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生きるための自殺論⑧ 自殺とは何か、世界を拡張する(最終回)

生きるための自殺論⑧ 自殺とは何か、世界を拡張する

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 長く続いたこの連載も今回で第8回。ようやく最終回までやってきた。本題に入る前に、まずはここまで読んで下さった皆さんに感謝したい。僕のような末端の素人の書き手の文章をここまで読んでくださり本当に感謝している。ありがとうございます。今回は少し長めだけれど、ここまできたらぜひ最後まで読んでほしい。

 さて最終回では、自殺とはそもそも何なのかということについて考えてみたい。年間日本では約二万人が行っているこの自殺という行為。コロナよりもパンデミックを起こしているこの流行病の自殺——しかもワクチンはない——とは、いったい何なのか。
 僕なりにあえてひとことで定義してみるとするならば、自殺とは、世界から受けた否定に対する結論、である。
 自分自身を否定する自分の言葉、自分を否定してくる他人の言葉、あるいは間接的に自分という存在を拒絶しようとする社会システムや周囲の環境、そういったものに対する回答として、もしくはもっと単純にその反応としての行動が自殺である。とりあえず僕はそう自殺を定義してみたい。
それはつまり、自分にとってもはや非常に危険であるこの場所にいたくないということ。たとえばこの世界がひとつの部屋だとして、その部屋から出たいという衝動だ。ひとが「死にたい」と言うとき、それはたいてい消えたいという意味を想定していると思う。積極的に自死という行為をしたいというよりも、もっと受動的なイメージがあると思う。僕は自殺未遂直前の時期には、いつも頭のなかで「もうどうしようもない」とばかり言っていた。その「どうしようもない」という言葉はたぶん、この自死というものが持つ受動的な感覚とつながっていると思う。死ぬというよりも、死なされる。火のなかに飛び込むというよりは、炎からもはや逃れられないので窓から飛び降りる。そんな脱出のようなイメージが自死にはあると僕は思う。
 そうすると、自殺にとっての問題は常に世界という問題である、ということになるだろう。自分を包み込む世界という部屋の壁がじりじりと狭まってゆき、それに押し潰されてしまうその瞬間にドアノブを回してそこから出るということ、それが自殺なのだとすれば、自分を押し潰そうとするその世界自体を解決する必要がある。
 でも先に言っておきたいのは、ここで僕が言っている世界とは、国や家族、あるいは自分を取り巻く周辺の人間関係などによって構成される「社会」ではない。たぶん多くのひとが世界をイメージするときに最初に思い浮かべるのはそんな社会だと思うが、世界を社会だと思うと、生きてゆくうえで色々とややこしくなると僕は思っている。なぜなら自分にとって他者である社会というのはなかなか変えられない存在だからだ。
 ときどき自殺者を減らすために社会を変えようという運動を見たりすると、応援こそするけれど僕はあまり信用していない。なぜなら社会を変えるということは、大なり小なりそれはそのまま多くの人の考えを変えるということになると思うが、実際のところ、たったひとりの人間の考え方を変えることだって生半可なことじゃないと僕は思うからだ。
 たとえば——と話が少し逸れてしまうかもしれないが——僕が前に付き合っていた女の子は自分の体重が重いということをずっと気にしていた。自分は太っているとばかり言っていて、僕がそんなことないと言っても彼女は絶対に認めようとしなかった。実際彼女は太っていなかったのだ。体重を聞いても絶対に教えてくれなかったが、たぶんその身長の女性の平均体重くらいだったと思う。でも彼女はいつもダイエットをしていて、ときどきポテトチップスを一袋食べてしまうのだという話を自虐的に話していた。ポテトチップス一袋食べることのいったい何が駄目なのだろう!僕はいまでも本当に意味がわからない。僕だって一回で一袋食べるし、カルビーか湖池屋かしらないが、そのお菓子メーカーだって一回で食べ切ることを想定して作っているのではないかと思う。だから僕はいろんな方法で、彼女にその考えを改めてもらおうと努力した。体重が重いとはそもそも相対的なものだからアメリカ人に混じったらずっと痩せてる方なんじゃない?と言ってみたり、痩せているということが美しいということじゃないと思うよ、と言ってみたり。あるときはどちらかというと痩せている僕が、最近自分は太りすぎていて辛いのだと彼女に相談して、彼女が自分で言っていることのおかしさを理解してもらおうとした。でもそんな言葉もあまり響いている感じがなく、彼女は自分の考えを一向に変えそうになかったので、最後に僕は心から真剣にお願いをしてみた。お願いだから自分が太っているなんて思わないでほしい、明らかに全然太っていないし、今のままでとても可愛いから、と僕は言った。それまでの僕の言葉は、彼氏としての単なるおべっかだと彼女に思われているのかもしれないと僕は思ったからだった。でも結局、彼女はその言葉を受け入れてはくれなかった。ありがとう、と言ってくれただけだった。その返答を聞いたとき僕は、自分はなんてちっぽけな人間なのだろうととても落ち込んだのを覚えている。どれだけ自分が真剣に言葉を発しても、身近な人間のコンプレックスひとつだって解くことができないのか、と。でもそれと同時にひとの考えを変えるというのは本当に難しいことなのだと痛感した。もっと言うと、それまでの言葉によってかえって自分は彼女を傷つけてしまっていたのかもしれない、と僕は思った。
