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東北ひとり電車旅で感じたこと。若さと、出会いと、少しの行動力の大切さ

今年2月下旬から13日間、東北を旅した。青春18切符と時刻表を片手にその時行きたいところへ行く、気ままな旅だ。
私は元々旅行が好きだが、中でもこの旅は自分の今後の人生にも輝き続けるものだと思う。
この旅で感じた「若さ」と「出会い」と「少しの行動力」の大切さについて、書き付けていた日記をもとに思い出に浸りつつ書いてみたい。

そもそもこの旅を思い立ったのには、特別なきっかけがあったわけではない。
大学生活の中で一度は、時間に縛られない1人旅をしてみたいという気持ちは漠然とあった。
東北を選んだ理由は複数あるが、国内旅行はよく家族で行っていたが東北は行ったことがない県が多かったのと、いつかは被災地を訪れないといけないと思っていたのと、そしてもちろん美味しい海産物を食べたかったのも(大いに)ある。

思い立ってすぐに電車に詳しい先輩に時刻表の読み方を教えてもらい、行きたい場所にGoogleマップに印をつけた。ルートだけはある程度決めたが、ガイドブックなどは見ないで、流れに任せて進むことにした。ホテルもその日に決めることにした(予約サイトとネカフェがある時代に感謝)。持ち物は、バッグパック1つだけ。

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東北は全体的に電車の本数が少なくスポット間の距離もあるため、電車やバスの時間に目星をつけないと文字通り露頭に迷うことになりそうだったので、毎晩ホテルやネカフェで翌日の作戦を練った。

この行き当たりばったりが吉と出た。本当に、本当に楽しい2週間だった。

まず、カルチャーショックの連続だった。自動改札や電光掲示板が当たり前な環境に育った私にとって、人による改札は初体験だった(東北では、大きい駅でも改札に駅員さんが立っていてパチンとハンコを押してくれることがほとんどだった)。駅員さんが「これより◯分発の改札を行います」と言って人が並び始める光景を最初に見たときは、文字通り衝撃だった。
北国では当然なのだろうが、電車の扉は自分でボタンを押して開閉するシステムも面白い。
こんな些細なことが、旅では最高の思い出になる。

そして、鈍行列車の虜になった。鈍行列車は「生活」だ。客層、車窓の風景、地名、乗降の多い駅少ない駅というのがよく分かって楽しい。高校の地理教師が「地理は帝王学だ」「鉄道で生活がわかる」と言っていたことが肌で分かった。普段は快速以上でないと乗らないイラチな私だが、数時間の移動など平気になった。

(ここまで電車についての思い出ばかりになってしまったが、なにせ電車に乗っていた時間がこの旅の6割はおそらく占めている)


1人旅の最大の魅力、それは人との出会いだ。陳腐な言い方だが、本当だ。
1人でいると話しかけてもらいやすいし、「若い」「女子」なのも珍しかったようだ。東北の人はみんな本当に優しかった。人と出会う最高の場は居酒屋だ。おっちゃんにビールをご馳走になったり、今度来たときはうちに泊まっていいよと言ってくれたご夫婦もいた。

こういうとき、「若い」ことは最高の特権だと思った。花巻の焼き鳥屋で仲良くなったおっちゃんも言っていたが、若いことは大きな特権だ。お金などなくてもいい、時間のある若い時が一番大切だとそのおっちゃんは言った。お金ができたら時間はなくなる。時間があればお金がなくてもこういう体験はできる。本当にその通りだと思った。常連さんに挟まれ、左右交互に向きながら、いろんな話をした花巻の焼き鳥屋。つくねとカップ酒があんなに美味しかったことはない。

このような細かい思い出は沢山あるのだが、一番インパクトがあった出来事は、福島の富岡町での出会いだ。
私が旅した時期はちょうど台風9号の影響で常磐線が断絶しており(その後3/14に開通)、富岡ー浪江間はタクシーで被災地を廻ろうと思っていた。
富岡駅で降りた私は、まず東電廃炉資料館へ行った。その後、受付の方に紹介してもらったインフォメーションセンターに行くことにした。
この選択が、その後の出会いに大きくつながる大正解だった。

