぇよババアテメェこの野郎……タダでさえ少ねぇ人の指を裂けるチーズみてぇにしやがって……」
 じわじわと痛みが襲ってくるが、その強さは見た目とは比例していない。最初は衝撃に近かった痛みが徐々に弱まっていく。幻覚か何かなのかも知れないと冷静になりながら、「ブチ殺してやる」とアクルは思った。途端に子供達が彼女を取り囲んだ。
「殺したいって思った? 思った?」
「殺す? 殺す?」
「思った? 思った?」
 囃し立てる子供達に向かって、アクルは噴き出る怒りをそのまま口にする。
「うるっせぇぞ! 思った! 思ったよ! ブッ殺してぇってな!」
 瞬間、彼女を取り巻いていた子供達の、あまりにも年老いた顔が悪意に満ちた笑みを浮かべた。それを見てアクルは「あ、しくじった」と思った。取り消そうとしたが間に合わなかった。
「おのおォオオォォォオオオォォオォォォぞみィィィィィィィィィィィ!」
「おのおォオオォォォオオオォォオォォォぞみィィィィィィィィィィィ!」
 子供達の絶叫が響いた後に、「奥方」の頭が何も無い空間の中でぎゅうっと圧縮され、破裂した。体はドサリと倒れ、動くことは無かった。
アクルは冷水を頭から被ったような危機感に襲われる。きゃあきゃあと子供達は喜んで手を叩いて体を揺らしている。その内の一人が彼女の手を掴んで引っ張った。
「さぁ! おっしはっらいッ! おっしはっらいッ!」
 アクルは子供の手を振り解こうとしたがビクともしなかった。彼女は張り詰めた声で呟く。
「何を支払えって言うんだよ……私は何も持ってない……」
 子供は満面の笑みで主人の言葉を代弁した。
「『お前の摩耗を』」
 その言葉を聞いた途端にアクルは膝から崩れ落ちた。言葉にならない声が勝手に口から溢れてくる。嗚咽と共に涙が落ちてくる。恐怖と後悔が襲い掛かってくる。苦しみや切望が洪水のように押し寄せてくる。自我を獲得して二十年余り抑え込んで無視してきた、自分の感情だった。虐待が鈍磨させた精神で素通りしてきた幼稚な願望だった。
 痛くて堪らない。酷いことをしないで欲しい。優しくされたい。普通のご飯を食べたい。救いの手を差し伸べられたい。怖い思いをしたくない。眠りたい。同情されたい。愛されたい。幸せになりたい。赦されたい。死なせて欲しい。
 全て自分の思考の内にあることなのに、余りにも気持ち悪くてアクルは蹲ったまま嘔吐した。彼女の回りを子供達が歌い踊り跳ねる。
「お前はなんと良い花嫁様だ!」
「お殿様好みの哀れで悲惨な女だ!」
「お前は傷だらけの膿塗れだ!」
「お殿様は人間の膿を召し上がる!」
「腐った傷ばかりの哀れな女!」
「それ以外何も持っていない女だ!」
 嘲笑する子供達の声にアクルは言い返したかったが、何も言い返せなかった。痛みと憎しみと怒りだけで今まで生きてきた。いつまで経っても立ち直れないままだった。
 「望み」の「お支払い」は、目に見えないモノでも良いのか。アクルは濁流のようにやって来る感傷の合間にそんなことを思った。吐くものも無くなったアクルは蹲ったまま子供達を睨み上げた。
「燥ぐほどならお前等がなれば良いだろうが……お前等も随分不幸そうだ……」
 見下した声で吐き捨てれば、子供達は仕方の無いことだと返した。
「僕達じゃ駄目なの。僕達は生贄だったから」
「私達じゃ駄目なの。私達は願いが無いから」
 話を整理したくてもアクルの感傷は途切れない。それでも「逃げ出す」という選択肢は手放さなかった。這い蹲ったまま、アクルは床を掻いてその場から逃げようとした。自分の半身程も進まぬ内に、床の赤い敷物が波打った。滑らかな絹地のそれは、敷物ではなく途轍もなく大きな羽織の裏地だった。何かが、羽織を摺って近付いてくるのが分かった。
 重い足音がアクルの前までやって来て止まった。アクルは恐ろしくて顔を上げることが出来なかった。だがその意思に反して、彼女の体は勝手に立ち上がった。
 目の前にはただ闇が広がっていた。
「うあ……うあ、う、うわ……」
 引き攣った悲鳴の出来損ないばかりが口から漏れた。暗闇はゆっくりとアクルに覆い被さってくる。それには質量があった。手触りは柔らかく、静かな湖畔の水温に近い冷たさを持っていた。ぐうっとそれが彼女を抱き締めてくる。不思議と、嫌悪感は無かった。ざわざわと闇がさざめいて、大きな男の手が生えた。それが彼女の肌を撫ぜた。
 アクルは知らないので推測でしかないが、慈しみや愛情を込めた手で頬を撫でられた。指の腹がそっと彼女の頬骨をなぞる。優しくて甘やかすような動きだった。そんな風に他人に触れられたことが無い。ましてや家族にも。アクルは戸惑って動けなくなる。隙間ばかりの精神に甘露のようにその行為が染み込んでくる。「マズい」とアクルは思った。思考が多幸感に襲われる。
 暗闇だと思っていたモノが徐々に人の形を象っていき、やがて五つ紋の黒紋付羽織袴を着た、異様に体格の良い男になった。アクルは男の顔を見た。回転数が落ちていく頭には「こういう往年の銀幕スターいたなぁ」「今時の俳優みたいな顔してるなぁ」と馬鹿げた感想しか浮かばなかった。きっとこれが「お殿様」で、自分の花婿なのだと、彼女は理解した。
 男が腕の中にアクルを抱え込んだ。抱き締められるのも初めてだった。蓋をし、剪定し、組み上げた精神が綻び撓みそうになる。深い愛情を与えられて、アクルはそれに抗おうとした。そんなことで自身の人格が崩されることは屈辱でしか無かった。アクルは理性を手放すまいと思考が途切れぬように自分の掌に思い切り爪を食い込ませた。
 与えられないから求めなくなったものを今更与えられても困る。自分はそれを与えられるのに相応しくなかったのだと、理由を付けて諦めたのに。自分にその価値は無かったのだと。自分に生まれてきた意味は無かったのだと。一生、知覚することの出来ないものなのだと。与えられることも与えることも出来ずに死ぬものだと。「愛されたい」という望みは叶わないのだと。両親の暴力と怒声が不適切な「しつけ」だったのだと。ずっとそう思ってきた。自分が醜いから愛されないのであり、愛されないから醜いのだと、納得していたのに。
 緩やかに巡る遅効性の毒に似た愛情を無視しようと、アクルは自身の手足や体に付けられた小さく丸い火傷痕の数を記憶の中で数えた。火傷は無数にある。口なんて剃刀を突っ込まれた時に端が切れてまだその痕が残っている。熱湯を掛けられた頬にも火傷がある。左の太股にも火傷がある。これはライターで炙られた時に出来たもので、まだ消えていない。何が悪かったのか、何が親を怒らせたのか、理由を開示されぬままに受けた罰が余りにも多かった。
 こんなにも多くの痕がある。親が煙草の火を押し付けて作った。だから自分は醜い。親がそんなことをしたのは自分が醜いからだ。だから愛情を受けるに値しない。
 今、この「お殿様」から与えられているのは愛情でも何でも無い。飛び付けば死ぬ。こんなにも幸せな気分になっているのは、この化物が脳内麻薬の分泌を促すか何かしているに決まっている。アクルはどうにかそう思い込もうとする。
思考の纏まらないアクルは逃げようと藻掻く。花婿が暴れる新妻を宥めようと腕を増やして撫で擦る。優しい手の感触にアクルはどんどん鈍っていく。
 この苦しみを捨てることが出来るだろうか。捨てたら、自分はどうなるのだろうか。憎しみと怒りと恨みだけで生きている自分が、親を忘れることなど出来るだろうか。幸せになれるだろうか。
 融解していく脳はアクルの思い通りにはならず、勝手に懇願のような、願望のような思考に傾いていく。
「お前の 望みは なんだ?」
 多幸感ばかり溢れて曖昧になっていく意識の中で、打ち寄せる細波に似た、穏やかな声が聞こえた。甘くて優しい、人生で一度も聞いたことが無い慈しみに溢れた声が聞こえた。
 おとうさんとおかあさんがひどくしねばいいな、とアクルは思った。そう願った。