 だから逆に言うと、簡単に多くのひとの考えを変えてしまえる言葉や思想があるとするなら、それは単純に危険なことだと僕は思っている。ひとは個々人の体験によって一瞬にして変わってしまうことはあっても、誰かが意図的にそうするのはかなり難しいし、間違っているというのが僕の意見だ。僕もこの文章によって誰かを変えようとまでは思っていない。単純に誰かにとってのヒントになればいいと思っているだけだ。僕の使っている定規はこんなのですよ、と差し出しているに過ぎない。でもそれを絶対に使えとまでは言わない。その度量衡が絶対に正しいとも言わない。それは行き過ぎた行為だからだ。たとえそれが自分にとっての正義だったとしても、自分と他人の境界線を無理に跨がないこと。それは先に書いた彼女との経験から学んだことだ。
 いずれにしても、社会を変えるというのはやはり大変な作業だ。それはなにより時間がかかりすぎる。社会のような巨大な集団というのは何をするにもとにかく遅いので、自殺者がいない社会になる前にいったい何人死んでしまうのか、という話だと僕は思っている。
社会というのは本当にうんざりするほど巨大で複雑に込み入ったものだ。だから世界を社会としてしまうと、それは煩雑で厄介で、しかも巨大な他者との闘争をするということになってしまう。それはカフカの『城』のようなどうやっても目的地に行き着けない迷宮を歩くということで、そもそもその想定している目的地さえ本当に存在しているのかもわからないようなダンジョンへ捨て身で潜り込んでゆくということだ。だから僕は世界を社会と想定しない。僕にとってアンコントロールな他者は単に一緒に遊ぶものであって、戦うものではないからだ。それと戦うバイタリティを持っている人を素直に尊敬はするが、僕はもう少し違った地点から、この世界というものを捉えてみたいと思っている。
 僕が想定している世界とは、「わたし」という世界だ。僕は、世界とはわたしであると思っている。別の言い方をすると、世界とは、わたしという一人称による認識の総体であると思っている。これは特段おかしな考え方ではないはずだ。たとえば、昔、地球は平面だと人々は考えていた。この世界にはどこかに端っこがあって、いわば板のようにしてある地面の上に自分達は住んでいるのだと信じていた——というか今もそう信じている人はいる。現代の感覚で言うとそれはおかしな世界観であるように感じるが、当時の人々にとってはそれが疑うまでもない当たり前の世界のあり方だった。あるいはもっとシンプルに、あなたはいまブラジルのサンパウロで、どこかの少年が露店に並ぶオレンジを一つ盗んでいたとして、それをいま見ることはできないだろうが、だとするとあなたはその事件が起きたことを知らない世界にいま生きているということになる。つまりあなたにとって世界はその少年がオレンジを盗んでいない世界であり、それは何よりもあなたにとっての世界が全て自分の認識によって構成されているということを示している。これに例外はない。世界とはそのまま、わたしの持っている認識そのものである。だから世界とはわたし、つまりあなた自身ということになる。
 でもおそらく多くのひとのなかでは——僕がまさにそうであったように——世界とはそのまま社会であるというふうになってしまっている。だから人は、社会(念のため補足しておくと、ここで僕が言う社会というのは国や会社のような大きなものだけでなく、家族や知人といった小さな共同体としての社会、さらにはその社会を内在化した自分という他者——善良な悪魔——を念頭に置いている)から強く否定され続けると死にたいと思うのだろう。社会の価値観と自分の価値観が合体してしまっているというのは、たとえて言うなら部屋がひとつしかないという状態なので、そこで火の手が上がると、もはやそこから退場するほかない、という考えに直結してしまうのは当然のことだ。
 でもあえてはっきり断言すると、その世界は変えてしまうことができるのだ。なぜなら世界とはわたしであるのだとすれば、これはいわば自分の持ちものだからだ。自分の持ち物が自分に問題を引き起こしてしまっているのなら、これを変えてしまえば良い。完全な他者である社会は変えられないかもしれないが、自分である世界は変えられる。この自分を閉じ込める狭い部屋は拡張できる。そしてそのための方法はごくシンプルなものだ。世界とは社会ではなく、わたしであるというこの事実を知り、社会と自分を分離するだけだ。社会があなたにNOと言うなら、あなたはその部屋を出て自分の用意した部屋に入れば良い。そしてその部屋というのは無限に広がっている。なぜなら自分という部屋は社会というもの以外の全て(!)であるからだ。そしてひとたび社会という狭く小さな部屋から出ると、わたしという世界はおそろしく輝いているということを知ることができるだろう。それをあなたが表現したらきっと芸術ということになるのだろうが、これはまた別の話だ。
