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Still Life-投稿し損ねたとある夏の日の記録-

身体から湯気が出そうなほどの蒸し暑さが、扇風機の風で少し冷やされ、へばりついた前髪が軽くなる。そんな感覚を楽しんで味わえる余裕のある毎日を送りたいと考えています。

変わらない毎日がこの先も続いていくものだと勝手に思っていました。
気づけば一分前のことが過去のことになっているような、そんな忙しない日常が当たり前となり、息が詰まるなんてことを感じる隙もなくサイクル化した物事を淡々とこなすことが、新しい「変わらない毎日」となってしまって、疲れていることはわかっていてもなぜ疲れているのかはわからないような得も言われぬ感情を会社のカバンに詰めていたように思います。

とりとめのないものは掴むこともできなければ無視することもできず、結局いつも私のカバンの中で眠っていて、常に背後を付きまとい、重いんだか軽いんだかの行き来をしながら私とともに成長してしまいました。

私は、大人になるとすべての物事がクリアになると思っていたんです。
問題は一つ一つ解決できるのだと。
また、その能力も上がっていくものであり、段々とできることが増えていくのだと。
実際は、仕事における作業の部分は能力として上がっていくものの、望んでいた「日常での不安や自分自身の感情との向き合い方」への対処は、大人になるにつれ肥大化した自尊心や劣等感、所有欲などから寧ろ退化してしまったのだと感じます。

進んでいると思っていたのに、実際はずっと円を描いているような。
明日が来たと思っていたのに、気づいたら今日が始まったような。
もうその位置は脱却したと思っていたのに、本当は自分がそこにいたような。
誰かに投げた言葉が、自分自身に返ってくるような。

同じところをずっと走っている私たちは、行ったら行きっぱなしの片道切符が欲しいのかもしれません。
もう帰ってくることが無いように。
明日を楽しみに今日を生きていけるように。

誰かから引き継いだ命があり始まったそれぞれの人生はいつか終わりが来ますが、その始まりと終わりの間で行われるバトンの受け渡しは、一直線では表せないのかもしれません。

“命は巡る”

この言葉そのもののように、ほとんどの出来事は大きく見ると円になっているのでしょう。

成長するということは次のステージに進んだわけではなく、自分の持っていた器が大きくなった、つまりはそれぞれの持つ丸い輪っかが一回り大きくなったのだと思います。そしてその輪の中で行ったり来たりしながら個人の人生を歩いているのだと。

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ここまで読んで頂きありがとうございます。
上記はとある夏の日の記録です。
昨年の8月下旬だった気がしますが、継ぎ足し継ぎ足しで納得がいかず、ずっと下書きに残っていました。

寧ろよく消さなかったなと思っています。笑
たまたま読み返してみて、数ヶ月前の自分に触れることが出来、この感情は残しておきたいと投稿するに至りました。

せっかく生まれた言葉なら、残しておくに越したことないですよね。
そう言い聞かせてみることにします。

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