 「高砂」を歌う男達の声が遠くから聞こえてきた。
 赤松は泣きじゃくる白井を背に庇いながら本殿へ近付く。戸川と井上の死体は綺麗さっぱり消えていた。境内を隈無く探したが、やはり出口は無かった。入ってきた鳥居の先は木々で覆い尽くされて道が消えていた。赤松は考える。神社から出るにしても何か手順を踏まなくてはいけない。ただそれを考えるのが面倒なのでアクルを探そう。それかさっさと大元の「何か」を殺そう。赤松はそんな雑な作戦を立てた。
「やっぱ、本殿の中に入んないと駄目だよなぁ」
 赤松はやれやれと本殿に上がり、舞良戸をぞんざいに蹴破った。白井は赤松が何かする度に短い悲鳴を上げていた。
 舞良戸の向こうには洞窟が口を開けていた。本殿の外見と内側の大きさが合わない。岩室とも言うべき場所が広がっていて、ぽっかりと洞窟の入り口がある。
「あーやだやだ。なんでこんな面白空間になってんだか」
 赤松は「こりゃ工事出来ねぇわ」と嘆息する。腕に白井ががっちりとしがみついていて動き難い。彼女を境内に置いていくことも考えたが、帰り際に合流することが出来ないかも知れないと思うと置いていけなかった。
 真っ暗な洞窟の奥から冷たい風が吹いてくる。苔の生したその中を赤松は白井を連れて進んだ。白井がグズグズと鼻を啜っている。彼女を支えながら赤松は昨年生まれた自分の娘のことを考えた。白井は可愛らしく、か弱く、家族に慈しまれて育った娘なのだろう。自分の娘がこうなるとは到底思えなかった。こんな「まとも」には育たない。
「はやく、はやく帰りたい……こわい……もうやだ……」
 泣き言を言う白井を赤松は支える。もう長いこと洞窟を歩いている気がしてきた。大して時間は経っていないはずだった。それがもう一時間も一日も一年も経った気がする。赤松は苛立つ。
「大丈夫だから、ホラ、しっかりしてくれよ」
 殺しても良いんじゃないかと、赤松は少し思い始めていた。此処で殺して置いていっても、別に誰も気付かないだろう。アクルもきっと構わないだろう。白井の啜り泣きは止まらない。流石に異常だった。
それでやっと赤松は気付いた。この洞窟には入るべきでは無かったのだ。歩いている内に段々気が変になる。時間の感覚も感情の振れ幅も狂っていく。
 洞窟の終わりが見えた。
「うっし、白井さん走るぞ」
「え、わあぁッ!?」
 白井の体を抱え上げて赤松は走り出す。米俵のような運搬で白井は目が回り、泣き言も言えなくなる。赤松は変な気を起こす前に走る。そうして洞窟から抜けた先に、空間が広がっていた。
 赤松達が辿り着いた其処は広い披露宴会場のような場所で、赤松は自分の社員を見付けて安堵した。
「いーいーな! いーいーな!」
「人間ていーいーな!」
 花嫁姿のアクルが子供達と共に積まれた死体の周囲を跳ね回っていた。電車ごっこのように、列を組んでぐるぐると死体の周囲を跳ねている。肉塊は一緒にこの神社を訪れた男達だった。見知らぬ女らしき死体も混ざっている。笑顔のアクルは楽しそうに歌っている。わけの分からないことを喚いている。よいしょ、と白井を地面に降ろして、赤松は平時と変わらない感想を述べた。
「随分楽しそうだなぁ」
 隣にいた白井は一旦正気に戻ったものの、恐怖が臨界点を迎えそうで、悲鳴を抑えるのに必死だった。彼女は赤松の上着を掴んで強く引く。
「はっ早く逃げましょうよ!」
「いやぁ、なんかアクルがスゲー楽しそうだから、もうちょっと放っておこうかなって」
「なん、えっ、だっ、だってあの人いないと帰れないって! そんなこと言わないでどうにかしてください!」
 白井の叫び声を聞いて、アクルが足を止めて彼等を見た。 
「あれ、なんでぇ? なんで白井さんいるんです? 逃げたと思ったんスけど」
 やっほー、と楽しげに手を振る彼女に、白井は顔を引き攣らせた。答えられない白井の代わりに赤松が口を開いた。
「説明してくれよアクル。俺達は何に巻き込まれたんだ?」
「お、社長生きてましたねー。良かったッスわー。えーとね、なんかね、この神社ね、もう神様いないんですって。代わりにね、なんかね、別なのを村の人達が祀り始めたんですって。それがね、旦那様なんですよー! 旦那様はね、人間の頭ん中を食べるんですって! その為に生贄を貰うんですって! 保全の対価が子供で! 何か大きな願い事の時は嫁なんですって! でも今回は違うんですって!」
 いえーい、とアクルは子供達を諸手を上げた。
「それでなんかね、旦那様がね、言うんですよ。『あとひとり』って。だからね、もうね、置いてってください。私は大丈夫です。慣れてるんで」
 踊るアクルは今にも怒鳴り出しそうな顔をしていた。自分を自分の意思で動かせないことへの怒りで満ちていた。赤松が否定しようとしたところで、白井の感情が爆発した。
「ああ言ってるんだし、あんなの助けなくても良いでしょ!?」
 赤松が「うわ、そんなこと言うかよ今」という感想を抱いたのと同時に、白井の頭が拉げた。
 透明な何かが彼女の頭を捻じ切った。死体が増えた。アクルが狼狽える。
「うぁ、あぁ、あああぁぁああぁあぁぁ……なんで、なんで……願ってないのに……最初会った時、うわっって思っただけだったのに……死んだら駄目だって思ったはずなのに……」
 アクルは混乱して頭を掻き毟っている。赤松は自明の理を教えてやる。
「思ってるじゃねぇか、『うわっ』って」
 彼の言葉に困り果てたような顔をしたアクルがまたニコニコと歌って子供達と跳ね回り始める。情緒が滅茶苦茶になっている、というよりはスイッチ操作で動くロボットのように赤松は感じた。「アッパー系のジャンキーみたいだな」と彼は嘆息した。アクルや白井の様子、自分の正気の揺れ幅から、この場所の特性を理解する。感情が爆発しやすく、理性の箍が外れやすくなる場所だ。趣味の悪い場所だと赤松は思う。
「さめーた味噌汁! 腐ったご飯!」
「冷たい布団で眠るんだろな!」
「僕のかえーるお家はないよ!」
「でんでん電車に引かれてバイ! バイ! バイ!」
 アクルと子供達が囲んでいる死体の山へ、白井の死体が独りでに這いずって向かっていった。彼女の体も死体の山に加わった。赤松はアクルに訊ねた。
「おーい、アクル。何やってんだよ?」
「神様に人間の肉を着せてあげようとしてます! 旦那様は此処から出て行きたいんですって! だから容れ物が無いといけないんです! 嫁を貰う度に思ってたけど! 成功したのは私が初めてだって! なんか褒められましたね!」
「楽しそうだな。まるで祭りかなんかだ」
「そりゃもうね! メチャクチャ楽しいッスね!」
 アクルが回る度に白無垢の裾が広がる。死体の肉がぶくぶくと揺れている。晴れ着姿の部下を見るならもっとマシな場所が良かった、と赤松は思った。
「お前がそんなに生き生きしてんの初めて見たわ」
「いやー私もこんなに気分が良いのは生まれて初めてッスね! スカッと爽やかコカコーラって気分ッスわ!」
「そのフレーズ使う奴マジでいるんだな。で、なんでそんなに気分が良いんだ?」
 赤松に問われて、アクルは勿体振る幼い子供のように答えた。
「それはねぇ! おっおと、お父さんと、おっおか、お母さんが死んだからです! わはははは、わはははははは」
「えー、滅茶苦茶良いニュースじゃねぇか。早く言えよ。それで、お前がやったのか?」
「ふ、ふは、くふ、ひ、は、えっへへ、驚き代償お値段価格! 私の傷全部を引き換えに二人は死にました! やったぜ!」
 そう言う彼女の顔には確かに傷一つ無く、左手も綺麗に再生していた。赤松は「良かったなぁ」と言い、それでも疑問を投げ掛ける。
「アクルよぉ、本当に『やったぜ』って思ってんのか?」
「ふふ、ふく、うふ、え、えへへ、え~?」
「『自分で殺したかったのに、他の奴に殺らせちゃって良いのかよ?』って聞いてんだよ」
 彼の言葉に、アクルは動きを停めた。うろうろと視線を巡らせる。熱に浮かされたように足を縺れさせる。
「あー……そう、そうなんですよねぇ、悩ましいことに、でも、私じゃ出来ない感じで殺ってもらったんで! 人智超える感じで! 超常的な感じに! ミンチミンチ! ハンバーグ! 私はハンバーグが好きです! 美味しいよね松屋のハンバーグ! トマトハンバーグ定食大好き! カレーも好き! 今日も帰りに食べます! 国産野菜! 軟骨の入ったハンバーグ! なんでこんなことしてるんだ! 親は殺してナンボ! なんばしょっと! 私は元気です! 今日も殴られました! 死ね! 煙草は熱いです! 火傷はすぐに冷やします! 私の家はゴミ溜めです! お風呂に入れない日は公園に行きます! 病院に行かせてください! 階段から落ちたと説明します! ごめんなさい! 殴られると痛いです! 星が近い! ベルトが風を切る音は嫌いです! 体操着がありません! 長袖は熱いです! 私は出産祝いを貰うために生まれました! 戸籍に×を付けてください! 死ぬ時は一瞬で死にたい! 私を殴ると両親が爆笑します! ゆるしてください! 殴らないでください! 首は絞められると痛いです! 便器が赤いのは内臓の出血が原因です! 剃刀は食べられません!」
 足を踏みならすアクルを、赤松はただ眺めた。憐れむことも無かった。
「おお、スゲー壊れ方してんな」
「夢みたいな気分! 私は毎日楽しいです!」
 アクルは「幸せだなぁ!」と叫ぶ。彼女に「若大将かお前は」と言いながら、赤松は近付いていく。
「そんな野郎の嫁になるより、俺んとこで働くほうがきっと楽しいぞ」
 行く手を阻む子供達を赤松は容赦無く蹴飛ばして進む。破裂音に似た音がする。子供達の体は蹴られて飛んで、泥となって床に飛び散った。赤松は揺れる彼女の腕を掴んだ。
「ホラ行くぞ、アクル。お前の雇用主は俺だ。嫌と言おうが引き摺ってでも連れてくぜ」
 赤松に腕を掴まれた瞬間、静電気が弾けたのと同じような音と衝撃が走った。アクルが「ぎゃあ!」と悲鳴を上げても赤松は離さなかった。
ぐったりと力の抜ける彼女の体を背負って、「離脱!」と駆け出した。背後の気配がざわめいて追ってくるのが分かった。ずるずるずるずるずる、と這いずる音が聞こえた。
 元来た洞窟の中へと赤松は飛び込む。大きく跳んだせいでガクンと背負ったアクルの頭が揺れた。
「グェッ!?」
「アクル復活したか!? 生きてっか!?」
「揺れる揺れる揺れる! なんスか何なんスかどういう状況スかこれ!?」
「半分お前のせいだよ! 俺もう今日二回目だぞこれ!」
 相変わらず何かが猛烈なスピードで追い掛けてくる。赤松は振り返る気になれなかった。洞窟の終わりが見えた。出口から差す光が走れば走るほど遠くなっていく。赤松は背中の部下に叫んだ。
「此処から出すようお前の旦那に言ってくれ!」
「ハアァアアァァッ!? 旦那!? 旦那ってなんスか!?」
「良いからさっさと頼めって!」
 赤松の命令にアクルは悩み苦しんでそれから背後に迫る暗闇を振り返って声を張り上げる。
「どうか私達を生きて返してください! 代わりに私の名をお捧げします!」
 迫ってきていた気配が硬直してその場に留まる。赤松は光の中へと飛び込む。アクルの全身に激痛が走った。頭から煮えた油を被ったような痛みに襲われて、彼女は絶叫した。洞窟を抜けた。参道の真上に二人は落ちた。
 飛び出した先には闇が広がっていた。石が敷かれた参道に落ちると分かった瞬間、赤松は背中のアクルを参道の脇へと放り投げる。白無垢を来ていたはずの彼女は元の作業服姿に戻っていて、呻き混じりに柔らかい土の上を転がっていった。五点着地を決めて即座に立ち上がった赤松はアクルに駆け寄ろうとして、踏み止まった。
 自分達が落ちてきた出口から、肉の塊が振ってきて彼の前に立ち塞がった。灯されないはずのない石灯籠から溢れる光に照らされていた。
 かなり背が高い赤松より頭一つ分大きい肉塊は、元請職員達の死骸を無理に継ぎ合わせたモノだった。三つの頭が仲良く並んでいる胴体に十二の手足が無遠慮に生えていた。その内の六本の腕が赤松に向かって伸び、十二本の指が彼を指した。ぎゅいいいいいいいいぃ、と赤松を取り囲む空間が歪む。不可視の力があと少しで彼の体を潰す。それを振り切って赤松は肉塊に向かって跳び蹴りした。
「死ね!」
 罵声混じりの跳び蹴りは、脇から生えていた肉塊の手足を折るだけだった。地面を滑った赤松は危うくアクルを踏み潰し掛けた。焦って踏み止まった赤松をアクルも咄嗟に飛び退いて避けた。
「あっぶな!」
「おいアクルちょっとどうにかならねぇのかアレ。お前の旦那だろ」
「知らねぇッスよ! ちょっと今こちとら瀕死なんで社長頑張って下さいよ嫁パワーとかで」
「嫁パワーで死にはしねぇけど勝ち目は無いぜ」
 赤松の言葉にアクルは「マジか」と呻く。彼女の目の焦点は合っていなかった。肉塊がまた赤松を指差した。部下を庇って立つ彼は顔を顰めた。
「アクル、ホントにマズいぞ」
「そんなん言われても……あっ」
「あ?」
「社長は今から神様です」
「なんて?」
 赤松は耳を疑って彼女を振り返る。アクルは自分の雇用主に手を合わせ拝んでいた。
「社長は今から『祭神』で、私は『巫覡』です! 私の願いを変えないといけないんですよ! 良いスか!? 私を助けるんですよ!」
「滅茶苦茶だな」
 赤松が笑う。不思議と殺る気が湧いてくる。「神様」と煽てられるのも悪い気はしなかった。自分が死なないことは分かっていた。目の前の怪物が自分よりも弱そうに見えてきた。
 祈るアクルに背を押されて赤松は肉塊に向かっていく。腕が彼に掴み掛かろうと伸びてくる。それに捕まる前に、赤松は渾身の一撃を入れた。
 鈍い音を立てて赤松の拳は肉塊の腹を突き破る。冷たい泥濘みの感触がした。ビクビクと怪物は震えている。赤松が腕を抜けば、よろよろと後退りしていった。そしてがくりと膝を着いた。弱々しく持ち上げた指で、赤松を示した。
 呪いを掛けたのだと、赤松には分かった。彼はそれを鼻で笑い、手に付いた黒い何かを振り払った。
「呪いなんざ効くか馬鹿野郎」
 肉塊はどろどろと溶けていき、最後は消えて無くなった。木々がざわめいて、山を下りる道が現れた。ゆっくりと周囲が明るくなっていき、夜が明けた。
 長く息を吐き出して赤松は明星が輝く天を仰ぐ。漸く家に帰ることが出来る。家に帰る前に警察に行ったりなんだりと面倒だが、とにかく帰ることが出来ることを喜んだ。アクルは蹲って動かない。意識はあるようだった。
 赤松はまた彼女を背負って歩き出す。参道を進んでいき、崩れた鳥居を通り過ぎても道は消えなかった。今度は鈍い足取りで歩いて行く。
「社長……」
 負ぶられたアクルがか細く彼を呼んだ。どんどん彼女の体温が下がっていく。赤松は「死んだら捨てて行こう」と思った。
「おう」
「なんか、さっきから目が見えなくて……あと体温も変で……多分、名前だけじゃ足りなかったんでしょうね……視力と、あと、恒温性、持ってかれたみたいで……」
「病院行っても治んなそうだな」
 アクルはそれを肯定してから、気分を変えるように提案した。
「山下りたら、あの宮司殺しに行きませんか?」
「おっ良いぜ! お礼参りすっか! ギャハハ!」
 二人が車を停めてある場所まで来ると、宮司はいなかった。赤松は助手席にアクルを乗せてから車に乗り込む。宮司の身柄を抑えたかったものの、部下を病院に連れて行くのが先だった。
 赤松が何気無しにカーステレオを点ける。スピーカーから「君は薔薇より美しい」が流れ出した。
 アクルは怒りに任せてステレオのスイッチを叩き切った。