 もう少し具体的に言ってみよう。第5回の記事でも書いたように、全ての価値観というのは相対的なものだ。一見すると絶対的に思える法律にしてみてもそれは同じことで、たとえ人殺しだったとしても、その犯人が否定されるのは道徳規範という社会が用意した定規によって測られているからに過ぎない。それと同じように社会はそれが絶対的な価値観であるかのような顔をして人を否定する。会社の上司が部下を無能だとこき下ろしたり、SNSの匿名ユーザーが誰かを低学歴だと馬鹿にしたり、友人同士の会話でお前は非モテだと言ったり、親が娘にお前も早く結婚しなさいと言ったり、ありとあらゆる色んな種類の否定が社会という場所には蔓延っている。でも僕にしてみればどれもつまらない視野狭窄の歪んだ意見にしか思えない。たとえば有能だと偉いという考えは、仕事というごく狭いゲーム世界でのプレースキルがあるというだけだ。サバンナでも同じことが言えますか、と僕は社会がそんなつまらないことを言ってきたときに頭のなかで反論してみたりする。エクセルやパワーポイントのスキルがチーターやライオンの前で役に立ちますかね、と言ってみるのだ。もし役に立たないというのなら、それは結局のところ、狭い世界でのみ通用する独特な価値観のひとつに過ぎないということだ。あなたがそれを絶対的な価値観と考える必要は全くない。もしもある土地では、うんこは左手で力強く拭くのが格好良いという価値観があったとして、あなたは奇妙だと思わないだろうか。僕にとっては有能が偉いとか高学歴が偉いという考え方もそれと同じように、どこかの小さな村で信じられているユニークな価値観の一つに過ぎない。
 だからさっさとそのような奇習に囚われることはやめて自分に目を向けてしまった方が良いと僕は思っている。自分が心から楽しいと思うことをするということに時間を費やし、意識を向ける。そしてひとたび打ち込めることを見つけたらそれを自分で、全力で肯定してあげる。それは社会という狭い部屋を出て、わたしという世界を拡張するという作業でもある。あなたがそれを好きだと思うのであれば、その作業は本当になんでも良い。もしあなたが段ボールを組み立てて動物を作るのが好きならそれでも良いし、誰かの頭皮をマッサージするのが好きで堪らないのならそれで良い。そんなのは役に立たないと思ったとしたら、それはシャカイという辺鄙な村に住む人々の変わった意見に過ぎない。役に立つとか立たないとかどうでも良いのに、どうしてこの村の人はそんなことを気にするんだろう、ユニークな人だな、と余裕で思っていたら良い。そしてもしあなたがそう思うことができたら、世界の拡張は成功している。あなたは社会という部屋の隣に増築したあなただけの広い部屋にいて、その窓から社会を眺めている。どうして彼らはいつも定規で人を殴ってばかりいるのだろう、興味深い風習だなあ。そう思うことができれば完璧だ。もしまだできていなくて村の因習に苦しんでいるのなら、いますぐ世界という部屋を拡張してしまえば良い。それができてしまえば自死の危機は一気に遠ざかる。話がだんだん絡まってきたので、いちど少しまとめてみる。
 世界とはわたしである。そして社会とはその世界のなかのひとつの村に過ぎない。あなたは必ずしもそこに住む必要はない。あなたが望むのなら、あなたはその世界にあなただけの村を作ることができる。
 つまりはこういうことだ。ここまで書いてしまったら、僕はもはや何もいうことがない。とにかく世界を拡張する。それが自死の危機に対する僕が思う最も適切な対応法だ。わたしというこの世界を拡張するということ。それは社会という狭い部屋の壁をぶち抜いて、その奥に宇宙を発見するということ。無限に広がる多元宇宙を自分の内側に持つということ。そこで存分に自分の生を堪能するということ。そして僕にとっては、それこそが真に生きるということだ。なるほど。そう考えると、これはもはや死なない方法という以上によりよく生きるという方法だ。死なない方法を考えると、生きるとはどういうことかという命題にぶつかってしまった。僕はこの連載記事の題をかなり適当に語感だけで決めたのだが、生きるための自殺論というのはこういうことなのかもしれない。自殺というもののすぐ隣には、なんとも濃厚な生がある。何度も書いているように僕はメモも何も準備していないので、いままさに考えながらこれを書いている。そして僕にとって最も楽しいこと、すなわち生きるということは書くということだ。だから僕は自分自身の生の実践である書くという作業によって、思いもよらず、いまこの生というものを発見した。これってちょっとすごいことだと思いませんか。
 いずれにしても、以上が僕の思う自殺論だ。もはや論と呼べるような代物ではなくなってしまっているが、僕はもはやシャカイの人間ではないのでそんなことはどうでも良い。こういま書いている瞬間の喜びそのものがただ唯一の真実だからだ。これを絶対に手放すことなく、一生やり続けたいといまはとにかく強く思っている。なぜなら、これこそ僕にとって生きるということだからだ。だからこれを読んだあなたがもし希死観念に苦しんでいるのだとすれば、この記事によって、自死のすぐ隣で溢れている生というものへ向かって行ってくれることがあれば、こんなに素晴らしいことはないと思うし、それを心から祈っている。