訪れたのは「ふたばいんふぉ」という施設で、双葉郡8町村の情報や資料を展示してしている案内所だ。併設のカフェでお昼をいただいていると、数人の地元の方もやってきて、だんだんと打ち解け、いろいろな話をした。被災地の様子を見にきたと言うと、昼日中にビールをご馳走してくれたおっちゃん(元鰻屋のじゅんじさん)の口利きで、このあたりの生き字引だというふたばいんふぉの社長さん(つーさん)に浪江駅まで送っていただけることになった。

社長のつーさんは様々な形で被災地に向き合ってきた方だ(つーさんやじゅんじさん、その他出会った方々について詳しく書いているとそれだけで記事が書けてしまうので、ここでは割愛させていただく)。富岡の様子や状況を、スライドや資料で説明してくださった。その後つーさんの車で帰宅困難区域の国道を浪江へと走った。

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帰宅困難区域は、まさにゴーストタウンだった。中間処理施設(つーさん曰く、施設ではなく”エリア”。東京ディズニーランド32個分の広さらしい)があるため、毎日3,000台のトラックが福島県中から行き来するのだという。確かに、道路には巨大なトラックがひっきりなしに行き交っていたし、工事が追いつかないので道はデコボコだった。
帰宅困難区域なので、当然道路以外の場所には立ち入れない。道沿いには、ガラスが割れ埃をかぶり、倒壊しそうな店舗が、背の高い雑草に囲まれていた。処理施設の塔を遠くに見ながら、人影もない埃っぽい道を進むのは、なかなか強烈な体験だった。

つーさんの案内で、津波が来た時に海岸にいた人が避難した高台や、最近再開した漁場、被災後に統合された学校、高台移転した墓地などを見て回った。テレビなどで知った気になっていた福島だったが、つーさんの語りを聞きながら自分の身体で感じる空気は、未体験のものだった。生命力のない、重く悲しい灰色の空気だった。

その後、双葉町の「帰宅困難区域」の一部避難指示は3/4に解除され、常磐線は3/14に再開した。私が富岡を訪れたのは2/27なので、少しでも予定をずらしていたら解除後の状態を見ることになっていただろうし、富岡ー浪江間をつーさんと回ることもなかったかもしれない。そもそも東電廃炉資料館の受付のお姉さんに尋ねなければ、ふたばいんふぉに行くことはなかったかもしれない。

出会いがこれほど貴重で、面白くて、すべてが繋がっているのだと感じることができたのは多分これが初めてだった。

じゅんじさんは言った。「この時期になるとマスコミはたくさん来る。だけど、あんたみたいな若い子が来てくれると嬉しいんだ」
つーさんは言った。「確かに大変だけれど、起こってしまったことは仕方ない。未来を作るには、今の俺らが前を向いて頑張るしかないんだ」

私が出会った人々は、過去に固執せず、前向きで、豪快で、楽しい人たちだった。
縁って素敵だな、と心から思った。


ここに書いたものは、13日間の旅のほんの一部分だ。
気仙沼のコテージでの出会いもあった。久慈で食べた憧れのうに弁当も、竜飛岬に行く途中で出会ったオーストラリア人のおじいちゃんも、バッグパックを持って登りきった羽黒山も。書き切れないほどの素晴らしい思い出がある。人も自然も優しく、時間がゆっくりと流れる東北がすっかり好きになった。
それらの思い出は、1人だったからこそ、自分の中で思いを巡らせたり、調べたり、気の向くままに赴くことができたのだと思っている。
誰かと一緒に発見を共有するのももちろん素敵だが、1人でしかできないことも沢山ある。それに気づかせてくれた旅だった。

これを読んでいるあなたが「若い」かどうかはともかく、思いつきを行動にうつすことは(確かに簡単ではないかもしれないけど)そんなに難しいことじゃない。一度決めてしまえば、あとは意外と簡単に進んでいく。
何か漠然とでもやってみたいことがあるのなら、できない理由を考えるのではなく、とりあえずやってみるのがいいと私は思う。

出来事の意義を決めるのは、自分自身の行動だからだ。

出会ったすべての東北の方々に心から感謝します。
また、会いに行くからね!!


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