「と、言うわけで、私は社会的弱視になり両利きになりました。『チョキン、パキン、ストン。はなしは、おしまい』」
 夕暮れが近い会社の窓辺。アクルは左手でアイコスを持ち、白煙を吐き出した。イノリはかなり重い昔話を聞かされてげんなりしていた。
頼まれた使いを終えて戻れば赤松とクエはまだ戻ってきておらず、丁度良いと彼女は長い長い昔語りをした。
「社長、呪われたって言ってましたけど……大丈夫だったんですか?」
 イノリが恐る恐る訊ねる。アクルは事も無げに教える。
「あの後の、確か翌日にインフルエンザに掛かって寝込んでましたね。なんでも人生で初めて高熱を出したらしくてベソ掻いてたらしいです」
「インフル程度で済むんだ……怖ッ……」
「ちなみに一般人だと、この話聞くと三日三晩悪夢に魘されます」
「ミィッ!?」
 マナーモードよろしく震えるイノリにアクルは制服の袖を巻くって笑い掛ける。彼女の細く白い腕には、巻き付く蛇の刺青のように黒い鱗が生えていた。
「こうなるよりは、ずっと良いでしょうよ」
 彼女の細腕の上で反射する鱗がぞろりと蠢いた。それから背後で、「がちゃり」と独りでに扉が開いた。



4. 憎いお前が喰えたなら


「『変なモノ』が出てきた? 壁から?」
 午後の業務はアクルの携帯電話に掛かってきた緊急連絡から始まった。

 のんびりとした冬晴れの昼下がり。年末調整も終えて事務方は一段落。会社にいつもいるメンバーはいつもより緩慢に生きていた。
 赤松は解体を依頼された工場についての資料を読んでから遠い目で窓の外を見ていた。かなりの難工事なのに依頼主がケチなので、殆ど利益の出ない見積を作る気になれない様子だった。
 イノリとアクル、そしてクエの三人は円柱型の石油ストーブで餅を焼き、干し芋を焼き、鍋でココアを練っていた。こちらもこちらで寒い月曜日はどうにも働く気になれない三人が冬限定の間食を楽しんでいた。幸いアクルに来客予定がある程度で、他に急を要する仕事は無かった。餅はイノリが食べ、干し芋はクエが食べ、ココアはアクルが飲む。「会社でストーブ出してきて餅焼いたの初めてです」「今日はもう仕事しなくて良いんじゃないか」「あったかいねぇ」なんて会話をしながらのんびりと過ごす。
 気を利かせたイノリが社長の分も、と餅を焼いていたところでアクルのスマートフォンが鳴った。会社から支給されているモノだ。この携帯に電話が掛かってくるということは間違いなく急を要する仕事の連絡だ。
 アクルはマグカップを置いて2コール目には電話に出た。現場に出ている作業員からだった。
「はい、ああ、斉藤さんどうしました?」
 席を立って赤松のところへ向かいながら彼女は電話を続ける。良くない話のようだった。
「……『変なモノ』が出てきた? 壁から?」
 アクルの声に赤松が振り返る。餅が焼き上がったので、様子見を兼ねてイノリは餅を運ぶ。
「お餅でーす」
「悪いな」
 イノリが恐々と「事故ですか?」と尋ねる。赤松は肩を竦めた。
「違うな。事故だったら俺に掛けてくるようにしてるから」
 彼の視線の先にいるアクルの顔は険しい。
「……そうですか、どんな感じになってるとか……あー、なるほど、両手を交差して、あー……分かりました。もう見なくて大丈夫です。外に出てください」
 アクルは諦めを含んだ表情で赤松に「社長、クエさん案件です」と告げた。社長は「マジか」と言い、ストーブの前で温まっていた老人を呼んだ。クエは「はーい」とトコトコやって来る。
「クエさん、今から出てもらいたいんだけど」
「大丈夫ですよ。でももしかしたら明日お休みを頂くかも知れません」
「いいよいいよ。一番大変な役回りなんだから」
 「詳細はアクルに聞いて」と赤松は言う。まだ彼女は電話で話していた。
「触った人は……あー、ベトナムさん達の他にはいない? じゃあその実習生達は別に確保しといてください。ええ、元請には触らせないで、警察も呼ばせんでください。理由は適当につけといて、なんか言われたら発狂したフリして乗り切るか社長に電話させてください。とにかく、クエさんが到着するまで現場に入らせないように」
 追い縋るような中年の声が電話口から聞こえてきたが構わずアクルは通話を切った。それから赤松達に説明する。
「廃ビルの解体で、作業前の確認をしていたら地下のフロアの壁が割れていたそうです。前日までは無かったと。別業者の施工班が何か埋まってるのに気付いて壁を少し剥がしてみたら、死体が出てきたと。半生みたいなミイラ。多分生き埋めだと思います。で、その死体が数珠と経典ぽいの握って両手交差させてると」
 「確実に障る系ッスね」というアクルの言葉に赤松とイノリは「げぇ〜」とリアクションし、クエは「あら〜」と苦笑する。
「じゃあ僕行ってきます。あ、何か持って帰らなきゃダメかな?」
 彼はアクルに尋ねる。彼女は腕組みして思案する。それから組み立てた憶測を口にする。
「多分、死体は四方の壁にあって……中央に本尊的なヤツがあると思います。本尊破壊しないと駄目でしょうね」
「じゃあ車のほうが良いよねぇ」
 すると赤松は「じゃあ尾上さん一緒に行ってやってくれ」と言った。イノリは急に指名されて「えっ」と驚いてしまう。
「あっ俺ですか?」
「うん。俺は今日のうちに見積出さなきゃいけねぇし」
「私は三時にリクルートと新卒の話をしなきゃなんで」
 赤松もアクルも予定がある。クエは既に免許を返納していた。専ら電車移動をしているクエの為に誰かが車を出さなくてはいけない。
 別にイノリは構わなかった。赤松が「なんかあったら明日休んで良いから」と言うのにかなり引っ掛かったが。


