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彼と私のエゴと依存と寂しさと

私たちは幼少期の頃、親から充分に甘やかされていないがために慢性的な「寂しさ」がある。

どちらの親の背景を考えても「それは仕方のなかったことだと思う。親には余裕がなかったんだよ、きっと」と言えてしまうほどの環境だったとお互いがお互いを慰めあった。

私は彼と出会うまで、寂しさはお菓子やスイーツのような甘いものを毎日食べることや音楽や映画、本などの娯楽でその気持ちを紛らわせていた。

彼は私と出会うまで、自分で望まなくてもいつの間にか1人でいることが多く、その期間が長く続いたことから慢性的に寂しさに慣れている時期が続き、たまに漫画やテレビを観たりすることで紛らわせていた。

きっと親から受け取れなかった分の愛情を私たちは埋め合わせようとして毎日のように「好きだよ」「可愛いよ」「愛してる」「かっこいいよ」ってお互いのことを褒めあって讃えあっては、おはようとおやすみと愛しいのキスとハグをたくさんした。

でもお互いに解消できない「孤独感」はずっとあった。

私は彼との生活が自分の中心のようなものになり、人から愛されていることを実感することによってお菓子も甘いものも毎日摂取しなくてもよくなった。

でも彼は1人の生活に慣れていたことが信じられなくなるほど「昔は大丈夫だったけど、もう1人じゃ無理になった。一緒じゃなきゃ嫌だ。」と孤独と寂しさを取り戻す日々を送ることになった。

同じ部屋で同じ時間を何日過ごそうとも、抱きしめあったまま眠りについて何時間経とうとも、目を覚ましたり、現実を直視すると

「自分は一体、何をしているのだろう」

「このままじゃダメな気がする」

という気持ちが私には浮かんできた

反対に彼は

「もっとずっと一緒に居たい」

「寂しい、近くにいてくれるなら、何をしててもいいからそばにいて」

と、今まで蓋をしていた感情が堰を切ったかのように流れていた。

そのうち、お互いがお互いのことをずっと愛し合うのは暗黙の了解であるような雰囲気になって、ひとたび別の場所に居場所を作ろうものなら

「寂しい」と言われて、

「大切な人が寂しがっているから一緒に居たい」という気持ちと

「このままだとお互いが発展せずにどんどん朽ちていってしまう」という気持ちが私の中に浮かび上がってきた。

そして一緒に過ごすにつれて「ダメだ。このままだと共依存になってしまう」とこの場から離れようと決意した。(でもこんな決意を打ち砕くほどの彼の甘さが自分の最終決定を先延ばしにすることは簡単だった)

私にとって彼が寂しさを埋め合わすだけの存在だったらよかったのかもしれない。

でも彼は彼の人生に私をどんどん絡めていっては自分よりも私の行動を縛って外堀から埋めていくように自由を奪っていくようになっていたし、でも自分が核として譲れないとしていたことを頑なに守ってくれていた彼の姿をみて、自由を奪っているのはお互いさまだと変な対等関係のようなものを構築してしまっていた思う。

でも人間どこか脆い。

お互い、自分のコンプレックスで自己嫌悪する夜もある。

そう、地獄の淵に立たされてしまったり、どんどん海の底へ沈んでしまう夜のことだ。

良くも悪くもお互い同じ部屋で同じ時間を過ごしているから、精神的に脆い状態の彼を見ては、うんと話を聞いて「もっと言って」と言われるがまま自分はこれだけあなたのことを愛してるということを夜特有の気分に口を任せたまま彼を慰めることが多かった。私も彼に同じことをしてもらっていた。

好きな人が困っていたら助けたくなるし、目に見えて助けたことが役に立っているとわかるとやめるにもやめれなくなるループ。私たちはこれが負に働いていたことが多かった。

お互いに信頼できる友達が近くにいないことも、きっと二人の世界を作り上げることが容易にできた原因でもあった。

地獄の淵に立っていても、手を取ってその場から連れ去ってくれる感覚。

海の底に沈んでいく自分を見つけては、空の方へと運んでくれている感覚。

負の感情に飲み込まれそうになっていたらお互いが言葉で温めあっては、抱きしめて「大丈夫、何かあったらまた話を聞くし、こうして抱きしめ合おう」と人の温もりという一種の依存性の高い薬のようなものを知ってしまって尚更離れがたくなった。

恋愛と仕事の両立が大事だと人はよく言うけれども、私は恋愛が絡むと仕事よりも相手との生活にウェイトを置きがちで俗にいう「重い人」と呼ばれる人種になりがちである。

自分の「重さ」を自制しつつも相手が「重すぎる」と思わない程度にコミュニケーションを図ることが、他の人が思っている以上にメンタルを擦り減らすので、かなり疲れるし「仕事で高みを目指そう!」となりにくいのである。

なんなら、現状維持のままでいいから自分の恋人と一緒に楽しく過ごす日々をくださいとまでだれかにお願いできるくらいの器量である。好きな人と過ごす生活を重視するあまり、仕事に対しての器量の小ささは否めない。

「ぶっちゃけ、まだ全然軽い。もっと重くなってよ。」なんて言われたときには「堕ちるところまで堕ちてしまおうか」と思うほどぐらついたこともあった。

最早、愛なのか執着なのかよくわからないぐちゃぐちゃな心のまま彼と生活をして、少し悪い意味で慣れてきた頃、

「もう抗う力が限界まできている気がする、ここはもう諦めてしまおう。ずっと一緒に過ごすことを望んでくれているのだ、毒とうまく付き合ってこの人と一生を共にするか」となりかけた私を見かけて、親友が言葉のビンタを私に送った。

そこでやっと目を覚ましたからこそ今、ここに一人でも楽しく生活している。またお菓子やスイーツ、音楽に映画に本と娯楽と甘いものを過剰に摂取しては寂しさや孤独とどうにか戦っている自分がいるが、あの時よりも心が軽くて自由だ。

でも未だに5歩後ろぐらいには、まだこの地獄があって、どうしようもなくやるせない夜は間違えそうになったりもするけど理性が働いてどうにか立てている。

どんなカップルも他の人たちには見えない悩みや葛藤があって、

きっとどこか善悪じゃ判断しづらい話せないあんなことやこんなことがある

自分の善悪に従うか、社会の善悪に従うか、彼の善悪に従うか。

多分この選択の中で人は揺らいで迷って悩んでもがくのだと思う。

人は1人では生きられないという考えを否定したくなる自分がいるけれど、でも変わらず私はこれからも誰かを求めては2人、もしくはそれ以上の人と過ごしていくと思う。

「お互いが安心して抱きしめ合うことができて適度な距離を保てる人と出逢うこと」「その人に対して尊敬できる部分を持っていること」がきっと私の恋愛では幸せな恋愛に繋がると思っている。

でも、互いにどこか「たりない」けど愛しあうような恋愛の作品を観ると、過去の恋愛を思い出してどこか恋しくなる気持ちになったりもする。

自分の地獄は孤独感と寂しさがたくさん詰まっていて、この先誰かに裏切られては好きな人に抱きついて泣きわめいてしまう日も来ると思うけれど、どこまで進んでも好きな人と自分は1つじゃなくて2人だから、自分の脆さを愛しつつも、好きな人を支えられる強さが欲しいと思った。

2人で居ても、1人でいられるような安心感を。

1人で居ても、生きていける強さを。

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