 これで自殺論は以上だが最後に、ここまで連載を読んでくれた皆さんに感謝の言葉を伝えたい。本当にありがとうございます。この文章を書き始めた当初から、誰からも何の反応もなくても絶対に書き続けて完成させようと思っていたが、思いのほか多くの反響があって、そのおかげで背中を押されて加速力を持って書き続けることができた。それにこの文章の公開によって、ときどきTwitterでコメントをくださる方がいて、そういった方と繋がることができたのも嬉しかった。書くということは常に孤独な作業だが、それはひとたび誰かに向かって発話されると、それを受け取ったひとたちとの対話が始まるということを、実感を持って知ることができた。これは僕の書くということの概念を拡張したという意味で得難い体験だった。ありがとうございます。この長い連載をここまで読んで下さった方はぜひ、noteでもTwitterでもどこでも良いので感想をくださると嬉しいです。

 それからこの連載を支えて下さった芸術人類学者の中島智さんにも感謝したい。最初、自死間際に僕がしたTwitterでのDMから始まり、こんな何者でもない僕の質問にもいつも真摯に答えてくださり、またこの記事の連載をいつもTwitterの投稿でフィードバックともに共有してくださった。それはときに僕の中の固定観念をあっさり打ち崩し、ときに僕を励ましてくれるものだった。中島さんの著書や普段発信している内容は僕の考え方に絶大な影響を与えている。わざと大袈裟にいうのではなく、中島さんがいなければいまの自分やこの連載はなかっただろう。本当にありがとうございます。

 本当に最後の最後に、毎度のことながらこの記事を読んでくださった方に可能な方がいればぜひ記事の購入でご支援いただけるとありがたいです。本当にたくさんの方に記事の購入とサポートを受け、ありがたいかぎりです。また、noteの入金がかなり遅れて振り込まれるからどうしようということを以前の記事に書いたら、読者の方のなかで、直接口座に振り込みますよ、という方まで現れてくれた。その手法はまったく思いつかなかった。なので、もしこの記事を読んで僕に支援してあげようという方のなかで、お金に余裕がある方がいらっしゃれば、TwitterのDMにてご連絡いただけますと幸いです。こんなふうに日々元気に書いてはいますが、内実はおそらく想像を超える貧乏生活なので、ご支援はとにかくありがたいです。ご支援くだされば、いらないかもしれませんが絵でも何でも送ります笑 
 とりあえずこの連載は完成したので、僕は来週からどこかに働きに出る予定です。やはりシャカイとの関係性を完全に断ち切ることはできないようですが、それでも何とか書くということは続けてゆこうと思っています。このような連載ではないかもしれないですが、何かしら書評のようなものを書いたりしたいなといまはぼんやり思っています。今回はとにかく急ぎ足で吐き出すようにして書いたので、次はもう少しじっくり書きたいな。
 いずれにせよ、ここまで読んでいただき本当にありがとうございました!また何かの記事でお会いしましょう。あ、もしかすると明日「おわりに」の記事を公開するかもしれません。しないかもしれませんが。ではまた。

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