 クエを乗せて、イノリは問題の廃ビルへと車を走らせた。会社から車で一時間弱のところにそのビルはあった。
 新しく開通した、特急が停まる駅のある街。再開発計画が立ち上がり解体工事の案件も出てきた。赤松の会社が引き受けた仕事の中に、小さな雑居ビルがあった。

 その雑居ビルは新興宗教団体の持ち物だった。家賃収入が目的なのか、地下以外には最上階の四階まで居酒屋や台湾料理屋が入っていた。テナントは全て埋まっていたが、異常に入れ替わりが早かった。
 入っていた店の従業員が病気で休む、怪我で休む、傷害事件を起こす、人を殺す、自殺する、火を点ける。店の中でそんなことが起きるようになった。
 宗教団体が消えた後に残されたビルは日を置かぬ内に廃ビルとなった。不思議と、そのビルについての怪談は出なかった。

 クエが貰ってきたビルについての資料を読み聞かせてもらい、イノリは青い顔をする。そういう「噂の出ない場所」なんて曰く付きの極みではないか。
「あ〜怖い……怖いよぉ〜……死にたくない……」
「大丈夫だよ尾上くん。死んだら怖くなくなるから」
「ウワァーン! 優しい顔で怖いこと言ってくる!」
 そんな車中で到着した廃ビルの前には現場担当である斉藤が待っていた。
「あっイノリちゃん! クエさんも! 遅い! 遅いよ!」
「すみません斉藤さん。それで、あの……どんな感じですか?」
 四十過ぎの痩せた現場担当は滝のような冷や汗を掻いていた。口周りには涎の跡があった。
「さいやく、さいあくだよ。ベトナム達、胃の中全部出してひっくり返っちゃったよ」
 怖い単語ばっか聞こえてくる、とイノリが涙目でいると彼の後ろからひょっこりとクエが顔を出した。
「先に実習生くん達のとこ行こうか」
 斉藤は嫌そうな顔をしたものの、「こっちッス」と現場事務所の裏手へと案内する。
 事務所の裏に、ベトナム国籍の外国人実習生二人が蹲っていた。二人は母国語でぶつぶつと呟いている。
「あぁ、これじゃあもう駄目だねぇ」
 しみじみと老人が呟くのが一層の恐怖を煽った。クエは彼等に近寄る。そしてその痩せぎすの肩をぽんぽんと軽く叩いた。
「ハイハイ、大丈夫? 心配だなぁ僕。可哀想になっちゃうなぁ」
 彼がそんな風に声を掛けた瞬間、獣のような悲鳴を上げて実習生は飛び上がった。バタバタと手足を動かして逃げ出した彼等を斉藤が追い掛けていった。後に残されたのはクエとイノリだけだった。
「な、なんですか今の?」
「……元気になる魔法かなぁ」
「いや絶対違うでしょ」
 イノリの言葉は聞こえなかったことにしてクエはスタスタと先に行ってしまった。置いてかれまいと彼は追う。
「あ、尾上くん。コンクリ斫(はつ)るからピック借りてきてくれるかな?」
「えぇ? わ、分かりました」
 イノリは事務所で訝しげな視線を受けながら道具を借りてくる。それを持って、イノリ達は廃ビルの中へと入った。
 既に内装は取り払われていて、下地が露わになっていた。なんとなく、イノリには室温が低く感じられた。地下へと降りる階段は奥にあった。
 地下は壁がなく、ワンフロアになっていた。あるべきはずの柱は無かった。
「よくこんなモノ建てられましたね……」
 有り得ないというリアクションをするイノリに「多分設計したのも検査したのも同じムジナだろうね」とクエは淡々と返す。階段側の壁、その中央のコンクリートが剥がされていた。
 剥がされた部分に近付いて、見て、イノリは呻いて口を覆った。
割れたコンクリートから、ミイラが覗いていた。苦悶の表情を見せるミイラは交差させた手首を、何本もの釘で打たれて繋がれていた。その手にはボロボロの経典と、割れた数珠が強く握り締められていた。
 イノリは言葉も出ない。クエは「うーん」や「あららー」と間延びした声を出すだけだった。
 イノリ達の背後で、三方向から同時に「ばきり」と音がした。
 驚いたイノリは振り返る。正面、そして左右の壁の中央にヒビが入っていた。割れた場所からミイラが覗いていた。
 恐怖によって声も無く嗚咽するイノリに、のほほんとした声でクエは言った。
「あー……真ん中、剥がしてみよっか」
「俺、死んだりしません?」
「三割くらいの確率で生き残れるよ」
「低い! まあまあ低い!」
 半泣きのイノリだが仕方ない。「助けて社長」と祈りながら部屋の中央まで行き、コンクリートに電動ピックを当てた。激しい打突により硬い床は割れた。破片を退かせば、棺が現れた。
 ヒュッ、とイノリの喉が鳴る。脇に立っていた老人を見る。
「クエさん!」
「多分これが大元だろうね」
 出さないと、とクエが言うのでイノリは必要な分だけ床を砕いた。
 コンクリートの中から現れた棺は木製で、全長は1メートル程度だった。蓋には封印の札がベタベタと貼られていて、棺が開かないようになっている。
「……剥がさないほうが良いですよね」
「うん。僕等が剥がさなくても勝手に剥がれるよ」
「えっ?」
「うん?」
 恐怖で暴れ出さない自分をイノリは褒めてやりたかった。クエはスマートフォンを覚束ない操作で使い、どうにかアクルに電話を掛けた。現状を説明して対策案を話した。
「僕ん家持って行くのが一番かな。一人じゃ運べないから尾上くんに手伝ってもらって、うん。だから尾上くんも明日お休みで。はい、宜しく。元請さんには社長から連絡してもらったほうが良いかな。うん、はい。ご苦労様ですー」
 電話を切ってクエは「じゃあ運ぼうか。車に積んじゃおう」とイノリに指示する。
「あの、クエさん……説明して欲しいです俺」
 困惑と恐怖の最高値を更新し続けているイノリに、彼は「そうだねぇ」と少し考えてから答える。
「一緒に運んでもらう箱、触るだけで死ぬと思うんだよねぇ」
 それを聞いてイノリは今年一番の絶叫を上げた。


