日本はお寺の中に仏様がいる。スリランカは生活の中にブッダがいる。
日本とスリランカ、どちらも仏教徒が多い国だけれど、その信仰の形は全く異なる。
寿司とカレーぐらい違う。
いや緑茶とキリテー(スリランカ式のミルクティー)ぐらい違う。
私が感じた日本の仏教とスリランカの仏教の違いをキリテーを飲みながら書いていく。
日本では、仏教はお寺という特定の場所に限定されている場合が多い(もちろん例外はある)。家庭の中に小さな仏壇を設けることはあっても、日常生活で仏教が顔を出すことはほとんどない。
文化人類学者の上田紀行氏の言葉を借りれば、「日本の仏は寺の中にある。仏は寺から出てこない。日本の町には仏はいない」と表現されることもある。
このように、日本では仏教が形骸化し、お盆や彼岸といった時期に行われる墓参りや、葬儀などの人生の節目の仏教的なイベントは、一年の中で関わる機会は多くない。
文化人類学的な観点から見るとこれらは特定の日に限られた宗教的行為であり、日常的なお祈りやお供えとは異なる。
一方、スリランカでは仏教が生活の隅々にまで浸透しているのは、日常の一部として深く根付いているからだ。
朝起きると家庭の中ではピリット(保護のための仏教の呪文)が流し、食事の前には食べ物をブッダにお供えしてから家族が食事を始める。
車のダッシュボードには小さなブッダの像が鎮座し、運転者が安全運転を心がけるようにという思いを込めて祀られている。
学校では、子供たちに道徳教育の一環として仏教の教えが取り入れられ、日常的に仏教の価値観が教育に組み込まれている。
町の至る所で、道端には仏像が置かれ、通行人が手を合わせる姿が見られる。
商店やレストランの入り口にも小さな仏像が祀られ、訪れる人々に平和と繁栄を祈る象徴としてブッダの存在を忘れることはないのだ。(私は自分が仏教徒であることを平日特に感じることはない)
スリランカ人にとって、仏教はただの宗教ではなく、生活を豊かにし、日々の行動に意味と方向を与える生きた哲学ではないか。このように仏教は、彼らの生活に自然と溶け込み、息づいている。
この違いは、仏教の宗派が大きく関わっている。
日本の大乗仏教とスリランカの上座部仏教では、教義や修行の方法が異なる。
残念ながら私は仏教についての理解は浅いが、が簡単にいうと日本では仏教がもっと哲学的、または儀式的な色合いが強いが、スリランカではより実践的で日常生活に密接した形で信仰されていると言えるのではないだろうか。
どちらが優れているという訳でない、それぞれの形で仏教が国を越えて伝播し根付いた結果である。
戦後日本の分割統治を救ったジャヤワルダナ大統領のスピーチ
戦後日本はスリランカに救われた。
日本人であまり事実を知る人は少ない。
鎌倉大仏殿高徳院には「ジャヤワルダナ前スリランカ大統領顕彰碑」というものがある。この碑にはブッダの「人はただ愛によってのみ憎しみを越えられる」という言葉が刻まれている。日本とスリランカ、そして仏教を通じた深いつながりを象徴している。
日本はスリランカに対してODA(公的開発援助)を行っている。
その理由はいくつかある。
その一つとしてJ.R.ジャヤワルダナ前大統領のサンフランシスコ講和会議での演説によって日本の分割統治が免れたことへの恩返しという側面もきっとあるのだろう。
それだけではなく日本の援助は戦略的な国際関係の構築やインド太平洋地域の安定性の向上を目的としていることも大きな理由だ。
日本の援助はスリランカの長期的な発展目標に沿っており、道路や橋などのインフラの改善、防災・災害支援・貧困や衛生や教育などの公共サービスの向上を支援している。こうした援助はスリランカの持続可能な経済発展と外国からの投資の誘致に不可欠だ。
2007年まで日本はスリランカに対する最大のODA供与国だったが、その後中国が日本を上回った。しかし、日本は今も主要な援助国の一つとして、スリランカのインフラ改善、貧困削減、経済成長支援など、さまざまな分野で影響を与えている。
これからの日本とスリランカ
現在のスリランカは2022年に起こったデフォルトから経済を立て直そうとする道半ばだ。2024年9月にはスリランカの大統領選挙が控える。スリランカ国民が今までの腐敗した政治をかえるチャンスだ。
日本も長い失われた30年と言われるように経済の停滞を経験した。
両国とも再び成長する可能性を秘めているということだ。
かつての日本が戦後復興したように、共にそれぞれ抱える目の前の課題を乗り越え、これから日本とスリランカ両国が力強く前進できることを願うばかりだ。
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