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いつか終わるけど、終わりじゃない

この前、お母さんに会いに行ったときのこと。

お母さんとは離れて暮らしているのだけど、年月を重ねるにつれて、一緒に過ごせる時間の限度が、その儚さが身に染みていく。
それは、なにが起きるか不透明な人生のなかで、たった一つの揺るぎない事実。

キッチンで横に並び、ご飯を作る。
ダイニングテーブルで、一緒にみかんを食べる。
心地よい春の太陽にあたりながら、犬の散歩に付き合う。
たったそんなこと、なのかもしれないが
この時間がずっと、ずっと続けばいいのに、とふと思ったりする。
そうはいかないと分かっているからこそ、なのかもしれない。

私にはお父さんの記憶がほとんどない。
お父さんが亡くなったとき、私はまだ5歳だった。
一緒に過ごした、どう考えたって少なすぎる時間は、私にとって幻のように現実味のないものとなっている。

授業参観にも、運動会にも、卒業式にも来てもらったことがない。
受験合格や就職のお祝いをしてもらったこともない。

私が結婚式を挙げたとしても、それに出席できないし、私に子どもができたとしても、孫を抱けない。
たまに、そんなことを考えたりする。

これまでも、そしてこれからも、お父さんのいない時間を生きる。
ぽかーんと、あるはずのない穴が、埋まることのない穴が、ある感覚。



この前、お母さんに会いに行ったときのこと。

お母さんはどこからか、お父さんの遺品、とジップロックを出してきた。針が止まっているカビだらけの腕時計や、ちぎれそうな腕輪が入っていた。
たぶん何年も、いや、何十年も取り出していなかったのだろう。
もう長いこと使われていないそれらは、私がお父さんと過ごせなかった時間を物語っているかのようだった。

お父さんはそれらをなぜ、どういう思いでつけていたのだろうか。
分からないし、これから分かることもないけど、彼が身につけていたその事実だけで、ボロボロの小物たちはとても愛おしく思えた。

そのなかから、そのままでも使えそうな紐のネックレスを選んで、つけてみた。
頭を通すタイプのもので、少し手こずったが、それさえも愛おしかった。
それに触れると、幻だったお父さんの輪郭が少しずつ、くっきりと象られていく気がした。

お父さんを失ってあいた穴は埋められない。
でも、なにか違うもので彩れるのかもしれない。
それは、いつか大切な人との時間に終止符が打たれても、物語は続いていくと知っている私だからこその、どこまでも揺るぎない確信。

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