 車に棺を積み込み、イノリは道案内をしてもらいながらクエの家へと向かった。もう夕方近くになっていた。彼が家に「今日は帰らない」と連絡を入れると、同居している両親は心配したものの「頑張ってね」と言って終わった。
 チェーンのうどん屋で早めの夕食を取ったが、イノリは殆ど食べられなかった。うどんの味がおかしかった。普通の釜揚げうどんのはずなのに、どうにもドブのような臭いがする。不味くてとても食べられたモノではない。
 イノリの様子から察したクエは稲荷寿司を食べながら教える。
「ああいうのに触ると味覚駄目になっちゃうよね」
「アーもう嫌だァー……」
 泣いている彼に老爺は笑う。
「それなら会社の場所も最悪だよ。あそこ、確か処刑場じゃなかったっけ。よく『変なモノ』がいるでしょ?」
「心当たりしかないです」
 イノリは真顔で頷いた。年の功、という態度でクエはアドバイスする。
「寿命で死ねないからね、この会社」
 最早イノリは笑うばかりだった。クエは軽い雑談として昔話をしてくれた。
「僕、先代の社長、赤松くんの義理のお父さんの代からこの会社で働いてるんだけど」
「はい」
「僕の同期は全員もう死んでるし、知ってる後輩も大体死んだか手帳持ちになったよ。アクルさんが来るまでホントに酷かったなぁ」
クエは「命日をカレンダーに書いたら半分は埋まるな多分」なんてことを言いながら、苦笑いしている。
「ろ、労災ですか……?」
「あ、ううん。普通に変死」
 イノリは「変死は変死で駄目だろ」と思った。転職に関する何度目かの後悔をしている彼を放っておいて、クエはうどんの汁を啜った。
「会社を建てる場所は先代の親父さんが指定したんだって聞いたよ。凄い儲かるって御告げがあったとかなんとか言って。きっとその人も婿養子だったんだろうね。代々の社長の奥さんはみんなその手の人だったから」
「その手の人」
「なんて言うのかな、拝み屋さんていうよりは、もっとこう、行政指導とか出そうな感じの……」
「スピリチュアル系で行政指導は出ないんじゃないんですかね……」
 イノリの言葉に老人は「そうだっけ?」と首を傾げている。この人は終始こんな感じなのだと自分を納得させて、彼は聞きたかったことをクエに聞く。
「あの実習生達、結局どうなるんですか?」
 「助かりますか?」というつもりでイノリは質問したのだが、「多分明日か明後日くらいには部屋で死んでるんじゃないかな」という回答が返ってきた。「俺達もそうなりますか?」と聞いたら「どうだろうね」と半笑いで言われた。
「いやぁ、実習生くん達には悪いことしちゃったな」
「え? なんでクエさんが悪いんですか?」
「だって、僕のせいであの二人が死んじゃうからね」
 のんびりとした声が有線の流れる店内で不自然なほどはっきり聞こえた。イノリの喉が詰まる。クエは平然と食事している。
「な、なんでクエさんのせいで死んじゃうんですか?」
 じりじりと背中が恐怖によって焙られる。赤松といる時も怖いしアクルといる時も怖いが、
クエの場合は別種の恐怖を覚える。
 クエは彼の質問に穏やかな声で答える。
「僕の奥さんのせいだよ」
「お、奥さんのせいなんですか……?」
クエは彼の戸惑いに気付いていないのか話し続けた。
「彼女嫉妬深くてさ。でも今日はそのお陰で助かるかも知れないわけだしね」
 クエはそう言って手を合わせる。イノリも食べる気の失せた食事を片付ける。
「まあ、僕の家で一晩過ごしてみよう」
 老人の言葉にイノリは頷くしか無かった。


 クエの家は郊外の古い一軒家だった。二階建てで、純日本風の邸宅らしく門まであった。空っぽの車庫に車を停めて、二人は棺を下ろした。
 クエが車庫のシャッターを下ろしている間に玄関を開けて置いてくれと鍵を渡してきた。鍵を受け取ったイノリは古過ぎて無用心にも思える鍵を開け、玄関の引き戸を引いた。
「お邪魔しまーす」
 何気なしにそんな風に声を掛けた。すると奥から「どうぞ」と若い女の声がした。
「えっ?」
 イノリが戸惑っているとクエが声を掛けた。
「あれ、どうかした?」
「クエさん、一人暮らしでしたよね?」
 年末調整の書類を見ているので彼の家族構成をイノリは知っている。だからあのうどん店で戸惑ったのだ。クエに同居者はいない。離婚しており、子供達は既に成人して絶縁状態だと聞いている。
 クエは「そうだよ」とだけ答えて、棺を運ぶのを手伝うように言った。彼が暮らす古い家は広いが殺風景だった。家具は必要最低限のものしかない。二階は物置になっていると教えられた。
件の棺は一階の仏間に置かれた。イノリは部屋に置かれている大きな仏壇につい目が行く。仏壇は埃に塗れていた。供え物も花も無い。位牌は横倒しになったまま放置されている。とても手入れされているようには見えなかった。人の家のことでこんなことを思うのは嫌だが、イノリは「なんか、嫌な家だな」と思った。
棺を置いて、クエはイノリを居間に案内し、茶を出した。恐縮するイノリにクエは今後について説明した。
「今晩ここに居れば問題は無いから。怖い目には遭うけど」
「遭うんだぁ……」
「あと、僕は一人暮らしだから。誰かいても気にしないで。あと悪いけどお風呂は今日入らないほうが良いよ。怖いのが出るだろうから」
「もうずっと凄い怖いこと言ってくる……」
 半泣きのイノリをクエは宥めてテレビを点ける。酒は置いておくとすぐ腐るから、ということでイノリ達は茶を飲むしかなかった。


 夜の八時には布団を敷いて寝ることになった。あの仏間の隣が寝室だった。寝るまでに家のあちこちから物音が聞こえてきてイノリは恐ろしかった。
 クエと枕を並べてイノリは眠ることになる。物音がずっと聞こえてきて気になる。二階からだ。暗闇の中、隣の仏間に寝ているであろう「客人」も恐ろしかった。
「気になっちゃうよね」
 唐突に、クエが声を掛けてきた。真っ暗な部屋に声が聞こえた。イノリは「は、はい」と小さな声で返事をする。クエは苦笑していた。
「あの、ガタガタ煩いの、死んだ奥さんなの」
「えっあの、り、離婚されたって」
「うん。離婚して戻った郷でね。当てつけみたいに、結婚式の時に着ていた白無垢を着てね」
 ぽつぽつと、クエは語り出した。イノリは黙って聞いているしかなかった。
「僕とアレは見合いでね、結婚するつもりは無かったんだ。でもあんまりにも仲添えがしつこくてね」
 クエの話が進むごとに、物音が近付いて来ているようにイノリは感じた。二階でしていることが多かった物音が、階段の辺りからしている気がした。
「勝ち気、ってわけじゃあないんだけど。しつこい性質でさ。子供を二人も作ったけど、全然好きにならなくってさ」
 誰か、女のような、何かの足音が階段から降りてきた。それに加えて、仏間からも物音がし始めた。ばつ、ぶつ、と何かが破れる音がしている。イノリの頭の中に、あの棺の蓋に貼られている札が次々と破れていく想像が浮かんだ。
「結局、僕は仕事を言い訳にして家に帰らなくなった。女の子のいるお店に入り浸って、馴染みになった子と遊んで。アレはその度に泣いて喚いて、大変だったな」
 二人の寝ている部屋の前で、ずっと、何かが喋っているのがイノリには聞こえた。仏間からカタン、と軽い音がした。蓋を持ち上げる音にしか思えなかった。
「やんなっちゃって。僕も若かったから手が出ちゃって、そんじゃマズイって思って、殺す前に別れようって切り出した。強引に離婚届書かせたんだ。そしたら死んだんだよ」
 部屋の前にいた何かが襖を開けるのを聞いた。
「……くっ、クエさん、あの、あの!」
 襖のほうは見ないようにして、イノリは体を起こしてクエを呼ぶ。すると彼も上半身を起こしていた。安心したイノリだったが、クエが発した言葉に息を忘れるほど恐怖した。
「あ、お客さんにお茶出してなかったね」
 クエの視線が仏間へと向けられていることを、イノリは何故か闇の中で感じた。老人は仏間に向かって声を掛ける。
「おォーい」
 決して大きな声では無い。だがイノリはその声の虚さに総毛立った。
 仏間から、木の蓋が畳の上に落ちる音がした。
 イノリは自分の口を抑える。悲鳴が出て、自身が知覚されでもしたら恐怖に耐え切る自信が無かった。
 イノリ達のいる部屋と仏間を隔てている襖が空いた。足音がおかしかった。異常に、それの足は多かった。
「憎い……憎い……」
 若い女の呪詛が聞こえた。
 イノリは耐え切れず頭から布団を被った。クエの声が聞こえた。
「憎い相手が喰えたなら、お前は成仏するんだろうな」
 憐れみを含んだ声だった。それに合わせて女の啜り泣くような声が聞こえた。異常な足音は止んだ。イノリが「あれ?」と思った刹那に絶叫が響いた。何十人もの、男女の悲鳴だった。
 布団の中でイノリは身を硬くする。静かになった室内に、女の啜り泣きのような声が満ちた。彼は、やっと気付いた。女は啜り泣いているのでは無く、「笑いを噛み殺している」と。
 恐怖で肌が泡立つ。布団の外でクエの呟きが聞こえた。
「僕のことをまだ守るんだなぁ、お前は」
 絶対に違う、と思ったイノリの耳元で女の声がした。
「ちがうわ もっと ひどい目に 遭うから 生かしてるの」
 イノリは人生で初めて気を失った。


 翌朝。目覚めたイノリが携帯で時間を確認すると会社の朝礼を行っているはずの時間だった。横では既に起床していたクエがテキパキと布団を片付けていた。その顔は晴れ晴れとしていて彼は昨夜の話など出来なかった。
「あ、おはよう尾上君。良かったね、生き延びたよ」
 彼に気付いてクエは声を掛けてくる。イノリは歯切れの悪い返事しか出来ない。
「何か食べる? 一応食べられるものはあるけど」
 クエの問いにイノリは首を横に振る。なんだか具合が悪かった。肩が重くて、頭の中が曇っているような気がする。
「今日はもう、ちょっと……帰ります……」
「そっか。気を付けてね。お休みにしてもらってるんだから、ゆっくり休んでね」
 クエに礼を言って、イノリはその家を出た。「お邪魔しました」と玄関で声を掛けると「はぁーい」と若い女の声が返ってきた。
 イノリは逃げるように車へと乗り込む。がちがちと震える手で鍵を差し込んでエンジンを掛けた。ハンドルを強く握り締める。氷水の中に全身が沈んだような心地だった。悪寒が酷い。ゆっくりとレバーを動かして、車を発進させる。事故を起こすわけにはいかなかった。


 法定速度で車を走らせるイノリは会社を目指していた。使っている車は社用車だが、すぐに返さなくてはいけないというわけではない。イノリは家に帰るのが怖かっただけだ。クエの家にいた女が、ついてきている気がしてならなかった。幸い、会社までは三十分程度の道程だった。恐怖に耐え切れるギリギリの距離だった。
 「神様仏様赤松社長、どうかお助けください」と彼が祈りながら車を走らせていると、無人のはずの後部座席から女の声がした。
「あの男が 目を掛ける全てが 気に入らない」
 イノリの背に悪寒が走る。ハンドルを強く握り過ぎて両手から真っ白になる。アクセルを踏み込まないように歯を食い縛る。女の声は続ける。
「あの男が 気にする全てが 気に入らないの」
 女は完全に彼に向って話していた。怖くてルームミラーを見ることが出来ない。会社にはまだ着かない。信号に捕まる。
「あの男が 優しくする全てが 腹立たしいの」
 すぅ、と白い手が運転席の後ろから伸びてきた。女の手だった。爪が伸び切って、シミが浮んだ手だった。視界に入れたくなくてイノリは目を閉じた。怯える彼の首に冷たい指が巻き付く。白魚のような十本の指が、ぎゅう、と締め上げてくる。信号が青に変わる。
 声にならない悲鳴を上げてイノリはアクセルを踏み込んだ。法定速度のことは忘れてとにかく車を走らせる。その間に女の手は彼の首を絞め続ける。気道が徐々に狭まっていく。イノリは半泣きになりながら叫ぶ。
「幻覚! これは幻覚! 俺は今日も出勤! こんにちは労働おはよう労働!」
 オリジナル労働賛歌を歌いながら、イノリは車を飛ばす。女の手は相変わらず首を絞めてくるし、酸欠気味になっている気がした。彼はそれを意識から無理矢理除外する。ブラック勤め時代に培った技、「寝なくても元気になった気になる思い込み」の応用だった。流石に無呼吸には耐え切れず、社屋が見えた途端に意識を失った。


「もしもし、もしもし? 大丈夫ですか?」
 優しい声を掛けられて、イノリは目を覚ました。気付けば会社の駐車場に彼は立っていた。驚いて辺りを見回す。見知らぬ黒のレクサスの隣に、乗ってきたはずの車はきちんと所定の位置にバックで停められていた。そして隣には、美しい留袖姿の女が立っていた。長い黒髪をシニヨンに結った彼女は三十手前ぐらいに思える。美人画からそのまま現実へと踏み出してきたような彼女の手には弁当らしい包みがあった。
出で立ちは高級クラブのホステスのようだったが、イノリは彼女の姿を視認した途端に腰が抜けた。生きてきた中で、一番怖いものが目の前にいると思った。
女はへたり込んだ彼を見ても驚かなかった。なんだか納得しているような顔で、「ああ、新入社員か」と呟いた。
「セキショーくんのための『社畜』だっけ。囮役の貴方がいてくれるお陰でセキショーくんが楽しそうだよ、お礼を言わなきゃ。『巫覡』も仕事が楽になるだろうし。貴方がいれば話の道筋を立てるのに集中できるから」
 イノリを見下ろして彼女は何か話していた。恐怖で頭が一杯になってしまったイノリには一切分からない。
女は思い出したように自己紹介した。
「夫がお世話になっています。国定赤松の妻のリセと申します。今後ともどうぞ宜しくお願い致します」
 「リセ」という名前にイノリは聞き覚えがあった。以前アクルから聞いた、「スッゲーおっかねぇ」赤松の妻の名前だ。何か返事をしなくては、と彼は思うが上手く舌が回らない。縺れる舌を噛む。気持ちが急く。彼女の機嫌を損ねたくなかった。
 リセはイノリを少し眺めていたが、飽きたのか「じゃあ中に入ろうか」と声を掛けた。
「尾上さん、腰抜けちゃったみたいだね」
「ひ、は、はひ、はい……」
「あはは、立て」
 底冷えする声に命じられて、イノリの体は一瞬で直立した。彼にもどうして自分が立ち上がったのか分からなかった。
「じゃ、行こうか」
 先に歩き出したリセに従ってイノリも歩き出す。なぜリセを見ると自分が恐怖の極限に追いやられるのか分からないが、それを問うのも怖かった。「この人に命を握られている」と直感的に思うだけだった。
 会社に常駐している赤松達が詰めているフロアに二人が入ると、やはり赤松とアクルが出勤していた。扉を開けて入ってきたリセを見て席にいた赤松達は酷く驚いていた。
「セキショーくん、弁当置いていったでしょ? 持ってきてあげたよ」
 微笑むリセに赤松は顔面蒼白になって駆け寄る。
「マジですいませんしたァッ!」
 勢いそのままに跪いて弁当を受け取る夫に、彼女は優し気な微笑を湛える。
「二度とするな」
「ハイッ! しませんッ!」
 イノリはあの赤松が平身低頭しているのを見て戦慄する。あの暴力の化身みたいな男が、自分より年下であろう妻に平伏している。怖くて目を逸らすと、席で硬直していたアクルと目が合った。そろそろと夫妻から離れてイノリは彼女に近付く。
「あ、あの、アクルさん、大丈夫ですか?」
「…………いや、あんまり……あの人怖いから」
 アクルがそう言った途端にリセが彼女を見る。それだけでアクルの息が止まった。
「新入社員、『持衰』の家から女連れで此処へ来ていたよ。私を見て消えたけど」
「す、すみません……」
 アクルが掠れた声でリセに謝罪する。それにリセは「良いよ良いよ」と言いつつも釘を刺す。
「説明くらいしてあげなよ。あの家の女は嫉妬深いんだって。『持衰』は身代わりにしかならないんだから」
 空気がどんどん冷えていく錯覚をイノリは覚える。アクルがガタガタ震えているせいかも知れない。
「はい……」
「な、なありっちゃん! さっちゃんはどうしたんだ?」
 空気を読んだ赤松が妻の意識を無理矢理引き戻す。問われたリセは彼のほうに向き直った。
「? お父さん達のところ。私これから琴のお稽古行ってくるからその間だけね。娘の心配するなんてパパらしくなったねー」
 よしよし、と上機嫌でリセは背伸びして赤松の頭を撫でている。撫でられている赤松は嫌そうな顔をするが逆らわなかった。
 満足したのか、リセは「お騒がせしました」と帰っていった。恐らく彼女が乗ってきたであろう車のエンジン音が聞こえ、遠ざかったところで三人はやっとちゃんと息ができた。どっと倒れ込む赤松、机に突っ伏すアクル、床にしゃがみ込んだイノリ、全員が同じ音量で溜息を吐いた。イノリは赤松に言った。
「社長、奥さん超怖いッスね……」
「だろ? 俺もすっげぇ怖い……」
 「でも俺の奥さんなんだよ」と赤松は言うので、アクルは失笑し、イノリは苦笑すら出来なかった。




5. 血の色だけが同じ赤


 燃え盛る焔のような夕陽が寺近くの雑木林を染めている。少年はそれを見ている。木立の薄暗がりが徐々に黒く濃くなっていく。その中に蠢く何かが見える。彼には見える。赤松には見える。彼にはずっと小さな子供の頃から、人間ではない何かが見えている。
 彼は忌々しげに睨む。少年とは思えぬ形相で木陰を睨む。そうすれば、連中は勝手に逃げていく。連中は彼を恐れて逃げていく。
この衝動を発散させる相手は何処にもいない。それが赤松を更に苛立たせ、世界と己を憎悪させる。


 赤松が自分の特異性を初めて知ったのはまだ七歳にもならない時だった。毎晩毎晩、家の隣にある墓地が煩くて眠れない時があった。赤松の家は大きな寺で、父親は忙しかった。それに家庭を殆ど優先することのない男だった。幼い長男の訴えを聞く暇など無かった。仕方なく手伝いに来ている檀家の老婆に言った。幼い赤松と小さな彼の弟、それとほぼ寝たきりの母親を、檀家の妻や娘が持ち回りで世話をしていた。
 赤松が「家の隣にある墓が煩い」と訴えると、老婆は首を傾げていた。
「お墓が煩いって、夜中に?」
「そうだよ。なあ、墓場でなんでさけんでるヤツいんの?」
 毎夜、墓場で誰かが叫んでいる。大勢の誰かが叫んでいる。狂ったように笑っている。それが煩くてとても寝てはいられない。だから仕方なく弟と昼寝なんかしている。
 赤松がそう訴えると老婆は一瞬怯える。それから「怖い話しないでよぉ」と彼に笑い掛けた。家に出入りしている人間全員に聞いても、誰も理解を示さなかった。だから仕方無く、弟を証人にしようと思った。


深夜。眠っていた赤松は墓場から聞こえてくる絶叫で目覚めた。赤松は隣で寝ていた三歳の弟を叩き起こした。幼児のくせに泣きも笑いもしない弟は、起こされて不機嫌そうに唸るだけだった。
 弟の首根っこを掴んで赤松は窓へ向かう。兄弟が寝ている部屋は母屋の二階にあり、その窓からは墓場が見えた。
「おい、おいねるなセイショー! ホラそと見ろって!」
 乱暴な兄の声で仕方なく青沼は背伸びして窓の外に目を向ける。赤松も同じように墓場を見ていた。
 闇の中に墓場がぼうっと浮かんでいる。代々、寺で供養している死者達の眠る場は静謐な夜に佇んでいる。赤松の生まれた国定の家は、手入れを欠かすことは無くきちんと菩提を弔ったはずだった。
 御影石が月明りを拾って、輪郭を輝かせている。墓地は広い。墓石は群れを成している。その合間に、白い何かが見えた。それは人の形をしていた。目鼻も耳も無く、到底生きている人間には見えない。ぽっかりと、大きな口を開けて叫んでいた。
 それ等は大勢いた。
「あああああしああああああねあああああああああああああしあああああねあ」
「あああしあああねああああしああああああああああねああああああああああ」
「あああああああああしああああああねああああああああああしああねあああ」
「ああああああしああああああああああねああああああああああああああしね」
 激しい絶叫が、赤松には聞こえている。白い人影が叫んでいるのを見ている。
「な、なあおい! 見えるか!? 見えるだろ!? なあ!?」
 隣に立つ弟の肩を揺さ振って、赤松は訴える。自分だけが見えていると思いたくなかった。せめて弟にも見えていて欲しいと思った。だが答えは無常だった。
「みえない。もういい? ねる」
 青沼はそう言って、さっさと寝床に戻ってしまった。赤松は自分ひとりだけが見聞きしていることを思い知り、そして激しい怒りを覚えた。
そう生まれついてしまった自分に怒りを覚えた。


 赤松が小学生になると、周囲と自身の違いを否が応でも感じた。見えないものが見え、聞こえないものが聞こえる。頭の中で暴れ狂う衝動に苛まれる。なんでも良いから壊したいし殺したい。目につく人間を殴ってやりたい。そう思うのは赤松だけだった。
 度重なる注意によってどうにか人間の定めた法律を理解した赤松だったが、成長するにつれて我慢が利かなくなっていった。中学では売られた喧嘩を買って同級生上級生合わせて二十人近くを病院送りにした。道端で年上のチンピラに絡まれ、返り討ちにして警察に連れていかれたこともある。
 赤松は暴力を伴う行為を「楽しい」と思う。それ以外娯楽らしい娯楽が彼には無かった。それでも人間を殴るのは宜しくない、と長年の学習で理解していた。いつも殴って良くて、壊して良いものを探していた。


 ある晩。赤松は街を彷徨っていた。学校が終わって、大嫌いな家に帰る気になれなくて歩き回っていれば夜になっていた。気付けば深夜だった。
 流石に不味い。この前は警官に見つかって補導された。赤松は苦い体験を思い出して渋々だが帰路についた。幸い、警官に見つかることなく家の近くへと戻ることができた。赤松は家の隣にある墓地の前を通る。やはりあの白い人影達はいた。
「あああああしああああああねあああああああああああああしあああああねあ」
「あああしあああねああああしああああああああああねああああああああああ」
「あああああああああしああああああねああああああああああしああねあああ」
「ああああああしああああああああああねああああああああああああああしね」
 弟を証人にできなかったあの夜以来、赤松は彼等を無視した。今日は無視することができなかった。
「うるっせぇえええぇぇええぇぇッ!」
 墓地の塀を飛び越えて赤松は走る。墓石を飛び蹴りで倒す。白い人影を殴る。全て壊すつもりだった。全部台無しにしたかった。何もかも自暴自棄だった。
 墓石を蹴り倒した感覚は正しく「墓石を蹴り倒した」感覚だったが、人影を殴った感覚は「人間を殴った」感覚だった。それが人生で一番素晴らしい感覚なのだと赤松は思い、喜びに胸を震わせ、哄笑を上げながら人影を殴り、蹴り、引き裂いた。彼等は赤松に殴られると黒い靄となって消えていった。
 赤松はそれを「幽霊」だとは思わなかった。幽霊であるならば、心を病んで死んだ母親の姿が見えないのはおかしかった。
 彼と兄弟達の母親は、赤松が中学一年生の時に自殺した。自分を産んだ女から愛情を向けられたことなど一度も無かった。だから悲しみを覚えることは無く、清々した気分だった。
死んだ母親が彼の前に現れることは無かった。赤松自身も期待などしていなかった。
「俺、人間じゃねぇのかな。血の色だけが同じ、赤いだけの、別の生き物なんじゃねぇのかな」
 夜中の静寂に満たされた墓場にひとり立っている赤松はそんなことを呟いて、世界と自分を呪いたくて堪らなくなった。


 赤松は中学を卒業してすぐにでも家を出るつもりだった。父親を含む家族が大嫌いだった。このまま家で暮らし続けるくらいだったら死んだほうがマシだと思っていた。義務教育を終えてやるのだから好きに生きていきたかった。路上で野垂れ死んでも構わないと思っていた。
 今日も学校から帰ってすぐに鞄を自室に放り、台所に置いてある、生活費が十分過ぎるほど入れられた共用の財布から金を抜く。子供達の小遣いもこの財布に入れられていた。今日から夏休みが始まる。暫く家に帰らずに済む。
 勝手口から出て行こうとしたところで、弟に見つかった。弟の青沼はいつも通りの顔をして赤松を見ていた。
「赤松」
「なんだよ、止めんのかよ」
「今日、お前の担任が電話を掛けて寄越した。『もう三年生になるのに高校を受験する気が無い』と」
「悪いかよ。高校なんか行かねぇし、こんな家出て行ってやる。お前もさっさと出て行った方が良いぜ」
「行く当てはあるのか?」
「ねぇよそんなもん」
 青沼は呆れたような顔をした。
「計画性を持て。なんでそう考え無しなんだお前は」
 四つ下の弟にそう宥められて赤松は頭に来る。
「なんでテメェはいつもいつもそうスカしてやがんだ、頭に来るぜ」
「気が合うな。私もお前の脳味噌の足りてなさに腹が立つ」
 カッとなった赤松が青沼の胸倉を掴む。その瞬間、青沼は手近にあった醤油の一升瓶を掴み、即座にシンクの縁に叩き付けて割り、赤松の顔面に向かって振り下ろした。瞬きの間に殺しに掛かってきた弟に驚いて赤松は手を離した。顔に鋭い痛みが走り、熱い何かが頬を伝う。血だった。
 小学生の弟に凶器を突き付けられて赤松は怒鳴る。
「危ねぇだろうが!」
「先にお前が手を出した」
「限度ってモンを弁えろイカレ野郎!」
 「痛ェなクソ」と悪態を吐いて、赤松は傷を手で覆う。傷は左の眉を裂いている。青沼は気が済んだのか、割れた瓶をシンクに投げ込む。耳障りな音がした。
 弟は何事も無かったかのように話し出した。
「多分、お父さんが心配する。そういうのは駄目だ。面倒が多い」
「知らねーよ」
「知らねーよ、で通るか馬鹿。せめて『親戚の家に下宿させてもらって高校に通うことにした』ぐらいにしろ」
「お前の指図は受けねぇ」
 兄の言葉を聞いて青沼は溜息を吐き出しながら、シンクの中に捨てた瓶を再び掴む。赤松は「だからそれやめろよ!」と叫ぶ。諦めて彼は弟に言った。
「とりあえず先に病院行くわ」
「保険証持って行けよ」

 結局、赤松は中学三年生の途中から県を一つ跨いだところにある親戚の家に下宿することになった。殆ど連絡を取り合っていなかった親戚の家だった。
 赤松は家を出る資金を作るために夏休みのアルバイトを探していた。彼は体格が良かったので、年齢を詐称すれば構わないと思っていた。そして読んでいたタウンワークで「国定」という名字が社名に入った解体業の広告を見つけた。もしかして、と応募してみると父親の従兄弟が経営している会社だった。赤松にとっては叔従父になる。面接の際「バイトしなくても小遣いはもらってんだろ?」と言うので、赤松は正直に理由を話した。「家を出たい」という彼の希望を聞いて、叔従父はそれまで殆ど親交が無かった赤松を雇うことにした。赤松は夏の間、叔従父の家に住み込みで働かせてもらえることになった。
 二週間ほど生活を共にした頃、叔従父に進学を奨められた。
「このままウチで働いて欲しいから土木系のある高校行かない? 費用出すぞ?」
 親父の血筋は全員金の使い方が変なのだろうか、と赤松は思った。流石に今回ばかりは死ぬほど嫌いな父親に連絡した。叔従父が話した進路先について伝えた。すると父親はいつものように、無関心に言った。
「お前がそれで良いなら、こっちでお金を出すから下宿させてもらいなさい。お前は、家にいたくないんだものな」
 赤松はその言い草に怒鳴りそうになった。それでもどうにか堪えた。「全部テメェのせいだろうが」という恨み言を、どうにか飲み込んだ。

 赤松が父親を嫌うのは、父親の性質が気に入らないからだ。父親は悪い人間ではない。他者へ施す慈悲があり、誰でもその手を取って救ってやりたいと思っている。だがその中に「家族」は含まれていない。父親にとって優先すべき相手は他者なのだ。家族ではない。赤松はその性質が気に入らない。父親のせいで母親以下家族は頭を病んでいる。自分もそうだ。破壊衝動に毎日苛まれている。
 家族が駄目になっても父親は「困った」という反応しかしない。殺してやりたくなる。だから父親が嫌いだ。父親を赦す家族が嫌いだ。その最たる青沼が嫌いだ。


 父親の許可が下りたので、赤松は無事に叔従父の家で暮らすことになった。夏休みが終わった後は学校まで従業員が現場に向かうついでに途中まで乗せていってくれた。
 叔従父の家族は転がり込んだ彼にとても優しかった。叔従父には妻と「禮猩」という名前の娘がいた。家族は彼女を「リセ」と呼んでいたので赤松もそれに倣った。リセは小学校中学年で、思春期間近のただでさえ気難しい時期が始まるはずなのに、赤松によく懐いた。リセは礼儀正しい娘だったが、「お金持ちのお嬢様」というより「ヤクザのお嬢」という雰囲気の少女だった。社員によく「今日は機関銃お持ちじゃないんですか?」と揶揄われていた。父親はそれを聞いて笑っていて、事務職を担当している母親は「ショートも似合うよきっと」と微笑んだ。
 こういうのがきっと「普通の家庭なのだろう」と赤松は憧憬を抱いた。そんな赤松に、リセは兄弟のように接していた。
「セキショーくん、高校受験頑張れよー。ウチは人手不足なんだからさ」
「りっちゃんはオヤジさん想いなんだなぁ」
「違うよ。自分の寝床は確保しておきたいんだよ。セキショーくんは舗道とかで寝られる人?」
「おう、全然寝られるぜ。小学校ン時に段ボールと新聞紙で家作るオッサンに弟子入りした」
「信じらんねぇ。私は屋根と布団が欲しい。あと布団乾燥機」
 赤松は思わず笑ってしまった。俗物的にも程がある。彼女の幸せは自分の家があることなのだろう。赤松の持ち得ない感情だった。リセは笑う彼に膨れ面をする。
「笑ってんなよー。あ、まだ欲しいモノあるわ」
「まだあるのか。風呂?」
「セキショーくんだよ。私の寝床にいれば完璧だな」
 その言葉に、赤松は思わずビクリとしてしまった。あまりにも少女が真っ直ぐな瞳で彼を見て、言葉を向けるものだから、心臓が変な跳ね方をした。だから「オヤジさんに殺されちまうぜ、俺」と言葉を濁して赤松は逃げた。


 高校に進学した赤松は、今度は教師に奨められて大学にも行き、そして叔従父の会社に就職した。彼が高校に入学した頃からリセの好意は色合いを変えた。リセは昼食の弁当を作って彼に持たせたり、休みになれば二人きりで出掛けたいと言い出したり。赤松も彼女のことを憎からず想っているが、流石に世話になっている家の一人娘に手を出すのは勇気が必要だった。
 リセの言い寄られるままに、彼女の好意を無碍に出来ないために、気付けば赤松とリセは親公認の交際をしている仲ということになった。
 赤松が就職し、国家資格を幾つか取り、取引先から表彰を度々受けてキャリアを積んだ。そんな時に、リセから唐突に「結婚しよっか!」と言われた。リセは卒業を控えた美しい女子大生になっていた。
 卓袱台の上に並んだ家庭的な夕餉を中心に、四人の食卓で夕飯を囲んでいた。隣に座っていたリセから唐突にプロポーズを受けて赤松は噎せた。赤松は彼女の両親を気にしながら宥めた。
「唐突過ぎない? なぁりっちゃん、もうちょっとよく考えなよ」
「うるせぇー! 私との結婚に文句あんのかー!?」
 リセは成人してから父親と毎晩晩酌している。酷いことに彼女は酒癖が悪く、怒るとすぐに手が出る。デートの誘いを断ればビンタされ、某有名テーマパークでの記念撮影時に要求されたキスを拒否すれば殴られた。この時も赤松はリセに頬を引っ叩かれた。あまりに力が強くて赤松は思わず床に倒れた。口の中で血と焼いた鯖の脂が混ざる。
 それまで穏やかとは言えない顔でビールを啜っていた叔従父が娘の暴力を咎める。
「コラ! すぐ殴るなリセ! お父さんは結婚に反対しないが、お前の馬鹿力で殴ったら赤松が死んじまうだろうが!」
 母親も父親に賛同する。
「お父さんの言う通りよリセちゃん。力加減を考えなさい。婿養子を殺しちゃ駄目よ」
 赤松は地面に倒れたまま「何故か結婚する方向に話が固まっている」と思った。どうにか起き上がり、赤松は「いやあの」と口を挟んだ。
「オヤジさん達も、もうちょっと考えてくださいよ。大事な一人娘の結婚相手ッスよ?」
「赤松テメェ俺の娘じゃ不服だってかァ!?」
「そんなこと言ってねぇですって!」
「赤松くんが婿に来てくれると嬉しいんだけど。ほら、リセちゃんすぐ手が出るから頑丈なのが良くって」
「俺は家電か何かですか!?」
 ドン、とリセがグラスを卓に置く。
「なんだよセキショーくん、私との結婚に文句でもあんのか? あ?」
 凄み方がヤクザなんだよなぁ、と赤松はしみじみ思う。それから佇まいを正した。
「俺じゃ駄目なんだよりっちゃん。つかまだ女子大生なんだし」
「歳は関係ないじゃん。私がしたいっつってんだよ」
「お、俺以外にしなって。俺みたいなんじゃなくてさ、りっちゃんのこと幸せにしてくれる人と結婚しなよ」
 赤松が言い終えた途端、もう一発ビンタが飛んできた。彼の視界に星が飛ぶ。父母が諫めるのも聞かずにリセは倒れた赤松を殴る。何度も殴る。
「私はッ! セキショーくんとッ! 結婚したらッ! 幸せッ! なんだよッ!」
 ドスドスと重い音を響かせて、リセは握った拳で赤松を殴る。
「グヘッ! いや、俺、グッ! ま、マトモに、育たなかったから、グェッ! だ、だめなんだよ、な、殴んのやめて!」
「うるせー! 結婚すんぞ! 幸せにしてやっからな!」
 馬鹿みたいな啖呵を切るリセがなんだか格好良く見えて、赤松は「こういうところが好きだなぁ」と思った。「幸せにしてやる」と彼女が言うのだから、その誘いにちょっと乗ってみるのも良いかも知れない。このままリセと一緒になれば、まともな人間になれるかも知れない。それとは別に普通に痛いから殴るのをやめて欲しい。
「す、する! 結婚するから、殴んのやめて!」
 そんなわけで、赤松は妹のように思っていたリセと結婚することになった。赤松が「せめて会社でもう少し偉くなったら」と言ったところ、叔従父は「じゃあお前来年社長やれよ」と言われた。退路は無かった。叔従父がまだ現役の間に無茶苦茶な人事をされても困る。だがどうしようも無かった。


 赤松は結婚式に自分の家族を呼ばなかった。電話で弟に「結婚すっから。そんだけ。親父には縁切られても構わねぇって言っといてくれ」と伝えた。青沼は「そうか」とだけ答えて、通話が終わった。
 結婚式を終えて、帰宅後にリセの父親と二人きりで酒を飲んでいた。母娘は先に就寝してしまった。叔従父は何気無しにぽつぽつと語り始めた。
「後出しジャンケンみてぇで悪いんだけどさ、ウチの娘、つーか嫁の血だな、ちょっとワケ有りなんだわ」
「わ、ワケ有りですか」
「犬神憑き、の亜種だな。全部自分の思い通りになるんだ。俺も赤松みたいな結婚の仕方したんだぞ」
 恐ろしいことを言われているのだと、赤松は思った。だが今更リセから逃げられるとは到底思えなかった。
 赤松は自分の稼ぎで家を建て、リセと共に暮らし始めた。相変わらずリセは暴力的だったが赤松は許容していた。リセとの暮らしはつまらないメロドラマに出てくるような、円満な家庭のようで、赤松には暖かい日々だった。相変わらず何でも良いから壊したいし、誰かを殺したい。だがリセにはそう思わない。リセが怖いからだ。殺せる気が全くしない。だから赤松はリセと結婚して良かったのだと思った。


 結婚して数年が経ち、リセがまた夕飯の席で爆弾を落とした。
「子供作ろっか!」
 赤松はその晩の食卓に並んでいた生姜焼きと白米を噴き出した。ゲホゲホと咳き込んで、赤松はリセに問い直した。
「こ、子供ぉ? い、いや、あの」
「あ?」
 リセがすかさず圧を掛けてくる。赤松は慌てて言い訳する。
「む、無理だって! ホント、俺、子供の世話できねーよ! 愛情のかけ方も、されてねぇから、分かんねぇし」
「うるせぇー!」
 妻の鉄拳が飛んできた。
「り、りっちゃん痛ェよ、殴んないでくれよ」
 殴られた頬を押さえて赤松は懇願する。酒を飲んでいないリセは識者のような面持ちで腕組みする。
「セキショーくん、変なところで自己嫌悪するよね。大丈夫だよ。何故なら私がセキショーくんの妻だから」
「なんなのその根拠の無い自信」
「お父さんとお母さんに愛されて育った女がセキショーくんの嫁なんだから、セキショーくんは私の真似してれば良いよ。子供を無視したり殴ったりしなきゃ、ひとまず人の親としては多分許されるよ」
 赤松は「雑な考え方だなぁ」と思い、リセを羨んだ。両親からの愛情を認知できる妻が、赤松は素直に羨ましかった。
 気を取り直して赤松はリセに言った。
「も、もうちょっとよく考えようぜ。人の人生を左右する立場になるわけなんだしさ」
「考えてんじゃん。私もセキショーくんも」
 リセはそう言って台所へと向かい、晩酌用に買った清酒の一升瓶とコップを持って現れた。
「よし、吞むか!」
「えっ」
「私の酒が呑めねぇってか!」
「早いんだよ怒りの着火が! チャッカマンかよ!」
「アァッ!? 良いから吞め!」
 そうして赤松はリセにしこたま酒を吞まされた。赤松は気絶した。妻の妊娠が発覚したのはそれから二月後だった。「死にてぇ」というのが赤松の最初のリアクションで、即座にリセにブン殴られた。
 赤松は予期せぬ形で人の親となり、伴侶に教えられながら生まれた子供に愛情を与えてみた。生まれたのはやはり娘で、「犲緋」とリセが名付けた。女の子にしては厳つい名前だが、妻が良ければ良いのだろうと赤松は思った。「さっちゃーん」と彼が抱いて呼べば嬰児は笑う。例え猿真似でも、自分から娘へ、愛情が伝わっているのだと赤松は信じることにした。

 赤松は家庭を持ってやはり思うのだ。自分の父親を殺してやりたいくらい嫌いだと。









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